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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


7番目の秘密


 明滅する非常灯に照らし出された廊下を、理沙は懸命に走っていた。
 恐怖で半ばパニックを起こしながらも、階段を駆け上り、必死に逃げ惑う。
 狭い廊下。軋む床板。古びた木造建築の匂い。大きな窓ガラスには木材が打ちつけられている。

 どうしてこんなことになっちゃったんだろう

 後悔の念が渦を巻く。取り返しのつかない過ち。繰り返される自己嫌悪。
 鏡の裏側なんて覗かなければ。あんなものなんて見つけなければ。
 好奇心なんて無くなってしまえばいいのに。
「きゃっ!!」
 足がもつれて転倒する。だが、すぐに立ち上がって再び走り出した。
 痛みに気を取られていたら捕まってしまう。
 後ろを振り向いたら動けなくなる。
 骸骨の腕が闇の中から無数に伸びて来るその光景を、もう一度見る勇気はない。
「だれか…だして……だれかここから助けてぇ……」
 大時計。姿見。平淡な教室のドア。同じところを何度も回っている気がする。
 顔を上げる。掲げられているのは『音楽室』の木製プレート。
 両手でがたがたと立て付けの悪い扉を引くと、細く開いた入り口から何とかその奥へ転がり込んだ。
 心臓が痛い。脇腹が痛い。頭が痛い。息が苦しい。
 小さな身体を机の下に押し込め、握り締めた携帯電話に悲痛な祈りを込めて文字を打つ。
 指が震えて思うように動かない。何度も打ち間違い、消去と入力を繰り返しながら、ようやくひとつの文章が完成する。
 そして彼女は、涙に滲む視界で送信ボタンを押した。

『助けて この学校から出して 鏡の裏側にいるの』



「学校で友達が消えた?」
 興信所のソファにちょこんと並んで座る小学生たちを前に、草間はなんとも形容しがたい表情で彼らひとりひとりの顔を見た。
「一緒に図工室の掃除しててさ、終わったらクラブに出ようぜって言おうと思ったらいなくなってたんだ」
「理沙ちゃん、図工室でお化けの世界にさらわれちゃったのよ、絶対」
「うちの学校、怖い話がいっぱいあるんだ」
 一人で帰っただけではないのか。あるいはどこか別のところに迷い込んだか。最悪のケースは誘拐だが、草間の脳裏に過ぎったこれらの憶測を、子供達にどう提示すればよいのか表現に迷う。
「それに、理沙ちゃんからこんなメールが来たんです」
 リーダー格らしい少女が、メールを開いた状態で草間に携帯電話を見せる。
 そこに表示されているのは、切迫した数文字の救出信号だった。
「メールが返せないんです。雑音もひどくて、電話もうまくつながらないんです」
「理沙ちゃんを助けて、探偵さん」
「先生もお母さんも全然おれ達の話を信じてくれないんだ。でも、理沙は本当にやばいんだよ。」
「ここの探偵さんなら何とかしてくれるって聞いたんです。お願いします!」
 縋るように自分を見上げる8つの瞳。
 怪奇現象であるという確信があるわけではない。だが、この子供達が仕組んだ悪戯とも思えなかった。仲間の窮地を救いたいと願う彼等の表情は真剣そのものなのだ。
 草間は静かに息をつき、そして安心させるためにほんの少しの笑みを口元に浮かべた。
「そんな顔をするな。理沙ちゃんとか言うお友達は、ちゃんと探してやるから」
 消えた少女。囁かれる七不思議。子供たちの世界で生き続ける『学校の怪談』。
 草間はそんな文句にどこか懐かしささえ覚えながら、受話器へと手を伸ばした。
 彼らの想いに応えて動くのも悪くない。

***

 灰色の猫は、植樹の間を抜け、芝生を越え、ほんの僅かに開いていた給食室の勝手口からするりと忍び込む。
 強い想いと明確な意思を持つ、この猫の名は藤田エリゴネ。
 ロシアンブルーを思わせる彼女の肢体は、微かなざわめきと空気の変動を鋭敏な神経で捉え、目的の場所を目指す。小さな少女が迷い込んだ異界の入り口を。
 この清浄な世界に混じりこんだ違和感。
 そこかしこから滲む奇妙な空気を辿る。


 月は見ている。日ごと姿を変えながらも、この世界で起こるあらゆる事象を。見ていないものなどない。たとえ今は幻のように儚い光を投げかけるのみだとしても。
 灘ツキトはまだ陽の落ち切らない空を、薄暗い図工室の窓から仰ぐ。
 くすんだ青の向こう側に浮かぶ白い月。
 白磁の肌に銀の瞳。綺麗に剃りあげた形の良い頭。その容姿は中性的というよりも無性に近く、人としての熱を感じるには遠い印象。
「………へえ…なるほどね……」
 視線をゆっくりと移していく。
 画用紙に水彩絵の具で色づけされた思い出。運動会、遠足、友達の顔。棚の上に並ぶのは、自分の手をモデルにしたのだと思われる紙粘土製の立体造形。その奥にはギリシア彫刻の石膏像が白く浮かび上がっている。
 木製の机は、文字通り作業場といった呈の6人掛けの大きなものだった。その表面には絵の具の塊や紙粘土がこびりつき、彫刻刀のよる深い傷が刻まれている。
「……こんなこと、するんだ……ふうん……」
「なあう」
 唐突に足元から声がする。
「………猫…だよね?」
 彼を支配しているのは常にこの世界への好奇心であるのかもしれない。
 ガラス玉のように薄闇の中で閃く彼女の瞳の中にも月が映っているのが見えた。
「………猫だけど…普通じゃないね………へえ…面白い」
「にゃん」
 灘はしばらく物珍しげにエリゴネを見つめていたが、やがて視線を準備室に充てられた奥の部屋に向ける。
「月が教えてくれるんだ」
 この世界には裏側がある。この学校には、裏側へ通じる道がある。自分にはそれが辿れる。月が囁きかけるから。
 エリゴネもまた、月を映した蒼の瞳でこの空間にひとつの過去を見つけていた。
 それはこの部屋が持つ記憶。理沙という少女。名も知らぬ少年、少女達。幼い子供の姿が現在から過去へと移ろい行くその向こう側に、一人の小さな少年がいる。
 折れそうなほどに弱弱しい彼の指が、ただ、何事かを一心に望みながら鏡をなぞる。
「……おれと……探す…?」
「にゃ」
 頷く代わりに一声。灘の足に身体を纏わりつかせ、見上げる。
「……じゃあ、行こうか?」
「にゃんっ」
 積み上げられた絵の具の道具箱や版画用の板を崩さないように、細い身体を身長に滑り込ませていく灘。
 そんな彼の後を、障害物など何一つ存在していないかのようにエリゴネが追う。



