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HELLS GATE −悪意の街−
東京都・新宿区。
中でもJR新宿駅東口から伸びる歌舞伎町界隈は、人々の欲望が渦巻く土地である。
人間の心の闇と、その闇が生みだした魔物の住む街。
それが、新宿だ。
◇
「紅臣サン。今日なんスけど、飛び入りでお客サン入れてもいいっスか?」
仕事場であるタトゥ・ショップ【SACRED BAD TATTOO】の従業員控え室でくつろいでいると、アシスタントの若い男がひょっこりと顔を覗かせた。
真赤に染めた長い髪を弄りながら、紅臣緋生(べにおみ・ひおう)は視線だけそちらへ向ける。
「飛び入り?……別に構わないわよ」
緋生の返答に、青年はパチンと指を鳴らした。
「わお、助かりまっス!腕がいいの出せってそこで騒いでるんで……」
「は?今すぐの話なワケ?」
髪をかき上げて、緋生は悪態をついた。
タトゥ・アーティストとしての緋生の腕はかなりのもので、勤務時間は殆どギッシリ予約で埋まっている。それというのも、緋生の作品の評判が口コミでどんどん広がったため――有り難いことだが、休憩時間くらいはキッチリ休みたいというのが正直なところだ。
「すんません。ちょっと、妙な迫力あるお客サンで……」
ぶっちゃけ怖いんスよね、と青年は情けない表情を浮かべた。
んもう、と口を尖らせて、緋生は立ち上がる。
作業を行うための緋生専用の個室に出向くと、そこで客が待っていた。アシスタントの言うとおり、妙な雰囲気をした男。
長身痩躯で色は白く、どこか精気が感じられない。
「待たせたわね。担当させてもらう――」
「この図案どおりに彫ってくれ。金ならあるから、急いでほしい」
形式にのっとって挨拶をしようとした緋生をさえぎって、男はポケットから皺々になった紙片を取り出した。
さすがにムッとした緋生だったが、仕事だと堪えてその図案を確認する。
それは、あまりに複雑な紋様で――出来なくはないが、かなり時間がかかるものだった。背中いっぱいに彫る必要がある。
「これだと、最短でも5日くらいは通ってもらうことになると思うけど?」
「もっと早くできないのか。すぐに作業にかかってくれ」
「……了解。せいぜい善処するわよ」
客に対しても媚びへつらったりしない性質(たち)の緋生は、無茶な注文にやれやれと肩をすくめてから、すぐにアシスタントに指示を出して道具の準備を始めさせた。
男は上半身裸になり作業台に俯せにさせ、それから改めて図案を見る。
(趣味悪い図案――ま、あたしには関係ないけどさ)
そのときは、単純にそう思っただけだった。
そう、そのときは――。
◇
「……それで?その客がおかしくなってきたというのは、具体的にはどういう状況なんだ」
行きつけのバーのカウンター席でウィスキーのグラスを傾けながら、真名神慶悟(まながみ・けいご)は嘆息した。
隣の席には、真っ赤な服に身を包んだ緋生が座って不貞腐れている。
以前に草間興信所での依頼をキッカケに知り合ってから妙な縁が続き、今では親友――とは互いに口にはしないものの、かけがえのない存在だとは認めていた。
「例えば、急にこっちが話しかけても無反応になったり、かと思ったら急に暴れ出したり……ほんと大変なのよ」
緋生は心底疲れ果てたというように首を横に振ると、目を伏せた。
例の男にタトゥーを入れ始めてからすでに4日目。あと1歩で図案は完成というところに来ているものの、彫るたびに男の様子がおかしくなる――
それを不審に思った緋生から連絡を受け、こうして相談にのるため慶悟は新宿まで出向いてきたというわけだった。
「となれば、その図案になにかあると考えるのが妥当だな」
グラスを置くと、氷がカランと音を立てる。
「当然、図案くらいは持ってきているんだろう?」
「…………うふ」
口元で握り拳をふたつ作る緋生を、慶悟は半眼で睨んだ。ちっとも可愛くないと言うと、緋生はその握り拳を慶悟の頭に軽く振り下ろす。
「でも、大体は覚えてるわよ。自分で彫ってるわけだし」
「なら、取り敢えず書いて見せてくれ」
「えーっと……二重の円の中央に逆十字で、それを囲むようにギリシャ文字が……」
