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<東京怪談ノベル(シングル)>


遣らずの雨


 犬神。四国、中国や九州地方の一部で信じられている人に憑く霊の一種とも言われるもの。その姿は手の平の上に乗る程の小さい姿だとも言われるが、通常は目にする事はできない。また、呪術者が四つ辻に飢えた犬を首だけ出して埋めてから首を刀ではね、その首または怨霊を祀り、使役することが出来るようになったものの事も言う。式神としての犬神は、命のままに他人から富を盗み取ってきたり、その家の者に取り憑いて病気にしたり、殺害したりするともいう。
 但し、犬神は一往に不従順な性格なため、祀る事を怠ると主人にも害を為すとも言われるが…。


 それは今からどれぐらい前の話だろうか。今となっては犬神も思い出せない。元より、死した直後から時間の流れなぞ関係ない立場になってしまったのだから当たり前であり、それ以前から己の考える事と言ったら、その日の飢えをいかにして癒すか、なるべく雨風の当たらない塒は何処か、何もしていないのにいきなり蹴られたり水を掛けられたり、そんな不遇をどう躱すか…そればかりだったような気もする。

 その日、那神・化楽の頭の中は、取り敢えず新作の絵本の事で一杯だった。そぼ降る雨の中、何故にわざわざ傘を差して買い物に出掛けたかと言えば、そう言うシチュエーションで何かに出会う事で、自分のインスピレーションを高めようとちらと思った…と言う理由もある。勿論、買い物に出掛けなければ自分と、その同居家族達が腹を空かせてしまう、と言うのが最大の理由であったが。
 しとしと、でもなくかと言ってざーざー振りでもない、傘が弾き返す雨音がリズミカルで心地好く、傘を揺らしながら適当に差していてもそんなには濡れない、その程度の振りは寧ろ散歩を楽しくさせるな、等とどこか楽しげに面を綻ばせながら化楽は靴先で水を跳ね返しながら歩いていた。もう少しで次の交差点に差し掛かる、それとほぼ同時期に、同じ交差点に逆の曲がり角から差し掛かろうとしていた、もう一つの影があった。
 それは一匹の年老いた犬であった。この時代にあって野良犬が存在する事自体が珍しい、野犬と見ればすぐに、何処かからワイヤーの輪ッかがついた棒を持って無表情な男が捕らえに来る、それが当たり前の現代で、ここまで年を経る程に生き長らえたのは奇跡に近いかも知れない。尤も、ある程度までは人に飼われて平凡な生活を送って来たが、何らかの事情で途中から野良犬になってしまったのかもしれないが。いずれにしてもその老犬は痩せ細り、身体中傷だらけで、そしてそれ以上に恐らく精神は傷付き、不信と恐怖と怒りで魂は一杯だっただろう。ただ、犬であるが故に、そう言う負の感情だけで己を奮い立たせる事までは想いが及ばず、ただその日の飢えを凌ぐが為、そして今はこの傷付いた身体を更に鞭打つ冷たい雨から逃れる術を願うだけで精一杯だった。
 老犬の肉球も傷付き、岩のように硬く強張って、歩く度にシクシクと痛むがそれを気に病んでいる余裕すらなく。雨の所為でか老齢の所為でか、視界は定かではなく音もはっきりとは聞こえない、そう、自分の背後から迫って来る、鉄の固まりがゴムの足元を軋ませる危険な音でさえも。
 「キャぅンッ!」
 恐らく、余りに一瞬の事で老犬には何が起こったか理解出来てはいなかっただろう。ただ、何か凄い衝撃と痛みとも言えない程の酷い打撃の後、すぐにその安らぎはやって来た。濁ってはっきりとは見えないその黄色い瞳には、薄ぼんやりと走り去って行く鉄の固まり――己を跳ね飛ばして死に致らしめた、自動車の影だけが映り、そして小さくなっていった。
 それは化楽が、交差点の角にやって来た直後の出来事であった。走り去るその車が、急ブレーキの音さえさせなかった所を見ると、老犬の存在には気付いていなかったようだ。それとも、薄汚い犬など、歩く為に当たり前に踏みしだく雑草と同じ程度にしか認識していなかったのか。いずれにせよ、化楽の目の前を走り去る車と、同時に四つ辻に投げ飛ばされた犬、それを目の当たりにして化楽は思わず傘を放り出し、倒れ伏す犬の方へと駆け寄った。
 「あぁ、…大丈夫か?…もう駄目か……」
 沈む化楽の声が老犬に聞こえただろうか、雨の雫が当たっても瞬きすらしなくなった老犬の目に溜まる水が、堪え切れない涙のようにも見えた。
 やがて立ち昇る、眼には見えない憤怨の炎。