『こっちにおいでよ。あそぼうよ。ぼくとあそぼう……?』



「みあおは『げんばしじょうしゅぎ』なの!事件は『げんば』で起きてるんだよ!」

 草間興信所でそう主張した海原みあおの発言により、シュライン・エマは自動人形・七式とともにこの図工室を訪れていた。
 必然的に、少年たちからの情報収集もこの場所となる。
「先生達は信じてくれないからな」
 憮然とした表情で少年は告げる。
 鏡の裏にはお化けの世界に繋がる扉が隠れている。
 手を伸ばしてはいけない。触れてはいけない。見つけても、知らない振りをしなければ引き摺りこまれてしまうから。
「すっごく身体の弱かったんだって。でね、いつもいつも本ばかり読んでて、遊べないからって、いじめられたりなんかもして」
「さびしいから呼ぶんだって聞いた」
「おれの兄ちゃんの代でもさ、あったんだよ。引っ張られたやつ」
 学校の怪談は子供達の間で語り継がれる。『友達のお兄さんが先輩から聞いた本当の話』というフレーズは、彼らの間で奇妙な現実味を持つのだ。
「7番目で待ってる……そんな声が鏡の向こうから聞こえてきたって言う奴もいるぜ?」
 シュラインの視線が七式に向けられる。
「ナナ、お願いしてもいい?」
 草間で事務・整理のバイトをするシュラインと、生活と仕事の両面から興信所をサポートとするために送り込まれた七式の関係は、『雇い主と友人』という形を構築している。
「了解しました。検索いたします」
 七式が頷きで応える。
 作り物の電子頭脳で記憶を検索。30年分の事象から展開されるのは、この学校をキーワードとした現実の事件。
「該当データは5件です。」
 この建物は15年前に旧校舎の隣に建設されたものだ。以前の木造建築は老朽化を理由に現在は取り壊されている。
 また、旧校舎設立から百の年月を経てはいるが、検索出来うる限りのその間に子供が数人、事故や事件に巻き込まれる形で死亡もしくは行方不明となっている。この数字が多いのか少ないのか、七式には判断できない。
 ただ、廊下の壁に展示されていた新旧の校内図面を脳内にインプットしながら思ったことがひとつ。
 旧校舎と新校舎。カタチは変わっても、この場所に住まう霊的存在は空間と時間を超えて学校に干渉できるのだ。
 ここは、異界に続く入り口をあまりにも多く持ちすぎている。
「お待たせしました」
「あら。水上さん、お疲れ様」
 現れたのは、水上巧である。普段はGパンにシャツといったラフな服装を好む彼だが、今日は、灰色のスーツにネクタイを締め、その姿はどこか営業マンを思わせる。
 学校の敷地に踏み込むとき、大人である自分達はあまりにも異質な存在に過ぎる。故に、彼は教師達が納得できる範囲の事情と肩書きを用意していた。
「……アレは受け取ってもらえたみたいね」
「ええ。思いがけない出会いがありましたもので」
 シュラインに微笑みかけ、頷く。
 水上はアメジストのクラスターを各教室におけるよう準備していた。名目は『鉱石標本』。本当の目的は別のところにある。だが、それを学校側に説明するつもりはなかった。する必要もなかったのである。
 趣味と実益を兼ねたジュエリーデザイナーの名前は、意外なところにファン層を浸透させていたのだ。
「さて、探し物は見つかりましたか?」
「今、みあおちゃんが他の子達と探してるわ」
 現在再放送中の人気刑事ドラマが思考回路に刷り込まれているみあおは、校内の案内役を買って出た依頼人の子供2人とともに図工室の奥を探索中である。
 ほとんど物置と化した狭苦しい隙間に身体を押し込み、噂の鏡を探していた。
「?」
「どうしたの、みあおちゃん?」
「……足跡…」
 一部擦られたように消えかけてはいるが、紛れもなくそれは猫の足跡である。積もったホコリを踏みつけて散らし、土が微かにこびり付いていた。
 そのすぐ傍にはスリッパのような人の跡。
 みあおはそろそろと屈んだままでそれを追った。
 そして、
「はっけーーーん!」
 足跡が途切れた先に、それは存在していた。
 みあおの声に全員が狭い準備室の一角に集まってきた。
「…扉………」
 七式が呟く。
 ツルユリをパターン化したレリーフの鏡。その裏に刻まれた幾何学模様と見知らぬ文字。魔法陣を彷彿とさせるその図形は、紛れもなく異界と現実の境界線だ。
「間違いありません。コレが、理沙様を取り込んだ件の鏡でございます」
 霊視フィルターを掛けずとも、七式にはそれは『本物』であることが分かっていた。ちりちりと肌を刺す擬似痛覚が、霊的力の発動を告げている。
「では…あちら側へ向かう前に保険を掛けておきましょうか?」
 そうして常に持ち歩いている商売道具とも呼べる皮のトランクを作業机の上に乗せると、水上はその留め金をはずした。
 彼の行動は常に、不測の事態が起こらないように、もしくは起こったとしても対応可能な状況へとフォローできることを念頭に置く。
「迷子札の蛍石、お守りとしてのターコイズ…皆さんにお渡ししておきましょう」
 水上によって秘めた力を外へ向けられた石達が、アクセサリーというカタチでみあおたちの手に渡る。
「ターコイズの原石は『帰還』の石でもあります。叩き割ればこちらの世界へ戻ることが出来る、一度きりの魔法と考えてください」
 彼の説明に頷きながら、それぞれがペンダントを身につけ、原石を服の内側にしまいこむ。
 七式は、自身の中枢に位置する霊石が、水上に呼応するかのように拍動する様を感じていた。内部から派生する奇妙なざわめき。
 それを不思議に思いながらもけして表情には乗せずに、彼女は興信所から持参したアタッチメントパーツを特殊ケースから取り出した。
 右腕に『爆炎放射器』、左腕に『内臓高振動刃付き霊力干渉特殊腕』を装備。
「万が一、と言うことを常に考えておく。そういう考え方には賛成だわ」
 シュラインが微笑む。
 あらゆる可能性を、あらゆる危機を、想定して動こうという思考には同感だ。
「私はワイヤーを。ミイラ取りがミイラになるのは防がないとね」
 極細ワイヤーの一方を準備室の柱にしっかりと括りつけ、残りを巻き取って自身の手の中に握りこむ。それはかつてクレタ島において迷宮の命綱とした『絹糸』を思わせる。
「じゃあ、みあおも!!捜査には『じょうほうでんたつけいとうのてってい』が重要なんだよ!」
 大人たちの間で勢いよく手を上げて存在を主張。
「うんとね、ケイタイがつながりにくいのって、どこかで霊が邪魔してる可能性があるの思うの。だからみあおが使えるようにする!」
 そうして水上とシュラインから携帯電話を受け取ると、どこから取り出したのか、数枚の青い羽とともに自分の胸へ押し当てるようにして4つを握りこむ。
 彼女の掌で、やわらかな青い光がふわりと一瞬大きく膨らみ、そして消失した。
「『霊障』には『霊力』で対抗。ね?」
「やるわね、みあおちゃん」
 無邪気に笑って見せるみあおの頭を軽く撫で、シュラインは3つの携帯電話を受け取る。
 ひとつは自分、もうひとつは水上、そして残るひとつは、
「携帯電話……わたくしめにも?」
「武彦さんにお願いしたの。ナナとはぐれても連絡が付けられるようにね」
 七式に渡される。
「了解しました」
「コレであっちに行ったら、理沙とお話できるかもしれないよね?」
 得意げに胸を張って見せるみあおに対し、穏やかに微笑みかける水上。
「では参りましょうか」
 シュラインは極細のワイヤーを、水上はターコイズの原石を、そして七式は自身の能力
で以って、裏側の世界へ。
「沢田理沙ちゃん救出にむけて、出動―――っ!」



