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クロール【後編】
*
今回草間興信所に持ち込まれた依頼内容は護衛。
依頼人、青柳・治人(あおやぎ・はると)に迫る死から彼を護ること。
興信所から派遣された調査員は原因があると思われる崎浜市へと向かった。
一日の調査を終えた一向はひとまず湯を使い、さっぱりした身体で夕飯の膳についた。
夕食に出された魚介類は青柳の言っていた通り新鮮で旨く、皆は舌鼓を打って楽しんだ。暗黙の了解ででもあるかのように、夕食が終わるまで誰も事件の事を口に出来なかった。あまりにも不可解な情報が多かったためだ。
夕食後の片付けと布団の準備の為に、一旦庭へ涼みに降りた一行はようやく今日一日の事について各自の情報を交換する事になった。
夏の日は長い。
まだ明るさの残る空に目を凝らすとうっすらと近付く闇に、遠くいくつかの星が微かにまたたいているのが見えた。
* *
5人が宿泊した旅館、『うしおや』の朝食は7時半から。
部屋でのお食事も出来ます、と言う女将に丁寧に礼を言い、時間と宿の手間を考えて5人は1階にある食事用の座敷で朝食を取る事にした。
炊きたてのご飯に味噌汁、海の傍ということもあってか鯵の開き、卵焼きに納豆、焼海苔、しぐれ煮に漬け物と、盛り沢山である。これだけのおかずでどれ程の白飯が食べられるだろう。
しかし、いただきます、と箸を進める一同の顔色は微妙に冴えない。お互いの情報を交換して後、一晩の間に各々考える所があったようだ。
黙々と各々思う量を平らげると、自然に事件の話題になった。
「『乙竜の寝所』ですくった水は『乙姫の水場』で吐き出される物。それによって泉の塩が水場へと転移され泉で真水が得られる…と理解して宜しいでしょうか?」
さくらが昨日聞いた皆の話をそうまとめてみると、みなもがうんうんとうなづく。
「あたしも、そう思います。それから森下さんの書き置き、『繋がる』とは塩の転移に泉か水場と胃が『繋がる』と言うことではないでしょうか」そう言ってみなもはテーブル越しに皆を見渡す。
「問題は、何故泉の水を飲む事になったかということですが…」
みなもの話を聞きながら最後に小鰯の煮つけを咀嚼していたシュラインは、それを飲み込むと口を開いた。
「…昨日、麟凰君が視たという子供だけど」
「はい」麟凰はどこか神妙に答える。
「その子が森下君ね」
シュラインの思い掛けない言葉に麟凰は反射的に口を開き、やがて一つうなづいた。
「俺は、その法…ええと…仮に『儀式』と呼びますね。子供はその儀式を見届ける役目を負っているんじゃないかって思ってました。でも、その子供が森下さんだとすると…」言葉を切り、麟凰は儀式途中で去った子供を思い出し手元に目を落とす。
そんな麟凰に代わり優姫が続ける。
「すくった水を飲む物だと思い込んでしまった可能性がありますね…」
優姫の言葉にさくらもうなづいた。
「天狗様の話にも『手順を違えた』とありましたしね。……問題は、違えた手順をどうするか、ですが。私は誤って進んだ儀式をもう一度執り行う事で、正しき方向へ修正できるのではないかと思います」
「俺も、ええ。そう思います。術とか法とかは必ず目的に則った組み立てがある筈だから、違えた箇所を修正すれば、あるいは…そうですよね」
麟凰がそう言うと皆同意する。一晩で皆の得た結論は同じところへと辿り着いたらしい。
「と、なると、やはり青柳くんにもこっちへ来て貰わないとダメよね」
連絡がつくと良いんだけど、とシュラインが呟く。
食事前にも一度青柳に連絡をしてみたが、携帯に電源が入っていないのか残念ながら繋がらなかった。こちらへの移動の件もそうだが、水を飲んだ順、というのも確認しておきたかったのだ。何故4日おきなのかという疑問も残っている。
「儀式をやり直すのなら、貝殻も必要ですね。これは森下さんが持っているのでしょうか?」
手順を考えていたみなもが疑問を挟む。
「森下さんが書き残したという『倉』はどうでしょう…?」
