コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


陽はまた登り、君を照らす

―1―

 どうしてその時、そんな言葉を漏らして仕舞ったのか彼には判らなかった。
 小学校から戻ってくれば、母親の用意してくれた甘菓子を頬張りながらすぐに家を飛び出して、暗くなるまで戻って来ない。仔犬の様にどろんこになって家に戻ってくるのは夕餉の時刻ぎりぎりで、疲れて眠ってしまえば次の日の宿題もたまには忘れてしまう。
 授業中よりも休み時間に目立つ、普通の男の子。
 渡辺家嫡男、綱。

 中の上とも言える一般家庭に生まれ育ち、父親は彼のやりかたで息子を愛したし、母親だってそうだった。
 クリスマスには母親がケーキを焼き、大きな靴下の中に父親がこっそりプレゼントを忍ばせる。
 入学式にも体育会にも、両親揃って綱の小学校へ馳せ参じたし、授業参観には落ち着かない面持ちで廊下の外から教室を見回す二人の姿があった。
 節分には、鬼祓い。
 スーパーで母親が買って来る袋詰めの豆、それにセロファンテープで貼り付けられている鬼の面を父親が被って渡辺家でも毎年豆撒きが行われる。
 鬼は外、福は内。

 その年、綱は豆の入った袋に手を差し込もうとしなかった。
 水が良く染み込みそうな厚紙で出来た鬼の面を被った父親が、両手を振り回したり、けったいな声を挙げたりしながら、綱の気を引こうと躍起になっている。
「豆なんかじゃ鬼は追い払えないよ。第一、うちに鬼なんて居ない」
 父親は興の冷めた様な顔で面を取り払い、屑篭に捨てて仕舞った。母親はおろおろと、亭主と息子を見比べながら溜息を吐く。

 どうして、判らないんだろうか。
 どうして、自分だけが呼ばれるのだろうか。

 形ばかりの家宝として家の奥深くに祀られている『何か』が、誰にも聞えない息遣いで呼吸をしている事を綱は知っていた。
 それだけは辛うじて知っていた、『何か』が自分を呼んでいる声が幼い彼の耳にも届いていたから。
「歴史の授業か何かで、また下らない話を聞いて来たんだろう。何でも鵜呑みにするんじゃ無いよ、それはおとぎ話なんだから」
 父親の言葉の意味が判らない。
 何を言っているのか判らない。
 自分の家に祀られている『何か』の正体すら、彼には理解出来て居なかったのだ。
 それは当然の事だった。
「綱のおじいちゃんよりもずっとずっと昔のおじいちゃんがね、鬼退治をしたの」
「すごい、桃太郎みたいに?」
「そうよ。だからこの家には、おじちゃんが鬼退治をした時に使ったって言われてる刀が祀られているの」
「じゃあ、もしも鬼が襲って来たら、その刀を使って僕が鬼を退治するよ」
 母親が笑った。まあ、この子ったら。
 丸めた新聞紙で、綱は刀を振り回す武士を真似て家族を和ませる。

 違う。
 そうじゃ無い、と。
『何か』は綱に言う。
 綱は笑う。笑いながら、父親の腰を新聞紙で両断の仕草を見せる。
 受け容れろと、声がする。
 綱はそれを、聴かない振りをする。
 また笑う。
 十歳の冬だった。

―2―

 あの日以来、『何か』の声はすっかりとその音を潜めていた。
 声が高まれば高まる程に綱は心の耳を塞ぎ、父親と母親に愛される健全な子供で居ようと努めた。
 やがて小さくなり、後にはその微々な気配のみを己に伝える『何か』の存在。
 ――刀だ。
 綱は然程の時を必要とする事無く、それを確信する。

 絵本に何度も見留めた太刀の姿は、綱の心を魅了した。
 我が家にもこんな格好良くて素敵な形をしたモノが在るのだと、それを思うだけで心が高鳴った。
 しかし、異形への憧れと、それの存在を自分の内に受け止める事とは根本的に訳が違う。
「自分は『刀』を欲している。小脇に差し、背中をしゃんと伸ばして歩き回り、『悪い奴』を懲らしめる事を望んでいる」
 相変わらず、響かされる何がしかの声音に耳に傾ける事は無い。

 強い自分で在りたい。
 その思いを、父と母の愛情の中で有耶無耶にしていた。
 まだ、自分は『子供』で居ても良いのだ。
 そんな思いが、彼の心を開放する事を拒ませていた。
 失う事、を。
 彼は本能的に、恐れたのかもしれない。

