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<東京怪談・PCゲームノベル>


幻想交響曲 1 夢

【0AB】

 ──暑い。

──ちょっとヤバいんじゃねえか?
 
 草壁・鞍馬(くさかべ・くらま)はぱたぱたとはだけたシャツの襟元を扇いでいたが、ふと隣を歩く友人の顔色を窺って不安を感じた。
 この友人──陵・彬(みささぎ・あきら)は、一見暑さに茹だるような気色も見せず白皙の美貌を取り澄まして歩いていたが、その銀色の頭髪と赤い瞳が示す通りのアルビノである。どれだけ顔に出すまいとしていても、紫外線には弱いのだ。クールでいて、世間知らずな一面もある彬だ。その癖他人の助けを受ける事を良しとしないから性質が悪い。いつもの事ながら、幼馴染みの俺がしっかりしねェと、と鞍馬は思う。
 自分がしっかりしてやらないと、彼は限界まで澄まし込んで日射病で倒れ兼ねない。自分が連れ立っていながらそんな事になったら、俺は一体どの面下げて彬の田舎の両親に詫びればいいのか──特に、鞍馬の想い人でありながら兄の彬にべったりの陵・楓(みささぎ・かえで)にどんな顔で軽蔑されるだろう──。
「彬、休んで行こうぜ」
 そうして鞍馬は通りの向いにあるコーヒーチェーンを指す。
「……──、」
 強がっているのか頭を振りかけた彬を、僅かに勝る腕力に物を云わせて店内に引き摺り込み、先に席へ座らせる。
 一言二言文句のありそうな彬だったが、鞍馬が二人分買って来たアイスコーヒーに口をつけると、ほっと一息吐いたのがありありと伺えた。
 そして鞍馬は彬の熱が冷めるまで長居を決め込む振りでもしようと、マガジンラックから抜いてきた雑誌を広げる。取って来たのは、音楽から映画まで、メジャーよりはマイナー寄りの情報を扱う季刊誌だ。初夏発行の号だが、まあいい。
 鞍馬は、インディーズでは少々名の知られたロックバンド「ブレーメン」の顔であるヴォーカルギタリストだ。こうした雑誌に興味があるかないか、と問えば、前者だ。
 ぱらぱらとページを繰っていた鞍馬は、やがて「ん、」と声を上げて手を止めた。そして、大分活気を取り戻したように見える彬に声を掛ける。
「なあ、彬。……お前、親戚に千鶴子さんて居ない?」
「え? ……どうして」
 前髪を掻き揚げて額に手をついていた彬は、不思議そうな表情で顔を上げた。……良かった、元気になったな、と安堵しながら鞍馬は開いたページを見せる。
「ほら、この人」
 二人して覗き込んだページには、一人の女性のピンナップが載っている。映画のワンシーンと思しい。今どき美人は珍しくないが、その美しさというのが──気品に溢れる優雅なものであるか、と問えば稀少価値は高い。その点、写真の女性は申し分なかった。古典的と云ってもいい程、如何にも女優然とした整った造形。知性的な表情。生活感が無い程に白い肌。
 ……似ている。目の前の友人、或いは、髪と瞳の色が黒いだけで顔の造形は殆ど同じである彼の妹、楓に。
 今どき珍しい性質の美人だから単純に似ていると感じただけかもしれないが、しかも、その姓が同じと有れば。
「陵千鶴子……? ……知らないな」

──柾晴冶、『幻想交響曲』を映像化、主演は陵千鶴子。
……昨年末にミリオンセラーを記録した歌手、イヴ・ソマリアのプロモーションビデオ等で知られる若手新進映像作家、柾・晴冶(まさき・はるや)氏がこの度、狂気の奇才ベルリオーズの『幻想交響曲』を映像化する事を発表した。主演は短編映画、『鹿鳴館』でも共演した舞台女優の陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)。(写真右上)柾氏は既に撮影準備を始めていることを発表し、彼得意の『空白』を重視した白昼夢のような幻想の世界が造られるだろうと、期待を集めている。──

「だってさ、似てんじゃん。陵なんて名字、滅多にないし」
「……芸名かもしれないだろう。少なくとも、東京で女優をしている親戚なんて、聞いたことがない」
 安直な、と云う様に彬が溜息を吐いた時だ。
「──あら、君も陵って云うの?」
「!?」
「……、」
 店内には気取ったオールドジャズなどを流していながら、各テーブルの間がこれでもか、と狭められたチェーン店である。殆ど椅子の背が密着しているような背後の女性から、突然耳許で声をかけられれば驚きもするだろう。──わざとらしい程に目を見開いてみせた鞍馬に対して、彬は少し片方の眉を釣り上げただけで表情は落ち着いた物だったが。
「今日は。『ブレーメン』の草壁君ね? そちらのお友達、へえ、陵君と云うのね。一度御両親にでも聞いてみたら? 彼女、本名だし元は古い家だそうよ」
 ああ、俺の事知ってたんだ、──にしても、妙に立ち入った事を聞いてくる人だ、と鞍馬は訝った。
 やけに白い肌の色と、何より目許が殆ど覆われた鬱陶しそうな前髪が特徴的な少女である。しかも、古い家の出身だから繋がりがあるかもよ、等と云って来る辺り、まるで彬の身許を知っているかのような口振りではないか。
 彼女はテーブルに置いていたノートパソコンを持って口では「失礼」と云いながらも、遠慮無しに二人の向かい合っていたテーブルに椅子ごと移動して来た。
「悪いわね、たまたま聞こえたものだから。私、結城・レイ(ゆうき・れい)。よろしく」
「……ども、」
 二人ともやや戸惑ったまま、一応会釈した。……目が殆ど見えない所為か、何か企んでいそうな微笑を浮かべた口許だけがやけに印象的な、妙な少女だ。
 ──『不思議の国のアリス』のチェシャ猫みたいだ、と文学通な彬は思った。
 レイは頬杖をついてノートパソコンのトラックパッドを操作しながら、思わせ振りな口調で切り出した。
「その女優、死んだわよ」
「え?」
「一ヶ月程前に事故でね。轢逃げで未だ犯人不明ですって。気の毒よねー、」
 全く心を傷めた様子のない口調で云い、「所で、」と二人をぐるりと見回す。
「その事でちょっと面白いアルバイトがあるんだけど、やらない? 草壁君に陵君」