優姫は書き置きの言葉を思い出す。さくらも同じ意見だ。
「恐らく森下家の倉に件の、龍との契約の印である貝殻か、何か重要な物があるのだと思いましたが」
途切れていたという書き置き。死を悟った森下が書き残した物だろう。意味がない筈がない。
「それじゃ、まずは森下家にお邪魔しましょうか」
シュラインは顔を上げると、少しだけ明るい声でそう言った。
とにかく青柳を救う為の方針は立ったのだ。
『まさか繋がるとは。
悔いは無い。
しかし室井君と青柳君にはすまない事をした。
何か道は しかし 倉』
「悔いは、無い…」
優姫はそっと小さく呟いた。聞いた時からずっとひっかかっているのだ。
「彼は、何を欲したのでしょうか。何を、望んだのでしょうか…」
「…そう。もう、わざわざ真水を必要とすることもないでしょうしね…」
隣で優姫の呟きを聞いていた麟凰もうなづいた。
森下学は何を望んだのか――。
* * *
森下の生家はちょうど泉のある場所から少し離れた裏手、海岸と街並を見おろせる高台にあった。いかにも旧家という趣で、木造の門からは古びた瓦屋根が覗いていた。門の前は綺麗に掃き清められている。どうやら誰か住人が居ることは確かなようだ。
表札の『森下』という字を確認してシュラインが呼び鈴を押すとジリジリと古めかしい音が微かに遠くで響いた。もちろん、只の呼び鈴であってインタホンではない。みなもが遠く陽光に瞬く海面を眺めているとやがて奥から人の気配がした。
かたん、と門の傍にあった小さい入り口が開くと中から老婆が顔を覗かせた。
「何の御用でしょう?」
見慣れない5人に不審感もあらわに老婆はそう言った。ほんの一瞬だけ5人は目線で合図し、代表ということでシュラインが簡単に事情を説明した。
話が進むと、見る間に老婆の顔が曇る。片手を上げ、シュラインを制すると扉を閉じてしまった。
「どうしましたか?」
少し離れた位置で様子を見守っていた優姫が微かに首をかしげる。シュラインも良く分からない、と両手を上げてみせた。
「ああ」麟凰が軽く声をあげる。「どうやら入れて貰えるみたいですね」
静かに響く重い音にさくらが首を巡らせると、木の大扉がゆっくりと内側へ開いていった。
外から見た時も大きい屋敷だと思ったが、扉が開くと実際には想像以上だった。庭には白砂利が敷き詰められ、内門へと向けて大きな一枚岩が飛び石にいくつも置かれている。
ただ、車等は見当たらない。運転する人間がいないのだろうか。
入ってすぐ右手に見える古い倉を見て、森下の書き残した『倉』とはこれだろうか、と優姫は考える。倉には金属製らしい扉に閂が下ろされていた。
老婆の先導に案内され内門をくぐると今度は見事な庭園が現れた。
樹木を選んで置かれた庭に苔むした小振りの石灯篭があちこちに置かれている。さすがに人工池の類いはなかったが、それでも相当に樹齢の高さを思わせる手入れの行き届いた松や、白い花を付けている百日紅、冬には山茶花が花を咲かせるだろうか。
見事に造られた庭をしばし眺めていた5人は、そのまま玄関ではなく奥のぬれ縁へと案内された。
奥行きも広い縁側で、そこには1人の老人が湯呑みを手に庭を眺めているようだった。老婆が老人に何やら耳打ちすると、老人はゆっくりとうなづいた。
「どうぞ、お掛けください。学の事でお話とか」
老人は縁を手で指し、そう言った。皆を案内した老婆は、そのまま玄関の方へと去ってしまった。
お手伝いさん、でしたか。みなもはそう理解した。
一同は老人の左側の縁へと腰掛けた。ここからは庭が一望できる。さあっと強く吹いた潮風が奥のハゼの木を揺らし、黄色い花びらがいくつか空へ流されて行った。
「良い、お庭ですね」
青い空に舞う花びらを目で追いながら思わずさくらがそう言った。老人はさくらの言葉に嬉しそうに笑みを浮かべると話しはじめた。
「学の祖父、森下・嵩(もりした・たかし)と申します」
老人は皆に向かって軽く一礼した。一行はそれぞれ自己紹介し、ここへ来た経緯について簡単に説明した。
