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『ようこそ宵幻堂へ』
『宵幻堂』
男はその看板を不思議そうに見上げた。
深夜。普段であれば眠りの淵にいる時間。飲み歩き終電を逃し、夜の外気に酔いは覚め始め、ただ目的もなく通りをぶらついていた。だからこそ目に止まった。日常の喧騒の中でなら、木目に墨書の地味で古ぼけた看板など見逃してしまう。目を凝らさなければ分からない。余裕がないときには気付かない。実際男はその通りを歩くのは初めてではなかったが、その存在に気付いたのは初めてのことだった。
「……?」
小首をかしげて引き戸に手をかける。
からりと引き戸を開けると微かに埃臭い香りがした。寧ろそれは古さの香りというべきだろうか。
@@堂という名から連想される通りそこは商いを営んでいる『店』であるようだった。年代を感じさせる様々な物品が、さして広くもない空間に鎮座している。
雑然と整然の中間で不可思議な居心地のよさを醸し出すその空間は、外界の天気とは関わりなく絶えず薄暗い。光を拒むようで拒まない、拒まないようで拒んでいる。境界を漂う、ちょうど冬の夕暮れか夏の宵の口のように。それは時刻が深夜でなくとも恐らくは変わらないのだろう。
往来から一歩足を踏み入れただけで、そこは異世界だ。
男はゆっくりと、いっそ恐る恐る店内に踏み入った。
桐の箱が積まれているかと思えば、中世の騎士が着ていたような甲冑が置かれている。飾り棚の中には人形や置物が並び、その飾り棚そのものもまた古い詫びた味を見せていた。
置かれている物の種類に統一感は一切ない。種類には一切ないがしかし、そこには一つの共通項があった。
つまり――古い。
特に何の素養もない男の目から見ても、そこにある品々は古い。単に最先端から外れたという意味の古さではなく明らかにある程度時代があるのである。
「……骨董屋、か?」
日常から離れたその空間に男が思わず呟いた、その時だった。
「いらっしゃいやし。なにをお探しでやんしょ?」
その声は男の真後ろから突如として響いた。
悲鳴をどうにか飲み込んだ男はばっと背後を振り返った。そして再び上がりかかった声を再度飲み込むこととなった。
そこに立っていたのはまだ若い和装の男だった。柿渋染めを泥媒染で仕上げた紬がしっくりと馴染んでいる。背の中ほどまである髪を朱色の紐で無造作に束ねていた。印象的なのは柔らかな笑みを浮かべる顔に乗っている紫レンズのサングラスだ。表情は穏やかなのに瞳が隠れている為か胡散臭い事この上ない。
――否。
なにもそれは見かけだけに限った事ではありえない。
ごくりと喉を上下させた男は、乾いて張り付いたようになっている唇から、吐息のような声を絞り出した。
「あ、あんた、一体何処から?」
背後に人の気配などなかった。酒が入っているとは言え既に醒め掛けている。気付かないはずなど断じてないはずなのだ。
誰も居ないはずの場所に、居なかったはずの場所に、この若い男は突如として沸いて出たのである。
しかし若い男は全く男の言葉に動じなかった。ちょいと顔の真ん中のサングラスを押し上げると腰を屈めて男の顔を覗き込んで来る。
「ああ、一見さんでやんすね? あちきは黒葉・闇壱(くろば・やみいち)っていいやして、この店の主人でやんすよ」
「は、はあ……」
黒葉闇壱と名乗った若い男に聞いてもいないことを捲くし立てられ、男は生返事を返す。闇壱は男の様子に忍び笑いを落とした。
「で、なにをお探しでやんしょ?」
「……あ、いやその……」
男がほうほうの体で逃げ出したのは幾つ目かの商品説明(曰く有り気な壺)の途中の事だった。
「一見の客をからかうものではないわ」
続いて店に入って来たのは初老の男。
初老の男を闇壱は丁寧に腰を折って向かえた。
「こりゃ旦那、ようこそ宵幻堂へ。今日はなにをお探しでやんすか?」
「全くこんな時間に開けおって。通ってくるのも苦労ではないか」
「それがうちの営業方針でやんすからねえ」
「単にいい加減で気まぐれなだけではないか」
そうともいいやすね、闇壱はあっさり肯定する。初老の男はフンと鼻を鳴らし、追求を止めた。
「それで今日は何か物珍しいものはあるか?」
初老の男の言葉に、闇壱は本心の窺えない笑みを浮かべ優雅に商品に手を翳す。
「当店の品揃えは随一でやんすよ。日用雑貨から骨董、呪われた品々から、妖刀の類いまで、何でもご用意いたしやしょ」
「いい気なもんじゃ」
渋い顔を崩さない初老の男にそれでも闇壱は新たに入荷したばかりの商品の説明を、実に楽しげに始めた。
古道具屋『宵幻堂』
営業時間?〜?
豊富な品揃えはきっとあなたを満足させてくれる事でしょう。
日用雑貨に、骨董、曰く付き、妖刀退魔グッズ――人に言えない品々まで。
日常と非日常の狭間で、店主黒葉闇壱があなたをお迎えします。
『ようこそ宵幻堂へ。今日はなにをお探しでやんすか?』
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