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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


求む、ソリスト及びオーケストラ奏者

------<オープニング>--------------------------------------

「要は、この曲のソロを弾けるレベルの楽器奏者を紹介して欲しいって事ですね?」
 ええ、と頷く依頼者の顔と、差し出された冊子を見比べながら草間武彦は訝った。
 その冊子とは、楽譜である。それも、オーケストラ用のスコア、古典的なクラシックのものが数冊。
「……確かに調査員には楽器を弾ける者がいなくもないですが、……ちょっとうちでは畑違いな気がしないでもないんですが」
 わざわざ、興信所に紹介を頼む事ではないと思うのだ。いくらポップミュージックやロック、R&Bが主流の音楽として溢れ返り、クラシックなぞという高尚で優雅な音楽が淘汰されかかっている東京といえど。いかに少数派と云えど、その道でプロを目指して経験を積むチャンスを探している人間はいくらでもいる筈だ。草間には専門外で、はっきりとは分かりかねることだったが。それだけに、何故こんな依頼が舞い込んだのかが今一つ理解できない。
 依頼者は、大分年輩の、それでいて落ち着きと優雅な気品を持った雰囲気の男性である。質の良さそうなスーツをゆったりと着こなした様は、音楽に精通したマイスターそのものに見える。
「確かに、そう思われるのも無理はないでしょう。私は、もう大分前に退職しましたが音楽学校でオーケストラの指揮をしていましてね、今でも嘗ての教え子や孫弟子の中に該当する音楽家はいます。演奏のレベルの問題だけを問えばね。然しながら、御宅にこうして紹介を頼んだのは、つまり──それだけでは駄目なのです、本件の奏者は」
「……と云うと……」
 嫌な予感がする。……毎度のことではあっても。
「重要なのは、その奏者は普通であってはいけない……例えどれ程優れた音楽家であっても……という事です。むしろ、実力は高いに越したことはないが、一曲でも弾ききれる程度であれば問題ありません。……ただ、バックのオーケストラが生きた人間によるものでないという事を理解し、その上で誠意を持って演奏してくれることが大切なのです」
「つまり……」
 依頼者は厳かに頷いた。
「幽霊で編成されたオーケストラと共演できる奏者、ってことですか」

 依頼者の帰った後、草間の手許には数冊の楽譜と、依頼の頭金の入った封筒が置かれた。音楽学校の教授の職や数々のオーケストラの指揮を退職し、老後を割合富裕に過ごしている依頼者の提示した金額に不足はない。数曲の内1曲でも引き受けて貰えば良い、そして1曲毎に追加料金が支払われ、それぞれが違う奏者でも良い、という事である。

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【0A】

「武彦さん、どうするつもり?」
 シュライン・エマ(しゅらいん・えま)が溜息まじりに煙草をふかしている草間・武彦(くさま・たけひこ)に訊ねた。真直ぐな黒髪を一つに纏め、中性的な美貌に意思の強そうな青い目が輝く。 本業は物書きであるが、時々何故か草間興信所で事務・整理のアルバイトをしている彼女はたまたま居合わせ、今の依頼内容を聞いていたのだ。
「俺だって今悩んでるんだ。……とりあえず、あいつだな」
 どうしてこうもこの人の所には、本人が望まざるに関わらず奇妙な依頼ばかり飛び込んで来るのかしら、とシュラインは哀れな怪奇探偵の姿を後目にともかく自分の仕事を、と吸い殻の山と積もった灰皿を持ってキッチンへ向った。草間は、当然のようにシュラインも顔見知りのヴァイオリニストである青年にまず連絡を取ったようだが、さて後はどうするつもりだろう。
 吸い殻を捨て、ざっと洗った灰皿を持ってシュラインが戻った所で来客があった。と云っても依頼者ではない。ウィン・ルクセンブルク(うぃん・るくせんぶるく)、ドイツ貴族の末裔にして万年大学生の身分を満喫しつつ、ESP能力を買われて時々草間興信所の依頼にも協力している、金髪碧眼、シュラインと並べば壮観な美女である。
「御機嫌よう、草間さんにシュライン、あら、草間さんどうなさって? 何だかお悩みのようね」
 それもそうだろう。草間が知っている楽器奏者はそう何人もいる訳ではない。とりあえず心当たりに連絡を取ったものの、その心当たりもすぐに絶えたものと見え、頭を抱えて時代錯誤な黒電話と睨み合いをしている草間がそこには居た。
「悩みもするでしょうよ、今回は楽器奏者を紹介して欲しいという依頼なの」
「楽器ですって?」
「ええ」
 シュラインは依頼者の残して行った楽譜を手にとり、ウィンに示した。その時、草間の手許のメモが目に留まった。
「あらやだ、武彦さん、この子にも連絡取ったの?」
 シュラインの視線の先には「草壁 OK」と走り書きをしたメモと、その横に本人が残して行った連絡先と得意分野を記したカードがあった。
 『機械類の修理・改造/ハッキング』というのは当て嵌まらないから、もう一つ、職業である『ヴォーカルギタリスト』という項目に目を付けたのだろうが──。
「だって、なー。香坂の他にはこいつぐらいしか本職で楽器やってる奴……」
「いくら楽器が弾けたって、この子のやってるのはロックバンドでしょう。さっきの依頼者はオーケストラをバックに、と云ってなかった?」
「何か問題あるか?」
 音楽に関しては何も分かっていなさそうな草間にわざとらしく溜息を吐いて見せる。
「オーケストラ……へソリストの紹介なの?」
 ウィンが興味津々といった様子で身を乗り出して来た。
「そうよ、しかもバックのオーケストラが幽霊ですって。そしてこれが報酬」
「まあ」
 ウィンは目を輝かせて依頼内容の書類に目を走らせ、そしてシュラインから受け取った封筒の中身を確認して目を丸くした。
「一体、どうしてこんな大金をかけてそんな依頼をして来たのかしら」
「私も気になってた所よ。……あまり、深入りしちゃ悪いのかもしれないけど、それにしても妙よね」
「ねえ、草間さん、私、楽器はできないけれど音楽は大好きだわ。私も演奏者に同行させて頂いて、依頼者に話を聞いてもいいかしら」
「ウィン、」
「シュライン、私、気になるのよ。きっと、何か事情があるに違いないわ。叔母が声楽家でクラシック界には多少ツテがあるし、理由があるならばそれを知った上で演奏できる方がいいじゃない」
 ウィンは少なくとも面白半分で云っているのではないようだ。シュラインもそうね、と頷いたが草間はもう半分匙を投げたように電話との睨み合いを止め、新しい煙草に火を点けている。
「……頼む。俺はもう疲れた」
「結局、何人OKが出たの?」
 シュラインは実務的な話をしようと気分を変えた。草間がこうなってしまっては、自分がしっかりしなければ仕事にならない。
「香坂と草壁の二人だけだよ、それ以外にあるか、」
「ふーん……」
 シュラインは渡された楽譜の曲目に目を走らせた。その二人だけでは完全にはカバーできないだろう。シュラインは楽譜はそう得意ではないが、特殊な聴覚と声帯模写能力がある。
「……私も依頼者に改めてお話を伺って、もしOKが出たら足りない楽器の音を模写する形で参加しようかしら。それでもいい? 武彦さん」