途中先程の老婆が持参した新しい湯呑みを手に、老人は目を閉じた。因みに皆にはガラスの湯呑みに冷たい麦茶が振る舞われている。
「貝殻、と学が言いましたか」
老人は目を開けると庭を見つめたままそう言った。
実際には麟凰が視ただけなのだが、これについては何とも言い様がない。皆、黙って老人の次の言葉を待った。
「…学と木崎の子が死んだとは聞かされていたが…」
老人は深い溜め息をついた。
「そう言う事なら『印』、あなた達の言う『貝殻』だね、それをお貸ししましょう。私の知る限りでは倉に仕舞ったままだろう」
「ありがとうございます」
シュラインは頭を下げた。
* * * *
最初に案内してもらった老婆(その、と言う)に再び案内して貰い、麟凰とみなも、優姫の三人は倉の前に立った。金属製の扉には閂が下りているだけで、特に鍵が付けられたりはしていない。
みなもはふと、周囲を見渡した。
屋敷はぐるりと高い塀で囲われてはいるが、肝心の倉に鍵を下ろさずにいて大丈夫なのだろうか。
三人は薄暗い倉へと足を踏み入れた。入り口から差し込む光に埃が舞う。床には降り積もった埃にうっすらと、入り口から奥へと続く一往復の足跡が見えた。麟凰がその足跡に自分の靴を乗せてみるとひと回り大きい。恐らく大人の男の物…森下の物だろうか。
「すごい埃ですね。普段は、誰も出入りしないのでしょうか」
舞う埃に軽く咳き込みながら、みなもが天井を見上げた。高い天井に一つだけ裸電球が下がっている。壁にスイッチをみつけた優姫が灯りをつけると入って来た扉を麟凰が閉めた。入り口からの陽光をそのままにしておくと却って奥が見にくいのだ。
三人は麟凰を先頭に足跡を辿って奥へと進んだ。
倉には一体何年前のものだろうと思わせる木箱や紙箱、骨董の類が無造作に並べられていた。床同様、そのどれもが厚く埃をかぶっている。換気は行われているのか、黴臭かったりはしないのだが、定期的に掃除が行われている様子は伺えない。
目の高さに積まれた木箱の箱書きを見ながら、そんなに価値の低いものなのだろうか、と優姫は思った。
「梯子…」
麟凰が目線を上げた。
足跡は壁に備え付けられた梯子の前で途切れていた。中2階のようなものがあるらしい。
「上、ですね」
同じく足跡を目で追うと、みなもが言い、梯子の前で躊躇する麟凰に小首を傾げる。
「どうしましたか?」
「…いえ」
麟凰は両手を胸の前で広げ、はめられた白い手袋と埃にまみれた梯子を交互に見つめる。このまま梯子をのぼれば確実に黒く汚れてしまうだろう。
「水無瀬さんはここで、待っていて下さい。海原さんと二人で、上を確認して来ますから…」
麟凰の躊躇の訳を悟った優姫は静かに言った。
行きましょうか、と言う優姫にみなもが、はいとしっかり答える。その刹那、麟凰が首を振った。
「いえ、俺も行きます」
片方ずつ、丁寧に外した手袋を手早くズボンのポケットに入れた麟凰は古びた梯子に手を掛けた。
中2階は電灯に近い分だけ下より明るかった。1階の床からの高さはおよそ2m程。小さなスペースに大きい神棚のようなものがあった。老人の話では確かここに納められているということだった。
続く足跡も、まっすぐにそちらへと向かっていた。
「開けますね」
みなもと優姫に向かい、二人がうなづくのを確認すると麟凰は棚の扉を開けた。
暗い棚の中にはしかし、何も置かれていなかった。
「何もないですね」
覗いたみなもがそう言う。
「いえ、何かあったのだと思います」
優姫は棚の扉を指差した。扉の外側の埃の上、微かに何か擦った跡がある。
「取り出した跡、ということは…」
それは森下の元にあるままなのだろうか。
「とにかく一旦戻りましょう」
みなもの言葉に二人はうなづいた。
ゆっくりと棚の扉を元通りに閉じながら、麟凰は棚の裏に置かれた白い帽子に気付いた。そっと手を伸ばすとそれは小さい子供用の白い麦わら帽子だった。触れた途端に強く想いが残っているのを感じる。
「かおり…」
麟凰が帽子の中を見ると、油性マジックでかすれて白いタグにそう書かれていた。持ち主の名前だろう。