【-opening-】

「僕はコンピュータを利用して、視聴者がより映像の世界を体感できるようなシステムを考えていました。今まででも、目にゴーグルのように装着して視界のようにスクリーンを見られるようなモニターなんか、ありましたよね。あとヘッドホンなんかもそうです。そういったものの複合体を計画して、医療用の脳波測定器の改造版と組み合わせて作ったのがこれです」

 水谷・和馬(みずたに・かずま)と名乗った青年が一同を案内した部屋には、SF映画にでも出てきそうな頭部の半分を覆う設計になっている機械があった。見た目は何かの医療器具のようにも見える。そこから一本のケーブルがコンピュータに接続されており、手前に置いたディスプレイから操作できるようになっていた。

 霊の思念によって精神を音楽の世界に取り込まれてしまった青年を救い出して欲しい、という依頼がある。上手くやれば割りのいい仕事になるが、やらないか、といかにも胡散臭い依頼を持ちかけてきたのは、結城・レイ(ゆうき・れい)という東京都内をロードバイクで駆け回ってはどこから情報を仕入れたものか、表向きはその異能を知られる事なく生活している彼らにわざわざ話を持ちかけてくる自称メッセンジャーの少女である。
 彼らはレイによって召集され、現在こうしてその青年の自宅であるという高級アパートメントのワンフロアを占めるスタジオ兼住居に居る訳だった。声をかけた張本人であるレイは、依頼者に引き合わせるといつの間にか姿を消してしまったが。

「装置としては、さっき説明したような視界型のスクリーンと外部の音を完全にシャットアウトできるヘッドホン、それから脳波にダイレクトに作用するもので──まあ、これは複雑なんですが微弱な電波、しかし脳の各感覚部分に確実に作用するもの、と考えて貰えばいいですね。それが映像、音響情報と連係して、対象に擬似的な感覚を与える訳です。例えば、木が風に揺れているような映像と効果音だったら、風が身体に当たっているような錯覚を与える、というように。まあ、コンピュータマニアが遊びで作った玩具だったんですよ。柾は、映像の世界に没頭する奴でしたから、彼なら楽しめるかもしれないと思って、彼にやったんです。たまに映画を見たりして、面白い、と云ってくれてましたが。……ですが、例の事故があってから、柾は全く死んだみたいに無気力になってしまって……。彼はある意味、彼女が死んだ事を認めてないようでした。ちょっと言動もおかしかったんです。突然、ふらっと僕を訪ねて来て『おい、千鶴子来てないか』とか聞いたり……」

 柾・晴冶(まさき・はるや)は新進の若手として注目を集めていた映像作家だった。映像と音とで白昼夢のような美しい世界を造りあげ、その裏では製作過程で潔癖性なまでのこだわりを見せ、変わり者と評されてもいたが、短編映画やコマーシャルフィルムの監督として将来を期待されていた。水谷は、アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵で、柾の数少ない友人だった。

 その柾の恋人は陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)という舞台女優だった。古典的な女優然とした気品のある美貌で、柾の映像世界には理想的だったのだろう、あるショートフィルムの主演に彼女を起用した時から二人の交際は始まった。監督と女優という典型的な関係ながら、相思相愛振りは中学生の恋愛のように微笑ましいほど純粋だったようで、人間嫌いの噂もあった柾が千鶴子に対してだけは少年のようになる、と専らの評判だった。

「似合いでしたよ、柾も美青年だったし、何しろ自分の言動とか身の回りに関しても映像としてのこだわりがあったから、二人が一緒の所だけ別世界のようにきれいで」

 悲劇は、一月程前に起こった。
 陵千鶴子の急逝。轢逃げによる即死だった。警察も事故、他殺の面で捜査したが未だ犯人は見つかっていない。事故車だけは乗り捨てられた状態で発見されたが、それは少し前に都内で盗難届けが出されていたものだった。
 柾は知らせを聞いて半狂乱になり、落ち着いたと思ったら今度は突然無気力になって自宅に引きこもって仕事も、関係者に面会することもなくなった。その少し後には水谷が云うように精神の破綻も来していたらしい。

「問題はここからで……一週間程前、僕もさすがに不安になって柾を訪ねたんですよ。つまり、この家ですけどね。ベルを鳴らしても、出ない。外から携帯で電話しても、通じない。おかしいと思って、入ってみました。鍵は開いてたんです。居間にもいないし声をかけても返事がないので、捜しまわってる内に、この部屋でこの装置を使って何かを見てる柾を見つけました。ディスプレイで確認したら、それが、この映像だったんです。慌てて、中断させました。それから……ずっとああなんです。何も見えてない、聞こえてないみたいな状態です」

 柾は音楽、特にクラシック音楽にも深い感性を持っていた。陵千鶴子を使って、ベルリオーズの「幻想交響曲」を映像化する計画があったらしい。一部、撮影が進んでいたが、完成を待たず千鶴子は帰らぬ人となった。
 その製作途中のフィルムが、今ディスプレイに映っているものだ。
 陵千鶴子が、白いドレスを着て、微笑んでいる。白くぼやけた背景の中を漂うような美しい彼女は、今となってはその直後の不安な死を予感させるほど儚い幻想のようだ。

「こんな装置を柾に与えた僕の責任です。柾が今非常に不安定な状態だと知っていながら……。これは、精神科を含めて医療の範疇では解決できないと思っています。明らかに、柾の精神は別の世界を彷徨ってる。……これは、あなた方だから云うんですが、見えたんですよ、千鶴子が……フィルムに残っていない場面で、誘いかけるように笑って手招きしてる千鶴子の姿が、一瞬だけ映ったんです。千鶴子が柾を引っ張り込もうとしてるに違いないんです。それで、そういった霊的な物に対抗できる方を紹介して貰えるように方々を訪ねてたんです」

「柾に、もう一度この装置を使ってこの映像と、同時に幻想交響曲を最初から最後まで聞かせます。チャンスは一回しかありません。もし、またこの装置を使って実際の柾にこの曲を最後まで聞かせたら、柾は二度とこっちには帰ってこられないでしょう。ですが、その間に柾にこれは幻覚だ、千鶴子は死んだんだと理解させられれば……あるいは、と思いまして。柾に音楽を聴かせている間に、どうか、柾の彷徨っている世界へ行って彼を連れ戻してきてくれませんか」

