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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


■女は二度嗤い、そして■

【オープニング】

 その女(ひと)は、どこか非道く不安定に見えた。
 ソファの上で、両膝をぴっちりと閉じ…握り込めたハンカチは、滲む汗を押さえる為と言うよりも、その長く薄い爪で自身の掌を傷つけない様にとの配慮でそうしている、とも見える。
「来るんですよォ…あの女、昼でも夜でも構やしないンです…‥・」
 亭主が居ない時を見計らって…
 どんなに扉や窓に鍵を掛けたッて、チェーンを掛けたッて…

 どォんなトコからでも、入り込んで来るンですよォ…

「ノイローゼか何かっぽい気も、しないでも無いんだが…‥・」
 依頼主である女性――設楽祐子【シダラユウコ】を何とか宥め賺して帰宅させた後、咥えた煙草の尖端に火を灯しながら草間は呟いた。
「鬼気迫った感じ、してましたよね…でも、この依頼を引き受けたって事は、草間さんはやっぱり…?」
「そうじゃない確立の方が高いだろう、と思う」
 紫煙を鼻から緩やかに吐き出しながら、草間は続ける。
「憑き物落としだろうと、退魔だろうと除霊だろうとお祓いだろうと。それが出来る面子がいる限り、一度探って見た方が良いんだろうな」

 依頼主――設楽祐子。
 満二十七歳、女性。
 不動産会社を営む七つ上の亭主と二人暮らし、子供は無し。

 依頼内容。
 自宅に現れる不吉な血みどろの女の正体を探り、二度と現れない様にする事。

「・‥…明日にでも、血に強そうな奴等に声を掛けて見ようか」

【そして集った者達】

「――ところでオッサン…血ってね、血って!」
 駆け付け一番、零が差し出した麦茶のグラスを一気に煽るなり村上涼が草間に食いついた。
 ぐさり、と音がしそうにうな垂れる草間を尻目に、どかりとソファに腰を下ろしながら涼が掌で自身の首筋に風を送る。
「っあー、暑っつー。…ああ、何、何だっけ。そうそう血よ血。そりゃ毎月付き合ってるモンだし、平気っちゃ平気だけどさー。でもそれって何、マジモノの幽霊な訳?」
「それを調べて来るのがお前らの仕事だろう」
 火を灯していない煙草を咥えながら草間が返し、テーブルの上にばさりと書類の束を置き放つ。
 それは別料金ですからね、と呟く雪ノ下正風の言葉に肩を竦めながら。
「いえね、話を伺った所――依頼人である設楽夫人の名前に聞き覚えがありまして。仕事用の資料を漁ったらいろいろ出て来たんですよ、設楽不動産ってのは自分達の業界ではちょっとした有名不動産でね」
 雪ノ下が語る所に寄ると、依頼人の亭主が経営している設楽不動産と言うのは有数の「心霊物件」を抱えている不動産と言う事で「オカルト小説家」の中ではかなりの有名所らしい。
 曰く、入居予定者が立て続けに事故やら病気やらに遭遇しなかなか入居出来ない「拒みの部屋」。
 曰く、夜になるとラップ現象甚だしい「阿鼻叫喚の部屋」。
 果ては台所の貯蔵庫に男の腐乱死体を隠し入れたまま半年そこに暮らしたOLの話など――雪ノ下は身振り手振りを交えながら、設楽の所持する不動産絡みのオカルトを嬉々としながら一同に説明する。
「――まあ、俺は取りあえず。コレを"振るう"事くらいしか出来ませんので」
 依頼人が妙齢の夫人であると聴き、一も二もなく依頼に応じた渡辺綱であったが、どうやら陰気臭い方向に流れ始めた会話に複雑な面持ちで呟く。
 平を上にし、ゆっくりと差し上げた右手の上で乳白色のほの明るい光が浮かび――それは次第に刀の輪郭を持ち始めた。
 握り締めた掌の中、確りとした柄が僅かに熱を帯び、綱の意志に応える。
「いろいろと便利ですので。ご用立て下さい」
 おおー、と物珍しげに髭切を見つめる涼の傍らで、不知火響がはふ、と憂う様な溜息を吐いた。
「それにしても――その女性に、設楽さんは何の心当たりも無いのかしらね…‥・?」
「そんなもの、此方としては無い方が楽で便利に決まってるじゃないですか。今さら妙な情けを掛けられて依頼取り下げ…‥・なんて事になったら困ります」
 ぴしり、と。神経質そうに眼鏡を押し上げながら、冴木継人がソファに深く背中を預けながら些か尊大に告げる。何か言いたげにちらと冴木を見上げる不知火の視線をあっさりと受け流して。
「それ有るよねー、せっかく臨時収入のチャンスなのにキャンセルされたら悲しすぎる」
「何しろ相手が天下の設楽不動産ですからね、出すモノは出すと思いますよ?金で解決!がモットーらしいですから」
 涼が冴木の言葉にうんうんと頷き、雪ノ下が続ける。その横で、こくんと麦茶を嚥下してから綱が思い出した様に草間へ問う。
「そう言えば草間さん、そのご夫人はどんな女性でした?」
「うわ、何かヤラシイし」
 いや、決してそんな!と、握り拳を作りながら精一杯に否定する綱の後から、すっかり話題から取り残された感のある草間が応えた。
「そうだな――髪の毛がこう、短くてな?ストレスからだと思うんだがかなりの痩せ形で…」
「あ、惜しい」
「何が」
 脇腹への、絶妙な涼のツッコミに綱がう、と息を呑んだ。
「まあ、何もするにも現地に赴かねば話は進みませんね――雪ノ下さん、お願い出来ますか?」
 麦茶を呑み干してから冴木が問う。それを合図とばかりに不知火が静かに立ち上がり、頷いて。
「そうですよね…‥・私も、祐子さんにお会いしたいです」
「お安いご用ですよ、行きましょう」
 手慣れた風にてきぱきと次第を取り決めていく三人の後で、綱と涼がじゃれ合っている。興信所から出て行く三人の後ろ姿を最初に発見したのは涼の方で。
「って、ああッ!待ってよ、あたしも行くってばさー!」
 傍らのバッグを引っつかんで走り出す涼を追い掛ける様にしてばたばたと慌ただしく立ち去っていく、綱の後姿をぼんやりと眺めつつ。
「――若いって良いわやっぱ…」
 ぼそりと草間が呟いたとか呟かなかったとか…‥・。

