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<東京怪談ノベル(シングル)>


イタリアン・ラプソティ
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「青山に、イタリア料理を食べさせる店がある」
電話の向こうで、兄の低い声が言った。相変わらず何が不服なのか、問いただしたくなるような声音である。
口論の末にウィン・ルクセンブルクが同居していた兄の部屋を飛び出して以来、兄妹の会話はいつもこんな調子だ。友好というものを欠いている。お互いに今の状況が気まずいのはわかっているくせに、自分が一歩引くということをしない。それは、双子に共通した頑固な性質であり、互いにやりきれない思いの裏返しでもあった。
思い返せば、叔母とばかり話していた兄がウィンを呼び出したことも珍しかったし、交わす言葉が実のない皮肉や世間話以上に発展したことも、数えるほどだ。どこかへ行こうと誘われたのは、これが喧嘩以来初めてのことである。
電話は、もともと母のパートナー……彼女たちにとっては第二の母とも言うべき女性のピアノリサイタルの話だった。自分たちのために、チケットが二枚送られてきたから、と兄は言った。「行かないか?」と誘うかわりに「行くだろう?」と断定口調だったのは、下手に出るのが苦手な兄らしい。
喧嘩をする前は言えていた了承の一言を言いかねて、ウィンは口を閉ざした。互いの顔が見えない分、電話で流れる沈黙は酷くぎこちない。それでも、兄は何も言わず、ウィンの答えを待っている。「イヤならいい」とは切り捨てない。それも、やはり今までの兄らしくなかった。
「……お店の名前は?」
前向きな台詞を吐き出すのは、並々ならぬ苦労が必要だった。兄妹の間にだけある気軽な反抗心を押し殺して、ウィンは受話器に向かって声を吹き込む。
「Ca Brea.オーソ・ブッコと、デザートに出るカスタードが美味い」
よどみなく返事が返ってきた。妹を誘う前に、兄は丹念に店を吟味したのかもしれない。今まではお互いに、気を遣いあうことなどなかった。そこでようやく、ウィンは、兄が歩み寄りの姿勢を示しているのだと気がついた。
「お兄様の奢り?」
「無粋なことを訊くな」
いつもより会話が続くのに、密かに心浮かれる自分がいる。思わず綻んだ口元を慌てて引き締めて、「いいわ」とウィンは了解した。
頑固な自分たちは、歩み寄れるところから変わっていかなくては、きっと後で後悔するのだと思った。
「二時間前…で良いのかしら?お店でお待ちしていますわ」
「迎えに行くが」
ぶっきらぼうに兄が言う。別に嫌々申し出ているわけではない。嫌ならば、申し出ることもしない兄である。妹を女性として扱うことに、兄は恐らく戸惑っているのだ。
大丈夫、とウィンは苦笑した。
「青山方面に足を向けるのも久しぶりだから、早めに家を出て、少しぶらついていこうと思うの」
何よりも、車の中で喧嘩をして、折角兄が用意してくれた夕食の座を、台無しにしたくなかったのである。