【1_1】

 結局、依頼者には来週の水曜日に揃って改めて話を聞きに行くことになった。オーケストラとロックバンドの区別も付いていない草間が連絡を取ったインディーズバンドのヴォーカルギタリストとやらは今週は忙しくて来られないという事なので、当日直接待ち合わせることにした。
 そして、今草間興信所の応接間にはシュライン、ウィン、香坂・蓮(こうさか・れん)の3人だけが集まった。
 蓮はシュラインから一通りの事情を呆れた表情で聞いていたが、やがて楽譜の束に目をやりながら頷いた。
「……幽霊のオーケストラと共演、か……。……まあ、滅多にある機会じゃないしな……。……しかし、この依頼者が俺で良いと云うかどうか……」
「あら、あなた依頼者を御存じなの?」
 ウィンが少し戸惑い気味の蓮に訊ねた。
「直接面識はないが、東京でクラシックをやってれば名前位は知ってる。横より縦の繋がりが重視される世界だからな、この依頼者……津田氏の弟子だとか孫弟子だとか、そのまた門下だとかいった人間は結構知っている」
 津田・孝泰(つだ・たかやす)というのが依頼者である、初老の紳士の名前だ。蓮の話で更に驚いたことには、初老、と見えていた彼は十年以上も昔に音楽大学を定年退職した、80にも届こうかという年輩だったのである。

「私は声帯模写で参加しようと思っていたから、一番振動数の近いヴァイオリンでも、と思っていたのだけど、香坂君がいるなら役に立たないわよね、別のにしようかしら。チェロなんかもいいわね、少し低音だけどやってみるわ」
 そう云ってシュラインはチェロ協奏曲の楽譜に手を伸ばした。蓮はああ、と生返事しながらヴァイオリン曲の楽譜を見ていたが、やがて少し気まずそうにシュラインに云った。
「いや、やっぱりこの曲はあんたに頼もう。俺はこっちを引き受ける」
 蓮がシュランに差し出したのはマスネの歌劇『タイス』だ。この瞑想曲はヴァイオリンやチェロの小品としての方が有名だろう。対して、蓮が「引き受ける」と云ったのはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、有名な曲だ。
「まあ、大して難しくもないが、重音が多いから人間の声では厳しいだろう。その曲なら重音もない」
「あ、その事を忘れてたわ」
 いかにシュラインと云えど、ホーミーの歌い手ではないのだから基本的に和音を一度に発することはできない。微妙にタイミングを操作するか、振動数の倍音を工夫すれば似た発声はできるのだが、あまりに激しいパッセージが続き、しかも全体で一時間近い協奏曲となれば喉に多大な負担はかかるだろう。
「……しかし、あの津田氏がここを訪ねて来るとはな……」
 そして話題を切り替えた蓮に、ウィンが視線を向ける。
「ところで、その津田さんについてあなたが御存じの事を全て教えて頂ける? 私、水曜日までに少し調べてみたいの」
「ああ、然し、極一般的な事だぞ。経歴位しか俺は知らない。それに、あまり細かい所までは覚えていないから……、だが、関係のあった大学や楽団に行けば、もっと詳しい事は教えてくれる筈だ」
 そして、結局エルガーのチェロ協奏曲の楽譜だけが興信所に残った。