【祐子】

 却って、赴いたのが女性ばかりだったとしたら。
 自分は鍵を開ける事が出来なかっただろうと――依頼人、設楽祐子は言った。
「女の人の声がねェ、もう…‥・恐くッて恐くッて…」
 珈琲くらいしかお出しできませんけど、と。
 テーブルを囲む五人の間に、祐子が湯気の立つカップを載せたトレイを置く。
 伏し目の回りは落ち窪み、暖色の光に当てられてもなお透ける様に白いその肌はともすれば病的な程でもある。が、うなじが隠れる程の長さに切り揃えられた黒髪は過ぎる程の艶やかさと光沢を放っており、それが却ってアンバランスだと綱は思う。
 本当に、惜しい。
「それに、雪ノ下さんもお見えになったし――」
 何度か面識が有ると言った雪ノ下に祐子は言い、ゆっくりと――申し訳ないと言う様に薄い苦笑を浮かべる。
 その、憔悴しきって仕舞った面持ち。
 言葉の糸口を探す四人だったが、おずおずと祐子に問うたのは不知火だった。
「あの――私や涼さんは女性、だけど…‥・でも、女性だからこそお役に立てる事もあると思うの…‥・だから・・」
「あァ、雪ノ下さんといらした方々なら、大丈夫ですよゥ…気を悪くさせちゃったら、此方こそごめんなさいねェ…」
 そして祐子が、ダイニングテーブルの開いた席に腰を下ろした。
 膝の上で、緩やかに両手指を握り込めて。

