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<PCシナリオノベル(シングル)>


その名はレギオン

「……あの子が目を覚ました」
阿雲紅緒は誰に告げるでなく、そう呟いた。
「あの子?」
卓上の食器をまとめていた手が止まり、紅緒の声に応えが返る。
 出窓の窓辺、向けられる視線を横顔で受けながら、庭の木々のざわめきに耳を傾けるように、磨かれた木の枠にゆったりと金の頭を預けた。
「うん、あの可愛い子……ちょっと、会いに行って来ようかな」
いいかな?と、薄明かりにも鮮やかな瞳に無言で問われ、今、彼に夕食を饗し、更にデザートまで出しかけていた手を止めて、この家の主は小さく笑って頷いた。
「紅緒さんのいいようで、構わないよ」
「うん、でも帰ってきたら食べるから。残しておいてね?」
そう、甘える子供の口調でねだり、紅緒は出窓から下りると、ソファの背に無造作にかけた背広の上着を手にした。
 色は黒、絹独特の光沢は複雑な織りに、光の角度でまるで模様を変えるかのような錯覚を与える。
 鳥の羽音に似た軽い音を立て、袖を通す。
「いいよ、待ってるから」
穏やかに答えた主は、冷たく冷えた果実を盆へ戻す為に少し伏せた瞳で告げた言葉を追う…眼差しが窓辺に届いた時にはもう、紅緒は既にその場から姿を掻き消していた。


 光に導かれる羽虫の如く、人は街の中心部へと流れていく。
 その流れと逆行する形で…些か、覚束ない足取りで人の形をした影が一つ、闇へと向かって歩を進めていた。
 纏った黒革のコートに色彩も乏しく、唯一の彩りながら不吉に赤い月に似た瞳を、夜風に晒す青年の眼前に、紅緒は唐突に出現した。
「ピュン・フー君、こんばんは」
行く手を遮る形で唐突な紅緒の姿にも動じず、それどころか更に二三、歩を進めて、青年は漸く止まる。
「……紅緒、じゃん」
腕を広げれば抱けそうな近さで、ぼんやりと眠たげな赤が瞬くのに、紅緒は微少う。
「そう、ボク」
姿を認め、名を呼んだ…けれど、意識には遠く届いていない風で、ピュン・フーがまた一歩、足を進めるのを妨げぬよう、紅緒はすいと身を引いた。
 その歩みにチャリ、と鎖の鳴る音が混じる…ピュン・フーの両の手首を戒める形で繋ぐ銀鎖は同じ無骨な銀の輪へ連なり、自由を奪う。
 その身を縛る、その意味で即物的に、そして象徴的に。
 何かに引かれるように、または逃れるように、人の波から、光の領域から足を遠ざけるピュン・フーに連れ立つ形で、紅緒は歩き始めた。
「それにしてもしばらくぶりだねぇ、元気だった?」
ピュン・フーは答えない…いつもの明るく大きな所作がないだけで、不吉な印象ばかりが強まって人を拒む。
 身に纏う黒が、警告めいて。
 だがそれを慮る様子はなく、紅緒は穏やかな笑みを崩さぬまま、応えの返らない言葉を投げかけ続ける。
「今日は何も聞かないんだね?答えは、見つかったのかな?」
「それ、はもう貴方の声に答える意識は持たないと思いますよ」
それを静か、な声が遮った。
 夜天を背景に黒く、暗く、街灯の光も吸い込む木立、人の手に因れど命はその限りでない木々の領域…都営の公園の入り口を前に立つ、西洋人の神父が持つ白い杖が眼を引く。
「良い夜ですね」
そう、『虚無の境界』の構成員である神父が向けた微笑みに、紅緒は足を止めた。
 その彼に構わず、歩幅を変える事なく進むピュン・フーに、神父…過去にヒュー・エリクソンと名乗った彼は軽く眉を顰めた。
「同行していた二人は……殺したんですか、仕様のない」
ピュン・フーは答えずにそのままヒューの横を抜け、公園の奥へと進んでいく。
「紅緒さん、でしたか?安定しないもので人をつけていたのですが、無駄にしてしまったばかりでしたね……お手数をおかけしました」
人の命をただ無駄、の一言で切り捨てながら、ヒューは丁寧に紅緒に頭を下げた。
「別に、彼を送り届ける為に来たんじゃないよ」
紅緒のやわい否定にヒューは解っている、という風で小さく頷き、続ける。
「もうお引き取り下さって、構いませんよ……それとも、貴方も御覧になりますか?」
緩く笑みに口の端を上げたヒューは、その鈍く視線を持たぬ見えぬ目を開き、紅緒のそれと対照的な青を外気に晒した。
「その名を、レギオンと呼ばれる事になる仕上げを」


