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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


アウェルヌスを探して


□ 君が呉れた物語の始まり


『帰りたいだけなんだ』
 ヒトの年齢で言うなら、十四、五歳くらいだろうか。
 月刊アトラス編集部の片隅、三下忠雄の机に腰掛けた半透明の少年は、椅子の上で硬直している三下の蒼白い貌をじっとみつめて言った。
『聞いている? 僕は、帰りたいだけなんだよ』
 口をぱくぱく開閉するだけで、一言も発せずにいる三下に向かってぐいと身を乗り出し、少年はその切れ長の眼許に冷たい笑みを滲ませた。
『僕を無視するの? 視えるのに、視えない振りをするの? ……非道いよね』
 三下は慌てて頭を左右に振ったが、遅かった。
 パンッと鋭い破裂音が耳許で鳴り、黒縁眼鏡に幾筋も罅が走った。嗚呼、世界が割れてゆく。歪んでゆく。
『ふふ、それじゃあ本当に視えなくなるね。でも、眼で視えるものなんて、世界のほんの一部だから。それに、視えている世界が正しいとも限らないから。たとえ君が視力を喪ったとしても、気に病むことはないよ』
 少年が言うのは、これから三下の視力を奪うという予告なのか。
 眼鏡歴はかなり長く、眼鏡を外せば碇編集長の引き攣った表情も暈けて柔和に見える三下だったが、全くものが見えなくなるのは困る。困るに決まっている。
「あ、あ、あ、あぁあなたは、ど、どどどちら様……で」
 震える唇で、三下が何とかそれだけを応えると、少年は、
『僕は、多分、ユーレイ。この世界のヒトはみんな、そう呼ぶでしょう? 僕達のことを』
 細い人差し指を三下の眼鏡の端に押し当て乍ら、頸を傾げた。その姿は朧に透けているというのに、机や眼鏡は少年をしっかり認識しているが如く、彼の体は物質に触れて透り抜けることがなかった。
「ゆッ、ゆうれぇさん、ですかあぁっ?」
『そんな大袈裟に驚かないでよ。東京にはたくさんいるでしょう?』
「い、い、いえぇ、それほどでもぉ」
『何の謙遜? おかしなヒトだね、君って』
 少年はぷっと吹き出し、それはともかく、と場を仕切り直した。
『僕は、帰りたいんだ。君が家に帰るみたいに、僕もね、僕が在るべき場処に帰りたい』
 三下としても、それには大いに賛成だった。この少年が自分を霊だと自覚しているのなら、ぜひ迷うことなく成仏してほしい。いや、もしかしたら霊自身には成仏するなどという概念はなく、本当に自宅に帰るように自分の世界に戻りたいだけなのかもしれないが。
 少年は『でもね』と言葉を継ぎ、編集部の薄黒く煤けた天井を見上げた。上階の水漏れのせいでできたのだろう大きな染みがそこに星形を描いている。なんて身近な夜空。
『でも……入口が分からないんだ』
「入口?」
『そうだよ。出口と言ってもいいけど、それはそこを通る者の主観だからね。今の僕にとっては、僕の世界への入口。冥界へ下る底なしのアウェルヌス』
 冥界へ下る、底なしのアウェルヌス。
 三下は、アウェルヌスという単語に聞き覚えがあるようなないような――――曖昧な理解を抱えたまま、数回忙しなく肯いた。
「そ、それで、そのあうぇるぬすと、あなたが今ここにいることと、何の関係が」
『それはもちろん、アウェルヌスがここにあるから、僕はここにいるのさ』
 少年が三下に視線を下ろしてにっこりと微笑んだ。こうして笑うと急にあどけなさが惹き立ち、とても可愛らしかった。が、その笑貌の向こうに編集部の小汚い窓が透け暈けて見えるのが気になる。
「ここ、って……ここ、ですか? へ、編集部室……?」
 三下が胸の前で両手指を組み合わせ、上眼遣いに少年の表情を窺った。
 少年は額にかかる前髪を軽く指先で跳ね上げ、
『そうだよ。ここに在るには違いないんだ。けど……』
 眉間を顰めた。
『この部屋のどこに在るのか、分からない。きっと、永い間閉じていたから、気配が薄れてしまったんだろうね。だからさ、君』
 少年に真っ直ぐ指さされて、三下はごくりと唾を飲み込んだ。次に来る言葉は何となく予想がついた。
『探してくれないかな、冥界への入口を』
 やはりそうか。
 三下は選択の余地なく、頸を縦に振り下ろした。