 ―――ニクイ。コロシテヤル。オレトオナジクルシミヲ、イヤ、ソレイジョウノクルシミ、シヲミズカラネガウホドノクルシミヲキサマニモゾンブンニアタエテヤル…。


 その老犬が憎んだものは何であっただろうか。自分の不遇の境遇か、それとも無慈悲な人間界か。或いは、己をこのような身に貶めたある特定の人間か。理由は何にせよ、憎しみの情だけは明らかな事実としてその老犬の中に眠り燻り続け、それが死の間際に一気に吹き出したのだろう。老犬は犬神となり、そして最後に自分が目にした人間、つまりは化楽に取り憑く事で、己の欲望――今は化楽を苦しめ、呪い殺す事――を満たそうとしたのだ。
 そんな事に気付く事も無く、化楽は年老いた犬の亡骸を己の家まで運んだ。自分の洒落たスーツが泥や何かで汚れる事も厭わず、片手の肘に買物袋を掛けて両腕で抱きかかえて運んだのだ。その姿勢のまま、苦労して化楽が自宅の扉を開けると、同居中の家族達…と言っても親とか妻とか子供とかではない、尻尾を振って主人を出迎える彼等は、化楽が拾ったり引き取ったりして家族同然に暮らしている、何匹かの犬達であったのだ。
 「ただいま。すぐにご飯にしますからね…でも少し待っててくれるかな?……この子を、取り敢えず何処かに寝かしてあげないとね」
 目を細めてそう犬達に話し掛ける化楽が、靴を脱いで室内へとあがる。その後を追う犬達は、化楽は気付かなかったが、その背中の毛は微妙に逆立ち、耳の先がぴくぴくと痙攣して、何かに警戒を示しているのだ。
 『おかしい』
 『ご主人がなにかおかしいよ!』
 『…何かいる。ご主人の中に何かがいるぞ』
 口々にそう呟く――尤も、犬の呟きなので化楽には当然聞こえないが――犬達を威嚇するかのよう、化楽の中からぬっと姿を現わした老犬……今は犬神が、カッとその真っ赤な口を開けて、禍々しい牙を剥き出しにした。ヒッと犬達が息を飲む音が聞こえる。
 『犬神!?』
 『なんで?どうして?ご主人が犬神に憑かれるの?ご主人はそんな人じゃないよ!』
 『黙れ!』
 犬であった頃よりも格段に高い知能と狂暴さを増した犬神が一喝する。さすがに怯えて尻尾を巻き、自分の後ろ足の間に挟む犬達の中で、一番年嵩の黒い犬が、畏れもせずに前へと歩み、犬神と対峙した。
 『…なにゆえ、ご主人に取り憑いた。ご主人が其方を使役した訳ではあるまい』
 静かな彼の琥珀の瞳が、血走った犬神の瞳を捉える。他の犬達とは違う、余裕があり度胸の座ったその様子に、犬神も猛りを少しは抑えたようだ。
 『理由など知らん。そんなものはいらぬ。俺はただ、目の前に居たのがこの男一人だったから取り憑いたまでだ。この男がどんな奴など、俺の知った事ではない。俺の目的はただ呪い殺す。その相手が誰であろうとも、俺は構わぬ』
 無表情にそう言い放つ犬神に、他の犬達がざわざわとざわめいてその横暴さを非難する。が、犬神にぎろりと睨まれて再び尻尾を身体の間に挟んだ。そんな中で先の黒犬だけは臆した様子も無く、そしてまた犬神の身に起こっただろう境遇に無駄に同情する事も無く、ただ物静かな様子でこう言った。
 『其方が憎み、呪う気持ちも分からぬでもない。だが、ご主人だけは止めてくれ。あの人は、其方が思うような人間ではない。かと言って、他の人間に取り憑くのも止めてくれぬか。あの人にとって、自分が愛する犬が、そんな呪わしい存在になる事は酷く悲しい出来事だろうから。それならば、自分の身に其方を引き受けよう、とまで言うだろう』
 『は、メデテェ奴だな。犬神を敢えて受け入れて殺されるのを待つようなヤツがいるのか?』
 『殺される事を望んでいる訳ではない。あの人は、犬達がそう言う憎まれる存在になる事自体が悲しいのだ。それ程、我らの同族を須らく愛している。それは、ここに居る我らが痛い程知っている』
 背後で深く頷く犬達、全てがその想いを理解していた。
 人に裏切られ、苛められ、飢えて傷付き。たまに気紛れで手を差し伸べられれば、威嚇して歯をむき出すか、怯えて身体を強張らせるしかなく、結局はどちらにしても人から疎ましがられる結果となって。そんな犬達を引き取った化楽が、長い時間と愛情を掛けて、今の信頼を築き上げたのだ。怯えて目も合わせられなかった自分、優しい声音と表情で少しずつ、犬達が呆れる程に根気よく、その凍てついた心を解いた。久し振りに頭を撫でる人の手、それの何と温かかった事か。昔の自分と今の自分を思い出し、黒犬はしみじみと妙なる縁を噛み締めた。
 『………目出度いヤツもいるもんだな』
 犬神の呟きは、先程までの険悪さはなく。どこか遠くを見詰めるような視線で、溜め息を零した。
 『俺もヤキが回っちまったのかねぇ…こんなヤツに取り憑いてしまうとはよ』
 『そうではないだろう。それが其方の縁だったのだ。元より、人を憎んで恨んで犬神になった訳ではあるまい。だからこそ、死の間際にご主人と出会ったのだ』
 そうであろう?そう静かに言葉を綴る黒犬に、犬神は苦笑を向けた。

 「何をしてるんだい?みんな、ご飯だよ?」
 部屋の向こうから化楽の声がした。わん!と鳴いて他の犬達が主人の元へと駆けて行く。その後を一番最後に追う黒犬が、未だ佇む犬神を振り返ってこう言った。
 『こんな生活も悪くはあるまい?』
 ニヤリ。と先程とは違う印象で、犬神が牙を剥き出した。


おわり。