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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


【夏の、終わりの】

「オープニング」

「…と、まあ。そういうこった。"音楽室に出没するユウレイの謎を解け!"ってね」
 緊張感の欠片も感じられないその横顔、鼻から薄い紫煙を吐き出して。
 草間は灰皿の針山に新しい一針を差し込む。
 見る者が見れば、端正と言えない事も無いだろうと――零は怪訝そうな面持ちのままで、それをじっと見つめていた。
 視界の端には、おそらく学校帰りに寄ったものだろう。かっちりとお下げを結った夏服の少女。漂った煙を避ける様に僅かに背筋を伸ばし、その小さく薄い唇を結んだままで俯いている。
「地下にあるらしいんだわ、その音楽室が。まあ入り組んだ造りの建物らしくて、見る方向から見れば二階部分に見えなくもない。でも普通、校門がある階が一階で、そこから数えるだろう?だから地下一階、薄暗くて湿っぽい部屋だそうだ」
 そして紡いだ言葉尻を言いきらぬ暇に、草間は億劫そうに顔を顰めながら新しい煙草の箱に手を伸ばす。遠慮がちに配した零の目配せも何のその、咥えたそれに慣れた手付きで火を灯し。
 敢えて、そうしているのだとでも言いたげに。
 宙へ向かって煙を吐き出した。
「…それで、秋元…さん。その声は、何て…喋ってるのか、聞き取れないんですか?」
 あまりと言えばあまりの、草間の態度に。零が言葉口を切る。
 秋元と呼ばれた少女――秋元 緒美【あきもと つぐみ】は、小さく問う零の言葉にその面持ちを挙げ…こくり、と頷いた。
「…はい。あたしが聴いたのは、小さな囁きみたいな…なんとなく、恐がってる感じの、…そんな声。他のクラスの子は、すすり泣きだったとか、ケンカしてるみたいに怒鳴ってたとか、…沢山の女の子が、歌ってるみたいだった、とか」
「そんなん音楽室だもん、歌ってて当然じゃないか」
「草間さんは良いんです、…黙ってて」
 些か怒気を孕んだような声音で零が草間を制す。緒美の頭上を通り越し、背後に当たる大きな窓から電線の鳥を呑気に眺めていた草間の視線がちらりと零の上目な眼差しを捉え――そして何事も無かったかの様に逸らされる。
「――女の子がたった1人で、こんな所まで依頼に来るんですよ。…ちゃんと話、聴いてあげてください」
 自らと、年齢が一回りも違う訳では無いのだろう。幼い少女が、思い詰めた表情でソファの上に小さくなっているのを放っておけないと。
「お任せ下さい。そのお話、…草間興信所がお受け致します」
 その瞬間、緒美の表情がぱ、と明るくなった。安堵の面持ち、と言うが正しいか、膝の上で握り込めていた手のひらの力が俄に緩められる。
 その表情を目視し、ほっとした様な微笑を浮かべた後で、零はソファから勢い良く立ち上がった。そして草間のデスクの上にある分厚いファイルを電話の横に引き摺り出し、思い当たる者に片っ端から電話を掛け始める。
 ぱしぱしとそのくっきりとした二重を瞬かせながら、緒美は少女の後ろ姿を見つめていた。

 咥え煙草の草間の眼差しが、眼鏡の奥で僅かに細められるが―――
 それに頓着する者は、ここにはもう存在する由も無いままで。

▲海原みなもの場合

「…それって、本当に幽霊さんなんですか?」
 学校帰り、仲の良い友達と入ったファーストフード・レストラン。ドーナッツの上にデコレイトされていた薄いチョコレートをぱり、と齧りながら、制服姿の少女――海原みなもが受話器の向こうの声に耳を傾ける。既に友人達はみなもの会話などそっちのけで、テレビで流行の芸能人の噂話などを始めており。
「――って、あ、違いますよ、疑ってるとかとかじゃなくて、その…、何て言うか、」
 …ちっとも「恐く無い」じゃないですか、と。
 しばし思案の沈黙の後、続ける。
「音楽室で歌声なんて、確かに…草間さんの言う通り、当然な気がするんです。恨んでるとか、厭で厭で仕方がない事があるとか、そういう…"負の感情"が見えて来ない。・‥…ん、依頼主さんがそうして欲しい、って仰られるなら、…是非力になって差し上げたいのですけれど…」
 その後二、三の会話を遣り取りした後に、みなもはぱくんと携帯電話の受話器を折畳み。はふ、と大仰な溜息を吐いた。
「ゴメンね、急用、出来ちゃった。ちょっと行って来る、調べモノ」
 彼氏ー?等と、背後から聞える友達の声に。違う違うと苦笑しながら、彼女は足早に図書館へと向かった。