『ここにおいでよ。あそぼうよ。かくれんぼしよう。かくれんぼ。おもいきりはしろう?』



 鉄筋コンクリートではありえない、木造建築特有の匂い。そして染み付いた陰の気。
 大人二人が並んで歩くには狭すぎる廊下を、灘はエリゴネとともにゆったりを歩く。
 微かな重心の移動によってさえ軋みを上げる床も、猫の足では物音ひとつ立たない。
「コレが…昔のガッコ……へえ…ふぅん………さっきとは全然違う………」
 無表情ながらも、その瞳は興味深げに周囲を見回し、その手は壁の木目に触れる。
「触れるのに…」
 この学校そのものが既にリアルな存在ではなくなっているのだ。
 月は旧校舎が取り壊された歴史をも灘に語った。にも拘らず、それはここにある。
 手近な扉をとりあえず引いてみる。
 自分の膝上までの高さしかない机。視線の位置を考慮した黒板や教卓、後ろのコート掛けや棚。そのどれもが子供の目線に合わせているが故に、微妙な比率を生み出している。
「……こんなに小さい……へえ……」
 机の脚も木製だ。何もかも古めかしい。プラスチックもアルミも鉄も使われていない。
 深く前屈してようやく届く机の表面には、鈍い鉛色の落書きが多数存在している。
「理沙って言う子…探さないと……匂いとか、分かる?」
 そういえば自分は彼女の顔を知らない。
 意思疎通が可能と判断した灘は、ごく当たり前にエリゴネに話しかける。
「にゃぁう」
 彼女の視線は、常に何かの軌跡を追うように何もない空間を行き来する。
 気配を探る。
 子供の気配。この世ならざる世界に息づくものたち。その中で異質な存在がふたつ。
「にゃ」
「そっち?……じゃあとりあえず、そっち……行こうか」
 そこかしこに蟠る闇の中から、いくつもの視線がひとりと一匹を注視する。
 小さなざわめき。漣のように広がる闇の眷属。次第に膨れ上がっていく意思。


『あそぼうあそぼう。ぼくとあそぼう……』


「さっそくはぐれたようね」
 黒板の中心から不自然に伸びているワイヤーを教卓の脚に結びつけながら、シュラインは溜息とともにごちる。
 彼女の隣には七式のみ。確かにともに扉をくぐったにも拘らず、水上の姿もみあおの姿もここにはない。
「空間に歪みが生じております、シュライン様」
 暗視モードへ切り替え、サーモグラフィ作動。CO2レーダーを展開。生物の呼吸。スキャン結果は、
「生物反応は半径1メートル圏内に1、100メートル圏内に2、200メートル圏内に1、400メートル圏内に2。現在移動を続けているのは100メートル圏内のふたつだけです」
 正確なデータを述べる機械的口調。
「私、水上さん、みあおちゃん…理沙ちゃん……後は彫師見習いの彼と……もう1人は誰かしら?」
 もしかしたらエリゴネかもしれない。
 図工室の床に残っていた足跡、そして興信所の指定席で昼寝にきていた彼女の姿がいつの間にか消えていたのをぼんやりと思い出す。霊視能力を持つ灰色の彼女は、時々獣ではありえない知性をその蒼い瞳に閃かせ、事件に関わるのだ。
「シュライン様……」
「ん?」
「そろそろこちらを出られた方がよろしいかと。上の方のご機嫌を損ねているようです」
 霊視フィルターで第三の視界を得た七式の言葉につられて顔を上げ、そのまま目を見張る。
 天井いっぱいに広がった不気味な顔が、大きく口を開く。
「出るわよ、ナナ!」
「了解しました」
 自分のすぐ後ろでべちゃりと粘着質な水音がし、そのすぐ後に焦げた匂いが鼻をついたがシュラインは振り返らなかった。

 彼女達の背後で、白い影が揺れる。
『かくれんぼでいいよね?ぼくとあそぼうよ』



 少女はひとり、暗闇の狭い空間に身体を押し込めて震えている。
 膝を抱え、自分自身を抱きしめる。
「誰か…たすけて……」
 友達からの返信はない。
 助けに来たと電話を鳴らしてくれるものはいない。
 聞こえるのは、お化けたちの声だけ。
 