「その女性の姿形などで、思い当たる事は無いのですか?何処其処で出会った誰に似ているとか、まあ…砕けて言えば、誰の幽霊だとか」
「――冴木さん」
 単刀直入に過ぎる冴木の言葉を、綱が居心地悪そうに窘める。が、本人は何処吹く風と言った様子で返した。
「オブラートに包んだままの物言いでは何も解決しませんよ。我々は何の為にここに出向いたのか」
「そりゃまあ――そうなんですけど」
 ごにょごにょと綱は言い淀み、祐子が出した珈琲のカップに手を伸ばす。
「でも――ねぇ、祐子さん。辛いと思うけれど…‥・でも、冴木さん…彼の言う通りよ。話してくれないかしら…?」
 俯いたままの祐子のうなじが痛々しく、雪ノ下が両腕を組んで唸りを上げる。テーブルに頬杖をついてじっと話を聴いていた涼が、それにつられた様にんー、と曖昧な声をあげてから、
「奥さーん、人に話して楽になる事もあると思うよー?ユーレイだって、意味も無く出てくるんじゃ無いと思うしさー?」
 その言葉にゆっくりと、それでも大きく頷いて、不知火が祐子の言葉を促す様に首を傾いだ。
「大丈夫。彼らは、この道のプロだから――きっと力になってくれると思うわ…?」
 決して、「私達は」と言う言葉を用いない。それは、依頼人と自分達との間に明確な境目を作らない様にすると言う不知火の遣り方だった。尚も押し黙る祐子の背中に、労る様にそっと掌を添えた。
「思い当たる事なんて…‥・オバケに心当たりが有るなんて、人を殺した人間くらいでしょう?あたしだって主人だって、全うに生きて来たンですよォ?なのに…‥・」
 "主人だって"と言う所で、祐子には見えぬ様に雪ノ下が肩を竦める。それを目で制しながら、ウンウン、と相槌を打つ様に涼が頷いた。
「じゃあさ、私達できちーんと、調べて見るから。出てくるユーレイの、見た目とか、何かそういうの教えてくんない?」
「…………」
 無言のまま、祐子が部屋の隅を指差す。一同が促されるままに其方へ向き帰ると、古い化粧台がそこには有った。
 が。
 その足下には、おそらく最近になって動かしたものであろう畳の跡と。
「・‥…あれは、血痕…?」
 冴木が呟くと、祐子は小さく頷いた。
「それが一番新しいヤツです…古いのは、先週畳を替えた時に処分しました…」
 主に、夕方現れる事が多いと言う。
 決まって、水の滴る様な粘った音の後(おそらくそれが血の滴りなのであろう)。
 左の側頭部がごっそりと抉れ、血色の悪い頬を紅に染めた長髪の女。首元やふくらはぎ、露出した肌は爛れて変色し、衣服や長い髪は雨に打たれたかの様にぐっしょりと濡れている。
 上手に動かせない顔の筋肉を引攣らせる様に歪めて、ゆっくりと微笑みながら消えて行くのだそうだ。
「次の日に、あれは夢だったンだ…そう思って見ると、有るンです…あんな風に、残ってる…血の跡、が」
「・‥…」
「亭主に一度だけ相談した事が有るンですけどね…‥・?迷い事ばッか言ってると追いだすぞ、・‥…なァんて…」
 非道い、と。涼が呟く。
 その秀眉を寄せながら、不知火はずっと祐子の背中を撫でていた。
 小刻みに震えている細い背中はいたましく、冴木は目を背けて血痕を見遣った。
「・‥…ソレは、消えるまで一言も発しないままなのですか?あなたに向かって、語りかける事は?」
 黙り込んでいた雪ノ下が言葉を紡ぎ、祐子はその言葉にびくりと身体を強ばらせる。そして、彼女が堅く握り込めた両手を――ゆっくりと解く様に、涼が指先で触れた。
 うっすらと、紅が滲んでいた。
「・‥…"ただいま"」
「え?」
「"ただいま"ッて…言うンです。あの女…」
「…………………」
 一同が、息を呑んだ。

【設楽夫人】

「相当参ってるみたいね…‥・」
 設楽夫婦の住むマンションから退室し、その入り口で不知火が溜息交じりにそう告げた。
「あれで少しは、落ち着いてくれると良いんだけど…」
 事と次第を一同に話した祐子は、今度は帰らないで欲しい、一人にしないで欲しいと縋って泣いた。
 その祐子の背中を何度も擦りながら、絶対に"ソレ"の正体を暴くから、と。
 やっとの思いで不知火が彼女を宥めすかした頃、太陽はすっかり低い所に移動して仕舞っていた。
「無理も無いですね、ろくでもない亭主ですから」
 雪ノ下が心底苦々しそうにその言葉に応え、ぺらぺらと手帳を捲りながら何やらかを調べ始める。
「・‥…ええと、ここから設楽不動産までは少し距離があるんですよ。もう時間も時間だし、あの亭主だし…あちら迄出向いても、多分何の収穫も無いんじゃないかと思うんです。ご近所で聞き込みでもしましょうか、丁度"奥さん連中"が外に出てる時間でしょうから」
 そんな雪ノ下の提案に、あー、と涼が手を叩いた。
「何か、そのムカツク亭主と祐子さんの関係とか、ほら、噂話とか聴けるかもしんないよね?私、絶対亭主が何か隠してると思う」
 マンションの五階、おそらく見上げるのは設楽夫婦の住まう部屋だろう。目を細めながら綱が頷く。
「ただ盲滅法にご近所さんを当たるよりも、設楽不動産の所有するマンションやアパート…そして、そこに古くから住んでる人。そんな人がいないか当たってみませんか」
「ふむ…ちょっと待って下さいよ?」
 雪ノ下が手帳のページを捲る指が俄に早くなった。その様子を一同はじっと見守るが。
「ねね、あれって何が書いてあるのかしらね」
「全くです」
 そして、ページを引きちぎらんばかりの速度で捲られるそれが、やがてピタリと止まる。す、と雪ノ下が指差した方角へと四人はその眼差しを見上げさせた。
「アパートがありますね、歩いて三分と言った所でしょう。そこは設楽夫婦が大家を務める物件でも有って――年配のご婦人が一人暮らしをなさっています」

