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<東京怪談ノベル(シングル)>


夏の記憶

『10年後にここへ来ようね?……約束だよ?』


 灼けつく陽射しとむせ返るような熱気をはらんだ8月の世界。
 藤井葛はひとり、舗装されていない道路を走る路線バスに揺られていた。
 固いシートにもたれながら、窓の向こうを眺めれば、時を止めているとしか思えないほど変わり映えのない緑の景色とまばらな民家が続く。
 10年ぶりの故郷。
 膨大な課題、進まない卒論、嵌り込んでいるネットゲーム、わずかながらの人間関係――――それらすべてを東京に置き去りにして、葛はここに来た。
 今の自分には、小さなショルダーバッグだけが供である。
 いくつものバス停を通り越し、いくつかの乗り継ぎの分岐に立つ。
 時刻表に示された到着予定の数字は確実に減っていき、肌に熱と風を受けながら立ち尽くす時間も比例して長くなった。
 自分が住むあの都会では想像も出来ないような時間配分。
 故郷に帰ってきたのだと、こんなところでも実感する自分がいる。
 
―――――『……かずちゃん』
 
 バスのエンジン音を聞いていたはずの意識に、不意に入り込む記憶の向こう側から届く幼い彼女の声。
 それに重なる電話のベルは、1年前の記憶。
 事故が起きたと自分に告げたのは誰だったのか。

『かずちゃん……忘れちゃいやよ』
 
「俺はちゃんと覚えてるよ……」
 ショルダーバックを握る指に、わずかばかりの力がこもる。
 他人の干渉を嫌い、常にマイペースを貫く自分が、彼女と交わした約束のためだけにバスを乗り継いできたのだ。
「あなたが呼んだから、俺はここに来たんだ」
 哀しい記憶に心が落ち込んでしまうより早く、バスがブレーキ音とブザーで目的地到着を告げた。
 

 見上げればどこまでも続く深緑。どこまでも続く青空。くすんだ鈍色の空気に満たされた東京ではありえない色鮮やかな風景に、葛は小さく息をつく。
 何もかもが自分のいる世界とは違う代わりに、何もかもがかつて自分がいた世界と変わらない。
「………」
 誰もいないバス停を背に、無言のまま、10年前の『約束』が眠る場所へと歩き出した。
 足元をくすぐる草葉。名前も知らない小さな花達は様々な色を大地に映して風に揺れる。
 緑の生い茂る中へ踏み込んでいく体験は、幼い冒険を思い出させる。
 懐かしい気配。懐かしい香り。
 あの日の幻影を追うように、葛は足を速めた。
 今ならば一跨ぎで越えられる小川の清流。崩れかけた道。木の根があちこちに這い出て、転がる石とともに足場をさらに悪くする。
 動物の影を見ることはなかったが、鳥のさえずりと微かな森のさざめきが、葛に生物の息遣いを伝えてくる。

『もうすぐよ。ここを抜けたら妖精たちの丘が見えてくるの』

 視界を遮る木々のアーチを通り抜け、辿り着いたのは小高い丘の開けた空間。
「……見つけた」
 安堵に近い呟きが、口から零れ落ちる。
 草原と呼ぶにはあまりにも小さいけれど、幼かった10年前の自分には十分な遊び場だった。
 中央には取り残されたように一本だけ小さな樹が伸びている。
 屈んでよくよく目を凝らせば、子供の目線で刻まれた疵が薄く残っている。指でなぞれば、わずかな凹凸を感じることも出来た。
 間違いない。ここは、彼女との約束が眠る場所だ。
「………俺は…来たよ……」
 葛は抱えたショルダーバックからガーデニングで使用する小さなスコップを取り出す。
「たとえ何を忘れても……あなたとの約束は忘れたりしない……」
 跪き、木の根元にそれを突き立てる。
 久しぶりの固い土の感触。
 さらりと流れた長い黒髪が小さな身体を包み込み、繭玉のようになりながら、地面を少しずつ掘り起こしていく。