【1_3】

 その日ウィンは、蓮から聞いた津田氏の経歴の内、一つの音楽大学の事務局を訪ねた。
 普通ならば部外者に詳しい話を聞かせてくれはしないし、依頼者のプライバシーの守秘義務から興信所の名前は出せない。が、ウィンには大きな武器があったのである。
 予め電話で連絡を入れておいた時間に大学を訪れると、対応に出た職員はその場で大仰な礼をした。
「ようこそ、これはこれはルクセンブルク様、よくこんな所まで御足労頂きました」
「いいえ、こちらこそお手数をおかけ致します」
 ウィンが、異性ならば──異性でなくとも、思わず視線を奪われるプラチナブロンドの美女であるにしても、あまりに職員の態度は丁寧過ぎた。
 応接室に通され、待っているとややして一人の、如何にも音楽家然とした男性が入って来た。
「あ、どうも、この度はわざわざ」
「ええ、こちらこそいつも叔母がお世話になっております、ウィン・ルクセンブルクと申します」
 これなのだ、この大学側の異様なまでの丁寧な対応は。
 ウィンが半年前に兄と大喧嘩をして彼の許を飛び出してから、現在も居候させてくれている叔母。その叔母は、先日の公演では世界に向けて成功を修めた程の声楽家である。その姪となれば、どれ程心証の悪い相手だろうと音楽大学が無碍に扱う筈がない。ウィンのような礼儀正しく美しい女性ならばなおさら、である。
 ウィンは、まずは電話でルクセンブルクの姪であると名乗り、こう説明したのだ。
『叔母が、今度取り組む歌劇の研究中に津田孝泰様の指揮なさった音源を大変気に入りまして、その内津田様のファンになってしまったそうなのです。それで、個人的に津田様の音楽観について研究したいと申しておりまして、けれど忙しい人ですから、私も微力ながら協力したいと思いまして。津田様の音楽経歴等を調べております内、こちらで15年前まで御教授なさっていたとお聞きしました。教えて頂けることだけで構いませんの、お話、伺えませんでしょうか』──と。
 そのウィン自体、気楽な万年大学生という身分であるから大学に客人として迎えられるというのも妙な話だ。
 ともかく大学側はやや慌てた様子も見せながら(何しろ、世界的な声楽家ルクセンブルクの姪直々の電話なのだ)、是非お越し下さい、わたくし共でお役に立てることがありましたら何でも、という訳である。
 今ウィンの前にいる男性は、現在はこの大学で弦楽アンサンブルを教える教授で、自身はヴァイオリニストであるが、母校がこの大学であり、学生時代には津田教授から指揮法を、同氏の退職までは氏の受け持つオーケストラの授業で助手を務めていたという人物である。
「素晴らしい人です、津田先生は。目立った経歴こそないが、人間性にも音楽への理解もあれほど優れた人はいない。先生の指導で、何人もの優れた後身が生まれています」
「お察ししますわ」
 ウィンは熱っぽく語る男性に微笑んだ。
 しばらく男性の話を聞いた後、ウィンはさり気なく切り出した。
「ところで……津田様の昔の事などで、何か変わったことはありませんでしたかしら? いえ、変な意味ではありませんの、一体、どうすればあんな御年配──と云うと失礼ですわね、でも、津田様の若い頃には日本はまだクラシックは盛んではありませんでしたでしょう? そんな中で、どうしてあれだけの優れた音楽を身に付けられたのかと」
「ああ、」
 男性は少し表情を曇らせた。
「先生の指の事を仰ってるんですね?」
「指?」
「ええ、あの、動かない中指です」
「──……、」
 ウィンの直感が「それよ、」と告げている。ここで上手く話を引き出すには、余計な事は云わず黙って頷いている方が良い。
「先生が音楽学校──今の音大ですが、そこにいらっしゃった時、本当は先生の専門はヴァイオリンだったんです。ですが、戦争で召集されまして、帰って来られた時には手に怪我を。その後、ヴァイオリン演奏にとっては不可欠である左手の中指は動かなかったそうです。それでも先生は諦めず、御自身は演奏をなさらないでも、後身の指導や指揮者として活躍された。私も、ヴァイオリンについても多少アドバイスを受けたことがあります」
「戦争……お気の毒に」
 戦争、オーケストラを構成できる程の数の幽霊。ウィンの聡明な頭に、何かが閃いた。
「……心が傷みますわ。……私もそういった事ももっと学ばなければ。ごめんあそばせ、何か、当時の──戦争中や戦後の音楽についての資料、ありませんかしら」
「ああ、それなら資料室にあったと思います。あ、資料室は図書館内にあるんですが、確か当時、先生もヴァイオリンで参加していた録音も残っていたと思いますよ──あ、君」
 そして、ウィンは男性の口利きで大学の職員に導かれ、音楽大学内の図書館へ向ったのである。

「どうぞ、何のお構いもできませんが、御自由になさって下さい。学生達で少々煩いかもしれませんが。後でルクセンブルク様名義の図書館カードをお持ちしますので、貸し出しや視聴覚ブースの使用も遠慮なさらず」
「あ、その事なんですが、迷惑ついでにもう一つだけお願いできませんかしら」
「はい、」
「図書館カード、あと一枚作って頂きたいんですの」

【2】

「ようこそ、皆さん草間興信所から来て頂いた方ですね?」
 予め興信所で待ち合わせ、揃って訪ねてきたシュライン、草壁・鞍馬(くさかべ・くらま)、ウィン、蓮、鬼石・曜(おにし・あきら)を津田氏は穏やかな笑顔で迎えた。
「お待ちして居りましたよ、どうぞ中へ」
「お邪魔致します」
 シュラインとウィンを除き、残った3人はそれぞれ楽器を持参している。蓮のヴァイオリン、曜が学校の備品から借り出してきたチェロはいいとして、某有名エレキギターブランドの名前がばっちりとプリントされたエレキギターのケースを持っている鞍馬は居心地の悪さを感じていた。依頼者宅の内装が、如何にも落ち着いた優雅なインテリアで統一され、居間にはアンティークのチェンバロ等置いている辺りからして、赤い髪でラットミュージシャンのパンツなどを着ている彼は外見だけでも不釣り合いだ。
「……、」
 赤い短髪を掻きながら、鞍馬はこの場に居合わせない草間興信所の所長を密かに恨んだ。
「……あのおっさん……音楽関係だっていうからOKしてみりゃあ……ロックとクラシックの区別もついてなかったのかよ……」
 揃って居間のソファに腰掛けながら、鞍馬は何となく、──流石に服を脱ぐ訳には行かないが、自分の所為ではないばつの悪さを感じてヴィヴィアンのアーマーリングを抜いてポケットに仕舞った。
「お暑い中、わざわざお越し頂いて恐縮です。……ああ、泰子」
 津田氏は、娘と見える中年の女性に一同のアイスコーヒーを命じた。
「津田泰子……、」
 蓮が思わず声に出して呟いた。普段は不遜な蓮だが、音楽の大家を前にすれば金が絡まなくても話は別だ。津田氏を前にしただけで落ち着かないと云うのに、今、あまつさえ自分達のコーヒーを入れる為に手を煩わせているのはその手こそがドイツのオーケストラの前でヴァイオリンを独奏した事のあるヴァイオリニストではないか。
 ……本当に、俺でいいのか、世間的に認められていない、賞もロクに手にしたこともない俺がこんなマエストロの前でヴァイオリンを披露して……。
 意識せず握り締めた両手に、暑さの所為ではない汗がじっとり滲んでいる。
「お待たせしました、……皆さん、本当に父の……木瓜た老人の我侭に付き合わせまして、申し訳ありません」
 そう云って6人分のアイスコーヒーを乗せたトレイを持った泰子が戻った時。
「いいえ、お構いなく」
「こちらこそ御都合も伺わずお尋ね致しまして」
「これは忝ない、どうかお気遣いの無き様」
 と社交的に挨拶するシュライン、ウィン、曜、今どきの若者らしく「あ、ども」と口の中で呟いてぺこり、と会釈する鞍馬を余所に、蓮は思わず立ち上がって驚愕している面々の前で津田泰子に向って頭を下げて居た。
「……、」
 流石にはっと自分の行動に気付き、殊更無愛想に腕を組んで再びソファに収まった蓮を見て鞍馬がにやにや笑っている。
「……まあ、あなたもヴァイオリニストね」
「え」
 思いがけず優しく掛けられた言葉に蓮は驚いて顔を上げる。何故分かったのだろう、と思って再び混乱していると、彼女は蓮の喉許と彼女自身の、左の顎の下と胸元にある痣を指して微笑んだ。
「……、」
 蓮はああ、と納得してその痣を押さえる。ヴァイオリニストには必ず出来る痣だ。ハンカチなどを挟んでいても、出来る。ヴァイオリンを弾き続けている限り絶対に消えることのない証明だ。
「頑張ってね」
「……恐縮です」
 泰子が去ってから、曜が「今の方は、どちらだ、顔見知りのようだが」と蓮に訊ねた。
「ヴァイオリニストの津田泰子だ」
「ああ、そうだったのか。気が付かなかった。私も一応楽器をやっている身、挨拶をすべきだった。帰り際にでもまたお会いできれば良いのだが」
 と曜はあくまで礼儀正しく、自分を確立している。
「……何故、あんな立派なヴァイオリニストのお嬢様さえお持ちでいながら、わざわざうちに依頼をなさいましたの?」 
 とウィンが津田氏に問う。津田氏は明るく笑って手を振った。
「ああ、駄目です。実は彼女に頼もうとしたこともあるんですがね、最初は快諾してくれたんですが、実はそのオーケストラが幽霊だ、と聞いて卒倒してしまいまして」
「……」
 そうか、それでさっき彼女が「木瓜た老人」などと父とはいえ失礼な事を云っていたのね、とシュラインは妙に納得した。……全く、よく考えてみれば普通こんな依頼、武彦さんでなければやんわり断って次に精神病院か老人ホームを紹介される所だわ……。

