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<東京怪談ノベル(シングル)>


紳士協定

 アタッシュケースの中に詰まっていたのは、山ほどの貴金属や宝石だった。
「…………」
 うろんな目つきで見上げた草間の視線を、さも心外そうに受け止めて、ライは言った。
「盗品じゃない――と、云いたいところだが……。ま、どうせ、とっくの昔に時効だ」
「……それで?」
「こういうものをさばける人物を紹介してほしい」
 煙草をもみけしながら、草間は嘆息した。
「あのなあ……」
「こいつは怪奇事件じゃない。あんたの領分だろう。――本来の」
 最後の部分に語気を強めて言いながら、彼はうっすらと笑った。
 ライ・ベーゼは、草間興信所に出入りするくせもの揃いの常連の中でも、また一種独特の人物である。
 まずもって年齢がわからない。容貌は二十代の青年には違いないのだが、老獪とさえ云ってもいいような顔を見せるときがある。そして、他の常連たちが、実は常人にはない特異な能力を秘めていたり、裏の顔を持っていたりしたとしても、あくまでも表向きはなんらかの、まっとうな社会的な立場を持っているのに対して、この青年は、どうやって生計を立てているのか、普段どんな暮らしを送っているのかがまったくの謎なのだ。
 それでいて、金に困っている様子はない――そう、今まさに、素人目にも相当な額になるであろうと思われる貴金属類を持ちこんできたではないか。
「顔の広いあんたなら、誰か適当な奴を見つけてくれると思ってね。すこしなら仲介料を支払ってもいい」
「すこしなら、ね」
 苦笑しつつ、新しい一本に火をつける。
「“地下”で処理したほうがいいんだな」
「そのほうがスムーズだろうな。戦前のものもいくつかある」
 草間は無言で頷いた。なんだかんだ云いながら、手慣れたふうに、いくつかの質問を投げかける。
「……にしても――」
 最後に、云いかけた言葉を草間は飲み込む。
 今はライが依頼人だ。興信所に依頼を持ち込む人間の素性や理由、動機などは、必要なければ聞かないのが礼儀だと、草間は考えていた。
 そんな草間の思いを読み取ったものかどうか、ライはソファーにどっと身をあずけて、あさっての方向を見遣りながら、つぶやく。
「任せていた男が死んだものでね」
「……あ?」
「死んだんだ。……いや、それもヤバイ話じゃない。単純明解なことだ。死因、老衰。つくづく厄介だよ、人間の寿命というのは」
 肩をすくめた。
 そうだ。人は老いる。そして老いて死んでゆく。絶対の真理であるはずのそのことが、なにかたいへんな不条理であるかのような、口振りだった。
「…………」
「……これで、昔の知合いは誰もいなくなったな」
 呟いた横顔が、あまりにも、普段、知っているライと違っていたような気がして、草間は言葉を失う。
 くわえ煙草のまま、彼は立ち上がった。
「待ってろ。コーヒーくらい入れてやる」


「ライ――、おい、大丈夫なのか」
 のぞきこんでくる、灰色の瞳が不安にゆらめく。冬のヨーロッパの街並みそのままのような、くすんだグレイ。
「平気だ」
「真っ青じゃないか」
「平気だと云っている」
 声を荒げてしまってから、しまった、と思う。いつも必要以上に傷ついたような表情をする、あの目が苦手だ。
「いや、すまない。それよりフランツ、これを預かってくれないか」
 ごとり、と思いトランクを手渡す。
「どうしたんだ、これは」
「聞かないほうがいい」
「……おまえまさか」
「…………」
「なんてことだ」
 フランツと呼ばれた青年は呻いた。
「『契約』したんだな。……おれがあれほど――」
「アレはみんなが思っているようなことじゃない」
「でも……」
「おれを見ろ。以前のおれと何か違うか」
「…………」
「賭け、なんだ」
 ライの瞳に熱っぽい光が灯った。
「ちょっとした賭けをしてみただけさ。それだけの――本当にそれだけのことなんだ」
 北風がガタガタと窓ガラスを震わせていた。
 あれはいったい、何年前の冬だろう。