 怖くなって投げ捨てた電話が、窓のカタチに切り取られた絨毯の上に転がっている。



「なるほど。あるべき所にあるべき物がないようですね」
 水上は鏡を抜けた一瞬の浮遊体験の後、目にしたのは2年3組の表示だった。だが、扉を開けば、そこは紛れもなく図書室なのである。
 部屋を一周するカタチで並べられた本棚。そこに収まっているものは低学年向けの大きな厚紙の絵本から、高学年向けの児童文庫、図鑑などがひしめき合っている。
 実際には鉄筋コンクリートで学んだ記憶しかないとしても、この木造建築に対する潜在的な郷愁が、自分には刷り込まれているのかもしれない。
「巧!こっちきて、こっち!」
 水上にとっては懐かしく、みあおのにとっては限りなく日常の世界。
 みあおが必死に背伸びをしながら指差すものに目を向ける。そこには分厚い本に挟まれるようにして薄いノートの背が見えていた。
「あれだけ違うの。なんか分かるかもしれない。巧、取って」
「了解しました」
 微笑んで彼女の後ろから手を伸ばす。
 みあおの目線にあわせるように、水上は少し屈んだ姿勢でノートを開く。
 大学ノートには不揃いな文字が罫線いっぱいに並んでいる。日付、天候、そして
「日記、のようですね……」
 名前はどこにも記載されていない。だが、指先から流れ込んでくる気配は、この学校を取り巻く歪みと同質のものだ。
 読み進めていけば、辿り着けるのではないだろうか。コレは予感。
「何が書いてあるの?」
「待ってくださいね、読んでみま―――えっ?」
 突然床から突き上げを喰らう。縦に、横に、揺さぶられる様は震度4を記録できるのではないだろうか。
「きゃあ!?」
 一斉にばたばたと床に落ちた本が、四方から雪崩のように2人に向かって押し寄せてきた。
 明確な攻撃意思。
「逃げますよ、みあおさん!」
 彼女の手を引くと、水上はノートを脇に挟んで廊下へと飛び出した。



『ぼくをさがして。ぼくとあそんで。おにさんこちら。』



 かつては子供達で教材として存在していたのかもしれない。今はもう、その役目を果たさない骨格標本と人体模型たち。
 薬品の臭いが染み付いた理科室の陳列棚には、ホルマリン漬けの標本や、昆虫の標本がずらりと並び、異様な雰囲気を余計際立たせる。
 だがこの光景は、灘の感性には特に訴えるものではなかった。
「……ここからでも…ダメだ……」
 ヒビ割れ、開かない窓を覗きこみ、灘は何度も体勢を変えながら外に何かを探していた。
「にゃ?」
 彼の心を惹く何かを、エリゴネは知らない。問いかければ答えてくれるのだろうか。
 だが、彼女が灘に向けて声を発するより早く、怪異が止まりかけていた空気を動かす。

『かくれんぼするんだから。おにはやすんでたらダメだよ!』

 パンパンパンパンパンパンパンッッ―――――――
 端から次々とガラス瓶が破裂する。
 気化したホルマリンの臭気とともに、中身を開かれた蛙や蛇たちが押し寄せてくる。
 ざわりと毛を逆立て、威嚇。灘の肩を借りて跳躍。エリゴネの爪が闇の中で閃く。
 灘の手が近くの椅子を掴みあげ、
「……ここは標本も……動くんだ……ふぅん…………正しくないけど…面白いね――っ」
 細い腕に遠心力を加え、加減のないその武器は小さきものを薙ぎ払った。
 ぐしゃりと嫌な音が飛び散って、臭気はさらに悪化する。

『いっぱいいっぱいあそぼうよ。ぼくとあそぼう。いちぬけなんてだめだからね』

 子供特有の邪気のない悪意。
 エリゴネが全身で感じたそれは、明らかに歪んではいるけれど、まぎれもない少年の願い。純粋な子供としての想いだった。

『あのこはぜんぜんみつけてくれない。ねえ、ひんとをあげる。7ばんめでまってるよ。おにさんこちら』

 窓ガラスが強風に煽られているかのように軋んだ悲鳴をあげる。打ち付けられた木材の釘が浮くほどの力。
「行こう……」
 灘とエリゴネは、騒ぎ出した椅子や両生類の屍骸によって、廊下の向こう側へと追い立てられる。



 七式は脳内でマッピングを行う。自身が通った道、入れた場所、入れなかった場所。インプットされたマップの中で時折点滅する座標点から、調査員達の動きも同時に掌握。
 耳を澄ませる。七式の視覚センサーと同様、シュラインの聴覚もまた特殊能力と呼ぶにふさわしい鋭敏さを備えている。
 足音。息遣い。微かな物音。軋み。子供であったり、大人であったり、時には動物のようないくつもの音が混じりあう世界で聞こえるすすり泣く子供のかすかな声。音を拾い、辿る先。
 非常灯が明滅する薄暗い廊下の向こう側には『音楽室』のプレート。中からはかすかな旋律が洩れ出ている。
「理沙ちゃん……?」
 立て付けの悪い引き戸を開ければ、ピアノを背にして佇む幼い少女の姿が浮かび上がる。
「泣いていたのはあなた?」
 思わず一歩を踏み込んだシュラインに、七式が眉をひそめる。
「シュライン様」
 CO2レーダーは、彼女が既に生命ある存在ではなくなったことを告げている。
『どこ……ねえ、どこにあるの?』
 歪んだ表情で、少女は呟く。
『あたしの手、どこにあるの』
 目の前に突き出されて両腕に先はなく、ただ、赤黒く変色した切断面がブラウスの袖から覗いている。
 生々しさと痛々しさに、シュラインは一瞬息を呑む。
『あたしの手はどこに行っちゃったの?』
「……………」
 言葉に詰まる。なんと返せば、自分はこの少女を救うことが出来るのだろうか。
 思考をめぐらせ、そして静かに笑みを浮かべると、彼女の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。
「一緒に探そうか?」
 泣きはらした目をした幼い少女は初めてシュラインを見上げ、
『……………い』
 呟いた言葉は掠れて聞き取れない。
「ん?」
『ちょうだい?』
 口元に裂けた笑みがにぃっと浮かぶ。
『お姉さんの手をちょうだい?』
「シュライン様!」
 一瞬の差。
 後ろから伸びた七式の腕がシュラインを自分の胸の中へと引き倒し、同時に突き出した右腕で少女の細い首を刺し貫いた。
 空気を引き裂く少女の甲高い悲鳴。それが引き金となる。
『両手をちょうだい』『両手をちょうだい』『両手を……』『手を』
 ドアを、壁を、床を突き破り、破壊音とともに無数の青白い手がイソギンチャクのように這い出て2人に迫る。
『両手をちょうだい』『両手をちょうだい』『両手を……』『手を』『手を』『手……』
 七式の熱のない手を握り、シュラインは再び廊下を走り出した。
「なんだか今日は走ってばかりいるわ」
「それが彼の希望のようです、シュライン様」
 妖たちの言葉に混じりこんで聞こえるかすかな少年の声。
 七式の回路を刺激する、哀しいほどに強い想い。