 三下と少年とのやりとりを、遠巻きに他の編集部員達と一緒に眺めていた碇麗香は、ここへ来て三下の上司らしい決断を下した。
「大人しくご帰還願うには探すしかないみたいね。ま、これもいいネタになるかもしれないし、前向きに行くわよ」
 そう言い、さて、誰に協力を要請すれば現状を打開できるかと思考を巡らせ始めた。


□ 水を識る者


 バスタブに水を張り、端から滑り込むようにするりと身を浸し入れた。
 セレスティ・カーニンガムの体に触れた途端、水は何かを乞いたげに纏わり付き、否の意志が与えられるまで彼の肌を愛撫するように揺れ続ける。いつものことだ。セレスティは緩やかな手つきで濡れた銀の髪を掻き上げ、視えているとは言えない碧眼を浴室の天井へ向けた。
 セレスティ自らが総帥を務めるリンスター財閥の本拠地をアイルランドに置き、ここ日本にはそれとは別に邸を設けている。最近では特別なことがない限りアイルランドから緊急の呼び出しはかからず、財閥の運営はそれなりに順風に帆をあげていると言えた。そうとなれば、セレスティとしても、この地で心静かに日を暮らすことができ、折を見て財閥の行く末を占っては、より良い方へと未来を導いてゆくことに専念していられる。
 そう、思っていたのだが――――。
 セレスティは、濡れた唇にふっと笑みを載せた。
「東京という処は……どうしてこうも不可思議な気配ばかりを喚び集めてしまうのでしょうね」
 そう呟き、頭まで水の中に沈め入れた。
 外界の音や光からぼんやりと隔絶されたその空間で、セレスティはつい先刻、月刊アトラス編集部の編集長、碇麗香から受けた電話の内容を思い返した。

 ある筋の方から紹介していただいて……あなたなら何か分かるのではないかと……御足労とは思いますが……アウェルヌスを探しているという少年が……

 途切れ途切れに、麗香の声が、セレスティの記憶から水に融け出してゆく。
 アウェルヌス。
 "Avernus"。
 イタリアに在るという湖の名。
 遙か以前には底なしと信じられていた、冥界への入口。
 かのウェルギリウスも、叙事詩『アエネイス』の中でそれについて語っていた。
 そのアウェルヌスを探しているという少年は、一体何者か。
 セレスティは麗香の話に心惹かれ、身支度をととのえ次第そちらに伺います、と返答した。今は、強い熱を放っている陽光の下へ出るためのちょっとした準備中である。
 全身に水を纏い、力を蓄え、身を清めてからでなければ、いかに短時間とは言え、無遠慮に肌を刺す夏の光に晒されるのは危険だ。本性が水属性の人魚であるのだから、それは仕方のないことだ。どれだけ人間のように振る舞い、人間のように生きようと、総てを人と同位にすることはできない。永き時を生き乍ら手に入れた底知れぬ知識も、人ならぬ美と思われても不思議はないほどの麗容も、運命さえ枉げてしまえる力も、水を支配し自由に扱えるそのことも、皆――――人智を超えた業には違いない。
 また、逆に、人に及ばぬこともある。人間界に暮らしていても、相変わらず足腰は道を歩くに適さず、出掛ける時には車椅子を必要とすることが多い。それに、視力。光の存在程度は何とか感じられるが、視えるというには至らない。視覚が不足している分、他の感覚器官は鋭敏で、日常生活にこれといって支障を来すようなことはないが、セレスティの眼球がものを視るために存在していないのは確かである。
「……アウェルヌス」
 セレスティは水に囁きかけるように言ってから、水上に顔を出した。
 そろそろ、編集部へ向かわなくてはならない。


