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<PCシナリオノベル(シングル)>


裁きの日

 手の内、ひしゃげた機械と心臓から滴る紅が、緩やかに掲げた手の下の芝生に弾かれてパタリ、と雨に似た音を立てる。
 肌を破り、筋肉を抜けて肋骨の内、肺の裏側、弾力のある心膜に覆い守られたそれこそが筋肉の塊である心臓を掴み出すなど、人の手の力で叶う筈のない、それを容易く成し遂げ、阿雲紅緒は、穏やかな笑みのまま、それを見た。
 引きちぎられた動脈がべとりと肌に張り付き、空気に晒された心臓は、ピュン・フーが厭う熱ばかりを含んで、握り潰されたにも関わらずまだ生命を忘れずに、ビクリと脈動する。
 だが、ピュン・フーの胸、歪な手術痕の中央に穿たれた虚からは、血の流れが認められない。
 与えられた衝撃は一瞬、続く苦痛に声を上げる代わりに肩口に突き立てられた牙が、紅緒に深く食い込む…僅かに深めた笑みにそれを受け止め、脇の下に通して支えた腕で、無様なまでに巨きな皮翼の、根本に手をかけた。
「……まだだよ。もう少し我慢して、ね?」
耳元に囁き、ぐ、と皮翼にかけられた手に力が込められる。
 再び得た血肉が、熟しきらぬ内に宿りから剥ぎ取られようとしているのに、皮翼に憑いた怨嗟に満ちた魂から聞くに堪えぬ声が上がるがそれに構わず、紅緒は片翼をもぎ取った。
 骨が折れ砕けて組織が千切れ、皮翼は半ばから自重で地に落ちる。
 ピュン・フーの身体から離れた時点で、皮翼は端から塵の如くに崩れ、応じて死者達に与えられた血肉もその無念と共に霧消する。
 同じように、もう片翼。
 其処で初めて、胸の傷から血が流れ出す…痛みかそれ以上の物か、身体を支えていた力は
滔々と溢れる紅に力を奪われてか、ピュン・フーの膝が落ちた。
「おっと……」
牙も爪も、皮翼と共に組織を風に崩し、支えを無くしてそのまま崩れ落ちるピュン・フーの身体を紅緒は難なく支え、腰と肩とに回した手で抱き直す。
「痛……ェ」
浅く吐かれた息に声が混じり、きつく寄せられた眉に閉じていた瞳が開く…いつもの、紅を取り戻した瞳が、痛みにか濡れたような色を湛えて、紅緒を見た。
「……無茶、しやがって。死んだら化けて出るぞ……」
掠れた声に、少しなりといつもの皮肉な調子を取り戻した口調は、ピュン・フーの意識が間違いなく其処にある事を示す。
「よく頑張ったね?」
紅緒はそう少し笑み、ピュン・フーが自ら噛みきった唇の端から、流れを作る紅を舐めて湿らせた親指の腹で拭い取る。
「てか、我ながらすげぇ……ここまでバケモノっぷりが発揮出来るとは思ってなかった」
確かに、心臓千切られて軽口叩けるヤツはそう居ないだろう。
「え、わりと出来たりしない?」
生命の神秘で括っちゃいけない常識の何たるかを、問い質したい心持ちを沈黙に堪え、ピュン・フーは努力で以て会話を繋げた。
「……や、あんま出来たりしねぇし」
しかしそれが限界だったのか、ピュン・フーは不意に息を詰めた。
「悪ィ、紅緒……立ってんの、キツい……」
噛み締める奥歯にくぐもるピュン・フーの要望に、紅緒はその場で膝を折った。
 地につけた片膝に乗せ、緩く立てたもう片方にピュン・フーの背を凭せかけて、楽な姿勢を作ってやる。
「てか、下ろさねーか、ふつー……」
「悪漢から助け出した功労者には洩れなく助けた人を持ち帰る権利が生じるんだ。それが役得って言うんだよ、知らなかったかな?」
さらりと紅緒は流す。
「知らねーよ」
答えてピュン・フーは小さく笑う…もう、痛みの感覚は遠いのかも知れない。
