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<東京怪談ノベル(シングル)>


父の魂、万までも


 けして険しくはない山の中腹、
 真夏でも涼やかな森林の中に、
 ひとりの画家のアトリエ兼住居が建っている。古い建物だったが、手入れが行き届いていて、生気と人気を保っていた。
 しかし真夏の陽光を木々が程よく遮り、草花の息吹が爽やかな湿気をもたらしてはいるものの――ここは平たく言えば「山の中」だ。
 道なき道を辿り、今日も苦心しながら郵便配達人がやってくる。
「ごめんくださーい」
 汗を拭き拭き、配達人は玄関口に立って家主を呼んだ。
 返事はない。
「御母衣先生、郵便ですよー」
 返事はない。
 仕方なく配達人は郵便物の宛先を確認してから、玄関先に置いておこうと考えた。
「……んっ?」
 彼はよくここに配達に来る。家主の名前は知っていた。だが――
「ミホロ……タケチヨ……?」
 ついうっかり、住所しか見ていなかった。こんな辺鄙なところに住んでいるのは画家だけだと思っていたせいもある。カタカナで表記された宛名は家主のものではなかったことに、今気がついた。姓は同じだが、名前はどう読み間違えてもこうはなるまい。画家には家族が居たのだろうか?
「おう、何だ?」
 突然住居の外で声が上がり、配達人は驚いた。ここに住む画家の声ではなかった。繊細で静かなあの声ではなく、まるで道場の師範が出すような、はっきりとした気合の入ったものだった。
 がさがさと草木をかき分けて出てきたのは、銀色の長い髪と青い目の――そう、その色彩は画家と寸分違わぬものだった――壮年だ。龍と雲の刺繍が入った道着を着ていたが、景気よく上半身をさらけ出しており、透き通るような白い肌が露わになっていた。
「あ、ええと……タケチヨさんでしょうか」
「ああ、俺だ」
「郵便です」
「おう、ご苦労さん」
 配達人は男をしげしげと眺めながら、郵便物を手渡した。肌は白いが、男の身体は実用一点張りに鍛え上げられている。男は手紙の差し出し先を見て、露骨に顔をしかめた。
「なんだ、携帯料金の知らせか。この間来たばかりだぞ。人間はどうして30日で区切りをつけるんだ? そんなせかせかしてるからたかだか80年でくたばるんだ、まったく」
「あの……」
「ん?」
 男はしかめっ面のまま配達人に目を向けた。
 配達人は思わず一歩退いた。男の眼光にはそれだけの力があったのだ。
「い、いえ、ひょっとして画家先生の……」
「おお、父親だ。御母衣武千夜。まァ、倅なんざ作りっぱなしで面倒なんか見ちゃいなかったがな、わはは!」
 配達人は、愛想笑いをするしかなかった。


 彼、御母衣武千夜は、最近長い(彼曰く「ちょいと300年ばかり」)武者修行の旅から日本に戻ってきた。西洋の武術は大したことがなかった。やはり、小さな身体で大を征しようと永年努力してきた東洋人の武術には及ばない。特に中華の武術は世界でも最強と言っていいだろう。現に武千夜はそう主張してはばからない。
 彼には無限の時間がある――終わりが見えない生を授かった者は、次第に世界から興味を失い、最後には己をも顧みなくなるもの。しかし武千夜がそうではないのは、彼なりに『楽しむ』方法を見つけたからだ。
 己に満足せず、常に上を目指す――それが、武千夜がみつけた人生だった。彼は時折ふらりと日本に戻って、武術に生きる人間を気まぐれのように相手にしては、ふらりとまた大陸へ修行に出かけていく。そうしてどれほどの年月が流れただろうか――中華が三国に分かれ覇権を争っていた頃、悪来典韋と力比べをしたのも、今では懐かしい思い出だ。あの時代のあの国々の思い出は多い。それに、人間たちも今よりは自然とうまくやっていた。
 だが武千夜は、「あの頃が良かった」とは思わないことにしている。常にその時代を楽しむよう務めていた。人間たちの慌しい動きについていくのは少しばかり疲れるが、難しいことではなかったのだ。
 彼は今、映画やドラマのアクション指導を引き受けたり、たまに自ら出演したり(オファーが来るのは師匠役や敵の凄腕暗殺者役ばかりだった)、異種格闘技戦にぶらりと出場してボブ・サップばりの大男をKOしたりと、21世紀を楽しんでいた。流行りのインターネットを駆使して仕事の依頼を受けてもいる。
 ……息子に多少迷惑をかけているが、彼は充実した毎日を送っているのだ。

