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<東京怪談ノベル(シングル)>


天使の安息日


 まどろみから目覚めると、ブラインドの隙間からさしこむかすかな光が、暗い部屋を仄かに蒼く染めていた。
 窓の向こうの空は、深い瑠璃色をしていた。夜の黒でもなく、朝の白でもない。その狭間の世界に相応しい夜明け時の色。
 傍らで聞こえる安らかな寝息。それに合わせて、長い髪と毛布からのぞいた白い肩が、規則正しく揺れている。
 俺は、彼女を起こさないように、そっとベッドから身を起こした。

 肌を打ちつけ流れ落ちる、熱を帯びた水の奔流。
 昨夜の酔いと眠気がまだ残った身体に、熱いシャワーは心地よかった。
 霧のかかったような意識が次第に覚醒していくのを感じながら、俺は身体の中に溜まっていた疲れを一緒に吐き出すように、深く息を吐いた。

 濡れた身体をタオルで拭きながらバスルームを出る。
 そして洗面台へ向かうと、金色の髪をドライヤーで乾かし、髭を剃る。
 髭はもともと濃い方じゃないし、まめに剃っているから、鏡で見ても伸びている様子はなかったけれど、商売柄、身だしなみというやつだ。
 リビングのクローゼットから取り出した、黒いダブルのスーツに身を包んで、その頃にはすっかり乾いている髪を整える。最後の仕上げは、鼻につかない程度の香水。
 時計を見ると、予定の時間が迫っていた。
 寝室に戻ると、ベッドに横たわったままの細い身体が、甘い声とともに身じろぎした。
「……ん……」
「おはよう」
 優しく包み込むような微笑みで、目覚めたばかりの彼女を俺は見つめた。
 そっと手を延ばし、そのウェーブがかった長い髪を撫でてやると、彼女は仔猫のような表情を浮かべた。
 その細い体を覆う『色』を、俺は見ることができた。満たされた、穏やかな気持ちを示す、淡い黄色。
「トオル……もう、起きたのぉ……?」
「まだ早いから、もう少し寝てていいよ。俺は野暮用で、ちょっと出かけてくるから」
「やだぁ。今日はお店お休みだから、一日一緒だって言ったじゃない」
「うん、約束は覚えてるよ。でも、この用事だけは外せなくてね」
 彼女の『色』が、微妙に濁っていくのがわかった。清らかな黄色をじわじわと汚していくのは、澱んだ紫色――不満、そして猜疑心の色だ。
「用が済んだら、ちゃんと夜まで付き合うよ。……待っててくれるかい?」
 瞳を見つめて、静かにそう囁く。そして、彼女の唇からその答えがこぼれるよりも先に、その白い頬に不意打ちのキスをする。
 それだけで、彼女の『色』から濁りは消え去った。その代わりに、淡い薔薇色が広がっていく。それがどんな感情を表すものかは、あえて言うまでもないだろう。

 ――佐和トオル。
 それが俺の名前。
 歳は28。十年ほど前から、ホストとして夜の世界に生きている。
 こう見えても、店ではNo.1の売れっ子だ。
 この業界も不況のせいか、最近はめっきり景気が悪いようだけど、ありがたいことに俺はそれなりにお客に恵まれている。
 それは、俺がもともとこの仕事に向いていたっていうのももちろんあるだろうけれど、この特異な能力――『エンパシー(感情移入能力)』による恩恵も大きい。
 人間は、誰しも身体にオーラを纏っている。そしてオーラは、その者の精神状態を映して様々な色に刻々と変化する。
 それは普通、肉眼で見えるはずのないものだ。だが、俺にはそれを見ることができる。そしてそのオーラの色から、相手の感情を読み取ることも。これが『エンパシー(感情移入能力)』だ。
 だが――人の気持ちが読めるのは、決していいことばかりじゃない。
 いや、むしろ、辛いことの方が多い。
 何故なら、人は決して素晴らしい生き物ではないから。
 もちろん、いい部分はある。愛情、思いやり、希望、純真さ、情熱、ひたむきさ。あげていけばきりがないくらい、たくさんある。
 けれど同時に、たとえどんな善人にだって、心のどこかにどす黒い、醜い部分が潜んでいる。
 自分には後暗い部分など何もない。そう言いきれる人もたまにいるが、それは単に自分を理解できていないか、心の闇に気付いていながら目を背けているだけのことだ。
 そして俺は、相手の心の奥底に潜んだ、見たくもないそんな醜い部分さえも、否応なく感じ取ってしまう。
 自分の能力に目覚めた子供の頃から――相手のそんな醜ささえも受け止めてやれるようになるまで、やはりそれなりに時間がかかったし、その間にはいろいろなことがあった。
 今でさえ、決して平気で受け止めているわけじゃない――。
 だからこそ俺は、日曜の朝になると決まって、ここへ足を運ぶのかもしれなかった。
 マンションのすぐ近くにある、小さな教会へと。

