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光、再び
全ての芸術は模倣に始まる――。
久世俊光という名の画家がいた。かつて他者の『死の瞬間』を描くことを目的とし、そのために他者の命を奪い続けた狂気の画家が。
「最後の作品は、確かまだ見つかってはいない――そうでしたね?」
草間興信所を訪れた夫人は、久世千秋と名乗った。久世俊光の妻であった女性は、草間の言葉に深く頷く。だが何故か彼女は落ち着きがなく、どこか不安げな様子だ。
久世俊光最後の作品。それは噂に寄れば『久世俊光の死』というタイトルの油絵らしい。だがその油絵が実際に人々の目に触れることはなく、最近では存在すら危ぶまれているというものらしい。
「絵が、送られてきたのです――……」
震える声で、夫人が言った。
「絵、ですか」
「――あの人の、最後の作品です。間違いありません。あの作品は間違いなく、主人の最後の作品です。それが、先日私へと送られてきたのです」
「今まで行方の知れなかった絵が戻ってきたのならば、それは喜ぶべきでは?」
「ただ絵が戻ってきただけならばそうでしょう……けれど絵の差出人の名は、主人の名だったのです……主人は死んでしまった。私はそれを知っています。それなのにどうして、何故今になって……!」
成程、と草間は思う。確かにそれは妙な話だ。
そもそも、久世俊光という画家はかつて、彼自身が設計した美術館の地下にて殺戮を繰り返し、最後には自身の死を封じていた絵を――『久世俊光の死』というその絵を燃やされたときに既に消滅している。かつてその依頼に関わった人々からそれを聞いていた草間は、彼の最後の作品と久世という画家が存在しないことを知っていた。
にもかかわらず、ある筈のない絵は送られていた。存在する筈のない男によって。
「どうか、この絵の送り主が誰であるのかを調べて下さい――もしも、もしもまだ主人がどこかを彷徨っているのであれば……どうか、その時は……」
夫人の依頼を受けることにした草間は、久世俊光の作品を数点展示しているという美術館にて死者が発見されたことを知った。
その美術館は、かつて久世が事件を起こした場所であり、彼の死後に画壇に認められた傑作『光』が展示されている美術館である。
そして、かつての事件と同じように、美術館には新たな絵が一枚増えていたのだという。
そう、美術館で発見された死者の最後の瞬間を描いた絵画が一枚。
「最近、事件のせいもあって美術館を訪れる人が多くなったんです。中には毎日毎日久世俊光の絵を見にいらっしゃる方もいる位で――けれど、本当にあの久世画伯なのでしょうか?」
美術館の学芸員である目黒理沙は告げる。
「この事件の調査を依頼したいのですが――受けて頂けますか?」
++ 『久世俊光の死』 ++
今でも、久世俊光が絵を描き続けたアトリエはそのままにしてあるのだという。
訪れた玄関先で、草間興信所の紹介で事件の調査に来たと告げると、千秋は何の躊躇いもなくシュライン・エマ(―)たちを応接室へと招きいれた。
「何が何だか分からないのです。主人が死んだというのは間違いありません。私はあの人の遺体をこの目で見たのですから――確かに、生きていてくれたら、と思うことはありますが、けれどそれは在り得ないことです。在り得ないんです……!」
ハンカチを握り締めた細い両手が震えている。たとえそれが生涯を共に生きようと誓い合った相手であろうとも、やはり死者から絵画が送りつけられてきたとなれば、生きていたとそう思うよりもまずは不気味に感じるのが普通の反応だろう。
「その絵が送られてきたとき、何故それが久世画伯最後の作品であると分かったのでしょうか?」
問いかけたのは青い髪が印象的な、清楚さを感じさせる美少女だった。シュラインと同行してここまでやってきたその少女の名は海原・みなも(うなばら・みなも)という。そして彼女とは対照的ともいえる華やかな金髪碧眼の美女がウィン・ルクセンブルク(―)だ。
「直感です。あてにはならないと思われるでしょうが――あの人は《生》や《死》といったものを描くことにひどく執着した人でした。ならば、最後に行き着くのは自身の死であろうことは、たやすく想像できます。そして送られてきた絵が、あの人のまさに最後の瞬間を描いたものであれば、そう感じても無理はないでしょう」