『あそぼうよ。ぼくとあそぼう。おいかけっこしたりかくれんぼしたり。ぼくとあそんで』



「――――っ?」
 一列に並んだ水飲み場の蛇口が、限界を超えた水量を一斉に吐き出した。
 あっという間にシンクタンクを満たすと、それは津波となって周囲の石鹸などを巻き込みながら溢れ出して来る。
 ありえないくらいに捻じ曲がった廊下を駆け、教室を横切り、理沙の名を呼びながら、本の追撃をようやくやり過ごしたばかりの彼らを襲う水流。
「本の次は水ですか!?」
 同時にばたばたと扉が閉まっていく。防火扉によって遮断され、目の前で、次々と展開されていく迷宮。

『もっとあそぼうよ。たくさんあそぼ。ななばんめでまってるよ』

 水上とみあお、2人の耳を掠めて笑う少年の声。
 視界の端を一瞬横切る白い影。廊下を折れた向こうに消える、その一瞬の映像を捉える。
 水を跳ね、動きを封じられながらも足場を求めて走る。
「みあおさん!とにかく向こうへ!あの影を追ってください!いいですね!?」
 みあおの身体を護るように抱き上げて、水上が叫ぶ。
 水流が壁に砕けて、跳ね返る。廊下の一角が巨大な水槽に変わっていく。
「後で電話します!」
「分かった!」
 頷いた少女の身体は、一瞬のうちに青い小鳥へと変貌する。
「……おや、素晴らしい」
 彼女が階段の向こう側へ飛び去っていくのを見届けると、
「……少々おイタが過ぎますよ」
 廊下に川を作った洪水は、空を泳ぐ巨大な魚をも呼び寄せた。
 極彩色の魚はのっそりと視界を埋め尽くすほどに膨れ上がった巨体は、赤オレンジ緑ピンク青紫…あらゆる色をでたらめに塗りたくられていた。
「色彩センスというものを一から学んでいただきたいですね……」
 小さく溜息。
 そして、水上は水晶の欠片を握り締めた。
 魚が、ピラニアのごとくに研ぎ澄まされた鋭い歯列を割って、自分へと向かってきた。



 青い小鳥は空間の歪みも、床の揺らぎも問題にしない。
 天井から降り注ぐ豪雨に羽根を濡らしながら、ただひたすらに影を追う。
『ななばんめでまってるよ。おにさんこちら。てのなるほうへ』
 ひどく楽しげに彼の声がはやし立てる。
 妖が呼応してみあおの進路を妨害する。
 梁の隙を抜け、木材の裂け目を通り、右に、左に、追いかける。
 夢中になった彼女の前に、唐突に扉は開かれた。



 あちこちで水の音がする。雨だろうか。子供の声。人の足音。かすかに届くのは自分の名を叫ぶ声。コレは錯覚?
 耳を塞ぐ。惑わされてはいけない。騒がしいのはお化けたちの陰謀だ。
 
 誰か助けて………ここから出して………




 いくつの階段を上り、いくつの教室をこうして押し開いたのか、灘はもうそれを数えるのを止めてしまった。
 そして今、目の前にある光景もまた、数えるのをやめる。
 エリゴネとは廊下の一角で扉を遮断され、はぐれてしまっている。
 探しているのは、理沙という少女。
 だが、繰り返し繰り返し、職員室の窓から飛び降りる少女の霊を放っておくことも出来そうにない。
 背後の扉では、先程から化け物たちが体当たりを繰り返している。
 あるべきものをあるべき姿へ。
「……ねえ…そろそろ……還った方が…いいと思うけど……?」
 声を掛けてみる。だが届かない。
 溜息をひとつ。
「……そう……帰り道が…分かんないんだ……」
 指先に光が灯る。
 爬虫類や両生類の標本や、元から異形としてこの世界に生まれついたもの達と、囚われ留まる少女の霊とを、同一線上に並べることを灘はしなかった。
 幸い、ここには光が届いている。
 窓の向こう側から差し込む月の光を指先に集め、そして、つ…っと細く透明な筋を描いて少女の背中に伸びる。
 ぷつり……
 光が彼女に届いた瞬間、少女を引き摺り戻す力が消失する。
 彼女は窓から遠くへと駆け上って行った。
 灘はそれを無言で見届けると、どこに繋がるのか分からない扉に向かって踵を返した。
 だが、
「おばけ!!」
 突然の声。開け放たれた扉の前で、銀の光を放つ自分と同じ色彩の少女がこちらを指差していた。

「おばけおばけおばけ!!」

 ぼんやりと浮かび上がった白い人影に、何の遠慮もなく大声でみあおは叫んでいた。
「……おばけ…じゃないんだけど……?」
「じゃあ宇宙人!」
 みあおの思考の飛躍は、つい昨日家族と見た『接近!今夜あなたはUFOの真実を知る!』と言うあやしげな特番によるところが大きい。
 おそらくは作り物であろうあのブラウン管の中にいた宇宙人に、灘はあまりにも似通った点が多すぎた。
「灘…ツキト……一応そういう名前、あるけど?」
「なだつきと…ツキト?」
 好奇心を宿した瞳が交わる。
「ツキトも理沙を探してる人?」
「……うん…それは…正しい認識」
 ふと、みあおの視線が職員室の壁へ向けられる。

