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<東京怪談ノベル(シングル)>


監視者/対象


 ようやく、夢は見なくなっていた。あの混沌そのものが身をくねらせて踊っている夢は、次第に曖昧なものになっていき――笛の音もうすく、ほそくなっていき――今は、消えている。
 混沌は、九尾桐伯の前から去ったのだ。今のところは、の話だろうが。やつは明日にでも、いや1秒後にでも戻ってくるかもしれないし、桐伯が死んでから戻ってくるかもしれない。やつに時間という概念は通用しないのだ。10年や20年姿をくらませたとしても、それはやつがただ一瞬よそ見をしていただけのこと。
 鬼の居ぬ間にと桐伯は魔道書を紐解こうとした。最近、日本でもラヴクラフトやダーレスが記録していたような事件が起き始めている。予習や復習をしたところで、無駄にはなるまい。出来れば、無駄になってほしいのだが。
 だがあの混沌とともに、『クタート・アクアディンゲン』は桐伯の前から姿を消していたのである。
 むう、と桐伯はゆっくり顔をしかめた。
 ――何も、持っていかなくてもいいではありませんか。



 あれは、スコッチとジンの買い付けにイギリスへ出向いたときのことだ。桐伯がわざわざ現地に赴いて酒を手に入れるというのは、別段珍しいことではなかった。彼はテキーラを手に入れるためにメキシコに飛び、カルヴァドスを買い付けにフランスへ飛ぶ。どこからその金を捻出しているのか誰も知らない。
 要するに、スコッチとジンの買い付けにイギリスへ出向いたときのことだ――。

 桐伯は酒のついでに、古いカクテルの本をある古書店まで受け取りに行った。何年か前から探していた本は、ロンドンの片隅で見つかったのだった。
 古書店は赴き深い煉瓦造りの建物で、店内には本が溢れかえっていた。店内は黄変したページと埃と黴の匂いに満たされていたが、不愉快な臭いではなかった。むしろどこか心地いい、古き良き匂いであったのだ。
 古い真鍮のドアベルに呼ばれ、店主が本の奥から現れた。店の奥からではない、本の山の陰から現れたのだ。古書の化身なのではないかと思えるほどに年老いた店主は、日本人の客がめずらしいのか、しげしげと桐伯を眺めた。
 桐伯が用件を言うと、店主は間延びした返事とともに大きく頷いた。
「あああ、あの本か。奥にしまってある。わざわざニッポンから受け取りにくるなんて……熱心な人だ」
 店主はゆっくりと首を横に振りながら、本の山の奥に引っ込んだ。
「持ってくるから、しばらく店の中を見て回っていてくれ」
 随分と奥にしまってあるに違いない。いや、しまってあるというよりは――この、積み重ねられた本と同じ扱いを受けているのだろう。桐伯は思わず苦笑いをした。きっと店主だけが、この混沌にしか見えない本の山の中、どこにどの本があるのかを把握しているに違いない。

 店主が奥に消え、桐伯は言葉に甘えて狭い店内を歩き回った。
 桐伯はその蔵書量に半ば感心しながら店の中を歩き、時折、触れても問題なさそうな古書を手に取った。桐伯が何気なく手に取った本は、クロウリーの著書だった。こんなものがこんなにも何気なく置かれていていいものなのか。桐伯は驚いたが、その本を元あった場所に戻した。いや、本山の上に置いただけと言うべきか。
 ふと、桐伯の紅い目は、導かれるようにして本棚の片隅へと向けられた。
 本棚に収められている本は幸福といえるだろう。
 店主もひょっとすると、貴重なものや価値のあるものを優先して本棚に収めているつもりなのかもしれない。
 桐伯が惹きつけられた本棚には、背表紙の文字すら掠れているほどの古い本が、ぎっしりと並べられていた。
 タイトルが――読めない。
 だが、桐伯の手は、確実にその1冊を取っていた。