▲八千代田(ヤチヨダ)線紅坂(ベニザカ)駅

 そして次の日になっても、何処と無く曖昧な、憂鬱に感じる気持ちのままで。
 地下鉄に揺られながらみなもは腕時計を確かめた。
「・‥…遅刻はしないで済みそう、だよね」
 紅坂(ベニザカ)駅、その時計塔前に午後一時。余裕を持って家を出たつもりだったが、パソコンを使って簡単な調べものを済ませて来たので到着は丁度良いと言える程の時間になる事だろう。
 紅坂はその名の通り「坂」の多い街で、地域毎の段差が激しい事。その一際大きな地層の擦れに凭れ掛かる様に建てられた私立小島原学園は、創立九十周年を数える程の歴史ある女子校であると言う事。
 度重なる空襲に校舎は焼けて、今現在「校門」がある階より下の部分しか残らなかった事(そう、問題の音楽室は「焼け残り」部分であったのだ)。
 そして創立時から、制服と髪形の規定――おさげ髪だ――を一度も変更した事が無い、と言う事。
 そうとなると、もし万が一に声の持ち主と対面する事になったとしても、その外見から時代を絞り込む事はとても困難になるのではないか。
 もしも幽霊だとしたら――みなもはきゅ、と右手を握り込める。紅坂駅、紅坂駅…車掌の声と共に車両の扉が目の前で開き、彼女は大きく足を踏みだした。
「きっと…‥・楽にしてあげるからね」
 心持ち眉を顰めた愁いのある表情、その伏し目のままで階段を昇り。
 待ち合わせの時計塔を仰いだその時、同時に視界に飛び込んだのは見覚えのある後ろ姿。
――エマさんだ。
 みなもは僅かに足早になり、その背中を追いかけた。
「エマさーん!」
 ぱたぱたと右手を振って、振り返る後ろ姿――シュライン・エマに笑いかける。
「あら、二人揃ってここに?」
 ひらりと指先を振り返しながら笑顔で問うエマの視線、それに促される様に、自身の左手側を振り返る。
 と、きゅっと口唇を噤みながら自身を見上げている背の低い少女と目が合い、二、三の瞬きをした。
 ああ。
 おそらく、五人居ると聞いていた「待ちあわせ組」の、もう一人なのだと。
 おそらく、少女の年は自身と然程変わらない、もしかしたら自分よりも年下かもしれない。そう考えが及ぶ事となれば、みなもは人懐っこい笑みを浮かべながら少女へと右手を差し出す。
「…海原みなもです。宜しくね」
 目の前の少女は、最初その掌に吃驚した様に――視線を落として、じっと見つめていた。が、その直ぐ後で。
「ぁ、・‥…宜しく…久坂つき、です」
 些か慌てた風に自身の右手を差し出し、そ…と指を重ねる。
 その仕草が何となく可愛くて、その指先を軽く握った。そしてもう一度、宜しく、と続けて。
 