優姫が麟凰の手にした帽子を見て、そっと口を開いた。
「その帽子…」
「え?」
麟凰が顔を上げる。
「白いのですね…」
白い帽子は、その裾にほんの少しの埃をつけていただけだった。
* * * * *
実物を前に儀式についての詳細を聞く予定だったが、結局麟凰が視たという貝殻は倉に見当たらなかった。老人の話では確かに棚へ仕舞われていたというから、何者かの手によって持ち出されている事は確かなようだ。
「そうですか」
老人はみなもから倉での話を聞くとそう言った。
「それでは印は学の元にあるのでしょうね」
他にその存在を知っている者はいない筈である。
「それがないと儀式は行えないのでしょうか?」
さくらの言葉に老人はうなづいた。
「『儀式』…ね。確かに、そう、儀式と呼んでもいいかもしれないね。古の契約により、印を持つ者と引き換えに多くを購う」
「印を持つ者と、引き換えに…?」
シュラインがくり返す。
「はじめの契約だね」
良く、分からない。優姫は首を傾げた。
「古い、言い伝えだ。本当にあったものかそうでないかは、私には判断はつかない」
老人はゆっくりと話し出す。
「昔、空から龍の一族の乗った船が落ちて来た。ちょうどここから少し行った所、今は『乙龍の寝所』と呼ばれているね、そこにあった一つの大岩の上に落ちて来たそうだ」
「それじゃあ、あの凹みは船の跡なんですか?」
麟凰が疑問を挟む。
「さあ。どうだろうね」
老人は麟凰に向かって優しく笑むと話を続けた。
「森下の者は彼らを助けた礼として、渇いた時に真水を約束された」
しほに聞いた話と同じだ。みなもはその事を思い起こしながら聞いた。
「泉の塩を移すというのは君たちが言った通りだ。定められた場所、誰がそう呼びはじめたのかはわからないが、『乙姫の水場』へ口にした水を落とす。落とした次の日から3日の間だけ、泉の水は真水になる。さらに1日のち、3日の間どこかへ溜め置かれた泉の塩が移される、という寸法だ。だが、はじめはそうでなかった」
老人は一旦言葉を切る。
「一人を受け皿に、多くを購う」
「どなたかが、犠牲になっていたのですね」
みなもは空を見上げた。
「そう言い伝えられているね」
「でも、どうして人ではなく用意された皿へと移るようになったのですか?」
「うん。犠牲になる者を哀れに思う龍もいた。彼女は森下の家へ入り、契約に抜け道を作った。印が人の体内へ入れば人へ、だが皿へ落とされれば皿へ」
「では」シュラインが言う。「青柳くんがもう一度皿へと水を落とせば…」
「契約が打ち消されるかもしれないね。確実ではないかもしれないが」
老人の言葉にさくらはゆっくりと息を吐いた。助かる道は残されているかもしれないのだ。
「水場の洞窟は森下の家で造られたものだ。印ですくわれた水を皿に落とせばそこへ泉の塩は移る。口移しに移動させた水はしかし、決して体内に入れてはいけない」
「塩が、移るからですね」
優姫の言葉に老人はうなづいた。
「森下の家の者なら皆、知らされている」
老人は一口、茶を飲んだ。
「そもそも、多人数で水を飲む事など今までにも無かったからね…。このように続くのだとは私でも考えない。恐らく…学もそうだっただろう」
「続く…」
「そう。そこが学の誤算だね」
優しく、優姫にそう言い、老人は再び遠くを見るように視線を上げた。
穏やかに言葉を続ける老人が何を言っているのか、5人にはしばらく分からなかった。
すっと、障子が開くと奥からあらわれた老婆が茶を新しいものと取り替え、出て行った。
「えーと…」麟凰は考える。「さっきの『家へ入った』、というのは…」
「これは婉曲な表現だったね。当時の森下の当主が彼女を娶ったということだ」
「それでは、あの…貴方様にも龍の血が流れているのですね?」
そんな気配は微塵も感じさせない。目の前に座る老人をじっと見つめながらさくらが聞いた。
「口伝に過ぎないがね」
老人はそう言って少しだけ笑った。
* * * * * *