 『クタート・アクアディンゲン』である。
 この本が如何なるものであるか、九尾桐伯は知らなかった。
 知らないままであるべきだった。

 この本だけが、じっとりと湿っているようだった。
 表紙は革張りだ。かすかに腐臭を纏っている。どうやら写本であるらしく、内容は英語で綴られていた。その内容たるや、戦慄を禁じえないおぞましいものであり、読むほどに脳髄が搾り取られていくような、狂気が行間から滲み出ている代物だった。
 だが、桐伯は恐れてはいなかった。
 ただ魅入られたように古い記述を拾い上げていく。
 本に導かれるとはこのことか。
 桐伯が知らなかった世界がその古書の中にあった。
 無心でページをめくるうち、彼の手はあるページでぴたりと止まる。
 そこに描かれていたのは、円、星、焔、
「Elder sign……『旧き印』……?」

  ひるゅり、

 桐伯は、はッと顔を上げた。
 すきま風の悪戯に驚かされたつもりだった。

  ひゅるるる、

 だが、この古書店の窓は本棚と本で塞がれている。唯一の外部との接点である出入り口は、桐伯がちゃんと閉めたはず。

  ひゅるり、ひゅるるるゅ、ひゅょるょるる、

 桐伯の手の中にある湿った本が、ひとりでにページを送り始めた。
 びーっと走るページは、桐伯に教えるかのように、あるページで足を止める――

  ひょるゃゅよゃるるゃり、
  『彼の者は使者也』
  ひょるるるるり、
  『笛音纏ひて現るる』
  ひぃぃぃいいいいいょるるるる、
  『千の貌持つ使者である』
  ひひひひひょょゅゅるるる、
  『彼の者を戒めるは』
  ひぃゃゅりりゅりりり、
  『燃ゆる旧き印のみなれば。』

「ごめん下さい」
 真鍮のベルが鳴り、客が入ってきた。
 桐伯は古書を閉じて振り返る。
 ――随分と早いお出ましというか……。
 彼は笑い出しそうになるのをこらえた。
 本に埋もれたカウンターに歩み寄り、奥に向かって声をかけている、あの男――
「すみません、本を探しているのです。『クタート・アクアディンゲン』です。出来ればラテン語版が欲しいのですが、無ければ英語版でも構いませんから。すみません」
 その男は、黒檀のように黒い肌を持っていた。エジプト訛りの英語は柔らかで、まるで台詞を諳んじているかのようだ。……まるで、誰かに言い聞かせているかのようだ。
「いないのか。いや、おかしいな。店は開いているのに、客も居るというのに、なぜ店主が出て来ないというのだろう?」
 黒い男は唄うように言葉を紡ぎながら、桐伯に貌を向けた。
 そう、貌を。
 貌。

 ひゅるるるるるゅるる、

(いま、桐伯はどうしても、あの男の顔を思い出せないでいる)

 ひゅるるるゃるるゅる、

 ただ赤い目だけが脳裏に焼きついているのだ。
 その赤は、桐伯の瞳の色とは違っていた。黒い男の目は狂気渦巻くマグマの真紅。
 黒い男の名前を囁き、桐伯は手元の古書を開いた。
 適当に開いたはずだというのに、彼が今一番欲しているページが開いてくれた。
 円、星、焔のしるしがそこにある!


「……誰か、客が他に来たかい?」
 古いカクテルの本を手にして、店主が奥から戻ってきた。桐伯は湿った本を手に、カウンターへと戻る――苦笑いを浮かべながら。
「来ていたのですが、もう出ていかれましたよ」
「そうか。まあ、よくあることだ。……これがお望みの本だが……それも一緒に?」
 店主が桐伯の小脇を見て、首を傾げた。桐伯は迷ったが――頷いた。
「はるばるニッポンから来てくれたんだ。その本はおまけにつけてやるよ」
「え、よろしいのですか?」
「いいさ。1冊より2冊減ったほうが、この店も片付く。……しかし、本当に熱心な人だ。ニッポンでバーでも開くのか」
「そのつもりです」
 桐伯は微笑み、小脇に抱えていた湿った本を見つめた。
「いい店名も思いついたところですよ」
 すでに彼は、カクテルの本の方が『おまけ』のように感じ始めていた。



 だがあれから数年後のいま、汗をかく古書『クタート・アクアディンゲン』は、悪夢とともに消え去ってしまった。
 使者はよそ見などしていなかったのか。
 桐伯にとっては幸いなことに、バー『ケイオス・シーカー』はまだ、彼のものである。彼はまだ、よそ見をすることは出来ない。


(了)