▲私立小島原学園

 校舎へと続く、長い長い坂を昇る。大通りの両脇には見覚えのある大企業のビルやテナントが立ち並んでいたが、枝分かれの細い道へと入り込んだ途端にそこは高級な住宅街の様相を呈し始めた。
 あれじゃない?と、意外な健脚を披露しているエマ・シュラインが指差した建物。
 彼らが昇って来た坂道からは、まるでそれは六階建ての病院かマンションの様に見えた。
 しかもかなりに大規模な。
「・‥…また…随分と、圧巻で」
 他の4人の歩調に合わせる様にスティードのエンジンを切ったままで横押ししていた柚品弧月が、それを見上げるなりぼつりと呟く。
「こちらから見て、三階にあたる階が、校門のある所――実質上の一階部分に当たるのね。だから問題の音楽室は――」
 指した指をつつ、と下降させ、二階部分…地下一階を指す。
「由緒正しい女子校、と言うやつらしい。クライアントにはくれぐれも粗相の無い様に」
 ただでさえ重量のあるホンダを、苦も無く横押しする柚品の二の腕辺りを睨み付けながら香坂蓮が素っ気無く言い放つが。
「何だか柚品さんと香坂さんって、随分と仲良しさんみたいですよね。初対面とは思えない…ね、久坂さん?」
 海原みなもが、他のメンバーに追い付こうと些か速足な歩調で歩みを進める久坂つきの顔を覗き込む様に、告げる。自分にその話題の尻を繋げられるとは思わなかったのか、つきはみなもの顔を見上げてから、車道で何やら重たそうなバイクを軽々と押し歩いている柚品と、自らの先を歩く香坂の背中を交互に見つめて。
「・‥…はい」
「それだけ溜めてそれか」
 肝が据わっているのか、それともそういう器なのか。言葉少なにただ頷きを返すつきを振り返り、香坂はヴァイオリンケースを持ち変える。
「はいはい、微笑ましいコミュニケーションはそこまでね?きちんと"吹奏楽部に呼ばれた教師と生徒"っぽく振舞って頂戴」
 口許に指先を当てて、くすくすと笑いながらエマが告げた。
 歩を進めてきた坂は次第に緩やかになり、校門前ではただの平らな舗道となる。両脇には大きな桜の木が道を覆う様に葉を茂らせており、強い日差しを幾許か穏やかなものとさせていた。
 つきが木漏れ日に目を細め、小さく息を吐く。ヴァイオリンケースがバイクの影に来る様に、香坂が僅かに歩調を緩めた。
 蝉の声は姦しく、遠くに立昇る蜃気楼はどこか白昼夢を思わせる光景で。
 校門までの道のりは果て無く続くものであるとすら、それぞれが朦朧とした脳裏で考え始める程の頃。
 煉瓦の壁がふつりと途切れ、大きく開かれた校門の前に五人は立ち止まった。

▲音楽室で

「お呼び立てしてしまって申し訳ありません…秋月緒美です」
 校舎内の空気は、ひんやりと冷たく。
 窓の少ない細い廊下は、長く――薄暗い。
 職員室の前を抜けて辿着いた図書館の前で、依頼人である秋元緒美が五人を待っていた。
 小さく華奢な体つきの、物静かな少女だ。長いお下げ髪をきっちりと結って、一糸の乱れも無く制服を着こなしている。
「前から、似た噂は有ったんです。トイレの花子さんみたいなものとか、七不思議みたいなものですね――でも…」
 ここまで頻繁で、目撃情報も多いケースは流石に初めてなのだと言う。中高一貫制であるこの学校の、誰よりも中学生の吹奏楽部員が恐がって練習に出てこないのだとも。
「体育祭の練習で使っている教室で、使用許可はここにしか取っていないんです。だから今のままでは――やっぱり、ちょっと」
「どちらにしろ、その音楽室とやらに連れて行って貰おう。話はそれからだ」
 夏休みである為か、校舎に生徒の姿はまばらである。
 が、その所為で殊更に――香坂と柚品の姿は、目立って仕舞う。
 図書館の前で立ち話を交す一行に、擦れ違う女生徒達が好奇の眼差しを投げる。それに堪え兼ねた香坂が、うんざりだと言う様にぼそぼそと音楽室行きを促した。
「そう…ですね。何か判るかも知れないですし」
「あわよくば"引き摺り出し"ちゃえば良いんだしねぇ?」
 現実的なのか、不穏のそれなのか。エマの言葉に、一同は地下へと続く階段を降りて行った。