 果たして辿着いたそのアパートには、息が詰まる様な重苦しい空気が漂っていた。
 風向きが悪い訳でも、湿度が高すぎると言った具合でも無い。が、多少なりとも「怨」や「呪」に関わる仕事をした者からすれば、漂っている濃密な歪みはひしとその肌に伝わる。
「・‥…設楽夫婦のマンションからは、感じなかったけど」
「長くすむ家じゃ無い事は確かですね――」
 それぞれ縦に並んで階段を昇りながら、ぼそぼそと小さな声で囁きあう。しきりに厭そうな顔をしている冴木の前で、意気揚々と道案内をする雪ノ下が対照的だった。
「すごいモノでしょう?いや、俺なんかはちょっと"あ、変な感じ"くらいで済んでますけど。羨ましいなあ、どうです?気分が悪くなったりします?」
「・‥…いや。そこまででは無い…のですが」
「何というか…‥・ただ"ムナクソワルイ"としか」
 低俗な地縛霊の類が知らずこの建物に集められている、と言った所だろうか。四階建てのアパートに未だエレベーターの設置が為されないのは、設置する側から幾度と無くフロアボックスが落下すると言う怪事件が起きたかららしい。工事中の落下で業者が二人死んだ頃から、設置依頼を引き受ける業者がいなくなってしまった。
「うまく部屋にいてくれると良いんですけどね――このご夫人だけは、もうこのアパートに十二年も住んでいるらしいです」
 げえ、と涼が漏らす。そこはかとなく漂う不吉な空気を彼女も感じてはいるのだろう。堅い踵を階段に鳴らしながら、やっと三階だよ…と溜息交じりの声音で続けた。
「毎日この階段を昇り降りしていらっしゃるのね…‥・尊敬しちゃうわ…」
 そして最後の半階を雪ノ下がタンタンタン、と駆け登り、ちょっと様子見て来ます、と足早に駆け去る。
 後に残された四人は、それぞれのペースで目当ての部屋の前へと辿着いた。

