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真夏の争い
●東京砂漠
妙に長く感じられた梅雨が明けた途端、東京の街は茹だるような暑さに覆われていた。例えるなら、それまでとろとろと走っていた車が、いきなりニトロターボを使って他の車を一気にぶっちぎっていったという所か。
夏は暑いのが当たり前ではあるのだが、それでもやはり一定の限度はある。ましてや東京のような都市圏だと、ヒートアイランド現象などもあって気温が1、2度は確実に引き上げられている。それがちょうど限度を越えさせてしまうことも――。
「……暑い……」
草間興信所の所長、草間武彦はエアコンのかかった室内で机に顔を伏せ、ぐったりとしていた。額には僅かに汗が滲んでいた。
「武彦さん。手がお留守よ」
ぐでっとしている草間に冷静な口調でそう言ったのは、ソファに腰かけてたまった書類の整理をしていたシュライン・エマであった。
口調こそ冷静だったが、額には草間同様に汗が滲んでいる。心なしか表情も険しいように見えた。
「今日みたいな日に、仕事なんか出来るものか。ああ、蒸し暑い……」
机に伏せたまま答える草間。隅に追いやられた書類の束に、手を伸ばす気配すらありゃしない。
「そう思うんなら稼がないとダメじゃない? ドライ機能付きのエアコンに変えるために。湿気を取るだけでも体感的にだいぶ違うわよ」
「まだ使える物を捨てる訳にはいかないだろ。ただでさえ、捨てるのにも今は金かかるのに」
「……あー、そう」
草間の言い分を聞き、シュラインは手にしていた書類をぽんっとテーブルの上に置いた。ちょっと目付きが怖くなっていた。
「じゃあ言わせてもらいますけど。エアコンかけてて外より多少マシな程度というのは、どういうこと? ほとんど冷気が出てないじゃないのっ!」
「……省エネや環境保護、電力節約に一役買ってるんだ」
もっともらしい理由を口にする草間だったが、何故かシュラインと目を合わせようとはしなかった。
「論点摺り替えてどうするの! 私はエアコンがまともに動いてないって言ってるの!」
いやはや、あまりに暑いのでシュラインも機嫌が悪くなっているようだ。
「冷たい麦茶でも飲むか……」
「あっ、武彦さん! まだ話は終わってないわよっ!!」
シュラインの責めから逃れるべく、草間は机から離れて台所へ行こうとした。その時、台所から草間零が顔を出してこう言った。
「すみません、草間さん」
零の表情は、少し申し訳なさそうだった。
「どうした、零?」
「さっき麦茶作ったばかりで、全然冷えてないんです」
「あ?」
草間が間抜けな声を発した。が、すぐにあることに気付き零に言った。
「仕方ないな。氷を入れて飲むとするか」
「すみません、草間さん」
零がまた申し訳なさそうに言った。まさか……?
「氷もなかったので、さっき容器に水を張ったばかりなんです」
「…………」
草間は参ったなといった表情を浮かべると、右手で顔を覆った。ついてない時には、こういう物である。
●言うは易く、行うは難し
冷蔵庫に今ある冷たい飲み物といえば、缶ビールくらいだった。草間は別に缶ビールでもよかったのだが、そこはシュラインの目が光っている。真っ昼間、しかも仕事中に飲ませるはずがない。
さてどうしたものかと草間が思案し始めた時に、ふと思い付いたようにシュラインが言った。
「かき氷を買ってきて食べない?」
「かき氷か。それもいいな。しかし、この辺に売ってる所があるのか?」
「あ、ありますよ」
零が口を挟んできた。
「スーパーの近くの鯛焼き屋さん、夏はかき氷も置いてたはずです」
日々の買い物の行き帰り、零はしっかりと途中にある店を観察していた模様である。
ともあれかき氷を置いている店があると分かれば、次は何を買うか決める必要がある。
「私は宇治金時がいいかな」
最初にシュラインが希望の味を言った。
「俺は……メロンでいいや」
「私はいちごが」
草間が少し考えてから言うと、零が間髪入れずに言った。これで3人の希望が出揃った訳だ。
さあ、買う物も決まった。後は買いに行くだけだったが――。
「で、誰が買いに行くんだ?」
草間のその言葉に、シュラインと零は顔を見合わせた。そういえば、まだ誰が買いに行くのか決めていなかった。