 ひんやりとした空気が密度を増す毎に、蝉の声が遠ざかっていく。
 校門のある地上からも、地下二階に当たる地上からも離れた、地下一階。
 階段を下りてすぐ、それは図書室の真下に当たるのだろうか。二部屋に隔てられた音楽室の入り口は有った。
「――地下と言っても、それほど環境が劣悪…と言う訳じゃ無いんだな」
 ここに至りようやく、香坂の言葉から刺々しさが緩和される。バイクのキーを指先でくるくると回しながら、柚品が緒美の開けた扉を潜る様に音楽室へと踏み込んだ。
「そりゃ、由緒正しいお嬢様学校なんだから。それくらいの考慮は有って然りだろう」
 香坂がじと目で睨み上げるが、本人は何処吹く風と言った風に室内を見回している。ぞろぞろと柚品の後に続く五人の最後尾に着いて、香坂はふん、と鼻を鳴らして。
「声が聞えるのは、この部屋と…奥にあるもう一部屋です。比較的明るい時間、朝とか昼間に聞える声は、楽しそうだったり、歌ってたり…でも、練習が長引いて夕方にまでずれ込むと、啜り泣きだったり…怒ってるみたいな怒鳴り声、だったり…‥・」
「と言う事は、聞える時間帯に限定は無いと言う事ね?」
 顎に手指を当て、考え込む風な仕草のままでエマが言葉を継ぐ。
「はい。あ、でも…‥・夏休みに入ってからかな、梅雨が明けて、暑くなりはじめた位…‥・」
 机の上に鞄を置き、中から丁寧に包んだ霊水を取り出しながら。みなもが緒美を見上げる。
「暑く?・‥…実は、ここに来る前に少し下調べして来たんですよ。学校の地形と、ここ最近の天気」
 言いながら、みなもはばさばさとプリントアウトした紙の束を机の上に並べ始めた。
「梅雨が明けてから、ここ…7月のこの日から、いきなり気温が上がり始めてますよね。晴れ間が続いて、湿度も上がってる」
「・‥…あ、…うん…ここ、この日だ…部の後輩が、何だか気味が悪い声が聞えたって言って来たの…‥・」
 緒美が、天気と湿度の一覧をプリントしてある紙の一点を指差し、眉を寄せる。
「この日、夏休みに入って最初の練習日だったんです。私達の学年が鍵を開ける当番の日で――友達が、何だか気味の悪い声を聴いたって」
 数度の頷きを以てその話に聞き入るエマの後から、その紙面を覗き込む様に香坂が身を乗りだす。さらにその背後では、一つの机を囲む一同から外れた部屋の隅――柚品が、壁に掛けられたベートーヴェンの肖像画に向きあっていた。
 そして深い息を大きく吐きだして、後――人差指と中指で、そっとその絵に、触れる。
「じゃあやっぱり、暑さや湿度が…‥・?」
 その身長故か、机に手を添える様に一番前でそれらの資料を見下ろしていたつきが、躊躇う様に小さな声で呟く。
「でも、校舎内そのものは暑くも無いし…この部屋に至っては湿度もかなり低いだろう」
 改めてと言った風に室内を見回しながら、香坂がそれに応えた。楽器を保管するのに、ここ程良い環境が自ずから揃う事も珍しいだろう。窓の外から臨む景色は静かな住宅街だが、窓の真下は校庭。騒音が軋轢を持つ事も、演奏者の集中力を阻む事もおそらく無い。
「この学校の設立者…最初の校長先生が、音楽に精通した方だったみたいで。この階には他の特別教室も何部屋かありますが、ここが一番涼しくて静かです」
「そうそう、この階と、もう一つ下の階以外は、戦災で焼けてしまったのよね…さっきの図書館は?」
「良く…燃えたらしいです」
 苦笑とも冗句とも取れる曖昧な言葉は、綺麗さっぱり焼けてしまったのだと言う意味なのだろう。図書館の蔵書からの情報収集は無理かとエマは溜息を吐いた。
「せめて、その声が今少しでも聴けるならね…‥・そうそう、何の歌を歌っているのかは判らない?歌詞とか、フレーズとか…」
「ええ、あたしは、歌そのものは聴いた事が無いんで…友達が、"いつの日にか帰る"とか、そんな風に歌ってる気がしたって」
 故郷、と。エマが小さく呟く。
「"いつの日にか帰らん"、かしらね…故郷の三番だと思うわ。"兎追いしかの山"…って言うの、有るでしょう?でも…あの曲だとしても、あまり手掛かりにはならなそうね。あまりに有名な歌すぎるもの」
 現地に赴いても手掛かりは無しか、と。何気無くみなもの広げた資料の一枚をエマがその手に取った時。
「・‥…ああ、今日って、」
「‥‥終戦記念日、だ」
 ぼそり、柚品が室内、宙を見つめながら呟いた。