「あらあら、皆さん御揃いで――冷たい物が良いかしらね、扇風機しか無い部屋でごめんなさいね?」
 年の頃は、七十過ぎと言った所か。目尻や頬に刻まれた無数の皴が、彼女の歩んできた長い人生を物語っていた。
 小柄で華奢なその老婦人は、雪ノ下の申し出を快諾してくれた揚げ句、彼らを部屋に通し冷たく冷えた緑茶を持て成してくれた。
「もうすぐ夕飯の支度が出来るから、是非召し上がっていって頂戴ね?若い人の好みが判らなくて――ああ、飲み物もお酒やビールの方が良かったかしら?それなら酒屋さんに頼んで――」
「いえ、お構いなく。仕事中、ですから」
 余りの熱烈な歓迎に、流石の冴木もやんわりとそれらの申し出を辞退する。あら、と残念そうに口籠る老婦人――小島ナツ江【コジマナツエ】に、不知火が微苦笑を湛えながら問い掛ける。
「あの、私達――彼から聞いたと思うんですが、こちらの大家さんに当たる設楽さんの事で、伺いたい事が…‥・」
 未だ残念そうな面持ちに変わりは無かったが、それでも"仕事中"と言う言葉が利いたのか。ナツ江は大きく頷いた。
 台所では、煮物でも拵えていた最中だったのだろう。しきりに良い匂いが漂っている。
「ええ、良く存じ上げておりますよ?私がここに入ったのは十二、三年前の事でしたから…‥・謙ちゃんはまだ学生さんだった頃ですかねえ?」
 謙ちゃん、とは設楽夫人の亭主「謙一」の事で、何かと(特に雪ノ下から)評判の悪い不動産会社経営の男である。
「その設楽さんの事なんですが…‥・最近になって、何か変わったと思われた事や、変だと思われた事なんかは有りませんでしたか?」
 そう問い掛ける綱の風体に、ナツ江はきょとんとした眼差しを向けた。当然だ、ともすれば綱は自身の孫や何かよりも年が下の少年だったのかもしれない。
「そうねえ、謙ちゃんは最近見かけないけれど、お仕事が忙しいのかしらねえ。たまぁに不動産やさんの前を通り掛かると、一生懸命な謙ちゃんを見かけるわ。お父さんそっくりな子よねぇ」
 にこにこと笑いながら頬に手を宛て、おっとりとした独特の語り口調で応える。
 人を疑う事を知らない目――涼は何となく、ナツ江を見てそう思う。
「一生懸命、か…‥・まあ、そう取れなくも無いですよね。で、小島さん。謙一さんの奥方の方は如何です?」
 相変わらず歯に物が挟まった様な言い様だが、肯定する所はあっさりと肯定しつつ雪ノ下が促した。ちら、と冴木が雪ノ下を見遣り、それから小島へと視線を移行させる。
「ああ、ユウコちゃん?すごく良い子だと思うわ、謙ちゃんにお似合いの気立ての良い子。・‥…少し待って頂戴ね、お鍋の具合を見て来るわ」
 返ってくる応えは、通り一遍のそれ。
 もとより、然程親しい間柄でも無い他人の連れ合いを悪く言う者も少ないだろうが――台所に立つ小島の小さな背中を見上げながら、一同はやれやれ、と顔を見合わせた。
「ねえねえ、じゃあさ、おばあちゃんが祐子さんを"良い子"って思うのはどの辺なのさ」
 収穫無し、誰もがその言葉を脳裏に浮かべただろうが。
 グラスに付いた水滴をつつ、と指先でなぞりながら涼が問う。大皿に一杯の煮物を抱えながら戻った小島は、若い人のお口に合うと良いけれど…等と言いながら、五人の前それぞれに割り端を置いた。
「そうねぇ…謙ちゃんの事をすごく大切に思ってる。そんな雰囲気があるのね、ユウコちゃんには。近所に大きなスーパー、ほら、ユウコちゃんちのマンションのすぐ裏手に出来たのに、あそこには買物に行かないのよ。いつも歩いて、うちの近所の八百屋さんまで買物に来るのね。あの八百屋さんは値段と鮮度がウリだけど、若い人には珍しいでしょう?」
 誰も手を付けない事を気まずく思ったのか、いただきます、と。
 綱が割り箸を手指に捉える。どうぞ、と相変わらずおっとりとした口調で綱の言葉に応え、小島は大皿をす、と両手で綱の前に少しだけ動かした。
「あの奥さんがねー…」
「人は見掛けに寄らないと言うけれど、あの様子であまり遠出をするのは良く無いと思うわ…梅雨が明けて気温も高くなり始めてるし…」
 女性陣が口々に、しかし遠慮がちに呟く。が、さも意外だと言う風に言葉を継いだのは小島だった。
「意外そう?そうかしらね…‥・いつもしゃんしゃん元気そうに歩いてるわよ、買物袋下げて。さっきも煙草やさんの角で会ったけど、」
「え?」
 しばらく黙り込んでいた雪ノ下が、頓狂な声を挙げる。涼が目を瞠り、冴木が小島の顔を凝視する。
「――ちょっと待って?」
 不知火が、些か焦燥を帯びた声音で言葉を継ぎ――綱がじゃがいもを咽喉に詰まらせ、喘ぎながら緑茶を飲み干した。
「・‥…先ほどまで、設楽夫人は我々と一緒でした。ここに来る1時間程前の事になりますか――」
「だから丁度それくらいの時間よ」
 さも大した事が無さげに小島はあっさりと自身の言葉を肯定し、自分のグラスに口を付ける。
 一同はそんな小島を凝視しながら息を呑む。
「そんな、あの子、謙ちゃんと連れ添って長いでしょう?結婚したのはここ二、三年の事かもしれないけど、謙ちゃんがお父様についてあの不動産会社で働き始めた頃からのお付き合いだった筈よ。だからもう、十年くらい?だから見間違えるはず無いのよ、ユウコちゃんはユウコちゃんだもの」
「ま、待ってくれ」
 いつになく取り乱した風な雪ノ下が、焦った様にばらばらと手帳を捲る。そして目当てのページでぴたりとその手を止め、信じられないと言った風に呟いた。
「――祐子さん、なれ初めは今から五年前。物件探しに訪れた謙一が見初めて、入籍はその二年後――て」
「・‥…どう言う事よ、ソレ」
 雪ノ下の言葉の意味を汲んでなのか否なのか、ああ、と。合点が入ったとでも言わないばかりに小島の表情がぱっと明るくなった。
「ああ、じゃあ今日が三回目の記念日だったのかしら。さっきね、今日は記念日だから、いつにも増して腕に寄りを振るわなきゃって――」
「行きましょう。彼女が危ない」
 冴木の言葉に、一同がざっと立ち上がる。綱が扉から飛び出して行き、携帯電話やメモ書きの類をバッグに仕舞いながら涼が告げた。
「おばあちゃん、今日は本ッ当にどうもアリガト。だから一つだけ言っちゃうけど、このお家。おばあちゃんも早く他の所探した方が良いよ、このお家こそ、たまに変な事起きたりしない?」
 ごちそうさまでした、と頭を下げる不知火に、小さな老体がさらに深く頭を下げる。そして涼に向き返り、穏やかに笑いながら返した。
「ふふ、そんな風に言って訊ねて来る人、実は多いのよ。何だか難しい事を沢山説明されるけど、駄目ねぇちっとも判らない。――でもね、古い家には"家鳴り"が付き物なの。夜中に大きな音が聞えたって、それはこんな古い家には当然の事なのよ」
「……」
「それに、それだけ沢山の人達が、この家で――沢山の思い出や過去を繰り返してきたと言う事でしょう?どうしてそれを恐がる必要があるの?」