―3―

「―――暑うぅ…」

 十歳の夏――その年の最高気温をマークした、寝苦しい熱帯夜。
 夏休みも終わりに近くなった、盆明けの事だった。

 父親に夜更かしを窘められ、綱は日付が変わる少し前に床へ就く。
 しぶしぶながらも寝巻きに着替えて、その後で。
 暑さにかまけて、寝しなに冷たい飲み物をたらふく飲んだ。
「――おしっこ…」
 むくりと起き上がり、薄い掛け布団を剥ぐ。
 夏休みに入ってからと言うもの、夜遅くまで暴走族が近隣を走り回っている。時計を見れば、夜中の二時。まだまだ彼らが煩く走り回って居ても良さそうな時間で有ったのに。
 その日は、どういう事か静寂が耳に痛い程だった。
 大人のお兄さん達も、今頃宿題とかやらなくちゃいけないからね。
 寝ぼけ眼ながらも、一人不器用に納得して綱は部屋の襖を開ける。

 異様な、腐臭だった。

 思いきり顔を顰めた綱の、瞼を擦る手が止まった。
 いくら残暑厳しい真夜中でも、それほど急激に物が腐る事等無いだろう。
 ましてや母親の几帳面さを思えば、放置した食料が腐敗した匂いであるとは綱には考えられなかった。
 竦んだ足が、トイレにすら歩む事を拒んでいる。
 それは本能的な畏れであり、恐怖であった。

「・‥…―――」
 長く続く廊下の向こうは、今迄に彼が目にした事の無い…濃密な闇。
 奥深くを見詰める程、目を凝らす程にその距離が掴めなくなり、吸い込まれて仕舞いそうな気さえする。
 己が生活をする空間、言わば「内側」に、これほどまでに深い漆黒が存在する時間があるのかと。
 今この瞬間、ここは「自分の家」では無いと、綱は思った。
 生臭い、朝方のゴミ捨て場の様な不吉な匂い――それは、おそらくこの暗闇の先から漂っている。
 尚も辺りは静寂に包まれており、それが殊更に綱の心から現実味を失わせていた。
 これは、夢なのかもしれない。
 まだ自分は蒲団の中に横たわっていて、すやすやと静かな寝息を立てながら眠っているのかもしれない。
 朝方になれば母親が綱を起こしにやって来て、腹を出して熟睡する綱を優しく叱るのか。
 こんなに静かな、静かすぎる…腐臭漂う廊下。
 これは、夢では無いのか。

 ――ギイィ。
 踏みだした足の下で、色褪せた廊下の隅が軋んだ。
 その音は濃密な漆黒の中で必要以上に高く響き、綱の心臓をどくりと鼓動させる。
 瞬間、目の前の大きく凶暴な暗闇が、大きく揺らいだ――様な、気がした。
 ザワ…ザワ、と、闇が鳴る。
 暗闇の、おそらく一番奥。そこから漂う異臭がふわりと揺れて、綱の鼻腔を擽るそれの熱が俄に増した気さえする。

 ―――我を持て。

 声が、聞えた。

―4―

 二歩目からの爪先は、綱にそれほどの床の軋みを伝えなかった。
 敏感になっているだけだと、真夜中の魘熱に幻を見ているだけなのだと、綱は己に言い聞かせる。
 濃度をました暗闇はその臭気を増し、心なしか心をざわつかせる。
 今ならまだ、引き返せると思った。
 それでも、引き返してはいけないのだと思った。
 この先にあるものを、自分はきちんとこの目で確かめなくてはいけない。
 爪先すら見通せない暗闇の中、壁に掌を這わせながら綱はごくりと唾を飲む。
 奥の間。
 父と母が眠っている筈の、質素な寝室。
 さらにその奥の部屋に『それ』が祀られている。
 指先が、太い柱に触れた時。
 綱の膝が、畏怖と好奇に小さく震えた。