つまり、夫人はあの絵を久世俊光の作品であると信じて疑ってはいないが、精巧に作られた贋作の類であるという可能性は残されているということだ。共に贋作作家なるものを視野に入れていたシュラインとウィンは、無言で顔を見合わせて小さく頷きあった。
「絵は、確か宅配便で送られてきたのでしたね? その時の送り状の筆跡は、久世画伯のものだったか覚えておいでですか?」
シュラインの問いに、夫人は頷いた。
「送り状はまだ保管してありますが、筆跡は主人のものではないような気がします。ご覧になりますか――送り状と、そしてあの絵を」
「是非。幾つか調べたいことがあるので、多少の時間を頂きたいのですが」
ウィンがそう申し出たのには理由がある。
彼女は問題の絵と、それを包装していた用紙をサイコメトリーして、送り主の情報を少しでも多く入手しようとしていたのだ。そのためには、落ち着いて精神統一できる場が必要だった。
「絵も送り状もアトリエにあります。ご案内します――」
夫人がソファからゆっくりと席を立って歩き出す。ウィンたち三人はそれに続いて歩き出した。
三人を地下のアトリエに案内すると夫人は応接間へと戻っていき、みなもは送り状から宅配便会社に問い合わせて、荷物を受け入れた店舗などを調べてみるとのことでやはりアトリエから出ていった。
その場に残されたシュラインとウィンは、アトリエの一番奥に飾られた一枚の油絵を見上げている。
「あなたは本物を見ているのよね? 美術館の地下で――どう?」
シュラインがかつて久世画伯が起こしたという事件の解決に関わったということを知っていたウィンが、絵から視線を外す。
「どうって、何が?」
「本物の《久世俊光の死》という作品を見たことは?」
「美術館の地下で。見たこともあるし燃やしたこともあるわよ
「それだけやってれば十分よ。で――モノは同じなの?」
軽口と苦笑に苦笑で返されると、シュラインは再び絵に見入った。
それは確かに、久世俊光を描いたものだろう。あの美術館の地下でシュラインが燃やしたあの絵に描かれていたのと同じ人物が描かれていることは確かだ。
描かれている人物も、作風も、タッチも同じ。
だが決定的に違っている点があった。それは構図、だ。
「別物ね。けれど夫人に《本物》と言わせるだけの絵よ。構図以外は確かにあの久世画伯のものと思わせるほどの雰囲気があることは確かね。もっとも――あまり絵は詳しくはないんだけれど」
「それはそれで厄介ね。構図も全てが同じならば、その絵について知られていないが故に絞りようはあるもの。どこかの誰かが想像して描いたなんていう物だとしたら、あまりに範囲が広すぎるわ」
「それを狭めるために、あえて夫人を遠ざけたんじゃないの?」
悪戯っぽい眼差しをウィンに向けると、ウィンは否定せず笑みを返す。そこに軽くドアをノックする音が響いた。
シュラインがドアを開くと、そこにはみなもが立っている。
「どうだった?」
なるほど最近は送り状のナンバーさえ分かれば、電話一本で荷物に関する問い合わせが出来るのだったかとシュラインは思い出した。
「荷物を受け付けたのはコンビニですね……絵を送るにしては杜撰な気がしないでもないですが……一応店舗の住所も調べてありますから、後で話を伺いに行こうかと思います」
「こっちも丁度始めるところよ――といっても始めるのも見るのも私ではないけれど」
ドアを閉めて、二人はウィンへと歩み寄る。
ウィンはじっと目を閉じていた。そのままで、ゆっくりと手を伸ばす――死の瞬間が描かれた絵へと、指先が触れる。
途端、脳裏に――幾つもの光景が次々に流れ込んできた。伸ばした指先をきつく握り締める。まるでビデオを早送りにしたものを延々と見せられているような感覚。
その中で、ふと興味を引かれる映像がちらちらと見え隠れしている。ウィンはそれに意識を集中し、他の細切れな映像を脳裏から追い払った。
机の上に置かれた油絵。
それを梱包する男の手――男の右手首には、黒子がある。
「――右手首の、黒子」
そう呟き、ウィンは目を開いた。まだ脳裏に過ぎっていた映像の数々の残滓が見えてしまうような気がして、それらを追い出そうと首を左右に振る。そのたびに金髪が柔らかく揺れた。
「どうでしたか――?」
アトリエの隅に置いてあった椅子を引きずってきたみなもが、ウィンに座るように促した。疲れてはいたがそれを悟られないようにと配慮していたつもりであったが、やはり隠し切れなかったらしい。まだまだだと思いつつも、こうした心遣いはやはり嬉しいものだ。
