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『ラムネが1本と1時間』
ラムネの壜の機構は、イギリスが発祥の地なんだそうだ。
エアコンが必要だ、どうしたって。
あの、カタコンベの底からさらってきたような乾いた冷風(大袈裟なのは先刻承知、思考の繰言だと重々納得)を好きになることはけしてないだろうと思うが、それと品質管理やらはまったく別の問題、かよわい古書たちを何の対策もなく夏の外気にさらすわけにはいかない。
けれども、さすがにこれは、本来の店主に断りをいれてからのほうがいいだろう。なんせ店に穴をあける工事になるのだから。しかし、どうやって連絡をとろうか。
裏の道のアスファルトでは、打ち水が空気ににじみゆく。神田神保町は古書店「歌代堂」、プライベートスペースとあらわせば格好はおさまるけれど、つまるところは生活空間のでっぱり。スイ・マーナオは縁側に横たわりながら、休日の時間を過ごしていた。かたわらには、からからんと旧式の扇風機がまわっている。
考え事でもしながら、うつらうつらと涼をとろう。やすみなんだから、のんびりと。そういう計画のはずだった。
しかし何時も、好事魔が多しと申します。人がちょっとまじめに賢慮――「賢明な思慮」なのだよ――にふけろうとすれば、いらぬおせっかいが耳をつつく。
真横に、でくのぼう(見る側の主観)が立っている。
「スイさん、暑くありませんか?」
もちろん暑い、健康的に蒸し暑い。それでいいのだ。夏だから。スイは口をへの字に曲げるが、相手はそんなこと見ちゃいない。というより、目の肥やしにしてしまう。
「ここに来る途中、ラムネを買って来ました。もちろん、スイさんの分もあります。おひとつ、いかがです?」
なにかに似ている。すずめのおしゃべり――いや、そんなかわいらしいものではなく――地面に大量のコインをいちどきにばらまいたときのようなノイズ。むりやりにざわめかされる、気持ちが。今はただおちついていたいのに。
「‥‥うるせぇ」
スイは上半身をひねって西園寺・嵩杞(さいおんじ・しゅうき)をねめつけるけど、とうの視線の先の相手は涼しい表情ですましている。涼しいについて嵩杞にいわせたら、動いたひょうしにはだけたスイの胸元だって涼しげな、となるかもしれない。そうなるとオチは‥‥いうまでもない。
嵩杞はラムネをいれたポリエチレンの袋を、高くかかげる。
「いらないんですか?」
「いる」
しかし、スイは即答する。迷ういとまも惜しい。だって、そんなことは最初から決まっているではないか。
全体は、浅い海の色。
厚い硝子でできたラムネ壜。
ころろ、とくぼみでビー玉がゆれる。
液体を口腔に流しいれれば、二酸化炭素の粒がきっと、花火みたいに乱舞する。
せつない午睡みたいな、夢のなかばの彼岸花みたいな、すぐに消えてしまいそうにうつくしいそれらを、無碍に却下するなぞとうてい考えられない。スイの返答にひとつうなずき、嵩杞はにっこりほほえんだ。
「今すぐ、お飲みになられますか?」
「そうだなぁ‥‥。そうする」
「はい、どうぞ」
「ん。って、なんで隣に座ってるんだ?」
「私も飲むからですけど?」
「近すぎ。あつっくるしいんだよ。もうちょっと離れろ」
蹴り。蹴り。ついでに、拳。嵩杞はわざとらしく溜息と、分かりました、と空々しい承諾と、いわれたとおりに離れて、
「‥‥待て。なんでラムネまでいっしょに持ってくんだっ?!」
「スイさんが離れろとおっしゃったからですけど?」
「ちがうっ。離れるのは、おまえだけだ!」
「ダメです。ふたりは一心同体です」
いけしゃあしゃあと云われてしまった。なにがふたりだ、一心同体だ、わめきちらしたい気分は、全身の飢渇をまえにしてちょっとはかない。「分かったよ、来い」スイが縁側を叩いて座席位置を示すと、嵩杞は猫のように細く笑った。
むかつく。
ほんっと、むかむかさせられる。
あぁ、どうして休みの日にこんなふうな気持ちにさせられなければいけないのか。
スイはせめてもの仕返しにと、しばらく口を開くのをやめることにする。いまどきの児童だってもうすこし気の利いた復讐をもくろむだろうに、けれども、ラムネの壜を開けるとなるとどうせそれどころではなくなる。
封開は、集中力が勝負。ぽんと栓を押し込み、あぶくが吹き零れるまえに、慌てて唇を壜にはこぶ。なんとか被害を最小限におさえられたと満足したが、横をみると、嵩杞のほうは一滴のしたたりもない。あっけにとられて思わず見とれると、嵩杞は悠悠、
「あ、ラムネ屋さんからコツを教えてもらったんです」
「そういうのは、先にいえ」
あんまりにも悔しいので、蹴りをもう一度復活させる。もう遅いけどさ。愚痴をこぼし、飲む前の誓いがはやばやと破綻したことに、はたときづく。――これはもしかしなくても、無意味というやつではなかろうか。心のざわめきは二乗、三乗、スイはほとんどやけになって曹達水を一気に飲んだ。