「うん、やっぱりキミは笑ってる方が可愛いね、ピュン・フー君」
「成人男子捕まえて可愛いはねーんじゃねーの? 栖ちゃんに言いつけるぜ?」
抱き寄せる紅緒に好きにさせたまま…否、身体には微塵も力が籠もる様子はない。
 胸から背から、流れ続ける血がその命を着実に削ぎ、また、それは砂時計の砂が尽きるように確実に、終わりが近い事を示してもいる。
「紅緒、今幸せ?」
そして幾度となく繰り返された問いが、最期であるという事も。
「……ボクは、キミが幸せなら……幸せだよ」
紅緒はゆっくりと言葉を選ぶ。
 言を尽くすほどに、虚と実が入り交じるなら、いっそ単純に言葉は少ない方がいい。
「……狡い応えだけどね。……だめ、かな?」
そして卑怯な。
 闇に解けつつある、ピュン・フーの命、それを手に掛けたのは紅緒自身、だのに貪欲に意識の最期の一欠片まで自分に向けさせる為、少しでも思考を長らえさせる為に…けれど、間違いなく真実の。
「ダメ」
ピュン・フーは一言に切り捨てた。
 紅緒が何とも言えぬ表情になるのを見、笑いに肩を揺らしかけるが、流石にそれは痛んだのか、背が強張る。
「決まってんだろ。今の状態で幸せ感じてたりすりゃ、俺、とんでもねーマゾだぜ?」
謝罪を口にしかけた紅緒の唇を、ピュン・フーは指をあてて防いだ。
 両手の間を戒める鎖がじゃらと鳴る。
「それに、俺、幸せがどんなかわかんねーし」
ふ、と力を失って落ちかけた手を紅緒は取った。
「……約束、どうしとく?」
不意にそう問い、ピュン・フーは確かな真紅の眼差しを紅緒に据えた。
「一緒に連れてく位なら、出来そうだけど、今」
限りない闇の質、命を支えるそれではないがその身の内の魔力は…意志持って揮われれば、約束を、紅緒を殺してやるというそれも適うかと思われる程に、精錬されて限りなく純度を高め、濃く、満ちている。
「一人は寂しいからね……キミが幸せなら、それもいいね」
「いや全然」
またあっさりと否定して、ピュン・フーは目を細めた。
「最初から、最期まで一人だろ?人間ってぇのは…俺のおふくろも、そうだったし」
一緒に行っては、やれなかったし、と呟きに視線は遠く、過去の情景に目を凝らす。
「……事故だったそうだね」
IO2から報酬として受け取った、ピュン・フーのデータにそう記載されていた。
 生地は香港。現地人の母と、日本人の父との間に私生児として生まれた彼が、認知を受ける為に日本に訪れようとしていた折の。
「なんだ、知ってんだ」
ピュン・フーは口の端を上げ、笑う。
「おふくろが庇ったんだろーな、俺はほとんど無傷でさ。おふくろ、血だらけで痛くないワケ、ねぇのにそんでもすげぇ笑って」
けれど、どこか泣き顔のような。
「俺は幸せになれって言うんだ」
道を見失って途方に暮れた、子供のように。
「そこまで書いてなかったよ、レア情報だね」
「初めて他人に話すんだから、載ってるワケねーじゃん」
ピュン・フーは眠そうに目を瞬かせた。身体から、更に力が抜ける。
「紅緒……今幸せ?」
眠りと呼ぶにはあまりにも深く、昏すぎる闇に傾く意識を止め立てる術はなく、紅緒は抱いた身体から生命が流れ去る…ある意味、慣れた、感覚に静かに微笑んだ。
「決して光にはなれないボクの髪が…光の色をしているのも皮肉な話だけど」
ピュン・フーの身体を胸に抱き寄せて支え、紅緒は片手の内に一振りのナイフを出現させた。
 首の後ろでひとつに束ねた髪を掴み、躊躇なくざくりと切り落とす。
 乱れた毛先が注ぐ光のように肩に散る、様にピュン・フーが軽く目を見張った。
「何……」
「せめてキミの導になればいい。還る為の……眠りにつく為の」