▲柚品の見た光景

 見つめたベートーヴェンの不機嫌そうな眼差し、その双眸にうっすらと穴が開いているのを見て一人苦笑した。
 どこの学校でも、肖像画の瞳には画鋲が貼られる。おそらくはそれを取り去った時の穴であろう。額は何度か取り換えられたものか、それに収まる肖像だけがどこかくたびれて褪せた色彩を放っている。
 触れたのは、単なる好奇心からだった。
 今回の依頼に関係する手掛かりを、こんな肖像画から得られる筈は無い――そんな緩やかな集中力で、ベートーヴェンのくたびれた肩口に触れ、うっすらと視界を半眼の歪みに同調させる。
 耳を澄ませば、己の首の後あたりで遠く――この部屋で幾度と無く繰り返されたのであろう、吹奏楽部員のこなれた演奏、教師の弾く美麗なピアノの音、そして合唱…‥・
 比較的新しい記憶、ベートーヴェンの。
 そこから細い一筋の糸を手繰る様にしながら、静かに、静かに――彼の「記憶」を、遡って行く。
 共に音楽室に赴いた五人の声は、次第に遠くなって行った。柚品を取り囲む景色ですらがきらきらと光を帯び、どこか儚い色彩を帯び始めて…‥・さらに深く、奥へと記憶の波を潜り抜けて行く。

 窓の外が眩しかった。
 蝉の声は矢張遠く、夏の陽に照らされた白い景色。

『もうすぐお兄さまが戻っていらっしゃるのよ(――お兄さま?)』
『あら、ミツ子さんは本当にお兄さまが大好きなのね?でも駄目よ、そう言う事を大きな声で言っては駄目(――?)』
『そうね、でもやっぱり――私は、…一日も早く兵役が、戦争が…終わって(――ああ)』
『ええ…戦地で命を失う事が美しい事だなんて、そんなの…‥・(――そうだ)』

『ああ、先生がいらしたわ。早く教科書を開いて、今日は――』
『ミツ子さんの大好きな"故郷"よ(――"故郷")』

 少女達の些細な内緒話を、祈りを込めた幼い歌声を。
 ベートーヴェンは言葉も無しに、ただじっと見つめていた。

 そうだ、知ってる。
 大きな空襲で、この学校の校舎が半壊する前の「記憶」だ。
 炎に焼け、それぞれの大切なものを失い――そしてその淡い命を散らす前の、

 これは少女達の、残像なのだ。

「終戦記念日」
 柚品は繰り返した。
「ああ…草間さんの言う意味が。…判った」

▲立ち戻った場所

 柚品の言葉に、一同はほぼ同時に彼に振り返った。
 虚ろな半眼は宙を彷徨い――壁に掛けられたベートーヴェンの肖像画に触れている手指がびくりと震えた刹那、数度の瞬きを以て"此方側"へと引き戻される。
「――"故郷"だ。間違いない。・‥…聴いて来た、今」
 そして柚品が他の五人に、己が目の当たりにした「光景」の説明をする。緒美と同じ髪形、同じ制服の少女が教室の後で交していた内緒話の事。窓の外の景色が今と変わらず住宅街で、それでも屋根の低い木造の住宅ばかりで有った事。授業を受ける少女達の面持ちは一様に楽しげで、矢張――負の感情やプレッシャーはそこに感じられなかった事。
 緒美が「ミツ子」と言う名前に僅か首を傾いだ様だったが、それよりも目先の気味悪さが勝ったのか。ふるふると首を振ってから言った。
「うちの学校は、設立された時から制服も三つ編みも変わっていませんから…‥・もしかしたら、本当に」
 その声を耳にするだけでも非現実的な体験で有ったのに、その姿を「見た」と豪語し、揚げ句正体までをも見抜こうとしている彼らを目の当たりにすれば無理も無い事なのだろう。沈黙の後で、蒼白になり俯いてしまった緒美を、プリントアウトした資料の広げられる机の椅子を引いてみなもがゆっくりと座らせてやる。
「でも、それならどうやって…"上"に上がらせてあげれば良いのでしょうか?どうして今になって出てきたのか、何か思い残す事があるのか…」
 みなもの隣で、俯いたままのつきの両手がきゅ、と握り篭められた。
 明確な怨や呪がそこにあるのなら、どうにか彷徨う彼らを導く手掛かりもあるだろう。
 だが。
「もし、戦時下の生徒さん達なら…戦火に巻込まれた事こそが…‥・」
 その怨なのでは無いかと。つきは言葉尻を小さく、それでも最後迄をゆっくりと告げる。だが、それをあっさりと否定したのはエマだった。
「でも、すごく残念な事だけど――あの頃、望まない戦火で亡くなった方々は沢山いらっしゃるの。ただそれだけで、今の時代にこうした形で具現する事はすごく珍しいケースよね」
「柚品の言う通り、マイナスのプレッシャーが介在しない状況下に今回みたいな霊障が起こる事はあるのだろうか」
 尚もヴァイオリンケースは手放さぬままで、香坂が眼差しを逡巡させる。手指に捉えた資料に、エマは何とは無しに再び目を通し――ぽつり、告げた。
「・‥…そうよ。緒美さん、始めて"声"を聴いたのは、この日よね?」
「はい、そうです」
「やっぱり、気候や湿度が関係してるって事は無いかしら。今年の湿度って、ちょっと異常でしょう?それと何か関係が…‥・」
「似てる、とか」
 五人がつきを見つめる。机の上をじっと見下ろしながら、つきが矢張小さな声で、呟く様に言った。
「柚品さんが見た景色の"夏"と、今年の…‥・気候が」

