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『ポーカー』豪雨の中の願い事
行かなくてはいけない。行こうと思っているのに足取りは重い。きっとこの雨のせいで服がぬれてしまったから、それで歩みが遅いに違いない。少女はいい訳めいた思考を繰り返しながら、手にした水色の無地の傘をくるくると回した。細く腰まで届くような黒髪は、華奢な体に似合わない豊かな胸でうねり、黒い服の背景に溶け込む。
彼女の名は神崎美桜。遠くを見るような儚い表情は見るものを切なくさせる。今日はより一層儚い雰囲気が強いような気がした。
両親の、そして大切な亮一の両親の命日だから。そう思って家を出たのは良かったが、止みそうにない雨と、何よりいつもは一緒に行ってくれる亮一の存在が無いことが何よりも美桜の足取りを重くしていた。
激しく降り続ける雨の中、咲いたアジサイの花のように、美桜の差した傘だけが鮮やかに揺れる。不意にその傘が止まった。ゆっくりと角度を変えて近くの建物を見上げる。
美桜の大きな瞳が見上げるビルには怪奇系興信所ということで名高い、草間の事務所が入っていた。
「雨宿り? ……別に構いはしないが」
渡されたタオルで体を拭きながら、美桜は草間武彦に促されるまま接客用のソファーに体を預けた。
「コーヒーでいいかな」
「は……はい。お構いなく……」
腰をかけて間もなく草間に声を掛けられ、美桜は反射的に背筋を正す。
「朝からこんな天気だろう? 客も来なくて暇だったんだよ」
草間は苦笑交じりにコーヒーをテーブルに置くと、美桜の向かいに自分も腰をかけた。
「こんな天気に出かけるってのは、よっぽどの用事なのかな」
「ええ……はい」
真っ直ぐに注ぐ草間の視線に、美桜は俯いた。返す言葉も小さな物となる。草間はふぅん、と返事をした。それは興味を失ったのか、それとも納得したのか、どちらとも取れる返事だった。カップがソーサーにぶつかる音と、外の雨の音だけが美桜の耳に届く。
「ポーカーでもしないか?」
「え……?」
不意をついた草間の台詞に、美桜は驚いて顔を上げた。
「退屈だろう? この分じゃいつ止むか分からないし、退屈しのぎにどうだ?」
言って草間はコーヒーを口に運んだ。
「ただやるのでは面白くない。……そうだな、君が勝てたら何か願いを聞いてやろう。面白そうだろう?」
どんな事でもいいのだろうか。美桜の表情がほんのり明るさを帯びる。
「君には何か用事があるみたいだからな。どうだ?」
「どんなお願いでもいいのですか?」
美桜が身を乗り出してくると、草間はにやりと笑みを浮かべた。
「何でもいい。やるか?」
あの懺悔と後悔の詰まる土地へ一緒に行ってもらえるのなら……。美桜は草間の言葉に首を縦に振った。
草間は引き出しの中からプラスティックのトランプのセットを取り出すと、ケースを事務机の上に置き、シャッフルしながら美桜の座るテーブルへと歩み寄った。
「ルールは簡単。このジョーカーを含む五十三枚で三回戦行う。チェンジは各回で一回限り」
草間はシャッフル中に見つけたジョーカーを一枚だけ引き抜くと美桜に見せた。
「カードやスーツの強弱は無しだ。同じワンペアなら引き分け。最終的に勝ち数の方が勝利」
美桜は草間の言葉に頷く。草間はその反応を見て、頷き返すと再び美桜の正面に腰掛け、シャッフルする。
リズミカルな音を聞いているうちに、美桜は胸が高鳴っていくのを感じていた。それは期待なのか、それとも……。
「負けたら買い物に行ってきてくれ。いろいろと足らないんだ」
美桜の前と自分の前と交互にカードを配りながら、草間は有無を言わさぬ笑みを浮かべた。
「買い物ですか。分かりました」
そう答える美桜に、草間は小さく笑ってカードの山をテーブルの中央に置いた。