まるで手向けのように。
 手に握らせた金の一房は寄せる心の証でもある。
 紅緒は自らの髪を握らせたピュン・フーの手を取り、指の背に口付ける…次いで髪の生え際、額に唇を落とす。
「どんな形でも、ボクはキミがまた目覚めるのを待ってるよ……ボクはそれを待つ事が出来るから、ね」
 喪った者達に出合えた事はない、それでも。
「だからおやすみ、可愛い子……ユエ」
そう約し、額に唇を寄せたまま、紅緒はその名を囁いた。
 それは生まれた時に、先の幸福を願って与えられた…月の意味を持つ、名。
「……それ聞くの、すげぇ久しぶり」
自ら名乗らぬようになってから、捨てたも同然の響き。
「キミの許しもなく、呼ぶつもりはなかったんだけどね」
謝罪が混じって言い訳めいた紅緒の申し訳なさげな様子に、ピュン・フーは少し笑った。
「……なんか、懐かし……」
僅かな笑みに、ゆるりと瞼が閉じられる。
「続きは、キミが目を覚ましてから聞くから……ゆっくりと、おやすみ」
何か、続けかけていた言葉は形を得ずに、す、と覚めぬ眠りの吐息に消えた。


「お見事です、紅緒さん」
その声と共に、夜目にも白い杖が、視線の位置に真っ直ぐに立つ。
「呪われた魂にも救済を与えるとは、真に天なる父は寛大ですね……」
そう胸の前で十字を切る、神父の名を紅緒は笑みすら浮かべずに呼んだ。
「……ヒュー君?」
常の紅緒にはない冷徹な、響きにヒュー・エリクソンは見えぬ眼を閉じたまま首を傾げて先を促した。
「ボクは、この子ひとりさえ赦しも救いもしない神など要らない」
静かな否定。
 だが、ヒューは奉ずる神が無碍にされたにも関わらず、微笑んだ。
「人は過ちを犯す者です……一時の感情に流された言が取り返しのつかぬ愚であろうとも、神の御前に出れば誰しも、その過ちを悔い改めるでしょう」
そして、続ける言葉に片手を差し出す。
「けれどそれに安息が許される事はない……それは頂いて参ります。どうぞ、こちらに」
紅緒が抱く身体を物のようにそれと称し、ヒューは促した。
「命を失ったように見えても、本来吸血鬼は闇に属する者…鼓動も、息もないそれが本来の姿と言えます。自我が消えたならそれなり、有効な利用方法は幾らでもあるものですよ」
未だ続けるのだと。
 眠りすら許さずに、死霊に身体を与え貪らせ、欲するままに新たな血肉を与える為だけの餌とするそれを。
「ダメ」
紅緒は弛緩して重いピュン・フーの身体を抱き直す。
「あげないよ」
子供のように端的に、けれど確かな言にヒューは肩で息をついた。
「仕様のない方だ……」
どう諭せば聞き入れるか、それを探るように一定の間隔で杖先で地面をつく…睨み合いではないが、動かない二人の間に、第三者の声が割って入った。
「ンもぅ、やぁねェ。いい男が男の取り合いなんて不毛なコトするモンじゃないですワよ?」
豊かに波打つ髪に、深い翠の瞳、女としておよそ完璧なプロポーションを際立たせるボディスーツを纏い、『IO2』に属する女性は木立の間から姿を現した。
「見てられないから私も混ぜて頂戴ネ?」
「……やぁ、ステラ。いつ、姿を見せるのかと思ってたよ」
紅緒は既に面識がある…いつぞやのスーツ姿と違い、実働的な形にも慣れた風で、ステラは肩を動かして挨拶に代える。
 だが、ヒューとも既知だったようで、神父は声の方に顔を向けてその名を口にした。
「ステラ・ロスチャイルド……日本にお出でとは存じ上げませんでしたね」
「西尾もつけて頂戴な、旦那様のお名前なの♪」
朗らかにつけ加えられた苗字に、ヒューは軽く眉を開いた。
「西尾さんとご結婚でしたか……ますます存じ上げず、失礼を致しました。おめでとうございます。贈り物もせずに」