『ななばんめでまってるよ……』

「あ――――!」
「なに?」
「ツキトはどこを探したの?」
 そこにはプラスチック製の校内見取り図が掲げられていた。
 もどかしげにみあおの指がひとつひとつを辿る。
「シュラインも巧も七式も…皆はどこを見たんだろう。みあおの知らない所で何を見たんだろう」
 目まぐるしく思考が回転する。
「7番目…あの子は7番目で待ってるって言ってた」
 みあおの中で、子供としての感性が答えを導き出そうとしていた。
 この学校という構造に、今最も近く触れているものは、目の前にいる彼女に他ならない。
 職員室、理科室、音楽室、図書室、保健室、校長室、図工室……何年何組という教室をひとつと数えたのなら、ここにあるのは8つの部屋。
 見取り図を凝視したまま微動だにしなくなった小さな少女を眺め、灘は興味深げに目を細める。
 あの灰色の猫と同じ、彼女もまた普通ではない。だが好奇心を刺激される。
「………知りたいなら……おれが教えてあげれるよ……誰がどこを通ったか……」
 思いがけない言葉に、みあおが弾かれたように顔を上げる。
「ほんと!?」
「……ほんと。…だけど……ちょっとだけ待ってくれる?……今、聞くから……」
 一体誰に。当たり前の疑問が一瞬みあおの頭をよぎるが、彼が窓辺に立って月の光を浴びる姿を見た瞬間、何となく納得してしまった。
 宇宙人だから宇宙と交信するのだ。UFOから情報を聞き出しているのだ。
 真実かどうか、彼に確認する前にみあおは一方的にそう決め付け、やはり昨日のテレビ番組は嘘じゃなかったんだと確信した。

 灘は静かに月の記憶を辿る。
 


 
「生物反応!200メートル圏内よりこちらへ向かっております!」
「え?」
 ただひたすらに前へ進むことだけを考えていたシュラインの視界に飛び込んできたもの。
「エリゴネ!?」
 2階の東側廊下を駆け上がるシュラインたちと、同じく2階の西側廊下を駆け抜けてきたエリゴネ。
 曲がり角をそれぞれひとつ。
 そしてふたつの線が交差する場所。
 シュラインの背後からは無数の人間の腕。エリゴネの背後には骨格標本の白い腕。
 逃げ込めるはずの教室は開かない。
 退路は次々と絶たれていく。
「エリゴネ、こっち!」
「にゃっ!」
 灰色の獣を走りながら腕に救い上げ、シュラインはそのまま90度の角度で進路を変更。踏み抜きそうに脆い階段を一気に駆け上がる。
 その後を七式が続く。
 両者を追いかけていた妖の束は、その対象を唐突に失い、そして
「!」
 眼下に見えるのは、白骨と人の腕がもつれ合い、絡まり、互いを侵食しながら蠢く奇怪で醜悪なカタマリ。
 生理的嫌悪に肌が粟立つ。
「ナナ!!」
「お任せください」
 エリゴネを抱くシュラインを背後に庇うカタチで、自動人形の腕がしなる。
 そこかしこに蟠る闇の中、燃えさかる赤の色彩。
 右腕を突き出す。標的は無数の白骨と無数の腕のカタマリ。
 特殊なグラス・アイで見据え、視覚データから正確に距離と耐性を割り出す。
 照準をあわせ、
「危険物と判断。除去します!」
 聖水を燃料とした浄化の炎が、右腕を弾いて噴出される。
 闇に慣れた目を灼く、鮮烈な光。
 悲鳴とも軋みと持つかない音が怒号となって空気を震わせ、響き、そしてそれもやがて沈黙する。
 あたりが不意に静寂を取り戻す。
「有難う。ナナ」
 労いとともに微笑みかけるシュラインを真似て、七式もまた、かすかに笑みを口元に浮かべる。
「……それにしても…やっぱりエリゴネも来ていたのね」
「にゃう」
 わずかの間、ふわりと穏やかな時間が訪れる。
 だが、このロケーションにはあまりにも不釣合いな電子音がその空気を変えた。
 シュラインは慌てて胸ポケットから携帯電話を取り出す。
「みあおちゃん?」



 ちりちりと燃える炎を、水上は背にした扉の窓ごしに確認する。
 スーツは膝まで水浸しになっているが、あの魚は全身が浄化の炎で黒焦げになっているはずだ。
 トランクを腕に抱え、肩で息をする。少し喉が痛い。
 自分はあまり運動には向いていないのだ。仕事も趣味も机上で展開される。こんなふうに走ったのは随分と久方ぶりな気がした。
「……体力づくりにジョギングでも…始めるべきでしょうか……」
 顔を上げる。視界に入ってくるものは白いカーテン。白いベッド。薬品棚。診察台と、小さな机。
「………保健室、ですか……」
 周囲に神経を巡らせながら、ゆっくりと踏み込んでいく。
 壁には栄養素の書かれたポスターと、校内案内図と思しきプレートが貼り付けられていた。
「そろそろ、皆さんと合流したいところですが……」
 空間は相変わらず捩れているようだ。
 目を閉じて、蛍石の声に耳を傾ける。
「シュラインさん、七式さんは、1階北側廊下……おや、エリゴネさんもこちらへいらしてたんですね………みあおさんは、3階職員室……興味深い方とご一緒のようですね」
 彼女たちの軌跡を辿る。
 図書室で見つけた日記は、今も皮製トランクとともにこの手にある。
 みあおが手掛かりとしたこの中身を読むなら、今しかないのかもしれない。そう考えて、ページーをめくったその瞬間、
「………おや………」
 つい先程まで実体化した化け物以外を感じることは出来なかった不安定な視界が、不意に清明さを取り戻す。
 指先から流れ込んでくるひとつの思考。ひとつの記憶。ひとつの願い。

 ベッドの端に腰掛けた、白いシャツの少年の残像。
『ここじゃないどこかにつれていって。こんなからだいらない。あびたいよ。みんなとあそびたい。かくれんぼしたい。おいかけっこしたい。おもいきりあそべるなら、こんなからだいらない』
 彼はおそらく学校の誰よりも多く、この場所にいた。
 
 どこか感傷めいたものに意識を奪われかけていたその時、不意にスーツの胸ポケットから唐突に着信メロディが流れ出す。
 ディスプレイに表示された名は、
「灘…さん……?」
 