□ ユニバーサルデザイン推奨


 白王社ビル、玄関前。
 そこでセレスティは車椅子を止め、溜息を吐いた。
 たった数段の階段といえど、車椅子の者には大きな障害となる。スロープの一つも付けておいてくれれば苦労はないのだが、どうやらそこまでの配慮はしてくれないものらしい。
 仕方なく、携帯してきたステッキを突いて立ち上がろうとした時、
「あっ! みあお、手伝うよっ」
 背後から、明るい少女の声が風にのってやって来た。
 続けて、
「ったく、今どき、バリアフリーやユニバーサルデザインって言葉を知らないのか、白王社の連中は」
 呆れたような男の声が流れ来た。
 声をかけてくれた二人がどんな人達なのか、セレスティには送った気が跳ね返ってくる感覚でしかその輪郭を捉えられなかったが、相手との距離が狭まるにつれて、人物像は明瞭になった。
「こんにちは! お兄さん、ビルに入りたいんだよねっ?」
 みあお、という名の少女の手が、セレスティの腕に触れた。
「……はい、そうです」
「うん、じゃあ、階段昇るの手伝うから――――」
「おい、いいからおまえは退いてろ、手伝いたい気持ちは分かるが、役に立たない」
 みあおの語尾を遮って、青年が言った。
「なんでそーいうこと言うかなっ、香坂は!」
「おまえが転ぶ程度ならいいが、この人に怪我でもさせたらどうする」
 香坂と呼ばれた青年は、正論を打った。
「う……」
 みあおは言葉に詰まり、分かったよっ、と言って、一足先に階段の上に昇った。
「じゃあ、香坂っ、ちゃんとここまで車椅子上げてよ!」
「分かってる、騒ぐな」
 香坂はそう言い、車椅子の背後に回ると、
「俺一人じゃ持ち上げられないから、階段に添って少しずつ乗せ上げることになる。揺れるが、いいか?」
 セレスティに告げ、言葉どおり丁寧に一段ずつ車輪を階段に乗せて、車椅子を押し上げていった。
 白王社前の五段程度の階段は、手助けがあればそれほど苦もなく乗り越えられる代物で、セレスティは香坂に車椅子を押され乍ら、ビル内に入った。
「ありがとうございます、助かりました」
 セレスティが頭を下げると、香坂が返辞をする前に、みあおが元気よく「気にしなくていいよ! 悪いのは、あの階段だもんっ」と笑った。
「……何階まで?」
 エレベーター前で、香坂がセレスティに訊いた。
「月刊アトラス編集部に行きたいのですが……」
 セレスティが応えると、香坂が意外そうに眉を上げたのが何となく分かった。
「もしかして、アウェルヌスの件で?」
「……君も、ですか?」
「みあおもだよっ」
 目的の一致した三人は、ドアの開いたエレベーターに一緒に乗り込んだ。