 ヒューに伴われて入り込んだ夜の公園、広い芝生の上に立つ影が誰であるかは濃すぎる影だけで判別がつく。
 コツ、コツとメトロノームのように変わらない音が木々の創り出す闇に吸い込まれる…ヒューの杖先で足下を探りながらの歩みはゆっくりとしたもので、遠目に見える其処に行き着くまでに少し時間がかかりそうだった…紅緒は歩幅は変えずにゆったりとした動きで速度を合わせる。
「貴方がここにお出でになったのも、主の御心によるものでしょう」
何も映さぬ目をそれでも伏せがちに地に向け、ヒューは言う。
「ボクは可愛い子に会いたかっただけなんだけどね」
答えて紅緒は笑む。
「霊鬼兵、というものは人と機械……場合によっては動物、とを繋ぎ合わせて作られるそうですが、制御の為に核には人間の部品が必要だと聞きます」
世間話の響きでヒューは紅緒に唐突な話題を振った。
「レギオンとは、六千人からなる軍の単位です。魂は別として吸血鬼は……こと、銀と陽光にまで耐性を持つジーン・キャリアは素体として素晴らしいですね。アレの心臓を核とする怨霊機で一時的に実体化させるのではなく、怨霊に血肉を…免疫抑制剤を断ち限りなく吸血鬼の不死に近づけたアレを苗床に、実体を与えて放てば、導き手を見失って久しい我々の贖いがどれだけ具現する事でしょう」
ヒューの言う贖い…現世での恐怖と苦痛、それによってこそ生を重ねるに知らず汚れた魂が救われる、その盲信的な思想。
「かつて神の子は、六千の悪霊に憑かれて苦しむ男に救いを与えられました…貴方にもそれが可能でしょうか?紅緒さん」
何かを求めてるのか、または求めぬのか、理解ではなく行動を求めての問いに、紅緒は小さく肩を竦めた。
「うーん、聞き分けがないせいか、どうもボクは因果な身みたいだね……キミに言われるまでも無く、どうすればいいのかをボクは知ってるんだ」
紅緒はふわりと笑う…それを、ヒューが認識できた筈はないが、眩しげに目を細めて神父は足を止める。
「止めないんだね」
自然、先んじる形になり、紅緒は肩越しにヒューを振り返った。
 今からの紅緒の行いは、ヒューの行動を阻む事になる。が、それを承知した様子で動きを止めた彼に、半ば意思の確認の意味で向けた言にヒューは頷くように、項垂れた。
「それが天なる父の御心に添うのであれば」
胸の前で十字を切る祈りの所作に、顔を上げる…慈愛とも哀れみともとれる曖昧な表情の微笑みは、紅緒を先へと促した。