         ※         ※         ※

 汚れひとつないような純白の壁。
 天井近くの高みにある窓にはめ込まれた彩やかな色のステンドグラス。
 正面の壇のところに掲げられた、キリストの像。
 教会の、小さく貧相な外観から想像したよりも、ずっと広く感じられる礼拝堂の中を、居並ぶ人々の澄んだ声とオルガンの旋律が響き渡る。
 賛美歌だった。


《心の底より 神に感謝せん
 この朝を迎え 神をたたえん
 み子をおくり われらを救う
 神に栄光あれ とこしえまで

 恵みにつつまれ み守り受け
 恐れと不安の 夜はすぎぬ
 新たなる日 わが罪ゆるし
 いのちをたまえと 切に祈る》


 主への祈りを込めた聖なる歌声は、礼拝堂に満ちる空気さえ、清浄なものへと変える力を持っているかのようだ。
 瞳を閉じ、その澄んだ荘厳な響きに身をゆだねて――俺もまた、身体の奥から込み上げる想いを声に変え、歌に変えて、高らかと吐き出す。

 前日の夜にどれだけ飲んでいようと、たとえ一夜をともにした相手が隣で眠っていようとも、毎週日曜の早朝に行われるこの礼拝だけは、俺は欠かさない。
 けれどそれはクリスチャンとしての義務感とか、そんなくだらない理由じゃない。
 俺にとって、この時間はまさしく、救いなのだった。

 やがて曲が終わり、壇に立っていた神父が着席を促す。
 そして神父は、穏やかに、しかし力強く高らかと、祈りの言葉を口にした。


『天にいます私たちの父よ。
 御名があがめられますように。
 御国が来ますように。
 みこころが天で行われるように地でも行われますように。
 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
 私たちの負いめをお赦し下さい。
 私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
 国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
 アーメン――』


 マタイ福音書6章にある、『主の祈り』の一節。
 神父に続いて、その言葉を暗唱しながら、俺は正面の壁に掲げられた、キリストの像を見つめた。
 他人を癒し、慰める、ホストという仕事――そして、エンパシーという能力。
 それは大げさに言えば、俺にとっての、背負うべき十字架そのものなのかもしれない。
 他人の気持ちを理解し、癒してやれる代償として、相手が抱えた負の感情さえも、受け止めてやれなければならない。
 時にぞっとするような、おぞましい心の闇を見せつけられたとしても。それを包み込むように優しく微笑んで、極上の幸福な時間とひとときの夢を提供する。それが俺の仕事だ。
 そんな日々を重ねていくうちに、心の中に溜まっていく負の感情。それを洗い流し、清めるのに、純粋な祈りに満ちたこの礼拝のひとときはなによりも適していた。
 だから、俺はここに足を運ぶ。毎週、欠かさずに。

         ※         ※         ※

 そもそも、クリスチャンになったのだって、別に深い理由があったわけじゃない。
 なんとなく――なんて言ったら聞こえが悪いかもしれないが。
 ただ、幼い頃にたまたま教会の前に捨てられていて、そこのシスター達に面倒を見てもらっていたから、その影響でこうなっただけのことだ。