「それで、まあ木瓜老人の冗談にも聞こえる依頼を承知して下さった訳ですが……」
「その事ですけれど、」
 と尋ねかけたウィンをやんわり制し、津田氏は言葉を続けた。
「不審に思われるのも無理はありません、ですが、まずどの曲を弾いて頂けるかお教え願えますかな」
 ごめんあそばせ、と謝ったウィンはシュラインに目配せした。……やはり、理由は私が後で訪ねておきますわ、よろしくね、とその目が会話している。
「まず私ですけど、あの、失礼かもしれませんがちょっと変わった方法で演奏させて頂きます」
 とシュラインがまず口を開き、「ほう」と津田氏は首を傾いだ。
「どんな方法ですかな?」
「ええと……実際に聴いて頂いた方がいいかと……、ここで音を出させて頂いても構いませんかしら」
 津田氏はふむ、と唸り、立ち上がった。やはり、とても80前の木瓜老人には見えない機敏な動作である。
「それでしたら、折角ですから皆さん1人1人の演奏を聴いてみたい。レッスン室に行きましょう」
 そして一同はぞろぞろと、津田邸内の防音室へ移動した。ウィンは演奏する訳ではないが、その間待っているのも手持ち無沙汰だし、何より自分も聴きたい。付いて行く事にした。
 相変わらず蓮はヴァイオリンケースのハンドルを握る手に力が入り、鞍馬はくしゃくしゃと髪を掻き回して居た。……まず、生まれて初めて履いた上品なデザインの麻のスリッパで清潔なフローリングの廊下を歩いているという感覚自体が妙だ。
「……果たして私の演奏で納得してくれるだろうか、」
 最後尾を行く曜はチェロケースの他にももう一つ大荷物を抱えていた。鬼石家当主が代々護っている御神刀「天王」「地王」の二振りである。
 ……何か聞こえる。
『大丈夫。曜の腕は我等が保証しよう』
『曜の音は心地良い。心あれば彼にも通じよう』
「ふむ?」
 津田氏がくるりと振り返った。失礼した、と曜はそれに応じ、二振りの刀を目で制した。
「お前達は静かに」
 ……実は、今の声、曜の独り言などではなく、二振りの妖刀に宿る『天王』『地王』各刀神である。意思を持ち、実体化も可能で常から──本当は自分達を守護する筈である──曜を何かと過保護に護っているのである。
 さて完全な防音設備と、グランドピアノにダブルベース(※コントラバス)、様々な音響機械を備えたレッスン室に入ると、津田氏は笑顔で「どうぞ」とまずシュラインを促した。
 こほん、とやや緊張気味にシュラインは咳払いし、深く息を吸い込む。