『今日の記念に。ね?ステキだと思わない?』

 今、心を占めるものは、10年前に幼馴染と交わした大切な約束。

『10年後、またここへ来ようね?これはその時まで埋めておくの。思い出と一緒に封印』

 小学校に上がる前から傍にいた。いくつもの季節をともに過ごし、いくつもの想い出を共有した。
 小柄な自分よりもさらに華奢で小さかった幼馴染は、人懐こい笑みで、あまり進んで人と交わろうとしない葛の手を引く。そしていともたやすく、人の輪へ導くのだ。
 そして、時に彼女は自分だけを秘密の冒険にいざなう。
 本を愛し、幻想世界に心を委ねた彼女は、少女と呼ばれる時を過ぎても不可思議な現象を追いかけることをやめなかった。
 現実主義者を自認する葛にわずかばかりの神秘主義が混じりこんでいるとすれば、それは幼馴染によってもたらされたもの。
 あの、夢見がちな瞳が自分にもうひとつの世界を見せたのだ。

『この世界には不思議があふれてる。きれいなものがたくさんあふれてる。それってすごくステキなことだよね』

 かつん。
 金属質な音が響き、スコップが土の下の固いものに突き当たる。
 葛は、今度は素手で土を掻き分けていく。
 次第に姿を現したのは、過ぎた年月によって錆付いたお菓子の汚れた缶だった。
 表面についた土をざりざりと払い落とすと、爪を立て、歪な蓋を抉じ開ける。
 中にはメリーゴーランドをかたどった小さなブリキのオルゴールがひとつ。少しばかり酸化してしまったが、赤銅色は日を浴びて微かに閃き、それが深みを持たせている。
「………ちゃんと動くかな…」
 慣れない手つきで、土台から突き出たネジを回す。
 ギチギチギチ――――
 手応えがなくなるまで回した指を離せば、そこから奏でられるのはやわらかな金属質の『アメイジング・グレイス』。
 音楽とともに、ぎこちなく、土台の上のメリーゴーランドも回る。
 彼女の宝物。そして自分の宝物。ふたりがあの日共有した時間と封印された記憶が動き出す。
 懐かしいメロディに包まれながら、葛は木の下で静かに眼を閉じた。


『ねえ、かずちゃん……あたしと妖精を探しに行こう?』


 小学校最後の夏休み。葛はいつものように彼女に手を引かれ、いつもとは違う幼い冒険をした。
 誰にもナイショでふたりきり、柏の樹の前で待ち合わせ、いくつものバスを乗り継いだ。
 リュックサックにはお弁当とお菓子とジュースの缶。子供用のシャベル。レジャーシートにブランケット。
 そして彼女はブリキのオルゴールを持ってきた。
『妖精を見つけるには『透視力(セカンド・サイト)』って言うのが必要なんだって。特別な人にそなわってる力だってあったの』
 色鉛筆でやわらかく描かれた美しい妖精画を幾度も彼女に見せてもらっていた。
 絵本の中で生きる幻想の生物。
『じゃあ見れないんじゃいの?』
 少なくとも自分にはそんな特別な力がないことを葛は知っている。
『ん。でも大丈夫なの。ちゃんと本で調べてきたわ』
 嬉しそうに弾む彼女の声が不意に途切れ、葛の視界から消えた。
 どうしたのかと慌てて姿を探せば、彼女は少し道から逸れた場所に屈みこんでいるのだった。
『四葉発見!』
『え?』
『ある本に書いてあったの。あたしたちは特別な目を持っていないけど』
 くすくすと目を細めて笑う彼女の足元で、白い花が風に揺れる。
『四葉のクローバーを頭に乗せると妖精が見えるようになるのよ?』
 彼女の手によって摘まれた四葉が、葛の目の前に差し出された。
『そしてね、時間も関係あるの。妖精と会いやすい時間を選ぶのよ』
 あまり運動神経がいいとは言えない彼女は、木の根や転がる石に何度も足を取られながら、それでも葛の手をしっかりと握って森の中を進んだ。
 本当に楽しげに笑う彼女の顔と繋いだ手のぬくもりが心地よい。
 ずっとこのまま歩いていけば、彼女が夢見る世界に自分も辿り着けそうな気持ちになれる。
 こんな時間を過ごすのも自分は好きなのだと、次第に弾みだす心とともに葛は歩いた。
 川を越え、山道を登り、岩をまわって、そしてふたりは木々のアーチを抜けて秘密の場所へ辿り着く。
 草の上に腰を下ろすと、彼女はハンカチの上に妖精への贈り物を並べた。
 豆とミルクと少しのお菓子。美しい音楽を愛する彼女達のために、ネジをうんと回したブリキのメリーゴーランド。
『あたし達は隠れようね?』
 絵本で得た知識とともに、ふたりは近くの茂みに身を潜める。
 レジャーシートをひいて、頭には髪飾りのように四葉を乗せて、そうして黄昏を待ち続ける。
 大地のにおいが鼻をくすぐる。
 用意したお弁当を食べ、お菓子を摘み、それからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。
 いつの間にか意識の途切れていた葛は、肩を揺すられ目を覚ます。
『……んん?』
 身じろぎ、呻き声を漏らした口を、慌てて彼女の手が塞ぐ。
 目だけを向ければ、ジェスチャーで沈黙を示し、それからそっと指で茂みの向こう側を指し示す。
『――――!』
 思わず目を見張る。
 金色の光が赤みを増して緩やかに訪れた昼と夜の狭間。
 いつの間にか訪れた夕闇の中にふわりとちいさな光がいくつも燈る。
 一瞬の幻影だと、ただの夢だと言うものもいるだろう。
 けれど確かに見たのだ。
 小さな小さな羽根を持った少女が、オルゴールの音色に乗せて軽やかに踊る姿を。
 ブリキのメリーゴーランドへ白い指を掛け、くるくると一緒にまわる姿を。
 音楽が止まるたび、小さな彼女達は、精一杯の力を込めてネジを回す。
 木々の茂みにその身を隠し、息継ぎも瞬きすらも忘れて、葛はその光景に見入った。
 頭の上の四葉が見せてくれたのかもしれない幻想。
『すごいねすごいね、かずちゃん』
『………うん、すごい……』
 