 その後、一同は図書館へ向かった。
「普段は司書室の奥に保管してあるんですよ――並べておいても、どなたも閲覧なさいませんからねぇ…」
 演奏曲について調べたい事があるのだと年配の司書に告げると、彼女はにこにこと微笑みながら黄ばんだ古い新聞を両手に抱えて持ってきてくれた。
 年の頃は、六十台後半と言った所だろうか。その身なりや背筋が彼女を若く見せているのかもしれないと思うと、もう少し上なのかもしれないとエマは思う。
 彼女――石毛さんって言うんです、と緒美は言った――に礼を言い、そしてから。
 七月の後半から八月に掛けて、みなもの持つ天候一覧に一番近い一夏を探す。
「――有った」
 一九四四年、八月。
 終戦一年前の夏だ。
「この日から、八月の中旬に掛けての天気と湿度が似てる。大きくても二〜三度の違いしか無い」
 香坂が細く長い手指で一つずつ天候を指差し、資料と照らしあわせて行く。
「この年、この学校に在籍していた"ミツ子"と言う生徒…‥・なのね?」
「多分」
 柚品が頷き、再び新聞に眼差しを落とした、その時。
「――ミツ子って、相澤ミツ子さんの事かしら…‥・?」
 トレイの上に六人分、麦茶の注がれたグラスを持ち。石毛が、ふんわりとした笑みを絶やさぬままで問う。
 目を瞠り彼女を凝視する一同の眼差しに怯む事無く、どうぞ、とそれぞれの前に良く冷えたグラスを置きながら。
「・‥…、た…多分そうだと…思います…」
 あまりに突然な彼女の言葉に返答すら侭ならない一同の中で、最初の一言を次いだのはつきだった。
「その、ミツ子さんの事を…知りたいんです」
 今度は、心持ちきっぱりと。つきが続ける。
「そう…‥・どんな事を?」
 私も座って良いかしら、と。
 石毛は六人が取り囲んでいる閲覧席の隣からもう一つ椅子を持って来て、ゆっくりと腰を下ろした。
 その面持ちは非道く穏やかで――つきは思わず、口唇を噛んで俯いてしまう。
「ミツ子とやらが、ここで…どんな学校生活を送ったのかを。そしてどんな風に――亡くなったのかを」
 その代わりに、香坂が言葉を継いだ。机の上に置いたヴァイオリンのケースに右手を置き、僅かに身を乗り出す様にして。
「ふふ…随分とストレートに聞いて来るのね…?さて、それじゃあ――」
 言いながら、石毛は椅子に深く凭れ、緩やかに目を閉じる。机の縁に両手を添え、それはあたかも――ピアノの鍵盤に指を添えるピアニストの様でも有って。
「どこから、お話すれば良いのかしらね…‥・」