『遊びたい。遊びたい。遊びたい。』
『ならこっちへおいで。こっちであそぼう。こっちでいっぱいあそぶんだ』



「マッピングは終了いたしました。みあお様はお話を続けてくださいませ」
『みあおの推理が正しければ、7番目の部屋は図工室と校長室。このふたつだと思うの』
「二手に分かれましょう。道がどんどん閉じられてるわ。全て塞がれるのも時間の問題かもしれない」
『みあおはツキトと一緒に図工室に行く。あの子は多分鏡の場所にいる』
「分かった。私たちは校長室へ向かうわ。理沙ちゃんを見つけたらメールする」
『じゃあ、待ち合わせは向こう側の図工室で。頑張ろうね、シュライン!』
「了解」
 ふつりと電話が切れる。
「行くわよ」
 あの少年が始めた、捻じ曲がった古い校舎のかくれんぼがようやく終わる。
 シュラインの腕をするりと抜け出し、エリゴネが歩き出す。
 七式のセンサー、シュラインの聴覚、エリゴネの霊視能力を持って、少女が待つ校長室を目指す。



 早く気付いて欲しい。誰か助けに来て欲しい。頭がおかしくなってしまう前に、誰でもいいから出して。



「学校の見取り図ですか?ええ、ここにもあります。大丈夫。続けてください」
『みあおが気付いた……子供が二人……理沙と…ここの中心になっちまってる奴』
「私は灘さんの方へ行きます。図工室でしたね?お手伝いできると思いますので。」
『………じゃあ、図工室で……』
 後には通話の途切れたことを知らせる電子音だけが響いていた。
 水上は大きく深呼吸をし、そして、トランクに日記をしまいこむと、覚悟を決めて図工室へ続く道へと踏み出した。



『おいかけっこしようよ……どっちがかつがきょうそうだよ?』
『よ――い、どん!』



 どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
 暗闇の中で麻痺した感覚では、友達にメールを打ってから流れた時間を把握することは出来なかった。
「にゃあう」
 不意に、猫の鳴き声が聞こえた。
「!」
 恐怖に晒され、校長室の机と革張りの椅子の隙間で小さくなっていた理沙は、怯えた表情で彼女を見る。
 天井から差し込む光を背に受けながら、そっと入り込んできた小さな生き物。
 もしかしたら化け物かもしれない。そんな恐怖に晒される。
 だが、エリゴネはそっと身体をすり寄せ、自身のぬくもりを優しく理沙に伝える。
「…………どこから、来たの…?」
 こわばっていた表情が微かに緩み、震える腕でエリゴネを抱え込むと、温かく拍動する毛皮に顔を埋めた。
 少しずつ少しずつ、呼吸が楽になっていく。
「見つけたわ、理沙ちゃん」
 覗きこんできたのは2人。腕の中にあるやわらかな獣と同じ、綺麗な蒼の瞳と銀の瞳。
 窓から差し込む薄明かりの中で、待ち望んでいた存在がそこにいた。
「――――っ」
 少女は猫を抱いたまま、言葉に詰まり、安堵に表情を歪ませる。
「怖かったでしょ?よく頑張ったわね……もう大丈夫よ……」
 シュラインがそっと彼女の髪を撫でる。

『あ〜あ、りさちゃん、みつかっちゃった…ざんねん……でも、にがしてあげない。ぼくとあそぼ?もっともっとぼくとあそぼう?』

 天井に張り付いていた蛍光灯が一斉に点滅する。意思ある現象。
 笑い声が渦を巻く。くすくす、キャラキャラ、ケタケタと、人の発声ではありえない音。
「!?」
 押し寄せてくる。潰されてしまう。たとえ想念の世界だとしても、実態と同じ圧力で。
 机、椅子、本棚、ソファ……あらゆるものが騒ぎ立てる。
「いやいやいやいや!!」
 再び恐慌状態に陥りそうになる理沙をきつく抱きしめるシュライン。
「大丈夫!」
「にゃあ!」
「わたくしめにお任せくださいませ!」
 七式は理沙を抱きしめるシュラインをその両腕に抱き上げ、エリゴネを肩にしがみ付かせると、一気に床を蹴って走り出す。

 校長室を抜け、教室をいくつも横切り、廊下の向こう側から溢れてきたものに追い立てられながら、ひたすらに走り続ける。
 壁を蹴り、椅子を飛び越え、机を踏み台に、目指すはシュラインが繋いだワイヤーのある教室―――5年2組。
「見えた!」
「このまま行きます!」
 一瞬だけ片腕に二人を抱き、七式は速度を落とさぬままに左腕の刃を振るった。
 力で捻られた空間が、両断される。


『あそびたい。もっとあそびたい。みんなとはしったり、かくれんぼしたり、いっぱいいっぱいさわいでみたい』
『いうこときかない…こんなからだなんかいらない……いらないんだ……』
『ここじゃないばしょにいきたい…おもいきりはしれるからだがほしい……』
『………あそびたいよ……』

 
 彼女たちの中に流れ込んで来る少年の記憶。
 闇に染まるほどに哀しい想い。
 引き摺りこまれたのは、彼が望んだ結果なのだろうか――――――


 最後の瞬間、彼女達の耳に届いたのは優しい旋律。
 子守唄のようなその音が、柔らかな光とともに歪んだ世界を覆っていく



 病んだ世界。歪んだ空間。永遠の夜だけがそこにある。



「到着……」
 足音と気配。月の囁き。みあおに手を引かれながら、照明の落ちた廊下をひたすらに駆けていた。
 月が描く軌跡を追う灘が目指す場所は、あの鏡が見つかった図工室。
 扉の前で立ち止まる。向こうの廊下からもうひとつの陰が見えた。
「巧!」
「なかなか蛍石も役に立ちますね」
 かすかにみあおへ笑いかける。
 月の囁き。石の囁き。導かれ、辿り着いたのは、哀しい少年が囁く場所。
「では、まいりましょうか」
 水上の手が引き戸に掛かったその瞬間、ほんのワンフレーズだけ、みあおの携帯電話が音を奏でた。
 無言でみあおは確認する。
 そしてメール画面を開いて、水上と灘の方へ向ける。
「……理沙はシュラインたちが見つけた。今度はみあおたちの番だよ」
 扉が開かれる。