【1_0B】

 彬はここぞとばかりに持ち込んだエアガンをぱしゅぱしゅ、と空撃ちしながら、マガジンに込めた──彬自身無意識の内に微量の霊力を込めて対魔戦が可能となっている──BB弾を確認していた。銀髪に白皙の繊細そうな美貌を持つこの男、見た目に依らず──大体、マニアックな趣味というのは外見では判断がつかないのが常だが──ガンマニアなのである。今手にしているスミスアンドウェッソンの39-2モデルは改造エアガンのコレクションの内の一部に過ぎず、自宅には他にも同じ類の物は数知れず、しかも日常的にその日の気分で選んだ一丁をこっそり持ち歩いていたりするから危ない大学生だ。(とは云え彼の横には自らの身長を超える刃渡りの大型剣を普通に持って来た高校生も居るので、一概には云えないが)
 しかも、今日はそれを実際に、……勿論魔物相手ではあるが発砲する機会に恵まれたと来ている。ここで張り切らなくては、ガンマニアの名に恥じる。
 ……恥じてもいいじゃないか、というのは平和な一般人の考えだ。彼には彼の世界がある。自由にさせてやるが良い。
 目の前では水谷が人数分のヘッドホンを、柾に接続した装置と同じコンピュータにアダプタで繋いでいる。そのヘッドホンからの音楽を通して千鶴子の怨念に誘われた柾の幻想世界に、今、突入しようとしている所だ。
 鞍馬はその女優が彬と同じ「陵」姓であるのをずっと気にしていたが、遠い親戚かどうかも知れない、しかも死して尚生者を自分の都合で黄泉へ引き摺り込もうとしている怨霊に対して躊躇いを覚えるほど彬は甘く無い。
 ……それなのに、傍らのこの友人は。
「鞍馬」
 まだぼんやりしていた鞍馬に、彬のどことなく鋭い声が向けられた。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ」
「……」
 彬はまだ厳しい目で鞍馬を見ていたが、やがて水谷が「準備出来ました」と云って各自にヘッドホンを手渡し出すと、先に歩き出してそれを受け取った。
 そして、まだはっきりしない手付きでそれを装着しようとしている鞍馬の耳に、彬の冷静で突き放すような声が届いた。
「この先は柾さんの幻想と千鶴子さんの怨念の世界だ。迷いのある心のままでは、取り込まれてしまうぞ。……音楽の最中には抜け出すことはできないそうだが、5楽章ある内、それぞれの楽章の切れ目には脱出できるそうだ。もしもまだ迷ってるなら、1楽章だけで充分その怖さが分かるだろう。そうしたら俺は鞍馬の面倒まで見切れない。切れ目になったら、さっさと戻って来るんだ」
「……、」
 冷たい様だが、実際に今生きている人間の生き死にがかかっている時にまだ迷いを持っている友人を構っている暇がないのは事実だ。それに、鞍馬なら自分の身位自分で守れるだろう。但し、一旦入り込んだ世界から自主的には逃げだせない意地を持っている事も分かっていたので、先に忠告しておいたまでだ。

 ──視界がホワイトアウトした。そして、遠くの方でフルートとクラリネットによるハ単調の静かで、切なくも甘いラルゴの前奏が響き出す。

【1_0zero】

 都内の某ネットカフェの窓際に落ち着いたレイは、自分のノートパソコンを広げてある共有ファイル──柾宅の、例の映像装置に繋がったコンピュータに接続した。今頃、その体感型映像、音声出力装置の中には傍目には廃人同様の柾の肉体、云い換えれば抜け殻が収まっている事だろう。
 その装置とリンクしている画面は今の所ホワイトアウトしている。
 もうすぐ、ヘッドホンからの音楽を入口として草壁・鞍馬、陵・彬、ケーナズ・ルクセンブルク、セレスティ・カーニンガム、倉塚・将之、イヴ・ソマリア、篠原・勝明の7人がログインする筈だ。既にファイルの中にある、未完成の映像と柾の幻想と陵千鶴子の怨念が絡み合った「幻想交響曲」の世界に。
 レイ自身はイヤホンも付けていないし、ノートパソコンの音声も切っている。
 対岸の火事を傍観するつもりなのに、自分が音楽の中に取り込まれてしまっては元も子も無い。──気付いた時にはもう遅く、音の一つ一つが映像として「見えて」しまうこの曲の恐ろしさは充分理解している。
「……遅くない?」
 レイはぽつりと呟き、平行して待機させているストップウォッチソフトと画面上の時刻表示を見比べて呟く。
「……何か準備に手間取ってるのかしらね」
 そしてまあいいか、と傍らに置いたアイスコーヒーに口を付ける。
「柾晴冶と彼等がどうなっても、私には関係ないし」
 相変わらずの笑みを浮かべて頬杖を付いていたレイだが、「あ」とやがて声を洩した。
「……来た来た」
 ホワイトアウトした画面が、ゆっくりと淡い色彩の映像を伴って流れ出す。レイはストップウォッチのスタートボタンをクリックして開始させた。