「何か……」
「いや」
草間は数秒目を伏せると、笑って自分の手元のカードをめくる。美桜も同じように自分のカードを手に取った。
六のワンペア。草間の変わらぬ表情を見てから三枚捨て、山から補充する。草間はカードを全て入れ替えた。
「エースのワンペア。君は?」
「私は六のワンペア……」
「引き分けだな。じゃ、二回戦と行くか」
出されたカードを回収して、草間は再びカードをシャッフルした。鮮やかな手つきでカードが入れ替わっていく。勝負のチャンスは後二回。どうやったら勝てるだろう。美桜の心の中に勝利への欲が芽生えていた。
何でも願いを聞いてくれる、というのだから、亮一の代わりに、草間に墓参りに一緒に行ってもらおう。それに自分が負けた時には草間の買い物をしなくてはいけない、という交換条件もあるのだから、こんな願いだって構わないだろう。
再びカードが配られる。美桜ははやる気持ちでカードをめくった。クイーンのワンペア。――またワンペアだ。思いを託して三枚を捨て、山から引く。何もそろわない。草間のカードが気になる。今度は草間も三枚だけを入れ替えた。
「ついてない。またワンペアだ」
草間は苦笑いを漏らすと、カードを広げた。
「私もワンペアです」
焦る気持ちを隠して、美桜は草間に笑って見せた。自分でもぎこちないと思うほど、複雑な笑顔だったに違いない。
「じゃ、ラストゲームだ。これで勝った方が勝者ってわけだ」
草間は再びリズム良くカードを切った。一枚カードが美桜の手元にはじけ飛んで来る。
「ああ、ごめん」
手にとってめくると、ジョーカーだった。どうしてこんな時にしか出ないのか。伸ばされた草間の手の上にカードを乗せようとして、カードが二枚重なっていた事に気がつく。この上の一枚だけを返して、うまくこのジョーカーを手元に残す事ができたら、草間に勝てるかもしれない。
「乗せてもらえるかな」
「あ、はい」
言われて、反射的にカードを重ねてしまう。そんな素直な性格がこんな時には恨めしい。草間はカードに視線を落としながら、カードをシャッフルする。
「いかさまなんて考えない方がいい。大抵のことは見抜けるから」
思考を読んだかのような草間の台詞に、美桜ははっと息を呑んだ。草間は音を立てながらカードをゆっくりと配っている。その手に触れて草間の思考を読むことができたら、勝算はあるだろうか。でも草間が何か仕掛けるような男とも思えない。でも……、どうにかして勝ちたい。
最後の一枚を配り終えると、右手で自分のカードを持ち、左手で美桜を促した。
めくるとまたワンペア。残りの三枚のうちから、二枚だけを場に捨てる。ほんの少し躊躇してから、美桜は山から二枚をめくった。
何もそろわない。
小さくため息をついて、草間を見る。彼はにやにやと笑いながらカードを一枚めくった。手元に運ぶと、草間は笑みを貼り付けたまま美桜の方を見る。
「さて、勝負」
草間がテーブルに並べる。美桜も習ってテーブルに並べた。
「――ラッシュ」
フラッシュ? じゃぁ、負けてしまったの? あの場所へ一人で行かなくてはいけない。勝負に勝てなかった事より、一人で行かなくてはいけない、という不安が胸の中に押し寄せてくる。カードに添えた手がかすかに震える。
「君のはワンペアか」
フラッシュの方が役は上だ。草間の言葉に美桜は俯く。
「じゃぁ、君の勝ちって事か」
「え?」
美桜は反射的に顔を上げて草間を見た。
「だってフラッシュじゃ……」
「いや、『クラッシュ』と言ったんだ。ほら、見てごらん」
広げた手元のカードは全てスペードに見える。が、真ん中の一枚がクローバーだった。
「まぁ、つまりブタって事だ」
草間はわざと聞き間違えるように呟いたのだ。そして美桜のリアクションを楽しんでいたのだ。