【ユウコ】

 橙色の西日がベランダから差し込んで、非道く眩しかった。
 部屋の隅、突き刺す様なその光から避ける様に膝を抱えて丸くなっている(――ぴた)。
 ぴた。ぴた。ぴた。ぴた。
 きっちりと締めた筈の蛇口から漏れるのか、台所から聞える水滴の音が(ぴた。ぴた。)煩かった。

 女は震えている。
 艶やかな黒い髪の隙間から見え隠れするうなじは矢張、病的なまでに白く、細い。
「・‥…――早くゥ…」
 何がしかの(――ぴた)呟きが、女の背中から室内に響かせられるが。
 その呟きですら、遠く聞える水音は(――どうして)掻き消してしまう。

 ぴた。ぴた。ぴた。ぴた。

 女は知っている。
 流しに置き去ったアルコールの瓶を求めて台所に赴いても、(――ぴた)蛇口から垂れている筈の水滴が流しを濡らしていない事を(どうして?)。
 何度も確認した、彼らを見送った後、玄関も窓もベランダもきちんと締め切った、施錠もした。
 それなのに。
 どこからとも漂って来る、夕餉の味噌汁の香り。

 もうすぐ聞える。
 決まってそうだ、この時間になれば聞える。戻ってくる。
 今頃はゆっくりと(ぴた、)階段を昇り。
 遠くから静かに趾音を響かせながら、近づいて来る。
 突き当たりの角を曲がり(――ぴた)、
 じ…‥・と、玄関の前で気配を探る様な。沈黙。

 ――そして。
 背後すぐ(ぴた)、畳の上で滴る(ぴた、ぴた、ぴた、)水の音。
と「ただいま」

 やっぱり、待っていてくれたのね―――?

【その場に居合わせた者達】

 飄、と。
 扉の前で風切りの様な音が唸った。
 そのすぐ後で。
「祐子さんッ!」
 爆ぜる、重たい鉄の扉を蹴破る激しい音。そのまま弾丸の様に室内へと躍り込んだ綱の利き手には、愛刀・髭切。
 その光景は、おそらく一同全てが予測の範疇に有った事だろう。
 薄暗い室内への視界が開けた途端に、濃密に粘る紅の香り。
「――血だ」
 一足遅れた冴木が、玄関から点々と溜まりを作る血の水滴に刹那思案し――土足のままで、室内へと上がり込む。
 ふわりと宙に弧を描く様に翻した右手の平をきっと握り込めれば、そこに音無き炎の宿根を感じた。

 長い髪は肩の上で散り、夥しい量の血液に張り付いて腕を朱に染めていた。
 真っすぐに延ばされた右手の指先で、女性の――祐子の咽喉許をしっかりと捉え、不健康な青白い肌に爪を食い込ませている。
 爛々と輝いた双眸だけで、駆け込んだ一同をじ、と睨み上げ――
『邪魔、しないで』
 はっきりと、告げた。

