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推定恋心
いつだってそれはある日突然やってくる。
全くどういうタイミングかなんて誰も判らない。
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それはいつもと何ら変わらないある休日。
杉森みさき(すぎもり・みさき)とヨハネ・ミケーレ(よはね・みけーれ)は休日を利用して、一緒に彼女が師事している先生に貰ったチケットでクラシックのコンサートに行った。音楽の趣味が合う2人はこうやって連れ立ってコンサートに行ったり、楽器店に新譜を買いに行ったりしている。
今日も2人は連れ立ってコンサートに行っていた。
「今日は、ありがとうございました」
コンサートが終わり会場を出て、ヨハネがみさきにそう言った。
「今日は?」
「あ、いいえ、今日もですね」
小首を傾げて小さく微笑むみさきにヨハネは慌てて前言を訂正する。
チャリティーコンサートという名目のそれは、売上金を福祉施設とか福祉団体に寄付されるものなのでチケット自体の値段はクラシックの演奏会としては格安ではあった。だが、その演奏の質はプロの卵のみさきが聴いていても、自身もオルガンを嗜み神父として教会などで日頃から音楽に携わる事が多いヨハネが聴いてもとても上質なものだった。
一般の人が思うよりも、神父という職業はいろいろな意味で日常に忙殺されることも多い。だからこそ、ヨハネにとって精神的にも肉体的にも今日のように音楽でひとときの安らぎを感じられる事はとても有意義な時間の過ごし方であるのだ。
そんな時間を過ごすことが出来た感謝をヨハネは素直に伝えたつもりだったのだが、少し言葉を選び間違えたらしい。
「付き合ってもらったのはみさの方なんだから、ヨハネ君がお礼を言うなんておかしいよ」
と、みさきは少女のような笑顔をヨハネに向ける。
みさきとヨハネでは2歳ほどみさきのほうが年上なのだが、見た目も中身も端から見てもそうとは感じさせない雰囲気であった。
みさきの弾くピアノは危ういほどの純粋さと音楽に対する愛情に満ち溢れ、聴く人の心を惹きつける音を紡ぎだす。
みさきの、ともすれば幼く見えてしまうほどの純粋さが彼女が奏でるピアノの音に現れていることを、ヨハネは知っていた。
そして、そんな彼女と過ごしていると、時がとても緩やかに流れることも。
「あ、そうだ。みさ行ってみたいなぁと思ってたカフェが近くにあるんだけど―――」
みさきがそう言ってヨハネの手をひいて歩き出した時だった、
「あ、みさ〜!」
と、後ろから声が飛んできた。
手を振って2人に駆け寄ってきた彼女をみさきはヨハネに友達だと紹介する。
ぺこりと頭を下げたヨハネに、みさきの友人はこんにちはと軽く頭を下げ、そのまま
「彼氏とデート?」
と、悪戯めいた顔をしてみさきの顔を下からのぞきこむ。
確かにさすがにコンサートに僧衣は着て来ていなかった為、そう見えても全くおかしくない。むしろ見た目でいえばお似合いの2人といっても差し支えはなかったので、彼女がそう誤解してもおかしくはなかった。
しかし、その台詞にヨハネの心音が突然跳ねあがった。
「デ、デートなんてそんな……」
口篭もるヨハネの声に被って、
「えぇ〜、違うよぉ〜」
と、即座にみさきがそれを否定する。
「なぁんだ、そうなの? せっかくスクープだと思ったのになぁ」
近くの横断歩道の信号が青に変わったのを見て彼女はじゃあねと手を振って去っていった。
笑顔で彼女を見送るみさきの隣でヨハネはもやもやした気分に頭を悩ませていた。
「……」
自分の胸にそっと手を当てると、さっきまで早鐘を打っていた心臓は一瞬にしてすっかり普段どおりに戻っている。
―――――あれ? 何で僕がっかりしてるんだろう?
ヨハネは自分自身に戸惑って首を捻った。
バイバ〜イと手を振って行ってしまった彼女を見送って、その姿が見えなくなるとみさきはヨハネを振り返った。
「行こうか、ヨハネ君」
みさきはそう言って改めてヨハネの手を取った。
「は、はい」
カフェまではまだ少し距離があったので2人は通りの店をウィンドーショッピングをしつつ歩いて行く事にした。
「あ、あれ可愛い〜」
「ちょ、ちょっとみさきさん……う、腕……」
握っていた手を離し腕を絡め取ってある店のウィンドーにヨハネを引っ張って行く。
そのウィンドーのマネキンには清楚な雰囲気のパステルカラーのワンピースが着せてある。
「ね、ヨハネ君、あのワンピースどうかな?」
「きっとみさきさんに似合うと思いますよ」
「ホント?」
そういうとみさきはヨハネに抱きついた。
「み、みさきさん――――――」
ヨハネが顔を赤くして両腕をわたわたさせる。
「ヨハネ君、ちょっと屈んで?」
と、ヨハネの服の裾を引っ張って額に額を合わせた。
「う〜ん、熱はないみたいだけど」
みさきにとってはいつものスキンシップのつもりであるのだが、その度にヨハネは顔を赤くしていた。
「みみみ、みさきさん、人っ人が見て――――」
「急にどうしたのヨハネ君、具合でも悪い?」
不思議そうにみさきは小さく首を傾げてヨハネを見つめる。
「い、いえ別に……」
大丈夫ですと小さな声でヨハネが続けたので、みさきは、
「よかったぁ」
と、安心して胸を撫で下ろしヨハネを見上げたまま微笑んだ。
さしだされたみさきの手に引き寄せられるように、ヨハネは自分のそれをそっと重ねた。
――――落ち着け落ち着け。
安心した笑みを向けたみさきに申し訳なくて、ヨハネは何度かこっそりと深呼吸をして自分を落ち着かせようと努力する。
よくよく考えてみればみさきが腕を取ったり抱きついたりは今までだってよくしていたことで今更なのだが、どうもさっきのみさきの友人の一言以来、周囲の人達が自分達をどう見ているのかということが気になっていた。
そして、それよりもなによりもみさき自身が気になって、彼女が自分に近づくほどに自分の心臓の音が大きくなる。
でもなによりも、ヨハネの心を騒がせるのはみさきがヨハネに向ける笑顔だった。
「じゃあ、行こうかヨハネ君」
「はい」
そう、それはいつだってそれはある日突然やってくる。
それがどういうタイミングで現れるかなんて誰にもわからない。
そして、気づいてしまったらきっと誰もそれには逆らえない。
自分の不可解な感情も行動も、それが彼の中で芽生え始めたある感情によるものだと気づくのには時間が必要なようだろう。
それは神様にだってきっと止める事の出来ない絶対引力。
その名前は「恋心」。
ヨハネがそれを自覚するのはきっとまだもう少し先の話。
Fin
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