 ネジが切れて、ぷつりと音楽が止まる。同時に葛もまた、現実へと意識を引き戻される。
 遠い日の思い出に浸るうちに、もうじきあの時と同じ時間がこの世界に訪れようとしていた。
 だが、ここには葛しかいない。
「10年後に来ようって約束したのに……そう決めたのはあなたなのに……」
 切なげに、苦しげに、呟く言葉。
 足元をくすぐる草葉。名も知らぬままに揺れる花。透き通る空気。色鮮やかな世界。オルゴールの音色さえもあの頃のままだ。
 何も変わっていない。何ひとつ変わっていない。
 なのに、彼女はいない。
 その事実に胸が疼く。心が軋む。
「………なんで…残り1年を待たなかった……?」
 朝方に鳴る電話は訃報を運んでくるのだと言ったのは誰だっただろう。

『…かずちゃん……』

 記憶の中の少女が自分を呼ぶ。
「約束をしたのに……俺をここに連れてきたのはあなたなのに……」
 妖精を見たことは誰にも言わない。ふたりだけの秘密だ。
 黄昏ていく空をじっと眺め、そうして葛は思い出とともにブリキの箱を抱くと、思いを振り切るように背を向けて、もと来た道を歩きはじめた。
 風が艶やかな黒髪をもてあそぶ。
 緑柱石の色を宿した瞳がかすかに濡れ、視界が揺らぐ。

『……ありがとう………』

 その瞬間。不意に耳元へと届いた優しい声。さらりと頬を撫でる、風とは違う誰かの指先。
「―――――っ」
 とっさに振り返る。
 陽が傾き、金色の光射す世界で、葛は幼馴染の名を呼びたかった。
 振り返ったその場所に、四葉のクローバーが揺れている。
 風に撒かれ、花びらが舞い上がり、さざめきが森を撫でて行く。
「…………」
 確かに今、自分は声を聞いたのだ。
 想い出の少女ではなく、あの日から数えて10年と呼ぶにはひとつ足りない月日を過ごした彼女の声。
 浮かぶのは、いつまでも少女のようだった夢見るように優しい笑顔。 
「………約束…だったからね」
 あふれ、こぼれた涙の雫がメリーゴーランドを濡らす。
 それでも、幸せだと思えた。彼女は約束どおりここへ来たのだから。




END