 しばらくぶりに(くどいようだが300年ぶりに)日本に戻ってきてみると、彼がほったらかしにしていた自宅は何時の間にか起きて何時の間にか終わっていた戦争で破壊されており、しかもその場所には今やマンションが建ち並んでいた。武千夜は仕方なく、この地をずっと離れていなかった息子の家に転がり込んでいたのである。
 作られっぱなしでさっぱり面倒を見てもらえず、独りで立派に育った息子は、あまり武千夜をよく思っていないようだった。さもありなんと武千夜も納得し、居候という身分をわきまえて生活している。ブロードバンドでなくてもいいからせめて電話回線を引けだとか、絵ばかり描いていないでたまには身体を動かせだとか、肉を食わせろなどとはけして口に出さない愚痴だった。思うだけなら自由だ。


「しかし、お元気なんですなあ。私はこちらへ辿り着くだけでも精一杯ですよ」
「身体を動かすことだ。毎朝乾布摩擦をやって山を10キロ走っていれば誰でも丈夫になる」
 封筒から携帯使用料金明細書だけを抜き取り、空になった封筒の裏にサインをしながら、武千夜は難しいことをさらりと言ってのけた。それが誰でも出来るなら人類皆格闘家だ。わかっているのかいないのか、武千夜はいかめしい真顔だった。
 さらり、
 ウー・クィアンイェ――武・千夜と、ピンインをアルファベットで綴り終える。
「ほれ。あんたの倅によろしくな」
「やあ、どうもどうも」
 配達人の息子は格闘技ファンなのだという。きっと自分の名前を知っているだろうと武千夜は踏み、すすんでサインをしたのだった。サインを受け取った配達人の息子が狂喜するのはこれから10時間ほど後のことだ。
「ああ、しかし、聞きましたか? 昨日のニュースなんですが」
「ん?」
「この山に物凄く大きいイノシシが出ましてね。鹿撃ちに来ていた猟師がひとり襲われて重体なんだそうです。ここに来るのは命がけでしたよ」
「ほう」
 苦笑する配達人を尻目に、武千夜の蒼眼がきらりと光った。
 猛々しいが、どこか嬉しがる子供が浮かべるような光でもあった。
 彼は諸肌脱いでいた道着を着込み、ぱしりと襟を正す。ごきりごきりと首肩ならし。後ろ手を組むと、歩き出した。
「あんたが安心して帰れるように、ちいっとその猪をぶん投げてくるとしよう」
「え?!」
「なに、居場所は森が教えてくれる」
「いや、そうではなくて!」
「今日こそは肉を食うぞ! 倅と牡丹鍋で一杯だ! わっはっは!」
「み、御母衣さんッ!」
 配達人は仕事も忘れて武千夜を追った。

 武千夜は、微笑さえ浮かべて森を歩いていた。時折背の高い樹や野鳥に目を向けて、まるで会話でもしているかのように頷いては――進む方向を変える。
 居場所は森が教えてくれる――
 配達人は何気なく武千夜が言った言葉を理解して、納得してしまった。有り得ないことだ。だが、あの不可思議な画家の父親であるこの男なら、本当に……
 武千夜が立ち止まる。
 彼は後ろ手を組んだまま、じり、と足の幅をわずかに広げた。
 笹の茂みの奥で、剛毛に覆われた森の獣が身構えていた。
「弓も長筒も精霊の力も要らん」
 呟き、彼は、にぃと微笑む。
「来い、刹那でおまえの脳天を砕く」
 まるでその挑発に乗せられたかのように、猪が笹薮から飛び出してきた。
 牙と鼻息、
 無垢な目、


 ごスん!


 しかし、素手で猪を狩った武千夜も、6万を越える携帯使用料をあとで確認して、さすがに腰を抜かしそうになったのだった。


(了)