▲司書・石毛

「彼女は、年の離れた兄が一人、そして妹が一人の三人兄妹で…何不自由も無い家に生まれたの」
 父親は軍人、母親は良く出来た良妻賢母。絵に描いた様な幸せな家庭で、例え兄がレイテで戦死しても、裁判で父親が裁かれても、その核を失う事は無かったのだと言う。
「心の強い方だったのね、お母様が――二人の娘は最後まで立派にこの学校を卒業したし、その後も自分達の進むべき道を踏み外す事なく、立派に――大人になった」
 穏やかな口調で紡がれる石毛の言葉に、香坂が僅かに片眉を訝しみの形に引き上げ――ヴァイオリンケースに掛けた右手指に僅か力を込めた。
 が。
 それを制する様に、彼の膝へと左手を置いたのはエマだった。
 香坂は刹那、その横顔を見つめ――そして音も無い小さな溜息の後で、再び石毛を見つめる。
「心の豊かさは、お金のそれとは決して比例する訳では無いの。そういう事は、多分あなた達が一番良く知っているでしょう?・‥…そして子供達、…ミツ子は…大人になり、一生を捧げても良いと思える職場と巡り合い…そしてそれは、その通りになった」
 ゆっくりと開けられた優しい眼差しが、一同――六名の面持ちを一人一人見つめ、それぞれに語りかける様に言葉を継いで行く。大切な宝物を紐解く時の様な、それは満ち足りた眼差しだった。
「後悔も、ましてや恨み辛みなんてもう無いのよ…‥・あの頃に生まれて、育って…それでもそんなものは無いの。ただ一生懸命に、ただ優しい心だけを忘れずに…そうやって、少しずつ年を重ねて来ただけ」
 柚品の中で、俯いた石毛の伏し目が。
 あの"光景"の中のミツ子と、リンクした。
「・‥…あんた、」
「――今年は暑かったわね…?あの夏と、そっくりだった」
 再びその面持ちを上げて、遠くを仰ぐ様に細められた石毛の眼差しが揺らぐ。
 そして、水面に映る月や太陽の光の様に――石毛の輪郭そのものも、大きく揺らいだかの様に見えた。
「あの歌はね、お兄さまが大好きな歌だったの。だから私、レイテ沖から戻られたら誰よりも上手に歌って、聴かせて差し上げたかった」
 エマが口唇を噛み、俯く。香坂の膝から、その掌がゆっくりと滑り落ちるのを合図に。静かに立ち上がった彼が、ヴァイオリンケースをゆっくりと開け――グァルネリのコピーを取り出す。
「一度…だけだ。こんな馬鹿げた興に乗じるのは」
 矢張伏した眼差しは、もう石毛の姿を見据えない。ただ静かに弦にアーチを触れさせ、静かな呼吸の後で――そっと、滑らせた。

 故郷。
 誰もが聞きなれた、あの旋律だった。

「――兎追いし、かの山…‥・」
 緩やかに、低く美しく流れるヴァイオリンの旋律に合わせ閉じた瞼の、目尻からほたりと涙が零れた。
 その声は年配の女性のものとは思えぬ透明感と愁いを讚え、その場に集う者達の心に深い感銘を落として行く。
 ただ香坂は、弾いた。
 彼女の、「ミツ子」の老いた身から、朗と響かせられる声音に全てが浄化せられる事を望んで。
 そして導き出される歌声が一際高くなった時、ふと彼女を視界の端に留めれば。
 そこに立ち、幸せに満ちた面持ちで歌い上げる姿は、緒美と幾許も年の変わらない少女の面影、だった。

「水は清き、故郷―…‥・」
 三番の最後までを彼女が歌い上げた頃には、その輪郭は空気の歪み程としか目に留める事は出来なくなっていた。
 ただ風が吹くだけの様に揺らぎ、掻き消えてしまいそうな石毛の面影に向かい、緒美が半ば慟哭の様な叫びを挙げる。
「石毛さん…‥・っ・・あなたの、本当の名前は…」
 最後の一揺らぎは、はっきりと石毛の微笑を形取り――そして光の砂が舞い上がる様に、ふわりと霧散して、消えた。