「アリガト♪そちらとも随分長いお付き合いだケレド、結婚を報告するような間柄ではないものネ。お気持ちだけ頂戴致しますワ」
一見、和やかなムードではある…が、間に流れる空気の微妙さは、互いの属する組織の特性から考えれば当然か。
「トコロで、彼が魅力的なのは解るケド、お二人共引いて下さらないカシラ…ピュン・フーは元より『IO2』の預かりですの」
「これは異な事を……」
ヒューが承けて疑問を投げかけた。
「それとは最早関わりない、としたのは『IO2』側ではなかったですか?」
「彼が生きている間はね。彼の死は、肉体がヴァンパイア・ジーンオンリーになった事を示すコト、如何なる状況にあっても『IO2』はこれを回収する義務と責任があるの…阿雲サマが来てくれて助かりましたワ。私だと、ヒューごとミンチにしちゃいますもノ」
さらりとオソロシイ言を述べ、ねだるように紅緒に向かって両手を差し延べ、ステラはにこりと微笑んだ。
「阿雲サマ、その子をこちらに下さいな」
他意も邪気もないステラに、紅緒は真っ直ぐに問うた。
「そちらは、ユエをちゃんと眠らせるつもりはあるのかな?」
ステラは困ったように、自らの白い頬に指をあてた。
「それはちょっとムズカシイかと思いますワ。ヴァンパイア・ジーンの生命力は旺盛ですから、統括する意識がなくなれば個々の細胞は遺伝子の維持の為に一定の栄養を必要としますノ……他者へのコピーは不可能だけれど、闇雲に人を襲うクリーチャー、になるのはとても困りますので、そうさせない処置は施されますわネ」
「それだけじゃ、ないんじゃないのかな」
紅緒は、ピュン・フーの身体を抱えたまま、重さを感じさせぬ動きで立ち上がった。
「彼と遺伝子はかつてない適合をみせたというのだろう?」
「コーディネーターが、それは得意げでしたわネ」
「それが何故か、何に起因するのか、君達が調べない筈はないだろうね」
与えられた死資料の詳細さを見れば想像も容易に、それを肯定してかステラはまた困ったように笑んでみせた。
 紅緒は腰に回した手でピュン・フーの身体を支え、頭部を胸に抱く…ヒューとステラとを交互に見、ふわりと微笑んだ。
「……キミ達が再びこの子に触れることはボクが赦さない」
 果て無き生の間に、幾度も愛した命を見送り、今もまた遺される、見届ける、まるでその為だけのに配された存在のような。
 ならばせめて、今この手の内に眠る魂を。
 安堵を促すように、力無く胸に預けられた黒い髪を優しく撫でる。
「この子はボクが……つれて行くよ」
告げて、一歩を踏み出した。
 その動きに肩口で乱れた髪がふわりと風に動いた次の瞬間、紅緒の姿はその場からかき消える。
 取り残されたステラとヒューは何ら動揺する事なく、その場から動こうとしない。
「アラ、困ったわネ……これっていわゆるカケオチかしら?」
「取り逃がしたの間違いでしょう」
ヒューが呆れを滲ませる。
「言わなくていい情報まで随分と口にされていたようですが?」
「女はおしゃべりなモノよ?」
ふふ、と小さく笑ってステラは金の髪を掻き上げた。
「彼が、どうすればいいか知ればそれでいいの……私、アノ子が好きだったのよ」
「物好きですね」
理解に苦しむ、とヒューは魔除けの意味で十字を切る。
「そういうアナタこそ、良かったのかしら?見送ってしまって」
「それが、主の御心であるならば私に異論があろう筈はありません」
湖水を湛えた瞳を空に向ける…見えぬ筈であろうが、眼差しに似た動きの先には月が在る。
 まるで其処に望む何かを見たかのように、ヒューは祈りに首を垂れた。