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水母の丸い牙
アセト・アル・デヒド:や、おひさしぶり イツキです
KAZOON:びっくりした
KAZOON:キャラ変えたのか
アセト・アル・デヒド:ええ
KAZOON:またひどい名前だね
KAZOON:前はパラジ・クロロ・ベンゼンだっけ
KAZOON:覚えづらくて仕方ないよ
アセト・アル・デヒド:名前は置いといて下さいw
アセト・アル・デヒド:ところで飽きませんか?
KAZOON:べつに レベル上げを楽しむゲームだろ
アセト・アル・デヒド:いえ そうではなくて
アセト・アル・デヒド:夏になったというのに 冬と変わらない生活をして
アセト・アル・デヒド:KAZOONクンかなりレベル上がってるようですから
アセト・アル・デヒド:毎日昼も夜も繋ぎっぱなしでしょう
アセト・アル・デヒド:そんな生活飽きませんか?
藤井葛は、外に出てみて驚いた。
驚くのはどうかと思ったが、これほど暑い季節になっているとは思いもしなかった。朝起きればクーラーを入れて顔を洗い、パソコンに向かう。卒論に取り掛かろうとして、ついついワードを開く前にネットゲームのアイコンをクリック。また癖でやってしまったと舌打ちをしつつも、せっかくだからとログイン。……そして、日が暮れる。ようやく空腹感を覚えて、コンビニへ。黄昏時、徒歩3分の地点にあるサークルKで弁当を購入。帰宅し、パソコンの前で食事。ログイン。レベル上げ。ログアウト。寝る。しまった今日も卒論進まなかった。
そんな生活を続けているので、まさか昼間のマンション外がこんな猛暑に見舞われているとは知らなかった。いや、OSのカレンダーでもう8月になっていたことは知っていたが、それが何を意味するか理解していなかった。
暑い。久し振りに作った料理が(正確に言うと弁当だが、一応料理だと思うことにした)今にも腐りそうだ。
葛はある友人に指定された喫茶店で、オレンジソーダをがぶ飲みしていた。ここまで来るだけでどれほど汗をかいたことか。なぜわざわざ渋谷の草間興信所近くを指定するのだろう。……海に行くという話になったのではなかったか。
約束の時間とともに、友人がやって来た。
久遠樹だ。……彼はしっかりいつもの白衣を着込んでいた。海に行くという話になったのではなかったか。
「どうも、KAZOONクン。待ちました?」
「……待ち合わせ時間ピッタリだけど? それは遅れたときに言うセリフだろ」
「いえいえ、ほら」
『アセト・アル・デヒド』はにこやかに葛のグラスを指差した。
「ジュースを飲み干されているようですから、だいぶ時間が経っているのかなあと」
これはいつもの皮肉か? この男はきっと、自分がジュースを一気飲みしたところを見ていたに違いない。相変わらずだ。
葛は噴き出した。
樹の車は、やたらと元気な太陽の下を走り続けた。
走るにつれて、陽光が強くなっていくような気がする。車はトンネルに飛び込んだ。さながら陽光から避けるように。
「おっ……」
トンネルを抜けると、そこは――
クールだと大学で評される葛からでさえ、感嘆の声を誘うもの。
海とは偉大である。
「何年ぶりくらいです? ひょっとすると十数年ぶりとか?」
「失礼だね、去年も来たよ。……ただ、今年は初めてだ」
「もう8月も半ばだというのに。……寂しいですねえ」
「うるさいね!」
葛は心持ち顔を赤くして、さっと海から樹に目を移し、ぴしゃりと怒鳴りつけた。
樹は相変わらず、人を食ったような笑顔だ。
街中では不快なだけの太陽も、この場では許せる。むしろ、もっと照ってもいいと思えるほどだ。砂浜は少し混んでいたが、これも許せる。閑散とした砂浜では遊ぶ気が何故か薄れるというもの。葛は周囲のビキニ女性のように歓声は上げなかったが、めずらしい笑顔になって海に入った。
彼女はありとあらゆるスポーツをそつなくこなす――というより目を見張るほどの実力を持っている――のだが、生活ぶりはまるで孤島のマッドサイエンティストだ。肌の白さはそのせいなのか。
きれいなフォームで海を泳ぐ葛を眺めながら、樹は「いいことをした」とばかりに頷いた。
樹は海の家でよく冷えたスイカを買い、棒とタオルを車から持ってきて、葛が海から上がってくるのを待っていた。
20分近く海に入っていた葛がようやく戻ってきた――が、しかめっ面で足を引きずっていた。
「あれ、どうしました?」
「クラゲだよ」
「大丈夫ですか? あ、私が薬を――」
「いや、いい!」
車へ戻ろうとした樹を、葛が慌てて呼び止める。
クラゲに刺された傷に本当に有効な薬はまだ開発されていないはず。樹は知っているだろう。創造欲をかき立てられて色々調合しかねない。
「いいんですか? ……本当に?」
「ああ。アレルギー反応もないし」
「そうですか……」
樹の表情は、明らかに残念そうであった。間違っても安堵したわけではないだろう。