「・‥…―――」
 いよいよ不快に漂う腐臭に顔を顰めたままで、綱は寝室の襖に手を掛けた。
 が。
 いつもなら音もなくすすす、と開く筈のそれに妙な手ごたえを感じる。
 内側から、何か大きなものに圧迫されて軋んで仕舞った様なその手ごたえ。
 例えようも無い孤独感と、せり上がる様な焦燥が綱の中に芽生えた。
 この中に、父親と母親が居る。それは確実だと思った、襖の向こうには何かが居る気配がする。
 何かが襖の向こうには居て、何かをしている。
 生臭い腐臭を放つ何かが、父と、母と―――
「――っ、開け…‥・!」
 不吉な予感が己の中に満たされる。襖に掛けた綱の小さな手指に、殊更の力が篭められた。
 ――と、その刹那。
 パァン――
 弾ける様な衝撃と共に、引いた襖が大きく開いた。
 その手に力を込める余りに、両目を堅く閉じていた綱の目には留まらなかったが――弾けたのは襖でも柱でも無く、室内の空気、であった。
 瞬間のまばゆい光すら伴った爆発は室内の奥深く、澱の様に漂っていた腐臭を大きく膨張させ、その圧力に綱の前髪を瞬かせる。
 確かな手ごたえと共にその双眸を開いた綱の目の前に広がっていたのは――

 肩を上下させながらしきりに腐臭を吐く、大きな『鬼』達の姿。
 ある者は脅える綱の母親を嗤い、ある者は唸る様な声音で理解の出来ない言葉をがなり立てている。
 一際大きな体躯のそれが、綱に背中を向けていた。
 それが伸ばした太い腕の先に綱の父親の首を掴み、下品な笑声を立てながらゆっくりと壁に向かって歩を進めている、その光景だった。

「――ッ………!!」
 息を呑み、その場に立ち竦む綱に。
 それら異形の眼差しが一斉に集められた。
 どうして自分は、こんなおぞましいモノ達が立てる物音に気付く事が無かったのだろうか――それは『結界』と呼ばれる膜による物であった事を、後に綱は知る事となる――。何が起こったのだろうか。目の前にいるこれらは何で、父親は、母親はどうしてそれらに襲われているのだろうか。
 刹那に脳内で巡ったそれらの思考に綱は答えを見出せずに、襖に掛けたままだった指先が冷たく震えていた。

『此れがそうなのかァ兄者ァ?』
 綱の右手側、一番近い場所でばりばりと無様な腹を掻いていたソレが潰れた酒声で問う。
 ソレの腹が上下する度に不快な息が吐き出され、綱の頬を擽るが。
 それは却って綱の意識を確りとさせるに至る――視界の端で、脅えた表情の母親が自分を見上げているのが見えた。
『そうかも知れぬなァ弟者ァ―――』
 兄者、と呼ばれて振り返った鬼――父親の咽喉に手を掛けていたソレ、だった――が、綱を見下ろし。
 縮れた短い頭髪が天井に掠めそうな程の大きな鬼は、せせら笑う。
『やっと来たか、渡辺の嫡男―――こんなちまいのが、我らを脅かす驚異と成ろうとはなァ?』
 押し潰された蛙の様な嗄れた声が揶揄し――回りの鬼共が、低く太鼓を轟かせたように嗤った。
「――っ、…父…さ…‥・を・・」
 咽喉の奥から、せり上がる恐怖と吐き気に堪えるか細い声を搾り出す。
 と、闇を震わせる轟きの様な嗤い声は殊更にその響きを増し、綱の声音を掻き消して仕舞う。
『おぉ、何ぞや虫の声が聞こえたか弟者ァ』
『儂にも良う聴こえなんだが兄者ァ、でもさっきここに飛んできた小さな虫が居た気がするわなァ』
 小鬼が――とは言っても、綱がその顔を大きく見上げさせなくてはいけない程のソレ、ではあったが――ゆぅらりと、綱に一歩を歩み寄らせる。
 その隙、鬼の大きく広げた小脇から―――

『我を持て、――綱』

 真っすぐに響かされた声に向かって、綱は何をも考える事をせず駆け出した。
 大きく開け放たれた寝室の奥、暗がりの中で自分に声を投げてきた『何か』に――

 鬼の怒声が背中に響いた。
 金切り声で息子の名を叫ぶ母親の声と轟音が、背中で奇妙な響きに交じり合ったが。
 それでも綱は、足を止めなかった。
『持て我を、綱――我が主よ…‥・』
 そして飛び込んだ暗闇の中で、己の居場所を綱に伝えるかの様に、『何か』が発光した――まばゆすぎる白い光で。
『―――っギャ―――ァ…‥・』
 眩んだ視界を掻き毟りながら、綱に遅れた鬼共が奥の間へ足を踏み入れる。
 父親は、先ほどの綱の暴挙に大鬼から放りだされ、畳に打ち付けられていた。喘ぐ様な呼吸に咽喉を鳴らしながら、鬼達のさらに後に続く。