「不味いな」
 一口啜るなり、そんな言葉が飛び出したが、草間は気にしない。
 言葉の主がライ・ベーゼであるかぎり、それは「大して問題はない」という意味だからだ。もしも本当に不味いコーヒーなど出してしまったとしたら……
「……なんとかしよう。任せておけ」
 向かい合いって不味いコーヒーを飲みながら、唐突に、草間は言った。
「……世話をかける」
「なに。仕事だ」
「仕事、か――」
 微笑する。
「……『ファウスト』を知ってるか?」
 そして問うた。
「知らんだろうな」
「馬鹿にするな。あれだろ、学者が悪魔と賭けをするんだ。悪魔が云ったとおりになったら、魂を貰うぞ――」
「そう……賭け」
 自分自身に言い聞かせるように、ライは言葉を紡いだ。
「おれも賭けを――しているんだ。いや、一方的な契約と云ったほうがいいかな」
「……悪魔とか?」
 草間はわざと、茶化したように受ける。
「悪魔……そう、悪魔」
 遠くを見つめたようなライの漆黒の瞳に、暗い炎が映ったように見えたのは気のせいか。
「悪魔っていうのはな――」
 星空を背景に、大きく広がった黒い翼。夜よりもなお黒い、奈落の暗闇の結晶のようだ。鋭い爪が、虚空に炎の文字を描いた。人には本来、発音することさえはばかられる、忌むべきその名をあらわす、古代の文字だった。
(滅びの定めを拒むもの、我が黒き書にその名をつらねるべし)
 その声は、地の底深くよりいんいんと響いてくる。ばさり、と、黒い翼がはばたくと、魔法円が、警告するように、一瞬、赤く輝いた。その光が、ライの青い白い頬を照らし出し……
(汝、みずからの血を持って、新たなる契約を選ぶべし)
 ……そして、ゆっくりと手を差し出した。
 どこか遠くで、勝ち誇ったような狼の遠吠えを、聞いた気がした。
「悪魔ってのは、思われているよりもずっと、紳士的な生き物なんだ」
「そうなのか」
「悪魔は約束は破らない。契約も違えない。決して裏切ることはないんだ」
「裏切りは悪魔の専売特許なんじゃないのか」
「そうでもない。と、いうか……裏切られた、騙された、と思うのは、契約をよく理解していなかった人間の云う台詞だ」
「なるほど。契約を破らずに、それを逆手にとったり、抜け道を利用したりして、陥れるわけか」
「だが、決して、一度結んだ契約自体は違えない。あんなに法に厳しい存在はないと思う。……神は違うだろ」
 草間は首を傾げる。神も悪魔も、彼にとっては観念上の存在でしかない。知合いの話のように、あれこれ寸評することなどできはしないのだ。
「神は人を裏切るものだ」
 吐き棄てるように言った。
 コーヒーの香りだけが、沈黙のあいだを漂う。
「時よ、お前は美しい――、か」
 そっと唇に浮かべたのは、自嘲か、それとも――。
「邪魔をしたな。不味いコーヒーをどうも」
 すっくと立ち上がったとき、そこに居たのは草間のよく知るライ・ベーゼ以外の何者でもなかった。
「じゃあ、例の話は頼んだ。探しておいてくれ」
 華奢な肩がドアの向こうに消えていくのを、草間は無言で見送ることしかできなかった。

 街は夕暮れ時だ。
 ライの影がアスファルトの上に長く伸びる。その上を、黒いなにかがさっと横切った。
「…………」
 立ち止まって、見上げる。
 街路樹の枝に、一羽の鴉がとまり、ライをねめつけていた。凶兆を告げる星のような、あやしい赤い瞳。
「わかっているさ」
 不吉な黒い鳥を睨み返しながら、ライはにいっ、と口元をゆがめた。
「悪魔は約束を破らない。……わかっているとも。嫌というほど、な」
 ばさり――。
 鴉は、ライのもとに舞い降りてくる。まるで、黒い天使の降臨だ。
 そして、彼は再び歩き出す。
 鴉が肩にとまったせいで、地に落ちたライのシルエットには、まがまがしい翼がはえたかのように見えるのだった。


(了)