マスターから拝借した紙とペンでアバウトに図案を書いていく緋生の手元を注視していた慶悟は、やがて天を仰いで嘆息した。
陰陽師である慶悟とは、畑は違う。だが、知識としては知っていた。
「紅臣。あんた、とんでもないものを彫ったな」
「な、なによぅ……」
このテの内容は専門外である緋生は、無理やり薄く笑みを作った。目では笑えていない。
はぁ、とこれ見よがしに特大のため息をついて、慶悟は吐き出すように答えた。
「こいつは、悪魔を召喚するための魔法陣だ――」
◇
翌日【SACRED BAD TATTOO】で、緋生はとにかく苛立っていた。
前夜の打ち合わせで、今日の早いうちに店に来て男の背中の魔法陣をどうにかする、と豪語していた慶悟が来る気配が全くないうえ、あれやこれやと言いつくろって待たせていた男がブチ切れてしまい、緋生以外の誰でも良いからとっとと作業をさせろと暴れ出してしまったからである。
(慶悟のヤツ……約束と違うじゃないよ)
ギリギリと歯噛みして、緋生は店の窓から歌舞伎町の裏路地を見下ろした。
――と。泳ぐように人の波を掻き分けながら、見慣れた黒いスーツの男が現れる。
「あんたねぇ、遅すぎんのよ!」
店の扉を開け、引き込むように慶悟を招き入れると、思いつく限りの遅刻を非難する言葉を浴びせかけた。
すると慶悟はげんなりした様子で、懐からメモを取り出す。緋生う手書きのそれを指で弾いて、渇いた笑みを浮かべた。目は全く笑っていない。
「こんな適当な地図でわかるか。辿り着いたことを誉めて欲しいくらいだ」
「るっさいわよ!んなモン気合いで何とかするのが男でしょ!?」
「……それより早く、件の男の所に案内してくれ。早く手を打たねば、まずいことになる」
「オッケー。こっちよ」
まだ何か言いたげな慶悟を連れて、緋生は狭い店内を駆けた。
目的の部屋からは、道具が投げつけられるような音と、男の怒号が聞こえてくる。
チッと舌打ちした慶悟は、愛用の呪符を取り出して腰だめに構えた。
緋生が部屋の扉を開く――と同時に、作業台の上で獣のように四つん這いになっている男に、符を放つ。
それは、相手の動きを封じる呪力を込めた札である。
まるで磁石で引き合うかのようにピタリと張り付いたそれは、ぼんやりと朱色の輝きを放った。
「紅臣、奴を眠らせてくれ」
「はいはい」
突然の事態に驚く新人彫物師――自分の代わりに作業をさせられていた娘を追い出しながら、緋生は軽く手を挙げる。
後で自分にダメージが返ってくるので本当はあまり使いたくない能力だが、そうも言っていられない。
邪眼――目が合った者に暗示をかけるという能力を、緋生は解放した。
慶悟の力で動きを封じられ、目だけがギラギラと悪魔的な輝きを放っていた男は、力を失ったように瞼を閉じていく。
ぐったりと作業台の上に崩れ落ちた男に、慶悟はさらに術をかけた。
『無始よりこの方、貪瞋痴(とんじんち)の煩悩に纏われて、身と口と意とに作るところの諸々の罪咎を、皆悉く懺悔し奉る』
邪気を祓う真言に呼応して、男の背中の魔法陣が薄らいでいく。
やがて、悪魔を呼び出す地獄への門は、跡形もなく消えた――。
◇
後日、とあるバーにて。
慶悟と緋生は再び、酒を酌み交わしていた。
「そういえば、先日の報酬の件だが。使用した符が1枚と、祓料あわせて――」
相変わらずのウィスキーを傾けながら、淡々と計算していく慶悟に、緋生は思わず悲鳴をあげる。
苺のリキュールを使った真っ赤なカクテルのグラスを叩きつけるように置いて、
「ちょっと待ってよ、慶悟……あたしたち、オトモダチよね?」
「それとこれとは話が別だ。なにしろ食い扶持だからな」
「…………えへ」
ニッコリと微笑む緋生にはもはや反応せず、慶悟はとんでもない金額をはじき出した。
――緋生の月給の約半分だった。
「よし、じゃあ今日のところはあたしの奢りで!それでお仕舞い♪」
バシバシと慶悟の背中を叩き、顔をしかめる彼を無視して、緋生はカクテルを呷った。
その後、慶悟の元に報酬が支払われたかどうかは――もちろん言うまでもない。
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