【1_1】

 一同の目の前には、果てしない海岸線が広がって居た。恐らく、時刻は明け方だろう。ホワイトアウトに被さった白い砂浜に静かに寄せる波は、水平線の見えない遥か遠くまで淡い青紫のグラデーションを描いている。
「まあ……きれい」
 イヴがうっとりしたように呟く。危機感の欠片も感じられない。然し、それも当然だろう。既にこの先の楽曲の展開を知っている人間ですら、思わずそれを忘れて郷愁に襲われてしまいそうな光景だ。
 イヴやケーナズの余裕は強い自分の自我に対する自信に拠ってであり、彬、将之、勝明が緊張感を緩めないのはそれぞれが所持しているやや場違いにも思える武器の存在感と事前にこの幻想世界が千鶴子の怨念によるものだという恐ろしさを辛うじて覚えているからだ。セレスティは何の感想もなさそうにただ観察するように静謐な青い瞳を水面に向けている。鞍馬は一人ぼんやりしていた。
「──柾、」
 ケーナズが呟いた。
 釣られて視線を向けた一同の先──波打ち際に、裸足の足を浸して両腕を大きく広げ、天を仰いでいる柾の姿が在った。おそらく未だ精神に異常を来す前、水谷が「自分の言動や身の周りに関しても映像としてのこだわりがあった」と云っていた頃の、神経質そうな、整った横顔だ。
 前奏に繋がるヴァイオリンの切ない旋律。
 柾はゆっくりと海に向かって歩み出す。切なさに支配された心は、甘く誘い掛けるようなヴァイオリンの音色に釣られて恋人を探して彷徨い始めた。
「危ないな、」
 勝明が呟いた。
「このままじゃあの人、気が付かないまま海に入っていくぜ、」
 将之も少しずつ水に浸かっていく足許には注意を払いもせず、たゆたう様に進んでいく柾の姿には焦りを覚えたようだ。
「……、」
 ケーナズが足を進めた。
「ともかく、彼の意識をこちらに向けさせなければ話を聞きもしないだろう」
 だが、ケーナズは柾の入っている海に「拒絶」された。壁が存在している訳でもないのに、波打ち際より中には入れないのだ。
「……まだラルゴが始まったばかりよ、穏やかな景色に対して不粋な事はすべからず、という意味でしょう」
 イヴがケーナズを親し気に制し、「私が柾さんの注意を反らすわ」と、今度は事も無げに海に入って云った。
「……全く、神経質な映像作家の精神、か、或いは」
 ケーナズは吐き捨て、何を思ったかちらりと背後のセレスティを一瞥したが、しかし「まあ、この楽章は全体でも特に長く情景の転換も著しい楽章だ。余裕はあるか」と気を取り直したように腕を組んでイヴの後ろ姿を見遣った。
「あの人、注意を反らすって、どうするんだろう」
 眉を顰めた彬に対してケーナズが簡単に云う。
「彼女も女優だ。それもその歌声で人を魅了するセイレーンの血が入った。姿は彼女のままでも、雰囲気や気配だけでも陵千鶴子を『演じる』ことはできるのだろう。そして、ひとまずは安全な水の外まで柾を誘い出す」
 果たして、イヴの「演じた」千鶴子の気配に気付いたのか、ふらふらとした足取りで彷徨っていた柾ははっと背後を振り返ると、呆然とその指先をイヴに向けた。揶揄かうように波打ち際に向けて駆け出したイヴを追って、水に足を取られながらも覚束無い身振りで駆け出す。
 水しぶきがそこここで跳ねた。それを象徴するように、細かな装飾音を伴ったヴァイオリンがテンポを加速させながら軽やかに愛らしい(アニマート)パッセージを奏でる。
「……遊んでいるように見えるが」
「……あの娘、本当に柾さんを助ける気があるのか?」
 彬と将之が不審そうに顔を見合わせている。イヴはさっきよりは深度のある場所へこそ行かなかったものの、なかなか砂浜まで柾を導く気配がない。ずっと、ふくらはぎまで辺が水に浸かる中を駆け回っている。実はその辺り、ケーナズにも「勿論だ」と断言できる自信がなく、そ知らぬ顔でそれを見つめていた。
「……、あの」
 勝明には思い当たる事があって、そっと一同を離れるとセレスティに近付いた。
「……何か?」
「さっき水を操ってケーナズさんを近付けなかったの、あなたじゃないんですか」
「……、」
 セレスティは表情一つ変えずに澄まして相変わらず「柾の幻想」を眺めていた。やっぱりな、と勝明は思う。
「……不粋な真似は好きではない。……それに、もうしばらくは彼の幻想とやらを眺めていたいとは思いませんか?」
「思いませんよ」
 駄目だこの人……、と思いながら勝明は元の場所へ戻った。
「鞍馬」
 不意に彬に呼び掛けられた鞍馬ははっとして顔を上げた。彬の表情が一層険しくなる。
「本当に大丈夫か」
「ん……ああ、大丈夫」
「……やっぱりお前は迷ってる。水際に居ればセレスティさんが護ってくれるだろうから、1楽章の間はここにいて終わったらさっさと戻った方がいい」
「……彬、」
 だって、何とも思わないのか。あれ程夢中で恋人を(実際は千鶴子の気配を真似たイヴなのだが)追い続けている柾の目の前で、本物の千鶴子の思念体を攻撃することなんか、できるのか? ──駄目だ。
 少なくとも、俺には千鶴子さんを攻撃できない、と思いながら鞍馬は再び俯いた。
「……!」
 将之が俄に表情を緊張に引き攣らせ、大剣「破神」を構えた。どこからともなく、今までその気配を感じさせることのない程自然に唸りを上げたコントラバスのロングトーンが旋風となってその茶色い短髪を吹き抜けた。──地下鉄の駅構内で、通過車両が強風を残して過ぎ去って行く時のような緊張が肌に染みる。
「来る、か──……?」
「いや」
 しかしケーナズは落ち着いたまま組んだ腕を解かない。
 その通り、その後は何事もなったかのようにヴァイオリンが甘い旋律を歌い続け、後には一同の緊張を揶揄かうように規則的で穏やかな波だけが打ち寄せていた。──あまりに自然すぎて、錯覚を起こす程に。今、自分は幻覚を見たのではないかと。──彼は剣を構え続けている。柄を握る手に、汗が滲んで居た。
 それは、彬と勝明も同じ思いだった。そもそも、この風景自体が柾の幻想だと云えばそれまでなのだが、何か、今一瞬の内に自分の記憶の中で一番不安なもの、見たくないもの、然し思い出さなければならない何かを見たような錯覚を覚えた。
「こんな事はこの先いくらでもあるぞ。君達も分かったら、覚悟して置き給え。美しい旋律に油断すると、その隙をついて不協和音が襲って来る。生半可に安心していると、柾のように精神を乗っ取られるぞ」
 その言葉を聴いた彬が眉を持ち上げ、鞍馬は視線を反らした。……余裕で微笑んでいるのはセレスティ。ある意味、一番性質が悪いのではないだろうか……。
 幻想の世界に入った途端、いきなり目の前が大海だったのは予想外だったが、如何に幻想と云えども海はセレスティの能力が最も敏感に働く場所だ。これだけ広大な水に包まれた世界ならば、ケーナズ程には楽曲をスコア的に理解していなくとも、未来は読める。この直後に起こる変化を知りつつ美しい光景を前に待ち受けるのは、如何にも楽しい事ではないか。
 勝明の上げた声に一同が揃って視線を上げた。
「イヴさんと柾さんが……、」
 居ない。
 意識が柾から離れた一瞬の隙に、二人の姿は消えていた。──甘い、誘い掛けるようなヴァイオリンとフルートの旋律に、攫われてしまった様に。
「……あ……、」
 水面が歪んだ。ぐらり、と傾く視界に目を細めた鞍馬、彬、将之、勝明にセレスティの落ち着いた声だけがよく響いて聴こえた。
『──気を付けなさい。彼女は柾氏だけでなく全てを誘い込もうとしている。……気を許すと──』
 だが、四人は青い歪んだ空間に飲まれてしまった。その後に、元通り静かな海岸に残っているのはケーナズとセレスティだけだ。
「……あなたはどうするつもりだ?」
 ケーナズは水霊の力を得てか、旋律の変化を経ても尚そこに広大な海を残したままの世界を守ったセレスティに対して問いかけた。
「御覧の通り、私は身体の自由が利きません。……ほら、あの子達の様に元気よく駆け回る事はできませんからね。ここから眺めていることにしましょう。……本当に危なくなったら、ここへ帰って来なさい。出血を止める位の役には立ちましょう」
「……、」
 全てを見通しているらしいセレスティがほら、と示した彼等──恐らくは、さっきのうねりに呑まれた鞍馬、彬、将之、勝明──の姿は彼には見えなかったが、ケーナズはそれでも「余裕だな」と吐くと自分の足で次の場面に向けて海岸線を歩き出した。
「……君もだ」