「じゃあ、またね」と兄との電話を切ると、ため息が漏れた。不快だったのではなく、それだけ緊張していたということだろう。思いがけず兄と穏やかに話すことが出来て、心は少し軽い。電話を切る間際の兄の口調も、どこかほっとしている風だった。
(もしかしたら、私たちは二人とも、こうして話すきっかけを探していたのかもしれないわね)
兄の部屋を出てから、自分がずっと彼のことを気にしていたのは、知っている。自分のことだ。だが、兄も似たような思いを抱いていたかもしれないということには、今の今まで思い当たらなかった。
本当は、いい加減仲直りがしたかったのだ。
母の身体から産まれ落ちたその日から、ずっと一緒に生きてきたたった一人の兄である。恋人を取ったり取られたり、何度も同じことを繰り返しながら、それでも日本で兄と暮らすようになったのは、やはり兄が大事だったからだ。なのに、今までと同じような恋人の取り合いで喧嘩になり、現在に至るまで、気まずい関係の最高記録を随時更新中の自分たちがいる。
日本に来て出来た、ウィンの同性の恋人……。彼女が兄と付き合うようになってから間もなく、二人が別れたことを、ウィンは知っている。兄が一方的に関係を解消したのだと聞いた時には、猛烈に腹が立ったものだった。
(妹から奪っておいて、飽きたら捨てるなんて何事よ、なんて、思ってしまうわよね)
自分が好きになった彼女が、それで幸せになれるのなら、と健気な思いで自分の昂ぶる気持ちを宥めていたところだったのも災いした。ウィンの幸せを奪い取り、そして今度は、彼女を振ることで、兄は彼女の幸せも台無しにしようとしている。そう、思った。
実際には、兄に捨てられるきっかけを作ったのは、彼女の方だった。風の噂で聞いた話では、彼女は兄のほかに男を作ってしまったらしい。それがバレて、兄が別れを切り出した…と、そういうことである。
それを聞いてしまっては、ウィンも兄を恨むに恨めなくなってしまった。だからといって、一度切った啖呵をそう簡単に引っ込めるわけにもいかない。
いい加減、兄との不仲には疲れきっていた。お互いに、頑固で意地っぱり、言い出したからには一歩引くタイミングというものを知らない二人である。
きっかけがつかめずに今まで長引いてしまったが、兄の居ない日常は、ウィンの毎日を著しく減色させていた。
例えばちょっとした喜びを分かち合う時に、兄が居ない。ウィンが何かに腹を立てている時に、腕組みをしながら聞いてくれて、時には厳しい言葉で彼女を諫める声がない。兄の居ない日常は、だから酷く物足りなかった。
「そろそろ私に泣きついてくるか?」と兄は言う。言うけれどあれは本気ではない。不器用で複雑な兄なりの、それは屈折した愛情の顕れなのだと思う。
(お兄様ときたら、意地っ張りで、頑固で、プライドが高くて)
三拍子揃えば、「自分が折れれば…」なんて殊勝な考えが浮かぶとも思えない。六本木のマンションにいる兄の気も知らず、ウィンは気軽に決め付けた。
だとしたら、自分が折れればいいのだ。今まで、さりげなくそうしてきたように。
人に頭を下げることが嫌いで、意地っ張りで頑固で誇り高い。そんな兄が好きだからこそ、ウィンは兄の為に折れるということを知っている。
(たった二人の兄妹じゃない)
失ってしまったからそれでいい、とは割り切れないほど、ウィンにとっても兄にとっても、それは大切な絆だった。
それに、喧嘩を続けている限り、多くの人に気をつかわせ、心配させ、迷惑をかけ続けている。双子の問題には極力口を出さないで見守ってくれている叔母も、遠く海外で暮らしている母親代わりの女性も、口にこそしないが、兄と自分の関係を、はらはらしながら見ているに違いない。
あの意地っぱりな兄が、ウィンに対して歩み寄りの姿勢を見せてきた。
半年という歳月は、確かに喧嘩を続けるには長すぎる日々だ。
これは、だからきっかけなのかもしれない。これを逃したら、また長い時間を、兄なしで過ごさなくてはいけないのだ。
歩み寄ったからといって、すべてが今までどおりにいくわけではないけれど。
「ウィン、電話は何だったの?」
考え込んでいる姪を心配したのか、叔母が声を掛けてきた。ふと物思いから醒めて、ウィンは叔母を振り返る。
「ピアノリサイタルがあるので、それの誘いですわ。あと……その前に食事に行かないか、って」
「まあ」
穏やかな叔母を驚かせるほどに、兄の譲歩は意外だったらしい。くすくすと叔母は笑い出し、「楽しんでこれるといいわね」と言ってくれた。
「叔母様」
「なあに?」
叔母の笑い声を聞きながら、ウィンは一つの決意を胸に秘めた。
もう、兄とは仲直りをしよう。喧嘩はごめんだし、こんなに長いこと気まずい状態でいるのも、もう十分だ。
「私、お兄様と仲直りをしますわ」
首を傾げるようにして頷き、叔母はウィンに先を促す。
「でも、同じ事を繰り返してしまうから……お兄様のところへは戻れない。叔母様、私をもう少しだけ、置いていただけませんか?」
感応力の高いウィンは、側に兄がいるだけで、その心の状態に影響を受ける。それは、恋人に対する感情も同じことだった。
そして、悲劇的なまでに、兄妹は好みのタイプがよく似ている。一つ屋根の下で暮らしている限り、似たような事態はまた起こってしまうことだろう。
だったらせめて、兄のもとへは戻らない。
叔母に甘えるな、とまた兄は言うだろう。長男ゆえか責任感が強いのだ。
だが、兄のマンションに戻って、同じことを繰り返すわけにはいかない。もう、こんな精神の疲弊する喧嘩は二度と起こしたくなかった。
嫌な顔をされるだろうかと、思わずウィンは身構えたが、叔母は彼女が見蕩れるような笑顔で艶やかに笑っただけだった。
「それがいいわね」と。




「Bird Land Blues」