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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


惜別

 しとしとと…降り褪める雨が、儚く、旅立とうとするその命を、静かに見守るようだった。
黒目がちの大きな瞳が道路の脇にポテン、と放り出された哀れな仔猫を映し出したとき、人間特有の同情を無意識のうちに沸き起こす。否、同情と括ってしまえば、彼女の心を「俗物」と見てしまうだろうか。されど、彼女は己の気持ちの由来など何一つ頭に置かず……水溜りにぐったりと横たわる、手のひらほどの小さな仔猫を抱き上げ、そして僅かな温かみに安堵と虚しさを覚える。

――人間とは……命とは一体なんなのだろう、と。

 桐守凛子の住まいは、主である十桐邸の離れにある。無駄に広くなく、いつでも御主様のお供につけるよう、邸内の一角に設けられた彼女の部屋は、古びた造りではあるが、嫌味な派手さも無い。
 凛子はパタパタと――いつもなら物音一つ立てず、しなやかな足袋も今夜ばかりは慌しい。障子を開けて、衣桁に引っ掛けてあった手拭を1枚畳に落とすやいなや、胸の懐に入れていた仔猫をそっと下ろす。
 小刻みに震え、僅かに開いた瞳は淡い灰色。そっと撫でてやると泥水が弾いて、白い柔らかな毛が凛子の肌に触れた。
「お前……どうしてあんな所に?」
 仔猫の耳元で呟くように凛子は唇を動かすと、投げ出された前足をちょこん、と握り、顔を覗き込む。綺麗に拭いてやれば先程までの泥臭さが全く嘘の様な――純白の猫だった。――ただ、衰弱しているのは否めなかったが。
 思わず「桜」と名付けた凛子はそっと頭を撫でると、思い立ったかのように仔猫を残し部屋を出た。
――何か食べ物を……。
 昔から「ペット」などとは全く縁が無い。街で見かけるそれらを「可愛い」と思ったことは正直、ある。しかし、彼女の生きる目的と云っても過言ではない御主の存在が、彼女の胸の内で大きくなればなるほど、彼女は俗世間から遠退いて行く。それは至極当然のことだった。自己犠牲が美しいかどうかなど、愚かな人が計れる代物ではない。

 使用人用の台所をあっちこっち引っ繰り返して、やっと手にしたのは哺乳瓶に入れたミルク。自分の体温と同じか頬にあてて確かめると、凛子はそっと仔猫――桜の頭を寄り起こした。
「ほら……」
 けれど、体力を雨に奪い去られた桜は、動物が本来備えていると云われる、吸引力といったもの全くもって持ち合わせていない。虚ろな瞳を僅かに開き、小さな口を少し動かす程度で、またぐったりと項垂れる。
 その様子に凛子は哺乳瓶の蓋を取り、人差し指にミルクを含ませ、桜の口に近づける。少し匂いを嗅いだ後、桜は文字通り「桜色」の舌を出して、それを舐めた。凛子は思わず無償の笑みを作った。

 彼女の懸命な看病は徹夜に及んだ。
 薄闇から朝焼けに空が滲む頃、仔猫の息はどんどん細くなっていく。ミルクを少し舐めたあと、凛子は胸に抱いて無心に自分の体温を桜に分けた。小さく震える躯をそっと、しかしぎゅっと……何処か大切な御主様とこの仔猫はよく似ていた。
 甘えや弱音を一切吐かない、我が当主。昔から躯が弱く、よく熱を出し床に着かれた。けれど、傍で看病する自分に気を使い、作った、あの消えそうな笑みを少し称える。高熱が引かなく、生死を彷徨ったときも……――そして、御主様の母君が亡くなったあのときも。

――果たして自分の存在は御主様にとって……。

 ……何度も胸に湧いては消える問いである。彼女は知っていた。この問いに答えは決してないのだということを。
 漆黒の瞳がボンヤリと桜を捉えたまま…僅かな時を経て凛子は頭をかぶり振った。虫の息のように弱り果てていく仔猫を、桜をどうしても救いたかった。

――それが例え己のエゴだと知っていても。

 凛子は桜をふかふかのタオルに包みすっくと立ち上がる。「このままでは……」凛子の脳裏に嫌な光景が張り付く。決して…決して、死なせてなるものか。
 我を忘れ――何を求めていたのか、今ではハッキリと思い起こせないが……邸内を足早に駆けていた凛子は、咄嗟に黒い影を見出す。いつもなら箒で掃いた上に、捻り潰し、ミンチにして俺様ハンバーグに…いやいや、ドブ川にでも捨ててしまいたい……云い尽くせばきりがないほど黒ピカの…いやいや、御主様の仕えるべき本家の当主――沙倉・唯為の姿が、渡り廊下から覗く庭にあった。
 凛子は縁側から下駄も履かず、庭に降りると仔猫を片手に唯為のスーツの端を掴んだ。唯為とて、これほどまでに取り乱した凛子は見たことが無い。声にもならぬ瞳が語りかけてくるもの、それは胸に抱いた小さな仔猫が原因だと男はすぐに察知した。