【1_1zero】
 
「五分経過。──そろそろ最初の固定楽想<idee-fixe>か……」
 レイはモニターと、ストップウォッチウィンドウの表示を眺めながら片方の唇を吊り上げた。

【1_2B】

 まさかいきなり皆と逸れるなんて──。
 予想外だった。
 焦ってはいけない──、と、彬は安全装置を外した手中のスミスアンドウェッソンを確認し、やや小走りに薄暗い中を進みながらも冷静に考えた。
 まずは柾さんの安全を確保しなければいけない。現に、今こうして皆がバラバラになってしまった以上、柾さんにイヴさんが付いている可能性も高くはない。仲間との合流も重要だ。柾さんの居場所についての情報を交換するにしても、柾さんを護ることも一人では厳しい。第一、柾さんの救出にこうしてここへ来た人間が逆に取り込まれては意味が無い。元の木阿弥……木乃伊取りが木乃伊になる……どちらが最適だろう。その前に、それぞれの厳密な意味がはっきりしない。俺とした事がやはり焦っているのか。いや、この非常時に俺は何を考えているんだろう……。
「……、鞍馬」
 わざわざどうでもいい事を延々考えていたのは、彼の存在が気になっていた事の裏返しだと気付いた。……今の鞍馬なら、自力で抜け出す事はおろか逆にこの世界に少しずつ取り込まれてしまうだろう。セレスティと一緒に居ればいいが、怪しい。
「……あの莫迦」
 柾さんを助けに来たのに、どうして鞍馬の心配をしなければいけないんだ、莫迦々々しい。全く腹が立つ。
 ……それほど腹が立っているなら、無視すれば良かろうとも思うが、そこで無視できないのが幼馴染みというものなのだろう。

「彬君──!」
「……、イヴさん?」
 足を止めた彬の視線の遠くで、ケーナズとイヴが大きく手を振っているのが見えた。

「イヴさん、柾さんは?」
「はぐれてしまったのよ、……引き離されたというべきかしら。でも、大丈夫、すぐ見つかるわ」
「それより君、君の相棒はどうした?」
 彬は首を振った。
「──やはり、全員散ったか……。他の連中は大丈夫だろうが……あの彼、君の相棒は危ないぞ」
「分かっている。……全く、迷ってるならやめておけと云ったのに、あの莫迦」
「……あら、私」
 イヴが呟くと、果たして向こうからもう一人のイヴが駆けてきた。その彼女が、目の前のイヴ目掛けて来たと思うと、すいっ、とその中に入り込むように同化してしまったのを彬はきょとんとして見ていたが──。
「見つかったわ、柾さん、将之君と勝明君も一緒よ」

【1_3BCDEFG】

「……本来ならこの甘ったれた男に本当の事を分からせてやりたい所だが……」
 ケーナズは遠くから聴こえてきて、クレシェンドで近づいて来るやたらと明るいトゥッティの響きに耳を澄ました。
「……今はその暇はないようだ」
「え?」
 ケーナズは耳を塞いで蹲り、口唇を震わせている柾を冷たい視線で見下ろした。──柾は、明らかにこのトゥッティに続く旋律を畏れている。
 ケーナズは将之と彬に注意を促した。
「気を付け給え、もうすぐ魑魅魍魎の類が跋扈するぞ」
「魑魅魍魎だと!? 何だよ、それ」
「……『あれ』じゃないのか」
 ピアニシモから急激なクレシェンドを伴って上昇下降を繰り返す半音階の旋律が魑魅魍魎の登場を現すことをケーナズはあらかじめ知っていたが、柾の幻想の中ではそれがどんな形態をとっているかは想像しようもなかった。『あれ』の姿を見たケーナズは、全く想像力の逞しい男だ、と柾に向けて舌打ちした。
「……何て芸術的な魑魅魍魎だろう……」
 彬が感心したと云うよりは呆れたように呟いた。
「あれのどこが!?」
 そうこうしている内にも『あれ』は迫って来る。大剣「破神」を構えながら半ば怒鳴るように将之が訊ねた。
 『あれ』は一見、人魂のように見えるが、よく個体を観察してみればイラスト風にデフォルメされた真っ白な胎児、それの大軍である。然し、胎児にしてみればやたらと手足が細く、大きな頭部の頬はげっそりとして陰気な目が虚ろに見開かれている。それが超高速で飛びかかってくる図は、シュールだ。柾でなくとも、充分怖い。
「『マドンナ』だ。画家エドヴァルド・ムンクの。あれには確か油絵とリトグラフの2種類が存在しているが、そのリトグラフの方にはマドンナを取り囲むようにあの胎児の絵が──」
 ちらりと懐のメモから「プチ情報(この際にはあまり役に立っていない)」を引き出した彬の解説を、既に将之は聞いていない。大剣を大きく振りかぶり、目の前まで達した『あれ』、魑魅魍魎共を切り裂いていたからだ。そう云う彬もメモ帳を仕舞い込みつつ、片手ではエアガンを発砲している。
「要は、ビジュアルにこだわってるって事よねぇ、流石柾さんだわ」
 うっとりしながら片手を翳し、これもまたある意味恐ろしい事に胎児の姿をした魑魅魍魎共の生気を「吸い取って」いるのはイヴ。ケーナズはイヴをちらりと一瞥した。「吸引」中の方ではない。それは彼女の分身だ。もう一人のイヴは、襲い掛かってくる魑魅魍魎共に震えながら「千鶴子、千鶴子」と呟き続ける柾の横でまたもや陵千鶴子を演じている。
「柾さん、私はここよ」
「……やはり君は優しいな、」
「あなたが強過ぎるのよ。男が皆あなたのように強いとは限らないわ」
 「吸引」中のイヴが替わりに答えた。
 しかし、あまりにその数の多い魑魅魍魎は時に柾の目の前まで達し、イヴがようやく気を逸らせた柾に悲鳴を上げさせた。……その時には勝明がぺちん、とばかりに叩き落としたが。数が多く、空気のような存在であるだけにキリがない。将之が風の刃で切り裂いても、それは分裂はするが再現なく増え続けるし、彬に至っては対魔可のエアガンだけに確実性はあるが効率は悪い。マシンガンにすべきだった、とマガジンを交換しながら彬は舌打ちした。
「柾さん、しっかりしてくれ、これは柾さんの幻覚が産み出したものなんだ、柾さんがしっかりすれば、こいつらは消える」
 勝明が説得しようとするが、柾は怯えるだけで聞こうとしない。都合のいい奴め、と苦々しい表情で彼を見つめるケーナズの頭上を、咄嗟に身を屈めた彼の髪の毛1、2本を跳ね飛ばして将之の大剣が掠めた。
「伏せてくれ!」
「云うのが遅い!」
「悪ぃ!」
 そう、ケーナズに謝った将之は柾達の前で大剣を振り被り、その刃から産み出した高圧縮の空気の壁で魑魅魍魎共を遮断し、柾を護る方向へ切り替えた。
「そのまま続けろ、向こうから来る分はこっちで引き受けよう」
「了解!」
 元気よく答えた将之に入れ替わり、ケーナズは飛びかかる胎児の大軍に向けて片手を差し向ける。その青い瞳が一瞬、一際強く輝いたと思うとその指先から発動されたPKバリアがその存在を一蹴した。サイコ能力を生身の人間に向けることは好まないケーナズだが、柾の幻覚、或いは化物相手ならば容赦はしない。
「……凄いな」
 自らもエアガンを発砲しながら彬が感心したように呟いた。
「向かって来る物を跳ね飛ばすならばテニスと同じだ。こちらも堂々と反則技が使えるだけに、余程他愛無い」
「……テニス?」
「趣味だ」