──……──。

「……ほう、これは素晴らしい」
 ヴァイオリンの音色を模写し、澄んだ音でアルペジオを『奏して』みせたシュラインに津田氏は目を細めた。
「てっきり声楽家のお方かと思っていたが、これはこれは……」
「生憎私は楽器はできませんが、この声帯模写で『タイス』を演らせて頂こうかと……」
「願ってもない。よろしくお願い致します」
 続いて、その間に楽器を準備していた蓮がヴァイオリンを構えた。
 彼が選んだのはメンデルスゾーンの協奏曲ホ短調Op.64、だが、蓮は敢えて限り無く切ない冒頭の部分を弾かずにいきなりカデンツァ(※本来は楽譜に指定されて居らず、演奏者が即興で演奏するよう指示されている部分。個性や超絶技巧の見せ場だが、この曲では例外的に作曲者により楽譜が書かれている)のみを弾いた。
 力強く、正確な音程と速度をキープし続ける完璧な演奏だが、──その音色は非常に機械的だった。ヴィヴラートからして、波形にしてみれば正確な揺れ幅で示されるのではないかと思うほど、正確過ぎた。
 演奏を止めた蓮は顔を伏せた。
 ウィンや、「すげェ、」と単純に感心している鞍馬、「見事だ、流石は専門家、私にはできない演奏だ」と頷く曜の賞賛の眼差しは感じるが、──分かっているのだ。自分にこんな演奏しかできない事は。練習の時は、もっと、悲しすぎる程に感情的な音色が出るのに、人前に出た途端こうなるのだ。あがり症ではない。緊張して、指が回らなくなったり暗譜が飛ぶ訳ではないのだ。ただ、クールなまでに機械的な演奏になってしまう。が、小さく「すみません」と謝った蓮の耳に、意外にも津田氏の拍手が聴こえた。他の面々も釣られて手を叩く。
「……え、」
「素晴らしい。ふむ、時代と共に若者にもびっくりする程の演奏をする者が増えてくるが、私が教師をしていた時でもこの歳でこんな演奏をできる者は少なかった。いや、素晴らしい」
 まだ自己嫌悪が消えない蓮は、小さく礼を述べて楽器を片付けにかかった。
 その間に、曜が失礼、と椅子を借りてチェロを構える。
 ここ数日の間に、必死で練習してきたエルガーの協奏曲ホ短調Op.85を弾く。過保護に心配して来る天王、地王の言葉を振り切って寝る間も惜しんで練習したが、チェロが本業ではない彼女にはこの曲の冒頭の和音は難しすぎた。音程が微妙に外れ、指が閊える。だが、それでも意識を極度に集中させ、一同が見守る中7分にも上る1楽章のアダージォを弾き切った。数日で暗譜してしまうだけでも、プロにさえなかなかできない快挙である。
 彼女は恥じはしない。これが今の自分にできる最大限の努力をかけた演奏だという確固とした自信があったからだ。
「申し訳ない、私は本業ではないのです、然し、これでも良いと仰って頂ければ当日までには少しでもより良く弾けるよう努力致します」
 チェロを足にはさんだまま、堂々とした姿勢で告げる彼女に津田氏は笑顔で頷いた。
「云ったはずです、私はプロの演奏を求めている訳ではない、幽霊のオーケストラであっても誠意を持って演奏して欲しいのだと。あなたの誠意は充分伝わりました。……体調を崩さない程度に、頑張って欲しい」
「ありがとうございます」
 ウィンが率先して拍手した。蓮は、実力的には自分に劣る筈の曜を羨ましい思いで見つめながら、──またばれて一同ににやにやと笑われないよう、こっそりと手を叩いた。なんて素晴らしい演奏だったのだろう。
 ……問題は、コイツだ。
「で、君は……」
「あの、すみません、先にお断りしたいのですが、」
 シュラインが慌てて前に出た。
「あの……所長には会われたと思いますが、あの人……音楽のことなんか何も分かってない人で……、あの、悪気があった訳じゃないんです、ただ、あんまり無知で、彼はロックバンドをやっている子なんですが、彼に依頼してしまったんです」
「俺、エレキギターなんですよ……えーと、プライムも多少弾けないことないんですけど……」
「……『彼等』に新曲を渡す事さえできれば、電子楽器とオーケストラの共演も良い物なのだが……それは、できないのでね……」
「あ、俺アランフェンス位なら弾けますよ、アコギで」
 本当は、ジャズバンドに頼まれて助っ人した時に『アランフェンス協奏曲』をイントロにフィーチャーした『Spain』を弾いただけなのだが、今から練習すれば弾ける、と思い鞍馬は云った。
 津田氏は「残念だがアランフェンスも彼等は知らない」と本当に残念そうに呟いた。
 シュラインとウィンはまた目配せを交わす。
──どういう事かしら、新曲を覚えることができないというのね……。
──やっぱり、この依頼内容と関係があるのよ。
「しかし残念だ。折角だから、とりあえず聴かせて貰えないだろうか。音は、そのスピーカーに繋げれば出せる」
「あの……でも津田さん……」
 シュラインは慌てる。こんな、クラシックに精通したマエストロに常識への反抗を暴音と共に叫ぶような音楽を聞かせたら、卒倒してしまわないかしら……と、目眩を覚えているのはシュラインの方である。
 だが、取りも敢えずスピーカをプリアンプ代わりにし、それでもやや絞った音量でギターを引きながら自分のバンド、「ブレーメン」のオリジナル曲を歌い弾いた鞍馬の演奏を、意外にも津田氏はお気に召したようである。
「彼の、強い意思が良い。……管理への反抗かね。……これ程強い意思でそれを叫べる若者が居るとは、……いい時代になったものだ」
「え……、」
 津田氏は夥しい量の楽譜が並んでいる棚に行き、一冊の楽譜を取り出して来た。
「君には課題を与えよう」
「……へ?」
 目を丸くした鞍馬に津田氏は鷹揚に笑った。
「宿題は嫌いかね、だが、君に是非やって欲しい事があるのだが」
「やります、」
 引き受けた以上は最後までやってやる。鞍馬は真剣に即答した。
 津田氏が差し出した楽譜はバッハのインヴェンションとシンフォニア──ピアノの練習曲集である。その、インヴェンションの13番を開いて渡された。
「この曲を、あなたらしい方法で演奏してきて下さい。即興で崩して構わない。ケーデンスとゼクエンツさえ守って貰えれば良い。もちろん、楽器はそのギターです。きっと、そのギターの方があなたらしい演奏ができる」
「は……ケー……」
 聞き慣れない単語に言葉を詰まらせた鞍馬に、蓮が低声で「終止形のことだ」と告げる。
「この曲なら、ここの和声進行はドミナントからトニックへの完全終止、ここはサブドミナントからトニックへの終止で通称アーメン終止と云い……」
「ああ、コード進行のことかよ」
「厳密に云えば違う。だが、まあお前の頭ではそれ位のもの、と思っておいていいかもしれない」
「何だと」
「喧嘩しないの、二人とも!」
 シュラインの鶴の一声で蓮と鞍馬は黙った。津田氏に頭を下げるシュラインとウィンに、氏は明るく笑って応える。
「元気があるのは良いことです。それと、報酬のことだが、結局4曲も引き受けて貰えたのだから追加報酬は指定の口座に振り込みます、契約通りにね」
「すみません、これで所長の首が繋がります」
「……?」
 思わず口をついた一言に、怪訝そうな顔をした津田氏を前にシュラインはいいえ、と顔を赤くした。
「それから、君、ヴァイオリンの」
 急に名指しされた蓮ははい、と俄に緊張して姿勢を正した。
「他の方には何もできなくて申し訳ないが、ヴァイオリンの君には──ささやかだが、私と泰子でレッスンを付けさせて貰おう、嫌なら良いんだが、時間はあるかね?」
 あります、と蓮が答えたのは云うまでもない。……草間に「ない」と云い放った時とは偉い違いである。
 そうして蓮と少しお話したい事がありますの、と申し出たウィンはその場に残り、シュライン、鞍馬、曜はそれぞれの課題の為に帰路に就いた。

