|
ゆらめき
バタバタバタ。
廊下を走る音が聞こえる。開いているドアの隙間から、洗い立ての体操服が見えた。
(部活かぁ……)
手にしていた教科書を机に置いて、軽く背伸びをする。
教室には数人の生徒がいるだけ――先生は十分前に職員室へ忘れ物を取りに行ったまま、戻ってこない。
(先生、遅い……)
教科書に出ている公式をノートにメモしながら、あたしは窓に視線を移した。
校庭に植えられた木々が風に揺れている。ここからだと、葉は一つの大きな塊に見える。
(もう夏なんだなぁ……)
――こんなに穏やかな時間を過ごすのは、久しぶりだ。
外から微かに聞こえてくる部活中の生徒の声と、机の上に広げられたノート、窓から眺める校庭の景色――あたしは自分が中学生であることを再認識する。
――黒板の右に飾られた時計は、思ったよりはやく進んでいた。
(こんなに集中して勉強したのって、久しぶりかも――)
これが夏休みの補習でなければ良かったのにな、と自分に苦笑する。
――先生はまだ、戻ってこない。
あたしはノートから目を離した。
外の声が遠くなる。
教室からそっと気持ちは離れ――揺らぎ始めた。
――青い。
記憶の前に広がる青――海だ。
青を感じ、流れを知り、奥へ入り込む。
――あたしは人魚だから。
青を手にする。気持ちが自由になる。たまらない浮遊感がある。
そこにいるあたしは完全な人魚――でしかない。
――青が消えていく。
――叫び声が聞こえる。
そこへ向かって、あたしが走っている。
怪事件を追う。目に映るたくさんの事件を追う。
同時にバイトをこなす。言われたとおりのことを、出来るだけ完璧にこなそうとする。
それらはあたしの一面――でしかない。
――本当のあたしは何処にいるの?
――此処にいるよ。
あたしは教科書の頁をめくった。
(此処にいる)
此処で勉強している。中学校に通っているあたし。
――居場所は此処にある。
中学校に通って、こうして勉強をして、校庭を眺めたり廊下を走る音を聞いている。
――あたしは此処にいる。
様々なことをこなして、幾つもの表情を持っているあたしが帰る場所。
(帰る場所は此処に……)
――本当にあるの?
教科書を眺める。公式が頭に入ってこない。
視界が揺らぐ。
(あたしの居場所は?)
――此処にあるの?
嫌な言葉が、回る。
“もし、最初からあたしの居場所なんて存在しなかったとしたら?”
(そんなことない)
考えを打ち消すように、あたしは数学の教科書を閉じた。
(科目を変えよう)
気分転換のつもりで、国語の教科書を開く。
偶然開いた教科書の頁を意識して黙読する。
今考えていることを、忘れたかった。
――頁をめくる。どんどんめくるスピードが速くなる。
(怖い)
今考えていることが、考え続けることが、答えが確信に変わらないことが。
――教科書では、家出した子供が星空を眺めていた。殆ど出ていない星と辺りの静けさが、淡々と綴られていた。
(怖い)
今読んでいるのが静かな物語だということさえ怖く感じた。読み飛ばしたいけれど、読み飛ばせない。静かな雰囲気が、全てを消し去ってしまいそうだった。
――186頁、頁をめくる手が止まった。文章が目に飛び込んでくる。
少年は静かな場所で、独り考え事をするのを好んだが、同時に恐れてもいた。
考え事をすると、どうしても自分の存在を疑い始めてしまう。
自分もこの世界も、全ては誰かの夢なのではないかと、
パタンと大きな音が耳に響く――無意識に教科書を閉じていた。
「どうしたの?」
先生があたしの傍に立っていた。いつの間に戻ってきたのだろう。
「顔色が悪いわよ。気分が悪いの?」
「いいえ……大丈夫です」
「――そう」
先生はあたしの傍を離れ、黒板に公式を書き始めた。
――それを確かめてから、あたしはぼんやりとさっき閉じたばかりの教科書を眺めた。
(今ならわかる)
何が怖いのか。何が不安なのか。
(全部夢のような気がするから、怖いし、自分の居場所が何処なのか不安になる)
“自分の存在、世界、全てが夢だったとしたら?”
それは空想だけじゃない、曖昧な感覚としてあたしの中にある。
急に後ろを振り返りたくなるような感覚――全てが夢のような、消えてしまいそうな感覚に震える。
だから居場所を確認したい。
だけど、そこで出た答えは、確信にはならない。
人魚としてのことも含めて、社会的な不安へと繋がっていく。
一度覚えた不安は、なかなか消えない。
――だけど、あたしは此処にいて、確かに此処はあたしの居場所なんだと思う。
今先生に声を掛けられた、黒板に書かれていく数字、先生の声――全て今あたしが聞いて、見て、感じているものだ。
(あたしは、此処にいる)
再び、数学の教科書を開く。黒板に書かれた公式の部分に、マーカーで線をひいた。
頭の中で、計算が始まる。
――補習の時間は、あと三十分。
あたしは、いつもよりずっとはやく問題を解いていく。
(今やるべきことをやろう)
そして補習が終わったら――少年の話の続きを読もうと思った。
廊下を走る生徒の声が遠くで聞こえる。
未だ不安は消えないまま――この時間が儚くていとしい。
終
|
|
|