「そんな飲み方してるとむせますよ」
「るっさい」
そういうやりとりを経ると、云ったことがお約束的に現実になる。炭酸飲料で咳き込むのは、死の淵目にはまりかけたといいあらわしたくなるくらい苦しくてつらい。目を白黒――って、もともと白と黒しかないけれど――にして、現状を訴える。
「ほら、いわんこっちゃありません」
「‥‥ん、んなこと‥‥いってるまに」
すこしは助けろ。と、あらかんぎりの声量でいいたかった。でも、息は吐き出すばかり、ことばが出てこない。スイは思わず、手近にあった嵩杞の二の腕をつかんだ。
つかむというより、握り締める。離すものか、これしかたよるものはないんだからと。華奢にみえるスイだけれども、喧嘩慣れしているだけに、呼吸さえあわせれば握力はじゅうぶん凶器になる。突発の事態に余裕を失ったスイは、無意識に呼吸のチャンネルをあわせてしまった。
肉に食い込むてのひら、震え、わななき、もともと薄い色をさらになくし、消えそうになる寸前を、べつのてのひらがつつむ。流れる風のように自然な、一挙一動。
「私はここにいますよ」
嵩杞はスイがつかんだてのひらに自分の片方のてのひらを添え、もう片方のてのひらでスイの背中をたたくのとなでるのを、交互にくりかえす。それが約1分ほど。ようやくスイはおちつく、現実に着地する。
なめらかに、息を吸う。吸う。吐く。もうだいじょうぶ。
「楽になりました?」
「‥‥ん」
生返事。スイの迷いは、如実に声に出た。
冷静になると、自分が今なにをしてたか、理解せざるをえなかった。手。自分の手が嵩杞をすがっていた。
礼をいうべきか、それとも先に謝るべきだろうか。いや、嵩杞の腕の無事を確認するほうがはやいかもしれない。しかし、相手はまがりなりにも医者なんだから、異常にきづかないほどトロくはないだろうないし、いざとなったら自分で何とかできる。‥‥いや、待てよ。傷害の犯人の目前でわざとらしくそんなことをするほど嫌味でもないだろうから、もしかすると痩せ我慢では‥‥。
咳いたときの混乱が、まだスイの体内に残っていた。それを知ってか知らずか嵩杞は、「疲れました」自分の肩をまわして、疲労をアピールする。
「は?」
とっさの台詞に、スイはついてゆけない。
「いえ、スイさんの看病をしすぎたもので、ちょっと」
「俺のほうがもっと苦しかったぞ、もっと」
「あ、そんなにされると胸が」
スイが胸を突くと(今度はもちろん手を抜いてある、抜いてあると分からないくらいに)、嵩杞はわざとらしくよろめいた。よよ、としなをつくる。
「スイさんが膝枕をしてくだされば、完治が早いかもしれません」
! そんな傷病がこの世に存在するか! いっしゅんそう叫びかけたスイだが、イクスクラメーションに開きかけた口をすぐにつぐむ。
「‥‥分かった」
「ん?」
先生が生徒の返事を再確認するように、小首をかしげる嵩杞。スイはくやしげに嵩杞をみる。今日だけ、ほんの気まぐれ、と己にいいきかせながら。
「1時間だけ! それならやってやるよ、膝枕」
「こちらとしては、30分を提案しようと思ってたんですけれども」
「‥‥お、おい」
「ですが、スイさんが1時間といってくださったものを、削減しては失礼ですよね。はい、1時間で結構です。いちじかん、イチジカンで」
「あーっ、ったく、うるさい! そんじゃ、さっさとやる。さっさと終わらせる!」
スイは嵩杞の頭を乱暴にかかえこみ、正座に組み替えた自分の足におしつける。どうみてもけが人に対する態度ではない。が、嵩杞の態度だって傷病者のそれではないのだから、どっこい似たもの同士だろう。
「あぁ、スイさんの膝はひんやりして、気持ちいいですね。これで時間が2時間になったら、完治どころか寿命が倍になるかもしれません」
「いますぐ落すぞ?」
夕暮れ、カラスが啼くから帰りましょう、嵩杞は家路をたどる。黄昏時には幽霊がよく出る、けれども今日の霊は魂鎮めの歌をつかうまでもなくじきに昇天するだろう、健常なものたちばかり。嵩杞の帰路は比較的安穏としていた。ひとりごとを邪魔するものもない。
「今日は大漁旗でしたね‥‥」
海老で鯛を釣る。よくつかわれる言い回しだけど、まさかラムネ一本で、ここまでおつりが出るとは。濡れた口元をぬぐうスイ、咳き込むスイ、涙目のスイ、彼のほうから抱きつかれたうえにエンディングは膝枕ときた。すべての一瞬をカメラにでもおさめられたら上等だったけれど、贅沢はいうまい。
「ラムネはいいですねぇ、また持ってきましょう」
こっそりとつぶやく嵩杞の姿をみかけたものは、黒い野良猫、迷い子のオニヤンマ、おはようを待つアサガオの蔓。通りすがりの幽霊は、嵩杞のにやけがおを不思議そうにながめていたが、じきにすいっと流れていった。
日本の夏。季節限定。公園のラムネ屋は、知らぬうちに明日の予約をうけおっている。
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