「宅配便で送られてきただけあって、余計なものがいろいろ見えて困ったわ。でも、それらしいものも見えたわよ」
足を組んで、その膝の上に両手を置く。
シュラインが椅子の背に片手を置いて、ウィンの顔を覗きこんだ。
「それらしいモノ?」
「あの絵を梱包している男の手。右手首に黒子があったわ――」
ウィンが視線で指し示した場所には、あの絵が――《久世俊光の死》なるタイトルを与えられた絵画があった。
++ 美術館にて ++
その後、シュラインはやはり同じ事件を追っているであろう友人、村上・涼(むらかみ・りょう)と連絡を取り合い、それぞれの状況を互いで確認し会った。
『こっちも美術館には行くつもりなんだけれど、先にコンビニの方回ったほうが近いかもしれないからそっち行くわ……つーか五月蝿いわよ犬! 昼ゴハンにはまだ早いでしょーが!』
電話口で大声を上げないで欲しいと切に願いつつ、耳から少し携帯電話を離す。
「荷物を受け取った方に、話を伺って欲しいと伝えてもらえませんか?」
みなもは電話の向こう側に誰がいるのかは知らない。だが同じ事件を追っているということだけは理解できた。
『オーケー。ちゃんと話聞いとくわ。んじゃ犬がメシメシ五月蝿いから移動するわ。また後でね』
どうやらみなもの言葉は、しっかりと涼へと聞こえていたらしい。
そして当然の如く、涼の言葉もまたみなもや――ウィンに聞こえていた。
不審そうにウィンが問いかける。
「犬って聞こえたんだけれど気のせい?」
さてどう答えたものかと――思案した後にシュラインは笑顔で切り返した。
「犬は嫌い?」
「嫌いじゃないけど……じゃあ本当に犬を連れ回してる人がいるの?」
「今日犬でいるかどうから分からないけれど、いるわよ。ポメラニアンでなかなか可愛いわよ。愛嬌があるタイプで」
「……今日犬でいるかどうか分からないって、それは既に犬に対する言葉じゃなじゃない。なににせよ、会えるのが楽しみではあるわね」
三人は今、問題の美術館へとやってきていた。色とりどりの花が植えられてある庭園を抜け、正面玄関を抜けたその先には二階部分までが吹き抜けになったロビーがある。先に連絡をしていたため、目黒理沙はシュラインたちの到着をそこで待っていたようだった。
理沙はシュラインたちの姿を認めると、案内するかのように歩き出した。おそらく久世俊光の作品が展示されている部屋に向かっているのだろう。
「目黒さんは、どう考えているのですか?」
慌てて理沙の横に並んだみなもが問いかける。
宅配便で送られてきた一枚の絵。それは何処から来たのか、あるいは何処からも来なかったのか――それが分かれば相手が、その絵を送ってきた人物が実在するのか否かが判明する。
そして、みなもは今確信していた。相手は紛れもなく『人間』であると。
「久世画伯の奥様のところに送られたという絵画についてですか? 一応その絵を見せてもらったことがありますが――正直本物なのか私には分かりません。確かに絵のタッチなどは久世画伯そのものといってもいいでしょう。けれど、久世画伯はもういないという一点が、全てを否定する」
「発見された絵と、そして死者は何処で……?」
「この美術館に、久世画伯の作品だけを集めたホールがあるんです。そこで――」
「死者は、以前と同じような状態だったのかしら?」
室内の美術品や絵画に目を奪われながらも、しっかりと理沙たちの会話は聞いていたらしい。ウィンはきょろきょろと周囲を見回しながらそう口にする。
「いいえ。刺殺だそうです――ここが、そのホールです」
ほの暗いライトで淡く彩られた部屋の一番奥に、それはあった。
まるで、光輝いているかのような――それほどに、その絵は目を引いた。
「……あれが、久世俊光画伯の《光》よ」
シュラインが言うよりも早く、みなもとウィンはまるで導かれるかのようにしてホールの中へと、その絵の側へと歩き出す。
それは、森を描いた油絵のようだった。否――正確に表現するのであれば、それはタイトルの通りに、『光』を描こうとした作品であるように、みなもには思えた。
新緑の緑。緑溢れる森の木々――その狭間から光が筋となって降り注ぐ光景を描いた作品は、言葉を失うほどに静謐で、それでいて優しげな、懐かしい印象すら感じさせる。
「……これが、久世画伯の……これを描いた方が人の死というものに執着したなんて……信じられません……だってこの絵はこんなに――なんていったらいいのか分かりませんが、こんなにも綺麗で、それなのに」