 そこに有ったのは、哀しい女の性で、あると。
 不知火は本能的に悟り、口唇を噛み締める。
 ぴた。ぴた。ぴた。ぴた。
 畳の上に、吸い込み切れない鮮やかな血の滴りが溜まりとなっている。
「――少し、お話しましょう…?」
 その掌で祐子を縊っている以上、いくら"ソレ"をねじ伏せる力を持っていようと彼らは動く事が出来なかった。
 向かって右側の顔が壊滅的に抉り取られ、そこからうっすらと白濁した脳漿を露出させている変色した女――これが"血まみれの女"――に向かい、不知火は問い掛けの様な言葉を紡ぎ始める。
「あなたの声が聴きたいの…‥・どうしてそんなに、哀しい事をするの?何か伝えたい事が…祐子さんや、謙一さんに言いたい事が…あなたにはあるのでは無い?」
 "謙一"。
 その言葉を不知火が口にした時、締まり無い女の口唇が僅かに震えた様だった。
 あまりと言えばあまりのその形相に、漸く立ち直った涼が不知火の言葉を継ぐ。
「そうだよー、その人をそんな目に遭わせたってキミ、ちっとも楽しく無いんじゃない?」
 低く響かせられる退魔の呪言。それに気付いた不知火がき、と冴木を睨め付ける。
「ほら、聴かせて。どうしてこんな事になっちゃったの?――そんなに、謙一さんが…憎かった?」
『――違う、違う…の…‥・』
 私が、私がいけなかったの、と。
 指先に握り込めた祐子の首筋を、女は虚ろな眼差しで見つめた。
「どうして?その人をそんな風にしたい位、キミは謙一さんが憎かったんじゃないの…?その人自体が憎い訳じゃない、キミをそんな風にした謙一さんの前に、キミはどうして姿を現さないの?」
 呟く様にそう続ける涼の眼差しは、僅か俯きがちな半眼となっている。雪ノ下が提供した書類の束、祐子の言葉、小島と言う老婦人の様子、そして――女自身の言葉。
 感じた事、見た事、聴いた事…涼はそれらを行使し、導き出した推理で女を誘導し、真実を探る――ゆっくりとした言葉で。
 ぴた。ぴた。ぴた。ぴた。
「――そ、か。…まだ、信じられないんだ。信じたくないんだねー…謙一さんに、」
『厭、やめて』
「やめないよ。やめて欲しいならその手を離して」
 女の手指の中で、祐子がくぐもった唸り声を挙げる。
 苦しげに、朦朧とした意識の中で咽喉を締める枷――女の手首に、自身の指を触れさせて。
「ねえ、もう一度だけ言うよ。―――ユウコさん、その手を離して」

『厭あぁぁぁぁぁ!』

 と。
 橙に燃える夕日を背に、ずるり、と祐子の身体が畳の上に崩れ落ちる。
 血溜まりの中、膝を折って突っ伏した彼女は頬を血に染め、身体をくの字に曲げて丸くなった。足下に転がった祐子の肢体を女は憎々しげに見下ろし、血に塗れた指先を真下――祐子の左側頭部目がけて勢い良く振り下ろす。
 が、祐子と女の身体が微々なりとも離れた――その隙を逃さずに。
 冴木が一同を割る様に趾を踏み出し――掌に収めた炎の飛礫を、女目がけて押し出す。
 薄暗くなり始めた室内が炎のまばゆさに刹那、大きく揺らぎ――
 女の脇腹に大穴を開けた。
『・‥…―――ッ!』
 濡れた衣服を焦がし、髪と肉を焦がす。蛋白質と繊維の燃焼する何とも言えぬ悪臭が辺りを包んだ。
 それ以上の燃焼は室内では危険だと判断したのか、優雅に立てた指先に小さな炎を未だ灯らせながらも冴木は厳かに曰う。
「女。・‥…いや、ユウコ…ですか。それ以上の粗相は許しませんよ?」
 そして蹲る女の首筋へ、ついと趾を進めた綱が髭切の切っ先を当てる。
「別名、鬼切とも言われた逸品ですよ。本当に鬼が斬れるのかどうか、試してみましようか」
 未だ体内を焼く炎の激痛に耐えながら、女は綱を見上げる――憎々しさと、僅か弱さの漂うその眼差しで。
『鬼――そう…‥・私は…いつの間にか―――』
 女の腹から立昇る濃厚な腐臭を発する煙に、流石に綱が顔を顰める。
 が、それでも髭切の切っ先は逸らさない。
 燻る様に燃え続ける炎は、女の腹の粗方を焼いた。不知火がその足下で丸くなっている祐子をそっと引き寄せ、額を撫でて遣りながらぎゅっと抱きかかえる。二人を取り囲む様に、雪ノ下が微光する薄い結界を張った。
『――もう、楽に…なり…たい…‥・』
 冴木の発した青白い炎が、腹部から、次いで胸部を焼き始める。それでも女の衣服が纏う血液と水気は留まる事無く畳を濡らし、それは暮れ始めた空の景色を背景に異様な光景であった。
 髭切の尖端を女の動脈――それは露出しており、僅かな鼓動の度に寸断された細い血管が脈ち血を滴らせると言う大変に醜悪な物で有ったが――に照らし、綱が無表情のままでそれに力を込めようと柄を握り直す。
 その横から、涼が女の傍らにしゃがみ込んで、顔を覗き込む様に首を傾ぐ。
「・‥…最期に、あと一つだけ聴かせて。――キミの"身体"は、どこにある…‥・?」
 女は、涼の面持ちを見つめる。醜悪なの姿と、
 ―――物憂う様な、優しく哀しい眼差し。暫しの間、互いは見つめあい…‥・そして女は、自身の真上、その天井を見上げた。
『・‥…天井を、剥がして。足りない分はもう無いの、…流れて…仕舞ったの…‥・』
 大きく涼が頷く。頑張ったね、と呟く。
 そのすぐ後で――
 振りかざした髭切が低く唸り、女のうなじ目がけて振り下ろされたかと思うと―――