──……。

 セレスティは、一同の健闘振りを微笑ましく「観て」いたが、やがて頃合だろうと水面に向かって両手を広げた。幻想世界全体が、大きな波に包まれ、一同の視界はホワイトアウトした。──グランド・パウゼ。

【1_3zero】

「……8分半経過。ここが山場と思ってたけど……やるじゃん、リンスター財閥総帥」

【1_4】

「……」
 そこは、元いた海岸の、砂浜の上だった。但し、空は明るい。妙に明るい。昼の明るさとは違う。──真っ白、だった。
 一同の横で涼やかに微笑んでいるのはセレスティである。お疲れ様です、とでも云いたげな表情だ。
「礼を述べるべきなのか、それとも今の今まで傍観を決め込んでいたことに文句を付ければ良いのか?」
 ケーナズが皮肉っぽく笑う。
「──千鶴子」
 柾が不意にはっきりとした声を洩した。
「……、」
 一同の視線の遠く向こうに、美しい横顔を海に向けている女性が立っていた。──陵千鶴子だ。
 千鶴子はその声を聞くと、首を傾いで振り返り、柾に向けて妖艶とも云える微笑を浮かべた。誘い掛けるような。
「──……、」
 柾が歩みだそうとする。勝明が慌てたように柾の腕を引き止めた。
「駄目だ、柾さん、あれは違う」
「違う? ──あんた、さっき千鶴子さんに会ったって云ってたよな」
 将之がさり気なく勝明に加勢してしっかりとその腕を両手で押さえ込みながら聞いた。勝明は頷く。
「違うと思う……あれは……似てるけど、俺がさっき会った千鶴子さんとは全然気配が違う」
「違うって、何が?」
「……さっき会った千鶴子さんからは少なくとも悪意は感じられなかった。……でも、あれは……明らかに柾さんを殺そうとしてる」
 ケーナズは柾を睨むと、将之に合図した。
「その幻想狂を押さえていろ。……好都合だ。良い機会じゃないか」
「何を?」
「私がカタを付けよう。……そのバカも、流石にもう一度事実を目の前にすれば目が覚めるだろう」
「……やめてくれ」
「──……、」

 千鶴子の向こうから歩いて来たのは、赤毛の青年だ。
「……鞍馬!」
 ぼんやりした目をしている。そして、鞍馬はケーナズと千鶴子の間に立った。
「あの莫迦」
 彬は珍しく表情を思いきり険しく顰めて吐き捨てた。
 それを避けて通ろうとしたケーナズの腕を、鞍馬がしっかりと掴んだ。
「……駄目だ」
「……、」
 ケーナズはセレスティに向かって低声で訊ねた。
「君、確か出血を止められると云ったな」
「水は私の領域。操るは自在。それは血液という水とて同じ事です」
 セレスティは相変わらず微笑を浮かべたまま答える。
「よし」
 そして彼は再び鞍馬に向き合った。
「まさか、その亡霊を庇う気か?」
「お前が千鶴子さんを殺そうとするならな」
「君まで錯乱したか。その女はもう死んでいる。分かっているのだろうな」
「……2度も殺す事ねえじゃねえかよ」
「鞍馬、お前、取り込まれかかっているぞ、」
 彬が必死で呼び掛ける。事実、──まずい。このままでは柾と同様になるか、あるいは柾程に千鶴子が執着していないだけにすぐにでも命を取られ兼ねない。
「だって、お前等平気なのかよ、いくら死んでたって、柾さんの目の前でもう一度恋人を殺すような残酷な事、出来んのかよ!?」
「……、」
 ケーナズは振り返ると、柾を無理矢理、という感じで押さえ込んでいる将之、そして傍らの勝明、イヴにも声を掛けた。
「君達は柾を連れて離れ給え」
「え? でも──」
「イヴ、柾の気は引けるだろう」
「ケーナズ?」
 突然意趣を変えたケーナズにイヴも不思議そうな表情をしたが、「急げ」と一言、静かに、然し逆らい難い不思議な威力でもって命令したケーナズに、柾を引っ張った将之、横から「柾さん、柾さん」と千鶴子の声で呼び掛けるイヴ、勝明の3人は走って行った。