みなもは隣に飾られている絵に視線を移す。そこには『光』とはうって変わった暗い画風の絵が壁にかかっている。それらが、人の死を描いたという問題の作品群だ。
不思議だった。
何故、これほどに美しい光景を描ける人物が、人の死というものに惹かれ禁忌を犯すに至ったのか? そしてこの光と闇を体現したかのような絵の両方が、ただ一人の手によって描かれたのだということが信じられず、曖昧な言葉が口をついて出てしまう。
だが、その絵を見ている者たちにはみなもの言葉は伝わっていた。
「久世画伯にとっては、『光』も『闇』も同じだったのよ。それどころか『生』と『死』といったものですら、画伯にとっては似た意味を持つものでしかなかった。彼は、『形なきもの』を絵画として留めておくことを願い、それを実現しようとしたのよ」
シュラインの説明に、ウィンは《光》に向けていた目を薄く細めた。
こうして見ているだけでも、流れ込んでくる光景がある。それはおそらく、この場所でこの絵を見つめ、そしてその美しさに息を呑んだ人々の表情なのだろう。
「これならば、確かに毎日この絵を見たいと思っても無理はないわね。確か、常連さんがいるのよね?」
「はい、毎日。いつも決まった時間に姿を見かけますから、今日もそろそろいらっしゃるかと思いますが」
「その人は、死体が発見されたって事件よりも前から?」
ふと興味をひかれたらしいシュラインの問いに、理沙が頷いた。
「二ヶ月くらい前からだと思います」
「その人は何をしてる人なのかしら? 少なくとも毎日通ってるってことは、定職についているとは思えないし……?」
ウィンが口元に白い指先を押し当てて呟く。
「私も知らなかったのですけれど、有名な方のようですよ。別の学芸員に聞いたところ、絵の修復だとか複製とかを得意としている方のようで。腕は良いとのことですけれど、贋作も手がけているとなると、あまりいい印象は持てませんよね」
「贋作、ね……」
ならば、もしかしたらとシュラインは思う。
久世夫人は、送られてきた絵は間違いなく久世画伯のものであると言った。だがもしかしたら、それが腕の良い贋作作家の描いたものであるとしたら? そうしたら久世俊光が死亡しているという事実は、現実は揺らぐことはない。
久世俊光が存在しないということは、新たな作品はもはや生まれないということだ。もしもそれが新たに生まれてしまったのならば、それは別の何者かによって描かれたと考えるのが普通だろう。
そして、贋作作家という可能性を視野に入れていたのはウィンも同じだった。
みなもが、首を傾げてウィンとシュラインを交互に見る。
「何か気になることでも――?」
「ええ……そうね。その贋作作家を見てみたいわね。もしかしたら――」
そこから先の言葉をウィンは飲み込んだ。
もしかしたら、その人物の右手首には黒子があるかもしれない、という言葉を。
同じことを考えていたシュラインは、ウィンが飲み込んだ、語られる筈のなかった言葉に小さく頷く。
「もしかしたら、大当たりを引き当てる可能性があるわ――しばらく客として様子を見ましょう。問題の客がきたらそれとなく教えてくれないかしら?」
シュラインの言葉に、理沙はこくりと頷いた。
男が現れたのは、正午を回るかといった時刻だった。
ふらりと姿を見せた男は、他の展示物には目もくれずに真っ直ぐに《光》へと歩み寄る。みなもはさりげなく男に場所を譲りながら、ホールの入り口周辺に立っていた理沙を振り向いた。理沙は男に気づかれないように小さく頷いて見せる。
食い入るように男は《光》に見入っていた。
ぶつぶつと、口の中で何事かを呟いているようだが、その内容まではみなもには届かない。
ただ、感じるのは淀んだ空気。
この男が纏っている空気は、ひどく重くて、そして淀んでいる。
(……右手、でしたね……)
ウィンがサイコメトリーした時の映像には、右手首に黒子のある人物があった。その人物が事件に、そして送られてきた絵に深く関わっていることは明らかだ。
ウィンとシュラインは少し離れたところで、それぞれ絵に見入っているふりを続けながらも時折、男に油断なく視線を走らせている。ここで逃げられてしまえば元も子もない。 男の横に並んで《光》を見ていたみなもが、その場を立ち去ろうと絵に背を向けた。その拍子に、男の右手首に視線を向ける。
(――黒子……!)
