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頭文字「K」
………ヴゥーン!
控えめな獣の咆哮のような低い唸音を連れて、一台のバイクが細い路地を走り抜けた。
ややあって、別のバイクが同じように、道路にタイヤの軌跡を刻みながら駆け抜ける。
彼らの通り過ぎた後から、民家の窓が次々に開いて、迷惑そうだったり好奇心に満ちあふれたりする顔が次々と覗いた。
二台のバイク――正確には原動機付き自転車を駆るのは、怪奇探偵・草間武彦と、骨董屋『櫻月堂』主人・武神一樹である。
現段階では、草間のベスパが一樹のスーパーカブよりもやや有利といった情勢だ。
なぜ彼らが夜の住宅街をハタ迷惑に疾走しているのかというと――発端は、数刻前にさかのぼる。
◇
毎月数回、一樹は必ず草間興信所を訪れる。
用事は様々、一人のこともあれば、『櫻月堂』の店員である妖狐のさくらを伴うこともあるが、この日は前者だった。
興信所のインターホンを押すと、しばらくしてから扉が開く。
「よう、武神。よく来たな」
一樹の手にした紙袋に目敏く気がつくと、顔を出した草間はにんまりと相好を崩した。
基本的に、食べ物の差し入れは随時歓迎らしい。
肩をすくめた一樹は、草間と共に興信所の中へ入ると、ベージュ色のジャンパーを脱いで手近の椅子の背に丁寧に掛けた。
「うちの店の常連客がくれた物なんだが、美味いぞ。さくらも絶賛していたしな」
「そうか。ちょうど茶請けにできるな、助かるよ」
一樹が紙袋に入った大量の和菓子を渡すと、草間はそれを持ってキッチンへと姿を消す。
「日本茶でいいよな?」
「ああ、すまない」
コンスタントに依頼を受け、いい加減そうに見えてキチンとそれをこなす草間なのに、なぜ食費を大幅に切りつめなくてはいけないような事態になるのだろう?
常々感じていた疑問に、ソファに腰を下ろした一樹は首を捻る。
(早い話、あまり金に執着がないのだろうな)
表向きは金にうるさいようなことを言ってはいるが、蓋を開けてみれば報酬に関わらずなんでも依頼を受けている草間である。
だが、一樹は草間のそういうところが気に入っているのかもしれなかった。
草間の入れた茶を飲み、一樹の持ってきた菓子を食べながら、ふたりはしばらく雑談に興じていた。
内容は先日の渋谷・小学生誘拐事件や、長崎の12歳の少年の事件などの真面目な話もあれば、あのグラビア・アイドルがどうだとかいう話まで、多岐にわたる。
そのうちに日が暮れ、たまには一緒に出前を取って軽く食事でもということになった。
「武神、ビールと日本酒しかないが、それでいいか?」
「いや……今日は原付で来ているから、酒は控えておこう」
電話を切って一樹が答えると、草間は眉を跳ね上げた。
「大丈夫だろ。それともお前、そんなに酒弱かったか?」
「……煽るな」
苦笑して、それでもきっぱりと一樹は断った。
草間も残念そうな顔をしていたが、それ以上は強要しない。
またしばらく談笑していると、注文していた美味しいラーメンの出前が届いて、ふたりは『いただきます』と両手を合わせた。
◇
「ふ〜、食った食った」
ラーメン・餃子・チャーハンを完食して、腹をさすりがら草間がテレビをつけた。
それを見てオッサン臭い仕草だなと思いながら、一樹も、なんとはなしにテレビに目を向ける。
「……珍しいな」
普段はローカルでしか放送されていないような、オートレースの模様が放送されていた。
なんでも、以前ジャニーズ事務所に所属していたレーサーが登場するようで、異様な盛り上がりを見せている。
レースが始まると、一樹と草間は無言で画面に集中した。
ヴォン!という重低音と、タイヤがコースを削る音、そして歓声。
「ふん。俺だったら、最後のカーブでもっとこう……」
煙草をくわえた草間が、両手でバイクのハンドルを握り、身体を倒すような動作をする。
「口で言うのは簡単だが、実際にはそう簡単にいかないさ」
「いや、甘いな」
諭すような一樹に、草間はチッチッチッと指を振って見せた。
その仕草が、頭の何処かに引っかかる。
「一日中引きこもって陰気くさく壷ばっかり磨いてる武神にはわからないだろうけどな。あんなもの、要は気合いだぜ?」
「……い……陰気、だと?」
ついに草間は、禁句を口にしてしまった。
ほんの少しだけ、気にしてはいたのだ――ほとんど家から出ない生活を送っていることを。
だからこうして、食料支給を兼ねて時々遊びに来ていたのに……。
「莫迦を言うな。俺だって、二輪車の運転のことくらい解る」
「はは。二輪って、自転車か?」
「……草間。いくらお前でも、言って良いことと悪いことがあるぞ」
「ハン。だったらてっとり早く、勝負でもするか!?」
バチバチバチ、とふたりの間に火花が散った。
◇
そんなささいな言い争いがきっかけで、一樹と草間は急遽、原付でレースをすることになったのである。
残念ながら単車はなかったため、一樹はスーパーカブ、草間はベスパでの出陣だ。
興信所の表、道路脇にとめた愛機の前で、ふたりは頭を付き合わせていた。
本来であれば、人気のない峠を思い切り走りたいところだが、ここは新宿のど真ん中。
「国道に出ると厄介だからな、信号のない住宅街を使う。ここを出発して……こう進んで、戻ってくる。いいか?」
地図を広げて指で示した草間は、小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「覚え切れなきゃ、地図貸してやってもいいぜ?」
「いらん、もう覚えた」
一樹は、抜群の記憶力で指定されたコースを頭にたたき込み、ヘルメットをかぶった。
この勝負、なにがなんでも絶対に負けられない。
「負けたほうが、今度の飲み代を持つ。依存はないな?」
一樹の提案に、草間は頷いた。
己のプライドと、飲み代を賭けて。
『――GO!』
ふたりの原付が住宅街を駆け抜ける。
歩道をイチャイチャしながら歩いていたカップル(二人の世界)も、さすがの大音量に動きを止めた。
「なんだ、あの二人……すげぇ気迫だぜ」
「ええ……鬼気迫る顔してたわ」
「でも……遅せぇな」
「うん」
遅いのは原付だからで、鬼気迫るのは――もしかしたら、バカップルにむかついていたからかもしれない。
ともあれ、そんなギャラリーの声など知ったことか、と、哀愁の三十路ライダーは街中を驀進する。
激しいチェイスを繰り返しながら、ゴール地点を目前に控えた頃。
ほぼ併走状態の一樹と草間は、互いに視線を送り、不敵な笑みを浮かべた。
(ゴール直前、ラストスパートで勝負は決する!)
――と。
ピピピピピイッ!
原付の騒音を裂いて、ホイッスルが鳴り響いた。
続いて、シャアアアッと何かが凄いスピードで回転するような音がする。
「こらあぁぁぁっ、そこの原付、止まりなさーい!!」
運転しながら、一樹が器用に後ろを振り向くと――そこには、彼ら以上に鬼気迫った顔で追ってくる、自転車に乗ったお巡りさんの姿があった。
◇
数分後――
あっさりお巡りさんに追いつかれた二人は、スピード違反でキップを切られ、罰金を支払い、こってり絞られたらしい。
こうして深夜のデッドヒートは、勝負がつかないまま幕切れとなった。
怪奇探偵は懲りずに、リベンジレースを企画しているとか、いないとか……。
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