葛の白い足、右のふくらはぎが赤くなっている。
びりびりとした痛みが忌々しい。
「で?」
「はい?」
「このスイカは?」
「ああ」
樹の顔に笑みが戻る。彼はどこか勝ち誇ったように。タオルと棒きれを持った。
「スイカ割りです!」
「……今時かい?!」
「何を仰いますか! スイカ割りという文化は人間とスイカが出会ったときから生まれ、今にまで受け継がれているのです。これを絶やしてはなりませんよ」
力説する樹を前にして、葛はいつもにも増して冷ややかになった。
「……あなたがやりな。私は足が痛いから見てるよ」
「……」
ごもっとも。
「ほら、目隠ししてやるから」
樹がひどく無口になった。どうやら不本意な結果になったらしい。樹に目隠しをしながら、葛はにやにやした。
「さ、回って回って! 10回だよ!」
ぱっかん。
樹がクーラーボックスを持ってきていたお陰で、弁当は腐らずにすんだ。
ふたりが弁当を広げたのは日も沈む頃だ。それまで空腹を感じる暇などなかったし、丸々一個のスイカもあった。弁当の存在を思い出したことすら、つい先ほどだったのだ。
「弁当が夕飯になったね」
「いや、弁当というものは別に昼に食べるものと決まっているわけではないでしょう――おや、意外と小奇麗なお弁当ですねえ」
「大きなお世話だよ。その弁当はあなたが作ったのかい?」
「ええまあ。食べます? このインゲンのベーコン巻きは自信作です」
「いらないよ。何か入ってたらコトだから」
「自分で食べるものに何か混ぜ込む人間がどこにいます」
「その言い方だと、他人に出すものには混ぜ込みそうな感じに聞こえるね」
「葛クンの中の私は、一体どんな人間になってるんでしょうか……」
「あなたという人間だよ。他の何者でもないさ」
海岸の人影はまばらになってきていた。海原に夕陽が沈みこんでいくこの様は、とても美しくて見とれてしまうほどなのに――見ないで帰る者たちが、こんなにも多いとは。
海が夕陽を食っている。
ごくりと呑みこみ、月を浮かべる。
「次は、月が沈むところを見たいですねぇ」
「意外とロマンチストだね」
「また、人が傷つくことを……」
「お互い様だろ」
ふたりは笑顔を交わした。
海原にはビルも橋も電灯もない。おかげで、橙から藍へのグラデーションがはっきり見える。ビルの谷間に沈む夕陽も、見ようと思えば美しく見える。
だが、このグラデーションにかなうだろうか?
樹がふと立ち上がり、車に一旦戻ってから、海の家でよく冷えたビールを買ってきた。
思えば、今日のロケーションは樹がすべて演出している。海への誘い自体がそうだった。足をクラゲにやられたとはいえ、葛は何もしていない。泳いだり、食べたり、見ていただけだ。樹のおかげで海を楽しめた。
「これがなければシメられませんからね」
樹は、まだ用意していた。彼は花火を持ってきていたのだ。そして、クーラーボックスの底のほうに隠すようにして入れてあった、スモークチーズとサラミを取り出した。
「自家製チーズです。作ってみました」
「何から何まで用意周到だよ、本当に」
「当たり前の努力ではありませんか」
「私は呆れてるんじゃなくて、感心してるのさ」
「あ」
「ん?」
「火を忘れました……」
葛はそこで、声を上げて笑った。
「前言撤回だね」
「残念です」
「海の家にあるだろ、ライターかマッチくらい。私が行ってくる」
足が痛いことを忘れて、葛は自ら役目を引き受けた。
ひとつくらい、この日のために何かやりたい気になっていたのは確かなことだ。足の痛みは、ただ少し邪魔なだけだった。
夏の日は花火と酒で締めるもの。
花火は、線香花火で締めるものです――
今時何を言っているんだとも思ったが、葛はそれに反論しなかった。彼女自身そう思っていたからだ。
ぽとり、
夕陽よりもずっと儚く、線香花火の日が落ちる。
今日という日も、この火とともに終わった。
「早い人はもう卒論仕上げてますよ、葛クン。パーセンテージで言えばどれくらい進んでるんですか?」
「……誘っておいて、最後にそんなこと訊くのかい……?」
「怖い顔をしないで下さいよ。一日や二日や半年、手をつけなくても大丈夫です。出来上がればいいんですよ。提出日までに、出来上がっていれば」
葛は、そっと微笑んだ。自分にそう言い聞かせてこの日まで過ごしてきた。それは自分に対する甘えだと思っていたが――誰かにそう言われると、安心する。
油断してしまいそうだ。明日は絶対に、ログイン前にワードを開こう。
だが、明日でいい。
「今日は楽しかった。お陰様でね」
「私も楽しませていただきました。……足は災難でしたねえ」
「やっぱりあなたは、最後に余計なこと言うよ」
葛は、こつんと樹に白いものを投げつけた。
貝殻だ、
今時こんなものをと思いながらも、ついつい拾ってしまった巻貝だった。
(了)
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