 石毛ミツ子。
 その言葉だけを、各々の心の中に響かせて。

▲エピローグ

「大方、そんな事だろうと思ったよ」
 小島原学園からの帰り。
 何処と無く釈然としない心境のままで、一同は――勿論、緒美も含め――草間興信所へと赴いた。
 零がそれぞれに淹れてくれた冷たい煎茶ですらが、今の六人には非道くもの悲しいものに見えて。
「その相澤ミツ子と言うのは、石毛ミツ子の旧姓か何かだろう。…ああ、父方の苗字と言うのも有りだろうな」
 なかなか口を付ける事の出来なかったそのグラスから、ぞぞぞ、と音を立てて草間が煎茶を嚥下する。
「職員室に寄って、石毛さんの事を聞いてみたんです。そしたら、・‥…夏休みに入ったと同時に、亡くなった、って。もともと心臓が良く無かったと言う事でした」
 立て続けに起きた怪事に、流石に肝が据わったのか。緒美がぽつぽつと告げる。そしてから、両手に抱えていたグラスの中身をこくんと呑み込んだ。
 味を、感じなかった。
「それまで、真っすぐに、人に優しく生きてきた人が、最後の最後に…ちょっとだけ、思い出を投影していた、みたいな感じ…なのかな…大好きだった音楽室で…」
 みなもが珍しく、歯切れ悪そうに呟く。グラスについた水滴を眺めながら、麦茶…等と呟き。
「何だか、…ちょっと。複雑な気分」
「でも、綺麗だったわよね…?石毛さんは、やっぱり真っすぐで優しい人、だったんだわ」
 生徒や卒業生の教師にはとても優しく、誰からも好かれる人柄だったのだと緒美が言った。咥えた煙草に火を付けようとしている草間の仕草を視界の端に身留めると、エマが立ち上がり窓を開けに向かう。
「それで、果たして仕事は遂行出来たのか。原因は突き止めた様な気がするが、元を断ち切る事は出来たのか正直自身が持てない」
「彼女の様子を見ただろう。もう音楽室にあの残像は現れないさ。現れる意味が無い」
「・‥…でも、遅かれ早かれ…ミツ子さんは」
 ソファの上で小さくなっていたつきだったが、そこで言葉を切ると俯いて仕舞う。が、何やら大きく頷いたかと思うと、グラスに手を伸ばし。水滴を零さぬ様に留意しながら、その半分程を飲み干した。
「――緒美さん達を困らせる様な事、これ以上はしなかったと…思います」
「・‥…そうね」
 その横から、エマがす、と利き手を伸ばし。つきの頭を撫でた。
「音楽室で歌う、ただ"現れる"。・‥…そんなものは霊障ですら無い。むやみやたらにお祓いだの除霊だのと口にするもんじゃないんだ」
 開けられた窓辺で、紫煙を吐き。草間がぼつりと言葉を紡いだ。
「実際にその残像を"見"た柚品君なら判るだろう――そこに残っていたのは残留思念、さらにその残りかすでしか無かった。『ヒト』じゃなくても、『モノ』ですら無くても。そこに何かがある以上、それに存在する権利がある。…それは、」
 お前達が一番良く知っている筈だ、と。
 苦々しさの含まれる横顔を以て、草間が言った。

「――すみません、でした」
 その傍らで、トレイを握り締めた零が草間にぺこり、頭を下げる。
「―――」
 そんな幼い少女の面持ちを覘く事は無く…草間が、大きな掌でその頭を撫でた。
「天気予報じゃ、今夜は蒸すらしいぞ――58年前と同じに、な」


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト
1252/海原・みなも  /女/13/中学生
1320/久坂・つき   /女/14/中学生(陰陽師)
1532/香坂・蓮    /男/24/ヴァイオリニスト(兼、便利屋)
1582/柚品・弧月   /男/22/大学生


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■         ライター通信          ■
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初めまして。森田桃子と申します。
今回始めて「調査」を書かせて頂きました。ご参加、本当に有り難うございます。
大変に辿々しく拙い文章となって仕舞い、申し訳有りません。
ご意見やご感想など、少しでも思い当たる事がお有りでしたらどうぞお聞かせ下さい。
正座しながらお伺い致したく存じます…

みなもPL様。
ご参加有り難うございました。少しギャルギャルしすぎてしまったでしょうか…(滝汗)
霊水を活かしきれず、大変申し訳ありませんでした(平伏)。

不慣れな不束者ですが、皆様、どうぞこれからも宜しくお願い致します。
この度は本当に有り難うございました。

担当:森田桃子