【1_5ABCD】

「柾はもう居ないぞ、これでどうだ」
「そういう問題かよ!」
 鞍馬はケーナズに絶叫するように叫ぶ。あまりに整い過ぎた美貌が、氷に見える。ケーナズが千鶴子に向けた手に取り縋るように、必死で押さえる。
「やめろ、やめろって!」

──……。

 やはりそうだ、とケーナズは思った。鞍馬の手を通して、ケーナズの脳裏に流れ込んで来た映像──鞍馬の記憶、そして、鞍馬自身が忘れたと思い込んでいる、封印された記憶──あるものの「名前」。
 ……思い出させてやるべきだ、とケーナズは純情過ぎる、少年のような目をした鞍馬を見遣った。──少し荒療治になるが、彼には耐えて貰おう……奴も居ることだし、大丈夫だろう。と、背後の彬とセレスティを振り返る。
「鞍馬、いい加減にしろ!」
 そう叫ぶ彬を置いて、ケーナズは鞍馬の腕を引っ張ったまま駆け出した。
「え、」
 そして千鶴子に近づくと、一気に発動させたサイコ能力で、魅力的な笑みを浮かべた千鶴子を容赦なく「消滅」させた。
「千鶴子さん──……、」
 その瞬間、激しいトゥッティが、消滅したかに見えて分断された「怨念」の欠片を鋭利な刃に変えて伴い、空から激しく降り注いだ。
「!?」
「……」
 ケーナズは自分と鞍馬の前にPKバリアを発動させ、セレスティは黙したまま水の壁を自分の周りに張り巡らせた。──残ったのは、獲物としては刃の雨霰に到底対応できる筈のないエアガンしか持たない彬だ。
「──……!」
 彬の肩が赤い血飛沫で割れた。
「彬!」
 雨霰が止んでまた一つの塊になり、倒れた彬を眺めながらくすくす笑う千鶴子へ姿を変える。ケーナズのPKバリアから飛び出した鞍馬は彬に駆け寄って抱き起こした。
「彬、大丈夫か!?」
「あ……ああ、傷は浅い……」
「嘘吐けよ、」
 どこまでも他人の世話を受けたがらない友人。彬に手を掛けようとしたセレスティを、ケーナズが制する。
「……、」
 セレスティは頷き、後ろへ下がった。──一応、荒療治の前に彬の心臓が止まってしまわないように、これ以上の血が流れないようさり気なく血流を操作しながら。
「……目は覚めたか」
「お前……」
 自分と彬を見下ろしているケーナズに、鞍馬は怒りの感情をその赤い瞳に現して投げ付けた。
「分かってたのかよ、こうなるの。それで、千鶴子さんを」
「私を憎みたくば憎むがいい。だが、目を反らすな。元はと云えば自分の迷いが招いた結果だと云う事実から。彼を『護る』のは君の役目じゃないのか」
「──……!」
「はっきり見ろ、あそこで笑っている女を! 君の友人を傷つけたのはあの女だ、それでもまだ君はあの女に情を掛ける気か」
 鞍馬は顔を上げた。陵千鶴子の怨念──あの女が、彬を傷付けた。俺は無力で、あの女に取り入られた。でも、今の俺には何もない──、あの刀だって、もうとっくの昔に封印したものなんだ。
「……精霊の封印とやらにこだわっている内に、大事な友人の命まで失わなければいいがな」
「──……、」
 
 駆け出した鞍馬の右手の先に、その目の輝きと同じ赤い光が集まる。
 鞍馬は、それを千鶴子に向けて振りかぶる直前、脳裏に弾けた言葉を叫んだ。
「──……雪月花……──!」

──……。

「……消えた、か?」
 鞍馬の一閃を受けて、再びその個体を分断され、遥か遠くの方へ弾けて行った千鶴子の名残を見つめながら鞍馬は呆然と呟いた。
「いや……私が散らして消えなかったのだ。ブランクのある君に消せる訳はなかろう。おそらく、また戻って来るぞ……」
「何だと、」
 文句を付けようとした鞍馬は言葉を飲み込み、また彬、ケーナズ、セレスティも天を見上げた。さっきまでの異様な明るさは消え、暗い空に幽かに明かる月が出ている。──そこから、浮遊感を誘うようにゆっくり雪が降って来た。──花びらのような。
 それは一瞬で消え、また最初の、夜明け前のような蒼黒い海面が現れた。後に残ったのは、鞍馬の右手にある一振りの刀身だけだ。
「……雪月花……忘れてた。こいつの名前も……なんでこんな所に、」
 くす、とケーナズが笑った。──彼はもう何も云わないが、あの時、鞍馬の手がケーナズの腕を掴んだ時に触れた指先を通して見たのだ。見る気もなかったのに、あまりに激昂した鞍馬の感情と共に、彼の記憶を。
「今頃押し入れん中で埃被ってる筈じゃあ……」
「……銘だ」
 彬が呟く。彬の傍にはセレスティが付き添い、既に彼の傷口から傷みまでをきれいに治していた。少し違和感の残る肩を押さえながら彬は立ち上がり、鞍馬の右手の刀身を指す。
「銘……物の名前は、それ自体が言霊となり得る。お前がその名前を呼んだ事で、封印を解かれた刀自体が意思を持って現れたんだ」
「……銘、」
 鞍馬は右手の刀身を見詰めた。
 御神刀、雪月花。……封印した筈なのに、……また、解いちまったんだな。
「……現象というのは、全て必要に迫られて現れます。必要でない事は、通り過ぎる。……貴方が必要としたのですよ、それを。……という事は、あなたを、──護り人を必要としている者がまた、存在するということです──」
 涼やかな笑顔でそう鞍馬に告げ、セレスティが行き過ぎた。哲学的だな、と相槌を打ちながらケーナズが追った。