□ 探し物はどこですか


 白王社ビル前で逢った元気な少女は海原みあお、便利屋兼業のヴァイオリニストだという青年は香坂蓮、ホストという職に似合いの華やかな色を思わせる男は佐和トオル、そして、やたらと汗の匂いを染みつかせた気さくなカメラマンは、武田隆之。伴に事に当たる各人の名と雰囲気を頭に叩き込んで、セレスティは、アトラス編集部員が一人、三下忠雄にすり寄っている透明感あふれる少年に意識を集中した。
『みんなで探してくれるの? アウェルヌスを』
 少年が、嬉しそうに笑った。
「そうだよ。でも、よかったら先ず、キミの名前を教えてくれるかな」
 トオルの言葉に、少年は少し頭を左に傾けた。
『名前なんて知って、どうするの』
「知りたいから、っていう理由だけじゃダメ?」
『だめだよ』
 すげなく顔を背けられ、トオルは苦笑した。
 トオルに代わって蓮が、
「名前が分かっていると便利だからだ。おまえのことをいちいち『おい、そこの少年』と呼ぶわけにもいかないだろう」
 淡々と言った。これには少年も納得したように頸を縦に振った。
『僕の名前は、シン。さあ、これで準備はととのった? アウェルヌスを探してくれる?』
 シン、と名告った少年は、三下の背後をぐるっと取り囲んだ五人を順に見た。
 みあおは、少年よりも三下が気になって仕方ないようで、近寄ると、椅子に腰掛けたままの彼のくたびれた袖先を引いた。
「三下っ、なに、かたまってんの! その、あうぇるぬすっていうの、みあお達が探すから、知ってることがあったら教えて!」
「あ……、あぁあ、いえ、その、どうも体が動かなくて」
「えっ? 動かないって、なんで? 三下、ユーレイ見ちゃって、腰抜けた?」
 無理矢理に三下を椅子から立ち上がらせようと奮闘するみあおの肩に、セレスティがそっと手を置いた。その指先が雪の白で塗ったように皎い。
「お嬢さん、三下氏は本当に動けないようですよ」
「ああ、そうみてえだなあ。おい、坊、あー、シンか。シンがやったのか?」
 隆之は頭を掻き掻き、親しげな口調でシンに話しかけた。
『そうだよ。一応、人質っていうのかな、こういうの』
 全く悪びれた様子もなく、シンは三下の顔から罅割れた眼鏡を外し取り、弄んだ。
「物騒ですね。人質など取らなくても、私達はアウェルヌスを見つけ出しますよ」
『それなら、早くそうして』
 懐柔しようとしたセレスティに素っ気ない返辞を与え、シンはちらと蓮に一瞥を呉れた。
「……何だ」
『お兄さん、無愛想だけど、言うことが分かり易くていいよ。それから、そっちの金の髪の』
「ああ、何」
 トオルが軽く右手を挙げた。
『君は、そうやって微笑むことが仕事?』
「……大体、当たってるかな」
『ふぅん。大変だね』
「そうでもないよ。好きでやってるしね」
『そう。じゃあ、その仕事以外のこと、しないで。僕のこと、覗かないで』
 言われて、トオルは驚いたように眼を見開いた。
「あん? 覗くって、何だ? おい、あんた、何かシンに妙なことしたのか?」
 隆之に問われて、トオルは僅かに口の端をひくつかせた。
「してないよ。見れば分かるだろ。ただちょっと……」
 そう言ってすいとシンの頭に片手を翳し、
「アウェルヌスの在処を掴む手がかりが、シンの中に眠ってるんじゃないかと思って。ねえ、シン、キミの世界からこっちに来たときのことは思い出せるかな?」
 少年の反応を気にしつつトオルはそっと眼を瞑り、数秒の後、成る程、と呟き乍ら瞼を上げた。そして、急にきょろきょろと室内を見回し始めた。
「ん? 何? どしたの、佐和?」
 みあおが、わけも分からず、一緒になってうろうろと視線を彷徨わせた。トオルはそんなみあおを見て、あはは、と愉しそうに笑い、彼女の頭にぽんと手を載せた。
「ホントにみあおちゃんは可愛いね」
「おい、こんな処でホストトークはいい。しかも小学生相手に。時間の無駄だ」
 蓮が鬱陶しそうに言い棄てた。トオルは蓮の眉間の皺が解消されるのを期待するかのように、笑顔のまま彼を見遣った。
「これくらいは誰だって言いそうなものだけど、ね」
「俺には縁のないセリフだ」
「勿体ない、これでサービス精神さえ旺盛なら、キミも充分ホストになれそうな容姿なのに」
「何の話だ! 誰がホストになりたいと言った?」
「いい商売だと思うけどね? 才能と努力如何によっては、かなり稼げるし」
 いい商売、という言葉に、蓮はぴくりと反応して眉を上げ、もう一言何か言おうとしたところを、隆之に制された。
「おいおい、ホストのスカウトは結構だが、話が脱線しまくってるぞ」
「……それで、佐和さん。シンの心を感じ取ることはできたのですか?」
 セレスティが穏やかに軌道修正をした。
「何ぃ? 感じ取る? 心?」
 疑問符を飛び散らせている隆之の隣で、トオルがセレスティに応えた。