貝殻の捜索、それから青柳を迎えに行く、というシュラインと優姫をひとまず見送り、みなもとさくら、麟凰はまだ森下家に居た。老人に勧められ、遅い昼食を御馳走になっていたのだ。三人は改めて玄関から室内へ入り、先程の縁のすぐそばの和室へと案内された。
食後に熱い焙じ茶を頂きながら、さくらは庭を見た。潮風に強い樹木を選び、しかも四季に花が楽しめるように整えられた庭。だが庭園に良くみられるような池はない。それはここから海が臨めるからだろうか。いや、きっとそうではない。
麟凰は老人が箸を置くのを待った。
「一つ、よろしいですか?」
「なんだろう?」
「最近でも『儀式』は行われているんでしょうか?」
昨日視た光景はいつの物だろうか。男が浴衣姿ではあったがそれほど昔の物だとも思えない。
「うん。森下の家督を継ぐ時には必ず行われる。ただ聞くのと実際にその身で確かめるのとでは重みが違うからね」
老人はふと庭を見た。
「最近では洋が35、その前は私が30の時に行ったきりだね」
「夜、ですよね」
「さよう。あまり人目についても都合が悪いからね」
「都合が悪いんですか」
不思議そうに言うみなもに老人は微笑んだ。
「何しろ口がきけない」
「ああ。そうですね」
両手を打つとみなもも笑った。
三人のやり取りを聞きながら、さくらは昨日天狗に聞いた言葉を思い出していた。
4人によって飲まれた泉の水。
『ただ手順を違えただけ』だと天狗はそう言った。しかし目の前の老人は『印の水はけして体内に入れてはいけない。森下の家の者なら皆、知らされている』と、そう言いはしなかったか。
さくらは目を閉じた。
果たして手順を違えたのは、事故だったのだろうか? それとも――。
みなもとさくらは森下家からの帰り道、道すがらに泉を見て帰ることにした。シュラインからの連絡では無事、件の貝殻を手に入れられた、ということだった。今晩は東京で泊まり、明日に青柳を連れてこちらへ戻る予定になっている。無事に儀式を行えればそれで解決、する筈だ。
「ここから、『水場』までかなりの距離がありますね」
泉に着いたみなもが水場の方角を見てそう言った。泉のある場所は低く、ここからでは洞窟のある大岩も見えない。水を口に含んだまま歩いていくのは中々大変だろう。
「青柳さんに頑張って頂くしかないですね」
そう言ってさくらは微笑した。上手く行けば良いと、そう思う。
老人の話ではすくった水を印――貝ごと水場へ運んでも良いらしいのだが、とにかく貝があまり人目についてもいけない。またすくった水を他の容器に入れるとそれだけでもう印の力は失われてしまうらしい。人を器に運ぶのが一番手っ取り早く、また確実な方法なのだろう。
口に含んだ水を皿に落として、印とする。その時、口の中には微量に水が残る。その微量の水は体内に収めても問題はないのか。そもそもどのくらいの量を体内に入れると契約は履行されるのか。
抜け道、と老人は言ったが、その抜け道によって体内へ収めた微量の水の効力が打ち消されているのだとしたら、青柳の助かる可能性はかなり高いと考える事ができる。
みなもは岩に腰掛けふと頭上を仰いだ。
広がる空は赤く暮れ泥んでいる。
「さくらさん…」
みなもは空を見上げたまま話し出す。
「さくらさんは今回の事件の事、どう、思われましたか?」
海に臨む木々を見ていたさくらは瞬く。
「『どう』とは、どういう意味でしょう?」
今度はみなもが首を傾げる番だった。
「どう、というのは…あの…」
そう続けてしばし考える。
「どうして、こんな事になったのかなって思ったのです」
「……」
「皆さんで海に遊びに来て、泉の水を飲んで…」
みなもはさくらを見つめた。何がきっかけなのか、そこに誰かの意思は働いているのか。
「もしも彼らが水を飲まなければ…。森下様が印の貝を持ち出さなければ…。ここへ来なければ…」
そう言って首を振ったさくらの常葉の瞳が、深い翳りを帯びた。
全ては、恐らく偶然ではないのだろう。
だがもう、確かめる術もない。
夕暮れに涼風が木々の間、葉を揺らしながら泳いでいった。