 ピュン・フーはただ、立ち尽くす。
 瞬きすらない紅の瞳は、呆然としたようにも…足を竦めた子供のようにも、見えた。
「ピュン・フー君、こんばんは」
紅緒はもう一度、そう声をかけた。
 先に僅かにあった反応…こちらを認めて名を呼ぶ、それすらも叶わぬのか、緩く大きな呼吸に肩を揺らすピュン・フーに、遠慮のない位置まで歩み寄り、その顎につ、と指をかけ、僅かに顔を上げさせた。
「サングラスはどうしたの?なくしちゃった?もっともボクはキミの瞳が見えるのが、嬉しいけどね」
言いながら、その瞳を覗き込んだ。
 紅緒の持つ紅玉の艶やかさ、ピュン・フーの持つ不吉に赤い月の色…同色でありながら印象の違う眼差しが交わる距離が、縮まる。
「……それ以上、顔寄せたら、シメる」
不機嫌に顰められた眉に、ぼやけて焦点を失った赤い月が急速に輪郭を取り戻した。
「おはようのキスは、眠り姫に王子が与える特権でしょう?」
止められた距離…後少しで唇が触れそうな位置のまま、紅緒が吐息で小さく笑う。
「……そうか、アレは取り返しのつかない事になる前に自分で起きろってぇ、教訓が込められてたんだな……」
眠りを払うように緩く首を振る動作で、まだ顎に添えられていた紅緒の指を払うと、ピュン・フーは両手の間を繋ぐ鎖を鳴らして、左手で自らの右の手首を強く、掴んだ。
 息をつく。
「何で、逃げねぇの?」
右手で、僅かに胸の中心から左にずれた位置の、シャツを掴む。そうして、自ら両手の動きを封じるように。
「殺すぜ?」
ギリ、と心臓の位置に指を立てる…見るだけで痛む程込められた力は、何かを押さえつけようとしてか。
「無理だよ、キミには」
紅緒は軽い口調で肩を竦めた。
 どんな痛みも苦しみも、果てのない絶望も哀しみも。終わらせる事の出来なかった命は、忘却すらも許さずにただ取り残されて、其処に在る。
「だってキミは死を、知っているからね」
 まるでその言葉が引き金であったように、ピュン・フーが唐突に膝を折った。
 片膝を地につきもう片方は強く、心臓の位置を掴んだ手を上から更に押さえつけ…食いしばった歯の間から、明確な痛みが吐き出される。
「……ァ、…………ッ……!」
みしり、と丸めた背が軋む音を立てた。
 ベキバキと骨格が黒革のコートの背を迫り上げて突き破り、成長に追いつかずに裂けた肌から流れる血に塗れて艶を増した漆黒がふわりと痛みを無視して。
 まるで何かが羽化、するように、常の倍以上はある、一対の皮翼が拡がった。
 だが、飛ぶ目的のそれではない…骨の間に滑らかな天鵞絨を思わせる質感の皮膜が禍めいて形を変え続ける模様に波打つ…それは、現世に届かぬ怨嗟を叫び続ける、死霊。
『何故死ンダ何故生キテイルソノ生ガ恨メシイソノ命ガ欲しイ欲シいホしイホシイィ…!』
怨念が渦を巻く。
 常人であれば、間違いなく異常を来たすほどに濃い悪意と瘴気を前に平然と、紅緒はその皮翼を見上げた。
「……キミにボクが殺せないように、ボクにもキミを殺す力が、なければよかったのになあ、と思うよ」
痛みに呼吸もままならないのか、ピュン・フーに半ば独白めいた紅緒の声はもう届いていない。
 キャハハハと甲高い笑い声が響く。
 肉声として耳を打つ狂気は、皮翼が主の意思に関係のない、それどころか筋肉や骨を全く無視して好き勝手に狂惑めいた動きの内から響いた。
『コロス? 殺シた、殺しタのはソイツ、アンタ? アタシをコロシタノハダレえェ!』
布を裂く、ように腕が皮膜を破り、その奥から身を乗り出すように女の上半身が現れた…染め上げた赤は、傷つけた皮翼から流れたものか、半ば陥没した頭部からのものか判然としない。
 皮膜は端から塞がるがそれでも流れた血までが戻るでなく、同じように皮翼の其処此処で、死霊が喰らうように肉を得てはつける傷に、流れた血は骨を伝って血だまりを作る。
 きつく、閉じられていたピュン・フーの目が開かれた…其処には瞳も何もなく、血を流し込んだようにただ、均一に湛えられて意思を計らせない紅色が顕わになった。
 その瞬間に、ピュン・フーの表情から苦痛が消えた。
 手を押さえていた膝を緩め、心臓を押さえていた手が離れる…五指は金属の質感で伸び、シャツと肌とを裂いていたが、それすら頓着ないようで、ピュン・フーはく、と膝に力を込めた。
 立ち上がる。
 死霊を宿し、並ならぬ皮翼の重さを全く苦にした様子もなく、ただ均衡を取るのだけは難しいのか踏み出す足に重心を揺らし、紅緒に、瞳のない視線を向けた。
 一連の変化を見守っていた紅緒は、その感情のない眼差しに目を細めた。
「謝らないよ」
宣告のような言に、ひどくゆっくりと歩を進めるピュン・フーを待つ。
 思う位置に漸く達したのか、ピュン・フーは紅緒に片手を差し延べた…鋭利な刃となる五本の爪、切っ先を向ける形で、上の向けた掌は何かを乞うように、差し出すように。
「……だけど、ごめんね」
紅緒はあっさり前言を覆して、ピュン・フーの手を強く引いて、容易に均衡を崩した身体を胸に抱き留めた。
 だが、ピュン・フーの表情に変化はなく、唐突な行動にその身体を受け止めた紅緒の背に手を回すだけで、その意はなくとも五指の爪先は容易に背広を突き通り、肌を破ってまた質の違う血の香りを上らせた。
 それに、僅かだが、ピュン・フーは眉を動かせた。
「………約、束………」
呟きにすらならず、喉の奥から洩れる浅く速い息、それが僅かに形を得たような声は、至近で漸く聞き取る事が出来る程度。
 だがそれを判じる間はなく、ピュン・フーは紅緒の肩口に犬歯を突き立てた。
 それを逃れようともせず受け入れ、緩く髪を撫で、紅緒は微かに笑む。
 怒りも哀しみもない、ただ静謐な感情から湧き出た微笑みは聖性すら帯び。
 髪を撫でる左手を滑るように項を伝って皮翼の付け根まで撫で下ろし、支えるように掌を広げ、何気ない動作で。
 右手首までが、ピュン・フーの左胸に差し入れられていた。
 僅かな衝撃を背で支えた掌で受け止め、熱を帯びたピュン・フーの身の内…過たずに握り締めた心臓、組み込まれた…怨霊機、の感触を掴む。
 そのまま迷いなく肘を引き、組織を引きちぎる、鈍い音を立ててピュン・フーの身を蝕む原因を心臓ごと引きずり出した。
 手の内に赤黒く脈動する器官は、分かち難く組み込まれた機械に自体が独立した生き物であるかのように見せる。
「………ごめん、ね」
再度の謝罪は囁きに慈しむように、そしてそれ以上の冷酷さで。
 紅緒は、熟れた果実のように柔らかく濃密な紅を滴らせたそれを、握りつぶした。