 斬。

 確かな手ごたえと共に女は縊れ、だがしかし、その醜態を一堂の前に晒す事は無く。

 黒い煤の様に弾け、霧散し…‥・そして後には、何も残らなかった。

【優子】

「物凄く高温で、ぐらぐらぐらくら…‥・って煮立てたらしいんだー。そりゃ肉も脂も溶けちゃうよね」
 大やけどなんてもんじゃ無いよー、等と。
 あっけらかんとした口調で涼が言う。
 事後の草間興信所、我々の知る設楽不動産は事実上、もう無い。
 解決した事件にもう興味は無いと言い放った冴木以外の面々が集い、不知火の持参した土産で呑気に茶を飲んでいる。
「祐子さんを見初めた設楽謙一が、五年以上もお付き合いしていた"優子"さんを殺害して…‥・」
「ちょっと考えられないですよ…自分の女を殺して煮立てた風呂、その部屋で…設楽謙一は"祐子"さんと新婚生活を送ってたんでしょ?」
 遺体を捨てる事が容易では無いと思った設楽謙一は、優子――羽鳥優子、五年前に両親から失踪届が提出されていた――の遺体を三週間もの間、風呂で煮立て――脂肪と肉、水分を充分に「煮出して」から、天井裏に遺棄していたらしい。
 依頼人であった設楽祐子は、偶然にも同名であった優子の爛れた遺体の下で、何も知らずに亭主の帰りを待っていたのだ。
「祐子さんも、ちょっとした治療で社会復帰出来るそうで…本当に良かったわ」
 心からの安堵の念を込め、不知火が漏らす。
「流石のアイツも、自分の身に降りかかった"怪談話"は本気で恐ろしかったんでしょうね…」
 最中をもぐもぐと咀嚼しながら雪ノ下が告げた。
 社長の大醜聞で設楽不動産は名目上閉鎖となったが、元は親会社の下でせこせこ経営していた三流不動産なので、頭の挿げ替えだけで来月にも経営を再開しはじめると言う。どうしようも無い馬鹿ばっかりですからね、等と。
「でもね」
 新しい最中に手をつけながら、さらに雪ノ下が続ける。ここからが本領発揮、と言う所らしい。
「取り調べ中に、泣きついて来るらしいんですよ。優子が来る、優子が部屋に来る…‥・ってね。それが本当にあの"優子"さんなのかは知らないですけど、謙一にも良い薬になったんじゃないですか?」
 どさくさに紛れて他の名前も飛び出すらしいし。
 呆然とする一堂を尻目に、これどこのですか、本当に旨いですよ、と不知火に訪ねる雪ノ下だった。

【ユウちゃん】

 悪かった、悪かったよ。
 ユウちゃん、本当に(ぴた。)ゴメンな。
 謙一が床に額を擦り付けている。
「また始まった、良いから放っておいてやれ」
 背後で(ぴた。ぴた。ぴた。ぴた。)警官の声がする。
 謙一は尚も土下座をする様に額を地に擦り付けながら(――ぴた)、薄暗い壁に向かって懺悔し続ける。

 ただいま、謙一さん。
 もうすぐ、四回目の…記念日ね―――?


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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0116/不知火・響    /女/28/臨時教師(保健室勤務)
0381/村上・涼   /女/22/学生
0391/雪ノ下・正風/男/22/オカルト作家
1334/冴木・継人  /男/25/退魔師
1761/渡辺・綱   /男/16/高校生(渡辺家当主)


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■         ライター通信          ■
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こんにちは、森田桃子です。
「女は二度嗤い、そして」をお届け致します。

今回、女性陣と男性陣とで思考や行動の違いを出す様に留意致しました。
お気に召して頂ければ幸いです。

ご意見やご感想など、少しでも思い当たる事がお有りでしたらどうぞお聞かせ下さい。
不慣れな不束者ですが、皆様、どうぞこれからも宜しくお願い致します。
この度は本当に有り難うございました。

担当:森田桃子