──演奏会は、一週間後である。

【4】

 その日の夜ウィンは、シュライン、鞍馬、蓮、曜、各々へ電話を掛けた。
 無論、津田氏からの話を伝える為である。

 ──まず、再び応接間で向いあったウィンに、津田氏が先に口を開いた。
「間違いであれば失礼だが、ルクセンブルクという姓といい面影のある美しいお顔といい、あなたはもしかしてあの声楽のルクセンブルク嬢の……」
「あら、御存じ頂いたなんて光栄ですわ、声楽家のルクセンブルクは叔母です」
「やはり。あなたは演奏なさらないと仰っていたが、どこか音楽への理解が深そうに感じた」
「……失礼とは存じましたが、少し叔母の知り合いに話を聞きましたの。……何故、あんな大金をかけてうちのような怪し気な興信所にこんな依頼をなさったのか不思議だったんですわ。お聞きしました、戦争の事。……その動かない中指の事。そして、空襲で亡くなられたオーケストラの方達の事。……今度の幽霊のオーケストラとは、彼等の事じゃございませんこと?」
 津田氏は笑顔を消し、温厚ながらも深い悲しみと憤りを含んだ表情で眼を細めた。
「如何にも、お察しの通りです。……全く、音楽にとって戦争とは何と暴力的なものか」

 ──、第二次世界大戦、太平洋戦争。
 横文字が敵国語とされ、野球のストライク、ボールすら「よし」「駄目」、と不自然な程の日本語に変えられていた時代である。
 当然、西洋音楽であるクラシックを勉強していた音楽大学の学生達にもその煽りはやってきた。
 クラシックの演奏などとんでもない、と禁じられるだけでなく、彼等が強制されたのは、プロパガンダである。少年少女までもが軍事工場での労働に狩り出されていた時代。厭と云って通じる訳はない。
 優雅で敬虔な3拍子のリズムではなく、マーチングの2拍子の演奏を、名誉の戦死を煽る歌詞の為に強制された。作曲家や作詞家達も、望まざるに関わらずそうした志気高揚の為の音楽を作らされていたのである。それは、そんな下らない目的の為に作られた音楽とは思えないほど立派なオーケストラと素晴らしい声の声楽家による演奏で音源に残っている。──その演奏を強制されて録音したのは、当時の音楽学校の生徒達だったのだ。
 当時音楽学校の教師に着任したばかりの津田氏もまた、その録音の為の生徒の指導と指揮を命じられた。が、まだ若く、血気盛んだった津田氏は、それを拒否したのである。
 まさかそれで死刑になる訳ではないが、国の命令に背いた人間はどうなるか。召集されたのである。太平洋戦争末期までは音楽学校の教師ということで「有用」とされていたのか免除されていた兵役検査が済んで結果もまだでは、という時点で津田氏は徴兵された。
「その時は悔やみませんでした。命令に従い、人殺しを煽るような音楽を演奏するくらいならばいっそ戦死した方がましだと思っていたのです。教え子だったオーケストラの青年達のことは心残りでしたが、ともかく私は徴兵の方を選びました」
 しかしながら、中指の不自由というヴァイオリニストの致命傷を負ったものの、津田氏は生きて帰還した。
 そして、真先に音楽学校へ安否確認に出向いた津田氏は、そこで聞いたのである。生徒達によるオーケストラが、防音室での練習中に空襲に遭い、気付いた時にはもう逃げ遅れていて全員が焼死した事を。
 それから、演奏家の道は諦め、後身の指導に尽力した津田氏であったが、そのことはずっと心残りとして蟠っていた。贖罪のように、定年までをひたすら指導に懸けた。
 だが、定年退職をしてやや時間の出来た津田氏はある時、客として出向いたある演奏会で開演前の時間中、丁度後ろの席に座って居た少女達のこんな噂話を耳にしたのだ。

──あそこ、出るんでしょ。……も聞いたって云ってた。夜になると、どっからともなく軍歌みたいなのが聴こえてくるんだって……。
──あれ、あたしは見たっていうの聞いたよ。なんかオーケストラみたいだったって云うけど。
──上野の……。

 津田氏は冷静ではいられなくなり、開演を前にしてその会場を後にして上野へ出向いた。そこで見たのである。何十年経っても見間違えることのない、嘗ての教え子達のオーケストラを。そして、戦争が終わって五十年も経っているにも関わらず、或いは自分達が死んだ事にも気付かないまま、望みもしないプロパガンダ音楽の演奏を続けているのを。
「私は夢中で彼等に呼び掛けました。もう戦争は終わったのだ、もう軍歌を演奏しなくても良いのだと。しかし彼等には届きませんでした。音楽家は、音楽に熱中すると周りの声は聞こえないのです。しかし、哀れでならない。よりによって、愛したクラシックでなく、強制された軍歌を演奏し続けている彼等が」
「それで……。それで、鞍馬君の演奏をも気に入られたのですね」
 煩かっただろうに、とウィンは思う。然し、力強い感情、人の思い通りにはならない、自分の意思で生きる、という強い感情を聴くものに与える鞍馬の演奏は、津田氏の心には深く響いただろう。だからこそ、聴かせたかったのだろう。彼らに、鞍馬の演奏を。
「彼等を理解してくれるソリストが率先して目の前で演奏を始めれば、如何に彼等とて気付くはずです。そして、かつて練習した曲を弾き始めるでしょう。……馬鹿げた考えだと、最初は思いました。しかし、どうしても諦められなかったのです。私ももう80近い。何があるか分かりません。もしこのまま死ぬようなことがあれば、私の方こそ、死んでも死にきれない。……そんな時、お宅の話を耳にしたのです。どんな不可思議な依頼でも引き受けて頂ける、草間興信所の事を」
 草間が聞いたら何と云って喜ぶだろうと思いながらもウィンは、承知しました、必ず彼等なら誠意を持って素晴らしい演奏をしてくれるでしょう、と強く断言した。