 自分に宿るエンパシーの力にはっきりと気付いたのは、小学生の頃だったか。
 それまでも、人の身体の表面を覆う不思議な『色』は見えていた。だが、その『色』が何なのか知らなかったし、考えたこともなかった。そしてそれが他の人間には見えないものなのだとは、夢にも思っていなかった。
 その『色』が相手の心を示すオーラの色だと知り、そして他人の心を読めるようになった時、まだほんの子供だった俺は、まともに他人と接することができなくなった。
 陽気に笑いながら心の奥底で相手を憎み、誠実そうな言葉を口にしながら狡猾な企みを腹に抱えた人々。大人も、同い年の子供たちも。みんなそうだった。
 幼い瞳に、そんな人間たちの姿をまざまざと見せつけられて、俺は他人が怖くなっていた。そして絶望していた。信じるに値するものなど何もないと、そう思っていた。

 そんな俺を変えてくれたのは、俺の世話をしてくれていた、一人のシスターだった。
 彼女も、決して心の全てが綺麗なわけではなかった。澄んで見えるそのオーラの色にはやはり、嫌な濁りが浮かんでは消えていた。
 しかし彼女は、俺にエンパシーの能力があることを知っても、決して俺から目をそらさなかった。子供の俺に、心を読まれる恐怖をいつも抱きながら、それでも、俺と接することをやめようとしなかった。
 そして、ひとりぼっち、部屋の片隅でうずくまっている俺に、こう言うのだった。

『全てが本当に綺麗なものだけでできていれば、どんなに素晴らしいことでしょうね。
 でも、私の心の中には、自分自身にも完全には消し去ることのできない闇があり、罪がある。そして私は、そんな自分自身を恥じ、そして同時にいとおしく思っている。
 ――多分、どんな人の心の中にも、同じようにそれはあるのでしょう』

 シスターの言うその言葉の意味を理解するのは、心を閉ざしていたその頃の俺には難しいことだった。
 けれど、俺に向かってそう語るシスターの表情を見つめた時――彼女が俺に何を伝えたいのか、不思議とわかるような気がした。

『心の闇を怖れないで。それが心の中に宿っているからこそ、他人の弱さや罪も、赦してあげることができるのです。何もかもを飲みこんで、抱きしめてあげることができるのです。
 あなたが持つその能力は、きっとその為にこそ、主がお授けになったものなのでしょう』

 そして彼女は、俺の頭を撫でた。
 ……おかしな話だ。
 ほんの、たったそれだけのことで――知らず知らずのうちに、自分の中の『闇』に呑まれかけていた俺の心は、救われてしまったんだ。

         ※         ※         ※

 礼拝が終わり、教会を出ると、世界は朝の白い光に満ちていた。
 決して全てが綺麗じゃないけれど。
 決して絶望ばかりじゃない、この世界。
 できることなら光になりたい、俺はそう思った。夜の闇の中で煌く、誰かを癒せる光。そんな生き方があったっていいだろう。
 そんなことを考えながら、俺は携帯の電源を入れた。その瞬間を待ちわびていたかのように、着信音のメロディーが鳴り出した。
「おはよう、もう起きたの?」
 電話の主が誰かは判っていた。
「それとも、ずっと起きて待っていてくれたのかな」
《……さて、どっちかしらね》
 少し拗ねたような声。
 俺は微笑んで、そんな彼女を優しく宥めた。言葉で抱きしめるように。
「ごめんね。もう一人にはさせない。これからの今日一日、俺の時間は全て君のものだ」
《うん……》
 それを聞いて、電話越しの声が揺れた。よろこびに。
《あなたって、不思議よね。いつもそうやって、私が一番喜ぶ言葉をくれる。まるで誰よりも、私をわかってくれてるみたい》
 それを聞いて、思わず俺は苦笑した。
 そしてそのまま、彼女と言葉を交わしながら、マンションへの帰路を急ぐ。

 ――天使の安息日はまだ、はじまったばかり。