 朝焼けが目に痛い。
 深紅のBMWがまた一つ赤く染まる。男はサングラスを掛け、ギアをLowからHighへ手馴れた仕草で切り替えると、一気にアクセルを踏み込んだ。マフラー音が唸り、エンジンが快音を飛ばすと唯為は横目で助手席に座る凛子を見た。睫毛に涙を溜めた少女は優しく、仔猫を温め続けている。
「…………」
 ふと、唯為は――これが母性本能というものなのだろうか、と無意識のうちに思考を巡らせた。自分にとって偽善は1番嫌悪して止まないものであるが、凛子の健気な眼差しは嫌いではない……そう、きっとアイツの瞳と同属的なものだ、と直感的に感じる。
 車はハイウェイを駆け抜け、韓紅花の空を突っ切った。

 仔猫の幸せとは一体何だったのだろうか。天寿を真っ当することであろうか。生きることか。生きようとする意志だろうか。
仔猫は――桜はあまりにも無知過ぎた。その毛並み同様、純白の決して他の色に染められない世界の住人だった。――それが、この世では「敗者」というカテゴリーに当てはまろうとも。
 桜が息を引き取ったのは、動物病院について間もない頃。凛子の胸の中で、スゥスゥと二度ほど楽に呼吸をした後、まるで眠るように、旅立った。白いひげが白い睫毛が、痩せた躯が細い足が。それはあまりにも……あまりにも切ないことで。
 焼却場に足を向けた2人は、終始無言だった。まだ温もりを残した桜は、凛子の胸に無力感と虚無感を突きつけた。

「もっと早く病院へ連れて行っていれば…」

 自然と口から零れた科白と同時に、漆黒の瞳から大粒の涙が頬を伝って、落ちる。幾筋も…幾筋も流れては落ちるそれは、桜への懺悔だろうか。
人と云う生き物は非道く自分勝手で自己満足を求める生き物であり――恐ろしいほどに無力である。凛子の傍らに立った男は嫌というほど、それを理解していた。
 果たして凛子は仔猫の命を救う「自分」に満足したかったのだろうか。「助けてやる」という一段落上から見下ろした弱き生き物への同情だったのだろうか。
 ――否。
 仔猫は逝ってしまった。それは変えられない事実。そして、凛子が見返りを期待して桜に接したわけではない。――あの大きな涙がそれを雄弁に物語っている。切実な願いが届かなかった。平家物語ではないが、諸行無常のひびきあり、だ。
 されど、凛子にその理(ことわり)を「客観的に」観ることは、まだまだ無理がある。この世の中で生きる何千万人…何億人という人が、それを理解せずに――気付かずに、「今日」という日を刹那的に、時間だけが流れている。

 その場を離れようとしない凛子は当然のことながら、唯為が傍にいることは分かっている。この黒い男の前では御主様の為にも、平静さを繕わなければならない。
 しかし。
 しかし、止め処もなく流れ落ちるその涙は、凛子の胸のうちそのものだ。気の強い……それでいてガラスのような繊細な神経を持ち合わせた少女に、唯為は苦笑いを一つ浮かべ、
「主人にそっくりだな」
艶やかな黒髪に長い指を絡め、ポンポンと優しく撫でた。

 凛子の涙は未だ止まらない。男の靴音が聞こえなくなったあと、必死で押さえていた感情が溢れる。頬に手を当て、静かに嗚咽を洩らし始めると、冷ややかな霊灰堂に慟哭が響く。
 勿論、その前に車を止めていた男にもそれは聞こえている。そこいらの女同様、胸に抱けば彼女の「痛み」は消えるのだろうか。唯為は胸ポケットから煙草を1本取り出すと、火を点けた。
 燻る煙が朝日の中に溶け込むのを暫し眺めながら、男はつと思う。
――アレは主人と同じく……。
 気高いほどの自尊心と誇りを持ち合わせた少女。
 彼女に必要なのは短絡的な優しさでも甘えでも偽善でもない。
 ただそっと……その姿を見守るだけだということ……今は。


 そう――今、は。

Fin