「草間さんっ」
責める気持ちよりも、驚きの方が心の大半を支配していた。
「騙せる物なら騙そうかとも思ったんだが、好きじゃないからな、そういう手。……じゃぁ、約束だったから、願いを聞こうか?」
草間はカードを集めてそろえながら、美桜の言葉を待つ。勝ったのだから、自分の願いを言えばいい。そうは思うものの、勝負を終えて冷静になってみると、墓参りについてきて欲しい、と草間に頼むのは場違いな気がして仕方ない。
「ご……ごめんなさいっ! 草間さん。私のお願いはとても場違いすぎます。だって……」
再び顔を伏せて、美桜は言い訳するかのように、尻すぼみになる。
「ん?」
「私は自分を産んでくれた人と、大切な人を産んでくれた人を殺してしまったんです。今日はその人たちの命日で、どうしてもお墓参りしたくて。でも、一人で行くのは怖くて……だから草間さんとの勝負に乗ろうと思ったんです」
美桜はそこで言葉を切ると、顔を伏せたまま押し黙った。ライターの石をする音と、降り続く雨の音、それだけがあたりを支配する。
「怖くて、どうしても一人で行けないんです。いつもは亮一兄さんが一緒に行ってくれるんですけど、今日は都合がつかないって……」
美桜は沈黙を怖がるかのように、言葉を連ねた。草間はタバコの煙をくゆらせながら、美桜の話に耳を傾けていた。
「良くないですよね。分かっています……。草間さんへのお願い、何にしたらいいですかね。私、何にも思いつかなくって……」
消え入りそうな儚い笑顔を添えて、美桜は顔を上げた。草間の冷静な視線とぶつかり、思わず身をすくめる。嫌われたのかもしれない。そんな思いに心が締め付けられる。
「それで黒い服、って訳か。……いいんじゃないか、それで」
ほんの少し溜まった灰を灰皿に落としながら、草間は美桜に優しいトーンで声を掛けた。美桜は思いもよらない言葉に、ほんの少し目を見開く。
「いいんですか……?」
「別に無理難題、って訳でもない。幸い客も来そうにない。――ただ、外はこんなだが」
草間は水が流れ続ける窓をあごで示すと、タバコを口に挟んだ。相変わらず雨は降り続いている。少しは弱くなっただろうか。
「勝負を持ち出したのは、俺の方だからな。叶えられるものである以上、俺は協力する」
草間は視線を美桜の方に戻した。美桜は泣き出しそうになるのを懸命にこらえた。
「さて、と。外出の準備でもするかな。普通の格好じゃ風邪をひきそうだ」
草間はタバコをくわえたまま席を立つ。美桜も続いて立ち上がった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。草間さん、本当にごめんなさい」
謝罪の言葉を繰り返しながら、美桜は草間に抱きついた。
「わ……危ない」
草間は慌ててくわえていたタバコを右手で取り上げる。美桜は謝罪の言葉と共に、嗚咽を漏らす。草間は泣き出した美桜の背中を左手で軽く叩いていた。
「――服も着替えなくてはいけないようだ……」
苦笑いと共に、草間は呟いた。
草間は左手で自分の傘を差したまま、右手で水色の傘をしゃがみこむ美桜に差しかけた。相変わらずの雨は地面を泥のように溶かしている。
「もう、満足か?」
美桜が顔を上げたのを見計らったかのように、草間が声を掛ける。
「はい。今日は本当にありがとうございました」
美桜は立ち上がりながら水色の傘を受け取ると、草間に微笑んだ。
「じゃ、帰るとするか」
「はい」
草間は踵を返すと、さくさくと歩き始めた。美桜は少しだけ後ろを振り返り、墓石に向かって軽く会釈をしてから、離れていく草間の後を、慌てて追いかけた。
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