* * * * * * *
翌日、途中待ち合わせた駅で青柳を拾って、シュラインと優姫が崎浜へ着いたのは午後2時を少し過ぎた頃だった。駅に降り立った彼らを迎えに来ていた三人はにこにこと笑顔の青柳を見て、首を捻った。
「青柳さん…」
思わず麟凰が声を掛ける。
「なんですか?」
半袖のシャツにジーンズというラフな出立ちの青柳はやはり笑顔で麟凰に聞き返した。
「何か良い事でもありましたか…?」
恐る恐る尋ねてみると、青柳は何故そんな事を聞くのだ、という風に首を傾げる。
「だって、俺、助かるんでしょう?」
シュラインの笑みがひきつる。
「いや、あのね…。まだ確実に助かるとは言ってないでしょ…」
「ええっ?」
そう言って眉を顰めた顔をくるりとシュラインの方へと向ける。
「だって昨日の電話では…。それに今日だって、ほら、そっちの道具で助かる筈だって…」
青柳は優姫が大事そうに抱えていた風呂敷包みを指差した。
「こちらが『印』の貝殻なのですね」
青柳とシュラインを置いて、さくらが優姫へと話し掛けた。優姫は静かにうなづく。
「御覧になりますか?」
「それは、是非」
さくらは微笑むと両手を合わせた。
「…でも、そうですね、こんな所では…」
陽射しの中、駅前、しかも皆立っている。さくらの言いたい事を察してみなもが提案した。
「では、一旦宿へと戻りましょうか」
皆異存はなかった。
畳に座ると窓から遠くに光る水面が見えた。みなもはそっと目を閉じ、少し暗い部屋に目を慣らすと、再び目を開いた。昨日も一昨日も気付かなかったが、欄間には見事に龍が彫られていた。
龍。
不意に、みなもは宿の老人を思い出した。あの老人は森下の家が何を担っていたのかを知っていた。しかし実際に何が行われていたのか、と言う事まで知っているとは思えない。ただ、漠然と聞かされて育ったのだろうか。
優姫が皆の前で風呂敷を開けると中からは古びた木箱が出て来た。一本の碧い紐で封をするように、箱の胴がぐるりと結ばれている。
優姫は円座に座った一同を軽く見回してから、慎重な手付きで紐を解き、蓋を開けた。中には白い布に伏せてやや扇形の丸い皿が置かれていた。いや、皿ではない。
「貝殻…。いいえ、これは」
さくらが目を見張る。灰色のそれは日陰の中に沈んでしまう事なく、青く仄かに輝いていた。表面はごく滑らかである。
シュラインは青柳の方を見た。
「青柳くん達が泉の水を飲んだのは…」
「これです」
青柳はうなづいた。
「木崎が幼い頃、森下君の家に遊びに行った時に見たと言ってましたね。確か、森下君のお父さんがそれを使って泉の水を飲んでいたと」
今でもはっきりと憶えている。
「何をしているのかひどく気になっていたんだ」
海へ行こうかと話を持ちかけられた日だ。木崎は明るかった。
何年ぶりかで会ったという従兄弟の話をしていた。
「で、なんだったんだ?」
「それが、奴にも分からないらしい。あっちの家に伝わる何かのまじないみたいなんだけど。今度こっそり道具を持ち出してくれるって言ってたから…、そうだ。お前らも一緒にどうだ?」
青柳は室井と顔を合わせた。
「まじないにか?」
室井がもっともな質問を返すと木崎は笑いながら首を振った。
「違う違う。近くに海があるんだよ。いい旅館もあるって言ってたしな」
「海か…」
たまには良いかもしれない。室井と青柳がOKを出すと、
「よし、決定な」
そう言って木崎は明るく、笑った。
「俺が視たのも、それです…」
麟凰も隣でシュラインにうなづいた。あれは夜だったが間違いない。
「手に取ってみてよろしいですか?」
骨董屋店員という事もあろうか、さくらはそう言って皆の承諾を取り付けると貝を見据え、深呼吸する。
ゆっくりと手に取るとそれは思ったよりもずっと軽かった。目の高さに掲げて、そっと両面を覗き見る。
違う。
少なくとも貝殻ではない。
「これは…、鱗ですね」
さくらが息を飲むその横でみなもが呟いた。
「私も、そう思いました」
滑らかなその表面を見ながら優姫が言った。
「じゃあ…龍の…」