 そこで、彼らが目の当たりにしたのは。
「――そ、か…‥・」
 やっと、判ったと。

 神棚の真下、壁を背に綱が立つ。
 俯いた表情は、彼の柔らかな前髪に隠されていて見通す事は出来ない。
「・‥…ごめん、今迄…ずっと知らんぷりしてて」
 綱は呟く。
 鬼達が裂けんばかりにその口をあんぐりと開けて、目を瞠り。
 綱と、その掌に輝く――白金の輝きに、見入っていた。
「遅かったよ、もう――手遅れ」
 綱の掌で、白銀が一際大きく輝いた。
「僕を止めに来たんでしょう、皆」
 鬼達が声も無く、その表情を恐怖に戦慄かせる。
「―――サヨナラ。ココは君達が居ちゃいけない場所、だったんだ」
 そして、辺りを、白すぎる光が包んだ。
 綱の掌から生まれたそれは、綱を中心に大きく膨張し、全てを呑み込んでいく。
―――陽。
 猛りの象徴であった筈の一振・髭切。
 かつては鬼切とも呼ばれ、幾多の鬼の血を吸い――畏れられた太刀。
 それが綱の手に収まり、彼と響かせた強すぎる共鳴の果てに。

 御霊・髭切と成り、綱と同化する。

 綱との共鳴に髭切が高い音を立てていたが、次第にそれも薄らいで行く。
 光は鬼達を呑み込んで行き、その場の誰もが見通せぬ程のまばゆさで爆ぜた後。
 あとには、綱自身と、それに父親、母親。
 三人のみが、残された。

―5―

 かくして綱は、渡辺家当主・渡辺綱として、その血を正統に受け継ぐ事となる。
 十歳のあの日から、渡辺家では節分の豆まきをしなくなった。
 豆まきだけでは無い。クリスマスのケーキも、授業参観も、卒業式や入学式も。
 両親は綱の姿を正視する事を躊躇う様になり、何か底の知れない化け物の様な扱いをする事すらあった。
 家族の会話は急激に減って行き、ささやかな家族幸せは損なわれていった。

 それでも綱は、己の選んだ方法で鬼を祓い、笑う。
 日本には尚も『鬼』は存在し、それらを払う事は政府が『渡辺家当主・綱』に課した使命でも有ったからだ。
 危険を厭わない事、無二の力を持っている事。
 それらが誇りなのでは無い。
 危険に有っても尚笑う事、無二の力を驕らない事。
 それこそが誇りで有り、当主たる己の役割である事を、綱は知った。

「行ってきます、お土産期待しててよね!」
 綱の声が、白々と明けた朝の屋敷に響く。
 中学最後の思い出作りだからと、三年生に成った時から楽しみにしていた修学旅行の朝だった。
 大きな旅行鞄を背負って綱は靴を履く。父親も母親も、彼を見送りに玄関に出てくる事は無かった。
 いつも通りの朝の風景、いつも通りの孤独。
 が。

『行ってらっしゃい。どうか、気をつけて』

 靴箱の上には、華奢な置き時計の横に小さな包みが置かれていた。
 母の筆跡で書かれた小さな便箋と、空色の布包み。
 目を瞠った綱が、旅行鞄を床に置いてその場で包みを開く。

 中に入って居たのは、まだほっこりと温かさの残る唐揚げと、握り飯だった。
 どんなに危険な鬼祓いにも長期のそれにも、今迄に一言も温かな言葉を掛けてはくれなかった母親。
 皆で赴く修学旅行の、どこをどう『気を付け』れば良いと言うのか――あの人は。
 それでも、否―――だからこそ。
 その気遣いに、綱は泣いた。

 大丈夫だ、と思う。
 自分はまだ、大丈夫だと。
 あの日の、両親の庇護を求める為の笑顔なんかじゃなくて。
 大切な人の愛を求める為の、何もかもを有耶無耶にする曖昧な笑顔なんかじゃなくて。
 自分は自分の力で、自分の幸せの為に。
 愛する人の、大切な人の幸せの為に。
 強くあれ、そして笑え。
 強い笑顔で、自分の回りの全ての人達を幸せにしろ、綱。

「――行ってきます!」
 自分は、あなたの。あなたたちの子供だからと、何度も心に繰り返す。
 玄関を飛び出し、大通りに向かって駆けて行く綱の後ろ姿を、寝室の障子の隙間から母親はいつまでも見守っていた。