「私も演奏会には是非列席させて頂きますわ」

【6】

 上野にある戦前からの音楽堂のステージには、この日、今にもオーケストラの演奏が始まりそうに椅子と楽譜台がセッティングしてある。
 何でも、津田氏が口を効いて教え子の発表会用にと借り切ったそうだ。
「……でも、本当に現れるのかしら」
「そうね……本当なら、団員の1人1人と握手でもして挨拶したい所だけど、万一現れ
たって触れないのよね……」
 そう、会話を交わすのはウィンとシュライン。
 蓮は流石にプロだけあって慣れたもので、舞台上の配置をチェックした後、会場中を手を叩いて音の響き方を確認して廻り、試し弾きしてレスポンスを聴いている。
 そこへ、オーケストラでは女性の正装である黒い衣装に身を包んだ曜が表れた。背後に付き添う白髪、黒髪のそれぞれ人ならぬ麗貌の青年二人。彼等もまたタキシードで正装し、それぞれ肩ににヴァイオリンとダブルベースを下げていた。
「あら、彼等は?」
「……、」
 例の過保護な刀神、天王と地王の実体化した姿なのである。
「我等も弦楽器は得手故、頑張った曜へ助力でもと思い……」
「……そういう訳なのだ。オーケストラにでも混ぜて貰えないだろうか」
 あくまで曜ちゃんの為なのね、とシュラインは苦笑し津田氏を振り返る。氏はにこにこと笑って頷いている。
「……それにしても、遅いな……」
 蓮が舞台から降り、呟きながらやって来た。鞍馬である。
「……これだからロックの奴は……」
 オーケストラではそれぞれが時間前に来て準備、着席し、時間きっかりに調弦開始が原則であるが、ロックやジャズのミュージシャン達の中には開演時間イコール集合時間と信じて疑わない人間が多い。慣習の違いである。仕方がない。
「おはようございますー」
 と、ミュージシャン式の挨拶をしながら鞍馬が入って着た。彼も今日は一応、モッズ風ではあるがスーツを着ている。
「遅いぞ」
「何でだよ、時間丁度じゃねえかよ」
「まあいい、さっさとセッティングして来い。お前はアンプを使うんだろう」
 そう二人が云い合いをしていた時である。
 会場中の照明が、数回瞬いたかと思うと、辺りが暗闇に包まれた。
「え、停電?」

──……。
 
 だが、一同は息を呑んだ。俄に大人数の気配がしたと思うと、紛れも無く舞台上から物々しい2拍子のマーチングが奏され出したのである。
「あれ……」
 シュラインが口許を押さえて舞台を指した。
 少しずつ照明が灯り出した舞台の上に、フルオーケストラが現れたのである。それも、全員がカーキ色で足にはゲートルを巻いた国民服姿だ。
 一心に、しかし望まざるマーチングを演奏している姿は無気味というよりは物悲しくさえある。
「……香坂君」
 津田が蓮を振り返った。彼等の意識をこちらに向けなければならない。
 蓮は頷き、準備していたヴァイオリンを構えると右手を大きく振り上げてEメジャーの四和音をフォルテシモで一度鳴らした。
「……、」
 俄に演奏が止み、彼等はざわめきながら周囲を見回している。

──……。

 蓮のイザイのソナタが始まる。まず、囁きかけるようなホ長調の旋律。それで彼等の視線は一斉に客席奥の蓮に向いた。
 蓮はゆっくり舞台に歩み寄りながら、次のゼクエンツを、一転してフォルテシモで演奏される減和音のパッセージを弾く。
 また囁きかけるホ長調の旋律。フォルテシモのパッセージ。蓮は舞台の中心に立った。
 その演奏には、情感だとか機械的だとかといった形容は全く当て嵌まらない。ただ、力強い蓮の演奏は一瞬にしてオーケストラを惹き付けた。彼等が楽器を下ろしたまま息を詰めて蓮を見つめているのが見える。
 超絶的な技巧を経て最後にバッハによるモチーフをアップボウで弾き切った弓を蓮が高く掲げると、一斉にオーケストラが湧いた。
「シュライン、」
 そしてシュラインが舞台へ進む。蓮は、やや戸惑っているオーケストラの中に入るとコンサートマスター──ファーストヴァイオリンの1プルトアウトの席に座って『タイス』のスコアを広げた。
 津田氏がタクトを手に指揮台に登り、イン4(※1小節に4拍タクトを振る事)でタクトを振り始めた。──もう、マーチングを弾く必要はないのだと。
 澄み切ったヴァイオリンの音色を模写し、然しその演奏の表情はシュライン本人の誠意による瞑想曲。コンサートマスターの蓮の弓の動きを見ながら、オーケストラ達は嘗て覚え弾いた、本当に自分達の愛した音楽を奏し始めた。
 次に曜と入れ替わったシュラインは、彼女が弾くエルガーのチェロ協奏曲のスコアを手にしてまだ舞台の上に居る。
 そして、曜が力強く冒頭の和音を弾き切ると、オーケストラを見回し、その中で暗譜ができて居らずにやや戸惑っている奏者を見つけだしてはそっと近寄って耳許で、そのパートの音色を模写した歌声でメロディを教える。シュラインがスコアを全てマスターしたのはこの為だったのだ。触れることができない相手へのせめてもの挨拶代わり。いつの間にかセカンドヴァイオリンとダブルベースのプルトに混ざっていた「天王」、「地王」と共に、彼等に支えられたオーケストラは真摯に演奏を続ける曜と一緒にエルガーの世界を造り上げた。

──どうか、彼らが安らかに眠れる様に。

 演奏を終えた曜は蓮に引き止められてチェロのプルトに混ざった。然し、次は恐らく即興演奏になる鞍馬のインヴェンションだ。──どうしていいか分からないぞ、という風な視線を送る曜に、蓮は俺の弓を見ろ、と指示する。オーケストラの演奏をまとめるのは、音よりもコンサートマスターの右手の動きだ。演奏家は、それを見ただけでリズムが分かる。
 サウンドチェックが充分で無かった鞍馬がプリアンプに繋いだギターを一度かき鳴らすと、とんでもないハウリングが鳴り響いた。オーケストラの面々は一瞬面喰らったように目を見開いていたが、愛想よくすいません、と会釈した鞍馬にくすくすと楽しそうに笑い合い出した。チューニングを始めた鞍馬と、蓮が立ち上がってオーケストラに向い合う。

「……武彦さん、来てたの?」
 舞台を降りたシュラインは客席の隅にいつの間にか収まっていた草間に驚いて声をかけた。
「ああ……彼女が誘いに来て、零が行きたいって云うもんだからな」
 視線の先にはウィンと並んで客席の中央に座っている零が居た。
「……やだ、じゃあ私のタイスも聴いてたの?」
「ああ、シュライン、オペラが上手いとは思わなかった」
 ……相変わらず、この音楽音痴の所長にはロックとクラシックの区別はおろか声楽とヴァイオリンの区別も付かないらしい。シュラインのヴァイオリン音声模写は完璧だったのに、だ。
「……照れるじゃない」
 そう云って隣に座りながら、シュラインはでも演奏中に草間の存在に気付かなくて良かった、と思った。もし気付いていたら、──いけないとは知りつつ、感情をオーケストラの彼等ではなくこの音楽音痴の怪奇探偵へ傾けてしまっていただろうから。
 
