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邂逅〜金と銀、一対の煌
闇。
躍動する更に濃い闇がそこにあった。
…真夜中の公園。
その上空で。
躍動する闇は――ふたつ。
片方は、何者とも知れぬ、闇の塊――妖怪、とでも見れば良いのか。正体が読めない。
そしてもう片方は――背に黒い翼を生やした、長い長い黒髪の男。身に纏うその服も、黒尽くめ。
黒鴉、鳴黒。
ただひとつ、彼の纏う別の色――その抜けるような白い面に、月光の如く冴えた白銀の瞳が、闇の塊をじっと見据えている。
一時、梢に止まった鳴黒は、相手を威嚇するよう、ばさりと一度翼を扇いだ。
それが合図になったか、再び梢から空に飛び立つ。
同刻、闇の塊の方も、鳴黒に向かい、やや低い位置を這うよう、空を疾る。
鳴黒が手の中に作ったのは真空の刃。鎌鼬。撃ち出そうとしたそこに闇の塊が打ち込まれる。黒い黒い黒い刃。風を操る鳴黒の手を先に切り裂こうと襲い来る。その動きを見、鳴黒は紙一重でひらりと躱す。そして相手に真空の刃を叩き込んだ。切り裂くように、その首筋。手加減の余裕は無い。どちらかが――あるいは両方が死ぬまで終わらない。そんな相手。
首筋を狙ったその時、がくんと闇の塊の身体が下がり、鳴黒の攻撃は空を切る。そして下方、闇の塊は――加速して舞い上がり、鳴黒に突進した。…直撃。
空中で一歩下がる形になり、鳴黒はがくりと背後に足を踏み外すような仕草で踊ると、やや下方に落ちた。体勢を整えようと翼をばさ、とはためかす。そこに闇色の刃が数度突き出された。咄嗟に庇うが間に合わない。腕が、肩口が切り裂かれる。致命傷はまだ辛うじて無い。そこに至るまではどうにか庇えた。だが防戦一方では勝機は掴めない。鳴黒は覚悟を決め、再び大きく翼を扇いだ。軋む。扇ぐ力すらもう、気を抜けば入らない。が、ここが正念場。敢えて力強く翼をはためかせ、スピードと勢いを作る。そのまま、転がるように上方へ。どうにか闇の塊の背後に回り、そこで。
間、髪入れず手の中にまた真空の刃を、ありったけ、紡いだ。
闇の塊が慌てたようにこちらを振り向く。けれど遅い――。
「――はぁッ!!」
気合と共に繰り出した無数の真空の刃。闇の塊に向け、逃がさぬように、一時に、その身体を刃で巻き取るように――切り刻んだ。
闇が毀れる。
鳴黒とは別の、闇の塊。
砕け、闇が薄らいだ――細切れだ。
どさ、どさ、と地に落ちる音まで確認して、鳴黒はぜぇぜぇと荒い息を吐く。…無闇に長い髪が絡まる。今になって、邪魔と気付いた。
…これで、滅ぼす事が出来たか。
今にも全身から力が抜けそうになりながらも、中空に留まったまま、安堵する。
が。
「…汝」
ぽつり、と。
彼自身のものでない声が響いた。
その源は――たった今、滅ぼした筈の。
地の底から唸るような、闇の、声。
と、共に。
闇の塊の一部――濃い闇の、大きなひとかけらが、
別の生き物にでもなったように、急に、角度を変え、飛礫の如く。
――鳴黒に向かい。
その胸を、
刺し貫いた。
尖鋭な闇の先端が、両翼の間、背中から生えている。
「…汝、我ノ…呪イヲ、受ケヨ、呪ワレ…ヨ――汝、我ト共ニ…地獄ニ、落チヨ…!」
耳障りな濁った怨嗟の声。
公園内の闇に染みるよう、響き渡る。
そして一度、ひゅっ、と息を呑むような音がして、
…毀れた闇は今度こそ事切れた。
けれど。
「か…はっ」
その上空で。
…喘いだ唇から朱が溢れる。
即ち、鳴黒も。
…滞空の為、緩やかに扇がれていた黒い翼も力無く動きを鈍らせ、その身の重さ――大地の重力にあっけなく負けた。
頼るものもなく墜落し、そのまま、ブロックタイル張りの地面に叩き付けられる。
鳴黒はそこで、力が尽きた。
後に残るのは――ぐったりと死んだように倒れ伏す、一羽の大柄な黒い鳥。
即ち――鳴黒の本性である、カラスの姿、だけだった。
■■■
…濃い緑の匂い。懐かしい田園風景。酷く遠い記憶に思える。自分の居た――棲んでいたその山の麓。
ああ、これは、まだ私が――普通のカラスであった頃の、あの風景。
古びた神社に、その深い杜に、仲間がまだ、たくさん、暮らしていた。
――人間との平和な共生さえも叶っていた、幸せな日々の記憶。
…『俺は、もう充分生きた』
黒を纏う友の声。
人型を取る事が出来るのは――年経たカラス故の事。
私と同じその力。
持ち得た彼の――その科白。
…『こんな姿になってまで、生き長らえて、何とする?』
にやりと。
不敵な、それでいて何もかも悟ったような、諦観さえ見える――表情を。
私に。
…『父に母に連れ合いに――そして我が子に』
向けて。
…『逢いに行こうと思っただけさ』
告げる。
死相の浮かんだ、その顔を見せて。
…『ただひとつ、お前を置いて行くのだけが忍びない』