【1_5ab】

「俺は、別に護ってなんか要らないぞ」
 先に歩き出した彬は鞍馬に背中を向けたまま殊更素っ気無く云い放った。
「……俺はもう『月の精霊』じゃない。……陵彬という一人の人間なんだ」
 鞍馬は右手の中の御神刀、「雪月花」の感触を確かめた。……もうずっと前から身体の一部だったように、それはしっくり手に馴染んでいた。
「……いいじゃねぇかよ、別に」
 鞍馬が後を追い、横に続いた。
「確かに俺は『月の精霊の守人』だ。……けど本当に護りたい奴ァ、自分の目で極めたんだぜ?」
「……、」
 ──「月の精霊」だから護るんじゃない。

【1_6】

 先程までの混沌振りが嘘のような、荘厳な終止に向かう和音が重く響いている。
「無事だな、」
 セレスティと共に柾と、イヴ、勝明、将之の許へ辿り着いたケーナズが確認する。柾は無事だ。が、対する将之は腕に無数のかすり傷を作った健闘振りだったらしい。
「傷を」
 セレスティが手を差し伸べる。将之は、いや、平気、これくらい、と元気そうにその腕でくしゃ、と茶色い短髪を掻き上げた。
「どうせだから治して置いて貰い給え。……後は長い」
「え、まだ?」
 いかにも音楽の集結しそうなアンサンブルに、将之は首を傾ぐ。
「……捻くれているだろう。こんなに物々しい終止をして置きながら、これはまだ1楽章の終わりに過ぎない」
「……全部で何楽章でしたっけ」
 勝明が訊く。5楽章だ、と答えたケーナズの言葉を聞いて、一気に脱力したような将之は大人しくされるままにセレスティの治療を受けていた。
「しかしそうでなくてはこちらも困る。……まだ、柾は何にも現実に目を向けていないからな」
 イヴが苦笑した。
「やっぱり、あくまで厳しいのね、ケーナズ」
「当然だ。見ただろう、不用意な迷いが危険な結果を招いたのを。……だが彼は強い。手許にないものを意思の力だけでこちらに呼び寄せた程だ。……全く、その廃人に見習わせたい」
 ケーナズは向こうから連れ立って歩いて来る、アルビノの大学生と、一振りの刀を下げた赤毛の青年に微笑を向けた。

【1_6zero】

「……なんか滅茶苦茶ではあったけど……意外とタフみたい、彼ら」
 14分を過ぎた。ディスプレイから顔を上げたレイは、その傍らの人物が居なくなり、一人になっていることに気付いた。──しかし、その彼女の手許にはしっかりと新品のDVD-Rメディアが置かれている。
「……ちゃっかりしてるわねー……。これ、事務所付けでいいのかしら」
 ぱり、とセロファンを剥がしながら呟く。ディスプレイの中では、次ぎの舞台となるべく、華やかな建物のダンスホールに幕が下りている。
「そう云えば……『鹿鳴館』って云ったっけ……二人の共演したフィルム」

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幻想交響曲 Phantastische Symphonie Op.14
作曲:Hector BERLIOZ (1803-1869)
作曲年:1830

「病的な感受性と、はげしい想像力を持った若い芸術家が、恋の悩みから絶望して阿片自殺を計る。しかし服用量が少なすぎて死に至らず、奇怪な一連の幻夢を見る。その中に恋する女性は、一つの旋律として表れる──」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0932 / 篠原・勝明 / 男 / 15 / 学生】
【1481 / ケーナズ・ルクセンブルク / 男 / 25 / 製薬会社研究員(諜報員)】
【1548 / イヴ・ソマリア / 女 / 502 / アイドル兼異世界調査員】
【1555 / 倉塚・将之 / 男 / 17 / 高校生兼怪奇専門の何でも屋】
【1712 / 陵・彬 / 男 / 19 / 大学生】
【1717 / 草壁・鞍馬 / 男 / 20 / インディーズバンドのボーカルギタリスト】
【1883 / セレスティ・カーニンガム / 男 / 725 / 財閥総帥・占い師・水霊使い】

NPC
【1889 / 結城・レイ / 女 / 21 / 自称メッセンジャー】
【水谷・和馬(みずたに・かずま)】
・今回の依頼人。アマチュア時代から柾と共に創作活動をしていたディレクターの卵。
【柾・晴冶(まさき・はるや)】
・新進の若手として注目を集めていた映像作家。千鶴子の恋人。現在、精神が音楽の世界に取り込まれている。肉体は藻抜けの殻。傍目には多分廃人に見える。
【陵・千鶴子(みささぎ・ちづこ)】
・生前は、古典的な女優然とした気品のある美貌を持つ舞台女優だった。一月程前に轢逃げに遭い死亡。正木の元恋人。彼女の思念が柾を黄泉に引き摺り込む為、彼の精神を閉じ込めている。

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■         ライター通信          ■
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皆様、お疲れさまでした。そして、今回の御参加ありがとうございます。
今回は、個別パートが多くなり、また少し立ち入り過ぎた点まで描写してしまった気がします。
もっと、あくまでシナリオの流れに沿って各PC様をプレイヤーとして登場させた方がいいのかとも迷いましたが、今回は取り敢えずそのままにしています。
その点等につきましても、要望や不満点などをお聞かせ願えたら有り難く思います。
「幻想交響曲」という曲を通して、音楽の恐ろしさというものを描写したかったのですが、なかなかそれは音楽以外の方法では難しいのだと改めて気付かされました。
是非、聴く機会があれば音の一つ一つを「観る」つもりで聴いてみて下さい。全ての音が何かしらの映像に見えます。

本シナリオは全5楽章まで続きます。
後半に差し掛かったら、某ネットカフェや某興信所に関連のある調査依頼が出るかもしれません。
取り敢えず次回作は「第2楽章 舞踏会」となり、9月2日火曜日午前0時から受注窓を開けるつもりでいます。気が向かれましたら、或いは適当な楽章だけでも結構です。覗いてみて下さい。

■ 陵彬様

初めまして。お友達との御参加、ありがとうございました。
端から恐らく本シナリオ中一番痛い目に遭わせてしまい、申し訳ありません。
楓さんにはどうぞ内密に。
「友情って何だろう……」と考えている内に陵様の場合励ましの言葉といった在り来たりな形ではない気がしましたので、ルクセンブルク氏に御協力頂いてこういう形にしてみました。
千鶴子の件、本当に一度御両親にでもお尋ね下さい。もしかしたら……。(御自由に)
本当は「御陵」がいつの間にか欠けていたのですが、何か縁があったりするのでしょうか。
まだまだ熱い日が続きます。紫外線には充分注意して、時には無理せずお友達に頼って下さい、ね。

x_c.