 鞍馬が指示した速度で津田氏がタクトを振った。鞍馬のエレキギターのパッセージを、立ち上がってオーケストラに向いあったままの蓮が追い掛ける。オーケストラもこれには多少戸惑っていたが、──バッハのインヴェンション、かつては音楽学校で副科のピアノで練習した記憶がある筈だ。すぐに、蓮の手の動きを真似ながら乗ってきた。
 鞍馬の演奏を聴きながら、蓮はバッキングを即興でピチカートに切り替えた。それに合わせるオーケストラとのバランスを聴きながら、蓮は右手の動きで低弦パートにロングトーンを指示する。チェロパートに収まった曜も必死で蓮の動きを追いながら、段々笑いながら演奏に乗ってきたオーケストラに同調し始めた。地王を始めとしたダブルベースのプルトが楽器のボディを叩いてリズムを取り始める。それをチェロが真似出すと、今度はウッドベースのようにピチカートでゼクエンツを追う。
 鞍馬の演奏には強い意思が溢れていた。自分の生きる道は自分で決める。自分のやりたい事をやる。鞍馬はその強い感情を、自由奔放なケーデンスのリハーモナイズと彼らしいギターリフで表現した。
 それは、マーチングの演奏から解放されたオーケストラにもすぐ伝わった。既にオーケストラ達は隣の奏者と目配せを交わして即興を続けている。普通クラシックでは御法度である筈の足によるリズムキープをわざと大袈裟にやっている青年もいる。曜は彼等程即興に慣れていないから、ロングトーンによるケーデンスのオヴリガートを続けた。
 鞍馬がピックを握った右手を大きく振り上げて蓮に合図した。エンディングだ。蓮はすぐにその合図をオーケストラに送る。
 演奏終了と共に盛大な拍手がオーケストラ内部から沸き起こった。鞍馬もオーケストラへ拍手を送り、津田氏と握手を交わす。
 今だにさっきの滅茶苦茶な演奏の興奮が収まらないらしく大笑いを続けていたオーケストラを愛おしそうに眺めながら、津田氏が蓮に合図した。
 呪わしい戦争の呪縛から解放され、魂が解放される時だ。──蓮のレクイエムが始まる。鎮魂の旋律が。

【7C】

 後日、ウィンは再び上野の音楽堂を訪れた。
 あの日は素晴らしい演奏を聞いた後の感動で気分が高揚していたり、シュラインに気を効かせて零を送ったりしたものでそんな余裕がなかったのだが、確かめたいことがあった。
「──……、」
 誰もいない、がらりとした音楽堂の中で目を閉じ、意識を研ぎ澄ます。
 先日の演奏会は、悲しい戦争の遺物であるオーケストラ団員達の思念を充分浄化させられたと信じるに足りるものだったが、もし少しでもまだ戦争への束縛から逃れられない思念があればこれ程悲しい事はない。一応、確かめておこうと思ったのだ。
 幸い、彼等は心残りを残す事なく天に召されたようだ。
 舞台に触れた指先から、あの日の舞台風景が流れ込んで来た。
 マーチングに捕われていたオーケストラ団員達を一瞬で惹き付けた蓮のヴァイオリン、ヴァイオリンの音を完璧に模写しながらも自分の音楽を紡ぎ上げたシュラインの瞑想曲、手に余る難曲を強い精神力でものにして見せ、力強く弾き斬った凛とした(……そう云えば可愛い娘だったわね、)少女のチェロ、彼等に笑顔を取り戻させ全員が心を通じ合わせてバッキングしたロック少年の自由奔放なギター、そして鎮魂歌。

「……」
 
 ウィンはその指先を耳にそっと当てた。
 ──……ああ、あの日の演奏がはっきりと耳に蘇る。
 彼女は暫し、誰も居ない音楽堂の客席に独り座って指先を耳に当てたまま愛する音楽へ安らかに耳を傾けていた。
 
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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086 / シュライン・エマ / 女 / 26 / 翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1326 / 鬼石・曜 / 女 / 18 / 学生(退魔剣士)】
【1532 / 香坂・蓮 / 男 / 24 / ヴァイオリニスト(兼、便利屋)】【1588 / ウィン・ルクセンブルク / 女 / 25 / 万年大学生】
【1717 / 草壁・鞍馬 / 男 / 20 / インディーズバンドのボーカルギタリスト】

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■         ライター通信          ■
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皆様、今回は草間興信所への依頼をお請け頂き、ありがとうございました。
お陰様で戦争に翻弄された音楽学校の学生達へ鎮魂を捧げる事が出来ました。
東京怪談2度目の執筆でしたが、今作は本当に音楽一辺倒となってしまいました。やや説明的な文章が多く、詰まらなく感じられたかもしれません。反省して居ります。然し、本当に素晴らしい演奏家や音楽に造詣の深いPC様をお預かりしましたので、つい気合いが入ってしまいました。

誤字脱字、PC設定等には気を付けたつもりですが、誤りや勘違いがありましたら遠慮なく御指摘下さい。

尚、お気付きかとは思われますが各章ごとの数字の後にアルファベットが続いている場合、その部分には同時間上の他角度からの描写が存在します。御自身のプレイングが他PCにどう影響したか、或いはその間他PCがどんな行動をし、何を見ていたか等、お時間がありましたら是非御一読下さい。

今度は音楽のギミックを利用したシナリオを考えて居ります。
気が向かれました方、今作とは逆に音楽の持つ恐ろしさに興味を持たれましたら、是非御参加下さい。

■ ウィン・ルクセンブルク様

初めまして。今回は新人ライターの依頼に参加頂き、本当にありがとうございました。
プロパガンダを強制された音楽学校の学生の話は最初からこのシナリオの正体として据えていましたが、さて、演奏重視のPCに片寄ったらどうしようか……と考えていました所、演奏者を気遣いながらも音楽への愛情を持って御参加頂いたウィン様のお陰で、演奏者各位にも明確に鎮魂の意を理解して頂けたかと想います。

また御会いできれば光栄です。お兄様とどうぞ仲良く……。

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