ぽつりと。
呟いて、私を見上げる。
…『お前みたいな奴にゃ、この生き方は――気の毒過ぎるぜ、鳴黒よ』
――彼はその時、生き延びる事、出来なかった訳じゃない。我ら年経た化けガラス、そう簡単には――死さえ訪れぬ。年経た『あやかし』と呼ばれるモノたちは――ただそれだけで、通常の生き物よりも、頑丈だ。
それでもその時、敢えて『死ぬ』事を選んだ、あの男の記憶。…科白。
…今になって、お前が私に言った意味が、わかってきた気が、したよ。
…昨今は人を襲うカラスが多い。そしてまた、退治と称しての逆も然り。
カラスと言えばゴミを漁り、散らかす、知能犯。
特に東京ともなれば――日々、人間とカラスの――正に『戦争』が繰り広げられている。
この黒い鳥。居るだけで疎まれる。嫌われる。
…人の世も変わったものだ。
そう、つい先程も、地元の商店街に住まう者と思しき壮年の男に、姿を認められるなりしっしっ、と迷惑そうに追い立てられた。
私はただ、そこに居ただけだと言うのに。
別に人間の出したゴミなど漁る気は無い。
人間を襲う気も無い。
けれど人間の方は――区別する気も何も無いようだ。
黒色の大柄な鳥――カラスであればただ、迷惑。
棲み難くなったものだ。
…普通のカラスも、『食べ物が無い』から、『巣を作る道具が無い』から、『人間とは爪や牙は無くとも、恐ろしい存在だと思う』から――生き延びる為に、必死で餌を求め、必死で抵抗しているだけだと言うに。強さを見せれば、退くだろうと思うから、そうしているに過ぎないだろうに。
…元を辿れば人間の自然への暴虐が原因であるのに、な。
それでも何故か悪者は、一方的に私たちカラスになる。
今、男に追い立てられた私は、ブロック塀の上に止まっている。
すぐ脇は舗装された路地。
ちょうど正面から人――子供が歩いてきた。
珍しい。
黒い髪、それは普通だ。日本人としては有り触れた色。
だが。
瞳の色が、珍しい。
右が金で、左が銀だ。
その煌きはとても印象深かった。
二百十九年生きてきた私でも、そんな組み合わせは――一度も見た事が無い。
更に珍しい事に。
その子供は、私を見て、立ち止まった。
興味深そうにじっ、とその両の目で見つめている。
何故嫌がらないのだろう。
私はカラスの姿の筈なのに。
「…逃げないんだね?」
あろう事か語り掛けてさえ来る。
無邪気に。
無防備に。
「あ、そうだ」
何か思い付いたように言うと、この子供は、私の目の前でがさごそとポケットを探りだす。
そして中から、食べ掛けのクッキーの小袋を引っ張り出した。
当然のように中身をひとつ取り出すと、はい、と私の嘴の先に、差し出す。
…何だと?
「あげる」
正直、絶句した。
…今時、カラスに対してこんな行動を取る人間が、居るのか?
呆気に取られる私の内心も露知らず、この子供はクッキーを持った手を引っ込める気配も無い。
「ゴハン、あんまり無いでしょ。この辺りってさ。…良かったら足しにしてよ」
ほら! ねえ? とクッキーを私の目の前にずい、と突き出し、全然手を引く気配の無い子供の攻勢に負け、私は恐る恐るクッキーを嘴で抓んで、受け取る。
と。
心底嬉しそうにこの子供は、微笑んだ。
…カラスである私を、全然、怖がらない。
「お友達の印だよ?」
言って、にこりと。
…本気か?
ある意味呆れつつも、流れ込んでくる『暖かさ』や『優しさ』が、嘘や建前、誤魔化しや、見返りを求めて、では無いと雄弁に語っている。
…本気だ。
何にしろ、この東京にあっては随分と…奇特な事である。
…いったい、何者だったのだろうな。あの子供は。
■■■
――…鳴黒はとりとめもなく、さまよう。
己が心の迷宮を。
と。
そ、と身体が浮く感触がした。
誰かの手。人間か。
…私は抱き上げられているのか?
細い、腕。
力を込めず、最大限、気遣っているような。
何処かであった、あの『暖かさ』や『優しさ』に包まれてでもいるような――。
「おい」
…優しい、声がする。
「おい、ってば」
…呼び掛けている。
私に、か?
「…大丈夫か?」
私に、だ。
…ここは現実。
薄く瞼を開いた私の目の前が、俄かに暗い――が、その周囲は、明るいような。
…これは…誰かが私を抱き上げ、上から、覗き込んでいる?
――誰だ!?
気付いた刹那、鳴黒は目を見開いた。
と。
視界に飛び込んで来たのは、眩いまでの朝の光。
――そして。
その眩く、優しい光を背に負った――金と銀で一対の、忘れられない、煌きだった。
【了】
■タイトルにある「煌」は「かがや」と、
また、文中にある方は素直に「煌き」→「きらめき」と読んで頂ければ幸いです。
以上。 深海残月 拝
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