無言でシュライン達の元へと歩き出す。そして小声で言った。
「ありました――どうしましょう。この場で話を聞きますか?」
「シラを切られたらどうしようもないわ。言い逃れさせないようにするには、現場を抑えるしかないでしょうね」
「なら、答えは一つじゃない」
ウィンが壁にもたれかかりながら言った。
「もしも彼が本当に久世俊光の死という絵を送ってきた人物ならば、そしてあの事件に関わっているのであれば、彼のアトリエには人の『死の瞬間』を描いたものか、それに近いものが見つかるはずよ……あとは、美術館で発見された死体に関する何か――例えば殺害に使った武器とかね」
「この場で追求するよりも、あの人の後をつけてアトリエの場所を見つけたほうが良策ということですね……」
ぼそぼそと小声でやりとりするみなもたち。一枚の絵の前で会話しているので、その絵についての感想を互いに言い合っているとしか見えはしないだろう。
そして、三人は待つことにした。
男が、動き出すであろうその時を。
++ とりつかれた男 ++
男はそれから数十分後に美術館を後にすると、近所のコンビニで幾つかの買い物をして家路へとついた。
そのコンビニで、やはり例の男が毎日現れるという情報を入手していた涼や崗・鞠(おか・まり)、そして彼女の守護獣である橘神・剣豪(きしん・けんごう)と合流したシュラインたちは、一定の距離を保ちながら男の後をつける。
「名前は、榊健太郎。美大を出たてのころは、普通の絵を描いていたみたいだけれど――ここ数年ね、彼が贋作作家に転向したのは」
男のプロフィールは、理沙が調べてくれたものだ。とはいってもやはり時間がなかったために、簡単な経歴くらいしか分からなかったようだが。
「どこに向かうつもりでしょう……?」
先行している剣豪の様子を見守る鞠が誰にでもなく問いかけた。
とてとてと、軽い足音を立てて榊を追いかける剣豪は犬の姿を取っている。なににしろシュラインたちの集団は別な意味で目立つのは確かだ。となるとやはりある程度の距離を取らない訳にはいかないであろうし、距離を取るということはそれだけ榊を見失う確立が上がることも意味する。
そして考案されたのが剣豪を先行させるという案だった。
案というよりも、涼が『行け犬! 可愛らしい犬を演じてぴったりマークするのよ!』などと高らかに命じ、鞠が後押ししてお願いした、というだけなのだが――ちなみにシュラインたちの集団が目立つ要因となったのは、明らかにその時の、剣豪と涼の言い争いが元凶であることは言うまでも無い。
男が最終的に辿り着いたのは、町外れにある古い洋館だった。
錆びた鉄の門。蔦の絡まったレンガ造りの赤い建物。敷地内には腰近くまで伸びた雑草が所狭しと生い茂っている。
「ふ……断然好都合ね」
「好都合、ですか……」
何故か腰に手をあてて誇らしげに胸を張っている涼に、多少の疑問を覚えた鞠が呟く。すると涼が強く首を縦に振った。
「だって見てみなさいよコレ。隠れ放題よ? もう不法侵入してくれって言ってるようなモンだわラッキー」
「流石にそんなことは考えていないと思うけど……でも古くて家の作りもしっかりしてるみたいなのに……ロクに管理されてないのかしら」
不思議そうに呟いたシュラインがそうっと敷地内へと足を踏み入れる。その後に続いたみなもも首を傾げた。
「庭もこの状態ですし……この屋敷に住んでいるのって、もしかしたら榊さん一人なのかもしれませんね」
「そうね。誰かいたらここまで雑草ほっといたりしないでしょうし」
少なくとも自分ならば耐えられずに、草むしりに精を出してしまうに違いない――そんなことを思いながらシュラインが振り返ると、ウィンが右手にある小さな建物を指差した。
「アトリエは多分向こうの建物じゃないかしら?」