「……今日も日差しがきついわよね」
窓の外を見るシュライン。雲一つない真夏の青空は、まさに炎天下という言葉がよく似合う空であった。
「ここはやっぱり、かき氷と最初に言い出した人間が行くべきじゃないか?」
草間はそう言うと、ちらっとシュラインの顔を見た。
「あら……なら、最初に冷たい物を欲しがった人間こそ行くべきじゃないかしら」
シュラインも負けてはいない。論理的に言い返してみせた。草間とシュラインの間に、火花が走ったように見えた。
「あの……私が行ってきましょうか?」
「ダメよ、零ちゃん!」
何か言おうとした草間よりも早く、シュラインが言い放った。
「零ちゃんが犠牲になることはないの。そうね……いっそのことじゃんけんで決めましょうか」
じろっと草間の顔を見て、シュラインが言った。何としても草間に行かせてみせる、そんな眼差しだった。
「よし、分かった。恨みっこなし、じゃんけんで勝負だ」
かくして、誰がかき氷を買いに行くか、じゃんけんで決めることとなった。
●勝負の行方
買いに行くのは、最後まで負け残った者と決まった。
「……いくぞ!」
草間の合図により、ついにじゃんけんが始まった。
「最初はグー! じゃんけんぽんっ!」
かけ声に合わせ、3人が一斉に手を出した。草間がグー、シュラインがパー、そして零がチョキ……三者三様、あいこだった。
「1回で決まるとは思わなかったんだ」
と言いながら、手を引く草間。シュラインがぼそっとつぶやいた。
「次も同じ手にしようかしら……」
シュラインは心理的に揺さぶりをかけていた。ターゲットはもちろん草間だ。零はおろおろと草間とシュラインを交互に見ていた。
「最初はグー! じゃんけんぽんっ!」
2回目のじゃんけん。今度は何と全員がパーだった。
「あっ……!」
草間が短く声を漏らした。本当にシュラインがパーを出すとは思わなかったのだろう。
それからあいこが5回続き、8回目にしてようやく勝者が出た。零だ。
「……いいんですか?」
いいも何も、パー2人の所に1人だけチョキを出して勝ったのだから問題ない。これで勝負は草間とシュラインの一騎打ちとなった。「最初はグー! じゃんけんぽんっ!」
9回目。両者ともにチョキを出してきた。
「決着が着かないわね」
「これは……長引きそうだな」
2人の言葉は事実となった。この後、2人は延々とあいこを繰り返したのである。
「最初はグー! じゃんけんぽんっ!」
25回目。さっきグー同士で引き分けたのに、両者またグーを出してきた。
「ああっ、もう! 武彦さんっ、いい加減負けてやろうって気はないのっ!?」
「お前こそ、折れる気はないのかっ!」
勝負が長引くにつれて、舌戦も激しくなってきていた。
「最初はグー! じゃんけんぽんっ!」
44回目。今度はチョキで引き分ける2人。よくもまあ、ここまであいこが続くものだと感心したくなってくる。
「……勝ったら頭がすぽっと入る透明の箱用意して、白い粉を吹き込みたい気分だわ」
「そっちがその気なら、こっちはうなぎでも入れるか……?」
年代が分かる会話を交わす2人。暑さのためか、延々と勝負が続いてるためか、2人とも少々壊れ始めたようだ。
そしてついに45回目の勝負が始まろうとしていた。
「最初はグー! じゃんけ……!」
「ただいまです」
2人がいざ勝負という瞬間に、零の声が重なった。勝負を中断し、零の方を振り向く2人。
するとどうだろう、零はかき氷の盛られた容器をテーブルに並べている所だったのだ。いちごにメロン、宇治金時。3人の希望通りである。
「零ちゃん?」
唖然として、シュラインが零に声をかけた。
「あ、はい。何ですか、シュラインさん?」
「それ……って?」
「えっと、何となく勝負が長引きそうだったんで、買ってきちゃったんですけど……ダメでしたか?」
と言い、シュラインと草間の反応を窺う零。
そうなのだ、零は延々とじゃんけんを続ける2人を尻目に、皆の分のかき氷を買いに行ったのである。何ともマイペースな、零らしい行動だった。
草間興信所、真夏のある日の日常風景である――。
【了】
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