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<東京怪談ノベル(シングル)>


まなざし


 見慣れた専門学校の前で、あたしは立ち止まっていた。
 もう三分は、このままだ。
 腕時計を見る――約束の時間五分前。
 でも今日はバイトをしに来た訳ではなくて、生徒さん曰く「学校見学」。
 特に予定も無かったから、「行きます」と返事をしたのはいいけど、いざ、学校へ来てみると少し緊張する。
 だって、今まではお迎えの人がいたけれど今日はいないし、たまに生徒さんを見かけても、とても忙しそうに走り回っているから。
(あたし、勝手に入っちゃっていいのかな……)
 何となく、校内に入り辛い。
 せみの鳴き声が響き、あたしは熱の篭った呼吸を繰り返しているのだから、早く校内に入った方が良いのだけど――。
「みなもちゃん、来てたのー?」
 ぼやぼやしているうちに、後ろから声を掛けられた。
 見覚えのある顔――あたしのメイクを担当した生徒さんの一人だ。紙袋を持っている。
「勝手に入っていいのよ? 遠慮しないで」
「え? あ……はい」
 生徒さんに連れられて、校内に入った。
「校内も暑いのよねー」
 と、生徒さんは苦笑した。
「だからほら、すぐに飲み物がなくなっちゃって、私が買出しに行かされているわけなのよ」
 生徒さんが紙袋の中を覗かせてくれた。中にはたくさんの缶ジュースに混じって、袋詰めされた氷が入っている。
「何となく買っちゃったのよね。氷って涼しげだから」
「良いですね」
 ――生徒さんは、あたしよりもずっと暑そうにしている。
 校内は、生徒さんが言うほど暑くはない。確かに、冷房は弱いけれど……。
 ドアを開けると、他の生徒さんが大勢いた。
 みんな、それぞれ暑そうにしながら、夢中で作業を進めている。
(そっか……)
 ――真剣に作業を進めているから、余計に暑くなるんだ……。
 生徒さんは、紙袋からジュースを出してみんなに配った。
「はい、みなもちゃんも」
「ありがとうございます」
 細長い缶を受け取る。
「問題は、この氷をどうするかよね」
 生徒さんは、青い硝子の器に氷を全て入れた。
「はい、これで涼しげなオブジェの出来上がり。――ってのは駄目よね?」
「そうですね……」
 あたしは曖昧に返事をした。
(確かに涼しげだけど……)
 ――他の生徒さんは作業に夢中で、これを見ることは無さそう。
 あたしはそっと器に触れてみた。
 からんと音を立てて、氷が揺れる。心地よい、清涼感。
「口に入れながら作業をすれば、少し涼しくなるかもしれません」
「そうね、それがいいわ」
 生徒さんは一つ氷を取り、口に入れた。
「あー、これなら味つきの物を買えばよかったわ」
 そう言いながら、他の生徒さんにも回す。
 全員に氷が行き渡ったところで、あたしも氷を一つ口に含んだ。
 冷たい物が口内で溶けていき、身体の中に入り込んでいた熱の紐を、徐々に解いていく。
(味は無いけれど、充分に美味しい)
 たまに窓から入ってくる風とあわせて、夏を食べている感じがする。
 平和な気持ち。
 ――生徒さんを見る。
 鋭い程の視線で、生徒さんは休まずに手を動かしていた。一言の会話もない。
「あの、あたし邪魔じゃないですか?」
 傍にいた生徒さんに聞いてみた。
「大丈夫よ。――実はね、今日ここへみなもちゃんを呼んだのは、今までのお礼をしたかったからなの。だから気にしないで」
「お礼、ですか?」
 今までの、というのはバイトのことなんだろうけど――。
「そのことに関してはお給料を頂いているので、気を回して頂かなくても――」
「私たちの感謝はそれくらいじゃ抑えきれないわ」
 生徒さんは力強く言った。
「みなもちゃんくらいだもの。あそこまで立派に、私たちのモルモッ……ゴホッ」
「風邪ですか?」
「そうなのよ、夏風邪かしら? えーとつまり、みなもちゃんのモデルはとても良かったってことなの」
 ――それにしてはやたらと無理のある咳だったけど。
 二つ目の氷を口に入れる。
 からん――口の中でひんやりとした音がする。
 さっきよりも暑くなってきている気がする。熱気のせいか。
 ――それにしても、人が多い。今は夏休みなのに。
「補習ですか?」
「ううん、自発的によ。――さぁ、他のところも案内してあげる」
 ジュースと氷の入った器を片手に、生徒さんがあたしの腕を軽く引っ張った。
「はい」
 とにかく、今日はゆっくり見学しよう。