鉄の、蔦のような意匠を凝らした門から敷地内に足を踏み入れ、すぐ右側に小さな建物。それは正面に見えるそれと同じく煉瓦造りの建物であったが、都心の一軒家程度の広さであるようだった。
剣豪は背の高い雑草の中に埋もれながらも、くんくんと鼻を空に向けて動かしている。
「ん。美術館と同じニオイがするから俺もきっと向こうだと思う」
「どうしますか?」
剣豪の言葉を受けて、鞠が問いかけると、すかさず涼がよどみなくごくごく当然のように口を開く。
「皆で踏み込んでボコって押さえつけて白状させて終わり。あ、警察連れてかないと駄目?」
「駄目ですね、多分」
「でも多少順番かわってもきっと怒らんないと思うけど」
「怒られなくても、取調べは受けるかもしれませんね」
「げー最低。じゃボコるのはやめねやめ!」
ぶんぶんと首を左右に振る涼に笑みを含んだ眼差しを送るウィン。その耳元に、シュラインが囁く。
「人がいるわ――例の建物の中」
夕日の光を淡く反射させる窓は、長いこと手入れされていないのだろう――隅に埃が積もっていた。ウィンは足音を立てないようにと注意を払いながら、その窓へとそうっと歩み寄る。
「見えない! 見えないぞ俺が!」
犬の姿を取っている剣豪にとっては、この窓の位置は高すぎたらしい。じたばたと悔しそうに暴れる剣豪を鞠が抱き上げると、途端に彼は大人しくなった。
みなもがそっと窓から中の様子を覗き込んで、息を呑んだ。
両手足を縛り上げられた少女の姿が、そこにはあった。
少女は後ろ手に両手を縛られ、さらに足首をも拘束された状態で床に転がされていた。口にはガムテープが張られて声すら出せないようだ。おそらくあれは少女が助けを求めるために大声を上げられぬようにとのことなのだろう。
大きく見開かれた目には、ありありと恐怖の光。
少女に歩み寄り、そしてその眼差しを覗き込むようにしてしゃがみ込んだ榊は、パレットナイフを手にしている。
「何を恐れることがあるんだい」
憎しみも哀しみも絶望も希望も、何も感じられぬほどに淡々とした言葉。それは床に転がった少女に向けられたものだった。
『何を恐れることがあるんだい。きみの死は絵画として描かれ、永遠を得るだろう。そして私はより近づくことが出来る。久世俊光という禁忌を犯したが故に偉大なる画家にね』
倒れたイーゼル。放り出されたキャンバスは鋭い刃物で切り裂かれた跡が見え隠れする。二つにへし折られたままのパレット――どこかが、あるいは全てが、歪んでいた。
「拙いんじゃないかしら……」
ウィンの言葉に誰も反論することは出来なかった。
彼の言葉を聞く限りでは、とうていこの先に穏便な展開など期待することはできない。
「どうしますか――?」
鞠が問いかける。その腕の中から脱出しようと剣豪がばたばたともがいていた。
「どうするもナニも、危ないんだったら助けりゃいいんだよ!」
「――そーよね。そうなのよ。うん。珍しく犬と意見の一致をみたわ。うん珍しく」
「犬じゃねえって言ってんだろ噛むぞ!」
「うるさい! 行くわよ」
鞠の腕の中から剣豪をかっさらい、涼がアトリエの入り口のドアに蹴り込む。建物のつくりとは裏腹に、ドアや窓はかなり脆いらしく中に入るのに苦労はなかった。
「見ていても仕方ないのは確かだけど……もう少し地味に出来ないかしら、地味に」
溜息まじりにシュラインが呟く。だがいつまでもそうしてはいられない。
みなもとウィン、そして鞠を促してシュラインも涼たちの後へと続いた。
「あなたですね――」
夕日が差し込む画材が散乱したアトリエに足を踏み入れた鞠は、じっと榊を見つめる。
「あなたが、あの絵を――」
「邪魔をしないで貰おうか」
眼差しに宿る光に、みなもは思う。きっとこの榊という人物には、もはや自分たちの言葉は届くまい、と。
何故ならそれは明らかに、決意して、そしていろいろなものを吹っ切ってしまった者の目であり、そういった覚悟じみた光の宿る瞳に見えたのだ。