 画用紙に水彩絵の具で色づけされた思い出。運動会、遠足、友達の顔。棚の上に並ぶのは、自分の手をモデルにしたのだと思われる紙粘土製の立体造形。その奥にはギリシア彫刻の石膏像が白く浮かび上がっている。
 木製の机は、文字通り作業場といった呈の6人掛けの大きなものだった。その表面には絵の具の塊や紙粘土がこびりつき、彫刻刀のよる深い傷が刻まれている。
 向こう側で見たそのままの光景が広がっている。
 違うのは、窓の傍に鏡がひとつ。そしてその前に佇んでいる白いシャツの少年がひとり。
『すごいすごい!ようこそ!ここまで来た人は初めてだ!』
 彼は楽しげに笑い、拍手で三人を出迎えた。
 無邪気なのだ。本当に。
 窓の向こう側。どこまでも広がる無限の闇。少年の肩越しに見える星のないそこには、月だけが冷たい光を注ぐ。
 灘は満足げに目を細めた。
 自分はコレを見たかったのだ。
 彫師たる師匠の代わりに出向いた理由の、少なくともコレは4割に該当する。
「………そろそろ…おしまいだ……子供は…寝る時間……」
 ゆっくりと、灘の銀色の視線が、少年に焦点を合わせていく。
 びくりと震える小さな肩。
 水上の視界には、少年の過去が二重写しとなって映っている。強い思い。切なる願い。

 放課後になるといつもここで絵を描いていた。
 3階のここからは、校庭が良く見えるから。
 色々な音がここには届く。羨ましい。
 自分も彼らと一緒に遊びたかった。一緒に走り回って、一緒に騒ぎたかった。
 視線をずらせば、鏡に映る自分の姿が目に入る。
 日に当たれば肌は赤く腫れ、目眩を起こし、走り回ることも出来ない、痩せた身体。
 こんなものいらない。
 遊びたい。走りたい。皆と一緒に………
 こんなからだはいらない。

 鏡に願った少年は、妖たちの住まう次元の狭間で、彼は自由になる身体を手に入れたのだ。
 この世界に縛られ、中核となることで――――
『ボクをいじめるの?ここからおいだすの?』
 水上、灘、みあおの順に、少年は不安げな視線を向ける。カタカタと震えは次第に大きくなっていく。
 それに呼応する形で、妖たちが揺らぎ、騒ぎ出し、殺気を漲らせる。
 一瞬でも少年との間に築かれた均衡が崩れたら、この狭い空間で、灘たちは机と妖怪に押し潰されてしまうかもしれない。
「お仕置きが目的なのではありませんよ…今回は、ね」
 安心感を与えるように微笑み、水上は手の中に握りこんだ水晶の能力増幅効果を解放する。
「……正しい世界に…戻す……それだけ……」
 月の光の欠片をその手に集め、灘はほのかな光を全身にまとう。
「みあおは……」
 みあおの姿が揺らぐ。幼い少女から妖艶な女性へ。
「みあおは、寂しくないように……」
 彼女は歌う。細く、高く、優しく、切なく、包み込むように美しい旋律を奏でる。
『なあに?…コレは……なに………?ぼく、もっとあそんでいたいんだ……』
 抗うように身を捩る。
『……いっぱいはしったり、すきなところへ……とんで…みたり…………』
「貴方もそろそろ還った方がいいんです。あるべき場所へ。これ以上長く留まっても、遊んでくれる人は来ませんよ」
 水上は知っている。
 哀しい魂の末路。闇に呑まれ、異形と化すものがいることを。
 月光の浄化。幸せの歌。宝石を通じ、うねり、移ろい、広がり、歪みの中心に干渉する。
 病んだ世界に浸透してゆく、音の波紋。
 子守唄のように、哀しい魂を鎮める。
『…………ねむく…なってくる……よ………』
 万物の理をこえたチカラが波紋を呼ぶ。

 幼い魂は揺らめき、細く細く光の筋へと解けていく…………
 彼を取り込み、彼を捉え続けていた鏡もまた、ゆっくりとその形を崩していく。
 


 水上の手の中で、ターコイズの原石が割れる。
 一度きりの帰還の魔法。

 そしてひとつの世界がその扉を永遠に閉じる。

***

 みあおが図書室で発見し、水上がこちらの世界へ持ち帰った日記には、誰かと思い切り遊びたいと願った少年の、悲しい記憶が刻まれていた。
 図工室の鏡の前。再会を果たした友人達とともに日記を読み終えた理沙は、コレを自分達が保管したいと申し出た。
 少女達は言う。
 彼のために自分達が出来る事をしたいのだと。


 紫水晶のクラスターは『浄化』。
 願わくば彼の眠りが安らかであるように。
 そしてこの学校から、二度と哀しい魂が生まれないように。

 ただ静かに、祈りを込める。
 



END


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1415/海原・みあお(うなばら・みあお)/女/13/小学生】
【1493/藤田・エリゴネ(ふじた・えりごね)/女/73/無職】
【1501/水上・巧(みなかみ・たくみ)/男/32/ジュエリーデザイナー】
【1510/自動人形・七式(じどうにんぎょう・ななしき)/女/35/草間興信所在中自動人形】
【1716/灘・ツキト(なだ・つきと)/男/24/彫師見習い】

【NPC/沢田・理沙(さわだ・りさ)/女/11/小学生】

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■         ライター通信          ■
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 この度は当依頼にご参加くださり誠に有難うございます!
 はじめまして、こんにちは。誤字脱字王の道を爆進中(…)の駆け出しライター高槻ひかるです。
 さて、今回はいつにもましてギリギリまでお待たせして申し訳ありません!
 予定よりも4割増となった『7番目の秘密』をお届けいたします。
 内容の分割はありません。故にえらい長さとなっております。
 この依頼が、ご参加くださった皆様にとって、少しでも楽しい時間となれば幸いです。


<水上巧PL様
 3度目のご参加有難うございます☆
 今回は学校に出向くということで、スーツをお召しになっての登場とさせていただきました。
 ご参加下さる度に、水上様のおかげで石の知識が増えてゆき、個人的にとても楽しいです。
 今回、学校内を水浸しになりながら駆け回らせてしまったのですが…お風邪を召さなければ良いなと(笑)
 コレを期に、もしかしたら体力づくりに励まれたりするのでしょうか?(どきどき)

 それではまた、別の事件でお会いできますように。