そう言いおいた麟凰に「おそらく」と、さくらもうなづいた。
* * * * * * * *
高台に立った青柳と興信所一行はすぐ足下に広がる青い海を眺めていた。
昨晩、夕飯を食べ終えた6人は計画通り儀式の修正を実行した。
万一に備え儀式の後、6人うしおやで一晩を明かしたが、青柳には何の変化も見られなかった。
みなもなどはいざと言う時に水分をコントロールできるようにつききりで青柳の傍にいたが、それも取り越し苦労に終わったようだった。眠れぬ一夜を過ごした6人は窓の外が明るくなると、それぞれに安堵の息を吐いた。
今、青柳の手には先程森下家へと返却した筈の木箱があった。
「少し惜しい気もするわね」
そう呟くシュラインにさくらは苦笑した。
「もし欲しい方が居るのなら貰って頂いても…それでも構わないと、お爺さんはおっしゃってましたよ?」
青柳に付いて、一緒に森下家へと向かった麟凰が笑顔で片手を差し出す。
「そうなんですか?」
麟凰の言葉にみなもも目を輝かせた。麟凰は「失礼しますね」、と青柳の手にある木箱の蓋をそっと開けた。
陽の光を浴びると一層深い青に輝く。手を伸ばしかけたみなもはふいに、目を逸らし、海を遠く眺める。
「青い…海と空の色ですね…」
「本当ですね」
優姫は頭上、晴れた空を仰いだ。
「どう、なさいますか?」
さくらが軽く首を傾げた。やはり海を見ていたシュラインは青柳の方へ向き直った。
「青柳くんは、いいの?」
「はい」
それだけ言うと青柳は軽く首を振った。
「こんな道具で。他の三人も助かれば良かったな…。木崎も馬鹿なこと言い出さなきゃ…」
そう言いながら、青柳は笑っていた。
真実は恐らく、そうではない。
だが、誰もその事を口にできなかった。
横に立つ優姫は最初に感じた青柳の中の深い闇が少しだけ晴れていることを感じた。
強く生きるために、この人は笑っているのだ。そう、思った。
「みなもちゃんは?」
「うーん、…あたしも、やっぱり遠慮します。これは、天や海にこそ相応しい…そんな気がします」
みなもの言葉を聞き、シュラインはしばし目を閉じる。
「…そうね」
言って深くうなづいた。
――もう、森下も私でお終いだからね。
森下家の老人はそう言うと目もとに笑みを浮かばせた。未練など微塵も感じさせない、清々とした笑みだった。
――空に返せない物なら、いっそ海へ返して下さい。
麟凰によって投げられたそれは優姫の力も受け、まっすぐ、まっすぐに水平線へと向かい。
やがて海の青に滲んで消えた。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086 シュライン・エマ 女 26
翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0134 草壁・さくら 女 999
骨董屋『櫻月堂』店員】
【0495 砂山・優姫 女 17 高校生】
【1147 水無瀬・麟凰 男 14 無職】
【1252 海原・みなも 女 13 中学生】
※整理番号順に並べさせていただきました。
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■ ライター通信 ■
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皆様後編への続けてのご参加、誠にありがとうございました。
よくよく読み返すと伏線の見え難い前編から
皆様良くプレイングを練って頂きました。
ご一緒された他の方の分も合わせてお読み頂けると
一層物語の繋がりが分かり易いかと思います。
設定や画像、他の方の依頼等参考に
勝手に想像を膨らませた所が多々あると思います。
違和感や、イメージではないなどの御意見、
また御感想などありましたらよろしくお願いします。
それではまたお逢いできますことを祈って。
トキノ
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