「その人を解放してください」
「ならばきみが変わりになるかね? 何、恐れることはない。きみは永遠を得るだろう」
みなもの要求に榊はまるで当然のようにそんな言葉を返す。
「永遠?」
腕を組み、榊の言葉に耳を傾けていたウィンが壁から背を離した。その言葉には嘲るような響きすら感じられる。
何が永遠なのだろうと思う。他者の人生を勝手に終了させてしまうような者に、永遠などというモノが描けるはずはない。そんなことは、断じてあってはいけない。
「あなたが書きたかったのはそんなモノなの?」
「久世俊光が描こうとしたものを知っているかい」
シュラインは床に転がされたままの少女に歩み寄った。おそらく、少女を解放したところで、この男は激昂したりすることはないだろうという――確信があったのだ。
「形なきモノを、描こうとしたのよね――」
「そう。形なきものを描くことを目的とし、それはやがて人の生と死というテーマへと行き着いた。私は彼の所業を、彼の行いを、彼の芸術を追体験することで近づけると考えたのさ――分かるかい? 私は彼のようになりたかった。否――私は絵が描きたかった。人生を賭けてでも、心震えるような。私の心をふるわせた久世俊光が描くような、あの絵が」
「やっと、分かりました――」
今は思う。久世俊光という画家は本当に、天才と呼ばれるモノであったのかもしれない、と。
榊は絵が描きたかった、それは本当なのだろう。その手段は――目標とした久世俊光もそうであったが、決して褒められたことではない。けれど、誰かの人生にそこまでして影響を与えることが出来るという才能は、きっと稀有なるものだ。
「あの絵は、送りつけたあの絵はあなたにとっては『過程』に過ぎなかったのですね」
鞠の静かな言葉――榊は満足そうに頷く。
「久世俊光の妻は、あの絵を『本物だ』と判断した。分かるかね? つまり私は近づきつつあるということだ――あの領域に」
わなわなと歓喜に震える手。
「なんだ――つまんねーの」
鞠たちと、榊の間――ちょうど中央に剣豪はいた。
榊が不審な動きをしても、鞠を――そしてシュラインたちを守れるようにと、彼はそこにいた。
「前のヤツもそーだったけど、お前もいろいろ間違えちゃったんだな。誰だって他の誰かになんかなれる訳ねーのに」
どれほど強く望んでも、どれほどの憧れをもってしても、他の誰かになどなることは出来ない。
けれど、男は願い実行した。
「結局そーなんだろ? いろいろ言ってるけど、久世って画家のことが羨ましいだけなんじゃないのかよ。自分があんな絵が描けなくて悔しくて――だけどソレって違う。描けないなら描けるように頑張るしかないのに、そんなことしたって何も描けない。描けなかったからあんなふうにしちゃったんだろ?」
剣豪の示す先には、切り裂かれたキャンバス。
「光は、届かなかったのかしら――」
シュラインは何故か目の前の男に、哀れみを感じた。男はそれを望んではいないだろう――だが、久世俊光という画家の絵を見た時、あの時に感じた感情をシュラインは覚えている。榊ほどではないだろう――だが魅せられる気持ちは理解できなくはない。
「久世画伯は、確かに人の死を描くという暴挙に出た画家だわ。けれど、彼はそれと同時に形なきもの――光を描いた作品を残しているわ。あの作品は、届かなかったのかしら? あの作品を見て心震えることはなかったのかしら?」
人の死の瞬間のみが、この人物を狂わせたとは到底思えなかった。
榊は、シュラインの言葉に右手を額にあてて、低く笑う。よろめくようにして壁に背をついた榊が、肩を震わせて笑っている。
それは奇妙な光景だった。
「《光》――か。あれは、私には描けない」
遠く、視線を向けた先に榊は何を見ているのだろうか?