 廊下にも、たくさんの人がいた。
 さっきよりも人数が増えて、それぞれがせわしくなく動いている。
(これだけの人が夏休み中自発的に学校へ来るなんて)
「毎日来ている人が殆どよ。一日でも休んだら、腕が落ちるからね」
 あたしは生徒さんの横顔を眺めた。生徒さんは少しだけ表情を曇らせているl。
「――感覚が鈍ることほど、悔しいものはないわ。だって、数日前出来たことが今日は出来ないのよ? そんなこと、耐えられないわよ」
 生徒さんのこんな表情を見たのは、初めてだった。
 耐えられない、と呟いた生徒さんはとても苦しそうで――今、その状態なのではと思った。
 それを証明するように、この生徒さんの手は、他の人よりも汚れ傷ついている。
 ――感覚を取り戻すのに、必死なんのだろう。
 それなら、あたしを案内しているのは、生徒さんにとって迷惑なことかもしれない。きっと今だって他の人のように練習したいに違いない。
 ――だけどあたしは「帰ります」とは言わなかった。
 生徒さんが、苦しそうだったから。出口のない場所に自分から進んで行って、あがいているみたいだから。
 あたしは夕方には帰るし、その後は生徒さんも練習に戻るだろう。
 せめて今の間だけ、息抜きをしてもらいたかった。
 ――と、同時に、覆いかぶさってくる感情があった。
 それを振り切るように、
「色んなところが回りたいです」
 あたしは明るく言った。
「そうね」
 生徒さんはちょっと考えてから、
「そうだ、いいところがあるわ」
 と、私の手を掴んだ。


 そこは、倉庫だった。
「もうみんな作業に入っちゃってるから、誰もこないわ」
 生徒さんの言うとおり、少々薄暗い場所に人影は見当たらなかった。
「ここには、何があるんですか?」
 あたしの質問に、生徒さんはクスッと笑った。
「これよ、これ」
 現れたのは、角に耳に蝙蝠のような羽に――あたしのメイクに使われたものばかりだ。
「ちなみに、これが写真ね」
 生徒さんは手帳から何枚かの写真を取り出した。猫姿のあたしが映っている。
 ――自分の顔が真っ赤になっていくのがわかった。
「そ、そんなもの持ち歩かないでください!」
 写真を奪おうとするあたしの手から逃れ――生徒さんは写真を目の前で揺らす。
「だーめ。だってこれは私の腕を示す大事な物だもの」
 そう返して、写真を床に置く。
「みて、ここの部分はあたしがやったの」
 そう言って、あたしの太腿の付け根から下へ向けて指で示す。
 少々恥ずかしいけれど、あたしはその辺りをよく眺めた。他の生徒さんがやった箇所と変わらない。
「完璧だと思います」
「いいえ。駄目だわ。ほら、よく見て。ここの毛の流れが少し乱れてる」
 生徒さんの示す部分を凝視する。言われてみれば、そこには微かな違和感を覚えた。
「駄目ね。全然駄目よ」
 生徒さんは写真を手帳に仕舞いこんで、
「――他の子の方がずっと上手いわ」
 ぽつり、と呟いた。
 ――その言葉は、すぐに消えてしまいそうなほど小さかった。だけど、耳に残る声だった。
 そして、かなしい。
 言葉に詰まって、あたしは氷を口に入れる。氷は解けてきていて、指先から水が零れ落ちた。
 ――沈黙。
「あの」
 あたしは声を出した。
「メイクするの、好きですか?」
「え?」
 生徒さんは驚いていた。
 あたしはもう一度聞く。
「メイクするの、好きですか?」
「そうね……好きだと思うわ」
「だったら、そんなこと言わないで下さい」
 無意識のうちに、言葉が強く前へ出ていた。さっきから感じていた感情が、自分のなかで膨れ上がる。
「人と比べてばかりいたら、メイクするのが好きという気持ちに失礼です。人と比べたり苦しむだけなら、好きという感情を殺してしまうのと一緒です」
 生徒さんは黙っていた。黙ってあたしの言葉を聴いていた。
 もう自分でも何をいっているかわからなくて、あたしは数秒黙り込んだ。
「――でも、苦しむまで夢中になれるものがあるのは素敵です。だから、大切にして欲しくて……」
 ――あたしにはきっと、無いものだから。
 生徒さんが表情を曇らせたときから、あたしはずっと羨ましさを感じていた。
 あたしには、そこまで熱中出来るものがない。
 凄く、損をしている気がする。
 何かに熱中し、喜んだり傷ついたりすることのない、流れていくだけの毎日がとても意味のないものに思えた。
 足元が崩れていくような感覚。
 これでいいのかという不安。
「そうね」
 生徒さんは手帳をポケットに入れて、立ち上がった。
「比べるのは、やめるわ。――そろそろ、戻ろうか」
「はい」
 あたしも立ち上がる。
 ぬるくなったジュースと、殆ど溶けた氷が、過ぎた時間を表していた。


「ねぇ」
 戻りの廊下で、生徒さんが急に声を掛けてきた。
「みなもちゃんが熱中していることって、何?」
「え……」
 一番今悩んでいることを聞かれてしまった。
「まだ、わからなくて……」
「そうなの?」
「はい……」
 あたしはうつむいた。
 ――早くみつけたい。そう思っているけど――。
「あーでも、私がメイクに興味持ったのって、高校三年のときなのよね」
「そうなんですか?」
「うん。だから今やりたいことがあるって言う方が珍しいんじゃないかなー」
(そうなんだ……)
「だからさ、今はみなもちゃんが出来ることを心がけてみたら?」
「出来ること、ですか?」
 それって何だろう?
「そうねぇ。例えば――」
 言葉を切ると同時に、生徒さんはあたしのわき腹をくすぐった。
「きゃっ」
 身をよじったあたしの頬に、生徒さんの手がふれた。
「その笑顔、とかね」
 いつもと同じ、あたしをからかうような口調だった。



 終。