壁に背をついたままで、ずるずると床に座り込む。視線は空を仰いだまま――だが天井に阻まれ空は見えない。
「だがあの作品こそが、私を狂わせたといっても過言ではない。教えてあげよう――私が最終的に目指したもの。それが《光》だ。私にはあれは描けなかった。私は久世俊光になりたかたったのではなく、《光》という作品を描いた久世俊光になりたかったというだけの話だ。だが気づいた――久世はあの作品を境にして人の死に執着を始める。つまり人の死を描いたからといってあれが描けるわけではない。あれは、奇跡のような作品だったのさ――」
夕焼けが降りしきる。割れた天窓から夕日が緩やかに差し込み、アトリエを不可思議な光で満たした。それはある意味、別の《光》だったのだろう。確かに。
みなもは、制服の胸元をぎゅっと握り締めた。
「誰も、他の人になんて――なれはしません……」
「無論――当然。当たり前すぎるほどに当たり前だよお嬢さん。だがね、誰が止められる?」
そこにいるのは、道を究めんとする傲慢な芸術家などではなく。
ただ手を伸ばしても、届かないことを知りながらもそれでも切望し願い続け道を踏み外した哀れな男で。
榊は疲れたように、天窓からの光を仰ぎ見る。
「誰が止められるというんだい? 誰しも、他の誰かになりたいと思う瞬間は誰しも――そう誰しもだ、経験がある筈だよ。その思いを、どうやって止められるというんだい?」
夕日の差し込む光景に、ウィンと涼は目を細めた。その耳に、榊の声が響く。
「私は《光》が描きたかったのだよ。どうしても――贋作作家として名を馳せた私にすら描けなかった、軌跡のような作品――奇跡そのもののような、あの作品が」
++ 届かなかった光 ++
榊健太郎が起こした一連の事件はマスコミを賑わせた。それは榊にとっては、自分の聖域を土足で踏みにじられるような耐え難い屈辱であったのだろう。彼はマスコミに対して一切の発言をすることはなかった。
光という作品は、今もあの美術館にある。
眩いばかりの緑と、そこに降り注ぐ光を描いたあの作品。《光》。
「なにも、あれに拘る必要はなかったんじゃないかって、思うけど――……」
シュラインの手元には、一枚の写真がある。
それは榊健太郎が贋作に手を染めるよりも昔に描いた一枚の作品。あのアトリエに降り注いだ夕日を描いたもの。
退廃的なゆっくりした時の中に優しい、赤い光が差し込む光景。
それはどこか懐かしい景色。
彼は《光》を描くことは出来なかった。けれど、シュラインは少し残念に思う。
彼は別の――他者の心を震わせるものを描くことはできたのだ。この写真に残る作品のように。
「芸術は模倣に始まり――か」
呟いた言葉の先、それは誰に聞かせるでもなく。
芸術は模倣に始まり、そしていつか還ってゆくのだろうとシュラインは思う。
道を志す人々の、その、中へと――。
―End―
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0381 / 村上・涼 / 女 / 22 / 学生】
【0446 / 崗・鞠 / 女 / 16 / 無職】
【0625 / 橘神・剣豪 / 男 / 25 / 守護獣】
【1252 / 海原・みなも / 女 / 13 / 中学生】
【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
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■ ライター通信 ■
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こんにちわ。毎度ありがとうございます久我忍です。
以前に描いた《光》がかなり気に入っていたので、いつかあれに関連する依頼を描けたらと思っていたのですが、ようやく形になりました。あとはその形がいびつに歪んでいないことを願うだけです。まあ願ってるだけじゃ駄目なんですが。かといってこのシナリオに登場する芸術家サンたちのよーに間違えまくるのも考え物な訳ですが。
ということで、次回はもー少し軽いノリの依頼をどこかにあげたいなぁ、とか思っておりますが、私のことなので相変わらず重い暗い話とかになるやもしれません。受注予定などはコミネットなどで事前に告知しますので、その時にはどうぞよろしくお願い致します。
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