「できましたよ、ある程度。こう、まるで水中から向こう側を見ているような――――揺らめく景色が視えました。多分、シンがこっちの世界に来る時に感じた、風景」
「そうですか。では、やはりアウェルヌスとは、イタリアに在るというあの湖のことでしょうか」
 セレスティは長い指でするすると車椅子の車輪を撫で、ゆっくり瞬きをした。セレスティの言を受け、蓮が肯いた。
「水に関係しているというなら、そうかもしれないな。アウェルヌスは、ナポリ近郊の底なしの湖の名でもあるし、ラテン語で『冥界の』という意味を持つ単語でもある。まあ、この部屋に湖なんか在るわけがないが、要するにそこに端を発していると理解して、肖たようなものを探せばいいだろう。もしかしたら、その湖に接する隧道のようなものの片端がここに繋がっているのかもしれない。……何にしてもこの世のものでは有り得ないが」
「わお! さっすが香坂、いろんなこと知ってるねっ!」
 一同、何がさすがなのか分からなかったが、みあおは両手を伸ばして蓮の右腕に掴まり、彼女なりの親愛の情を表現した。蓮は煩そうに腕を振ったが、そう邪険にもできないのか、暫くそのままみあおの好きにさせていた。
 愛想で世間を渡ってゆくタイプでない蓮と、ひとたび笑顔を咲かせると場を明るく染めるみあおの組み合わせは、アンバランス乍らどこか微笑ましいものがあった。セレスティは、そんな二人に仄かな好意を覚えた。
「冥界へ続く湖、ねェ」
 隆之が、溜息交じりに肩から提げた大きな匣形バッグのジッパーを開け、中からデジタル一眼レフカメラを引っ張り出した。
「まッ、俺にはとんと見当もつかねぇが、それでも確かにここに何かが在るっていうなら――――コイツが教えてくれると思うぜ」
 セレスティは隆之の声に誘われるように、カメラに顔を向けた。
「そのカメラ……何か特別なものを写してくれるのですか」
「まあ、な。俺にとっちゃ、あんまり喜ばしいことじゃァないんだが……写っちまうモンは仕方ねぇよな。俺自身には霊感らしいものは少しも備わってないってのに、撮ったフィルムを現像してみたら、こりゃまた見事な心霊写真、ってのはよくある話だ」
「それはお気の毒に」
 セレスティの言わんとしていることを掴みかねたのか、隆之は曖昧に口許を歪めて笑った。
「とにかく、水に関するもの、水そのものじゃなくてもそれに纏わる絵とか、品物とか、そういうのがこの部屋にあれば、多分そこがシンの探してるアウェルヌスだ」
 トオルが話をとりまとめ、シンを見た。
 シンはじっとトオルを見返し、口を開いた。
『そうなんだ。僕には、イタリアがどうのとか、湖がどうのとか、そういうことは分からない。でも……君が覗いた僕の中に水が視えたんなら、それが正しいのかもしれないね。心を直接感じ取られたんじゃ、僕も誤魔化しようがないからさ』
「何だ、誤魔化すつもりだったの?」
『そうしようと思ってたわけじゃないけどね。ほら、何だか知らないけど、勝手に頭が物事を歪めることって、あるでしょ? あるがままを受け容れたくないとでも言うみたいに、少しだけ自分に都合の良いように、現実を組み替えちゃうことって』
「難しいこと言うね、シン」
『頭で考えるから難しいんだよ。何となく、心で感じたら、ああ、そういうこともあるかなって気になるさ』
 シンはにっこり笑い、機嫌良さそうに体を揺らした。
 みあおはここでようやく蓮の腕を放し、両手をそれぞれぎゅっぎゅっと握るや、「うしっ」と気合いを入れた。
「んじゃ、あうぇるぬすを探そう! みあお、小鳥の姿になった方がいろんな気配を感じられるし、自由にあちこち飛び回れるから、変身するねっ」
 その宣言に、蓮、トオル、隆之の三人は「何の話だ」とばかり呆気にとられた表情を作り、セレスティは「そうですか、お願いします」と、冷静なセリフを吐いた。何しろ、当の自分が人魚である。みあおの本性が鳥だろうが、もしくは何らかの現象によって鳥変化の能力を得たのだろうが、取り立てて驚くには当たらない。
 みあおは、まあ見てて、と得意げに言い、いきなり後ろを振り返って、
「碇っ」
 皆の様子を見守っていた麗香を呼んだ。
「ねえねえ、この部屋の、鬼門ってどっちの方?」
「鬼門? 鬼門って……艮の方角だから、そうね、ちょうど三下くんの机のある方だけど」
 つくづく三下って、そういう星の下に生まれたんだと思って諦めるしかないんだね。
 みあおはそんな憐憫の情を含んだ眼差しを三下の背に注ぎ、一度深く息を吸い込んで、それを努めてゆっくりと腹から吐き出した。
「じゃ、三下のあたりを中心に、いろいろ探ってみるね」
 言うなり、両腕で自分の体を抱きしめると、みあおは眼を閉じて意識を体の裡に集中した。
 とくん、とくん、とくん、
 次第に、心臓の音が、近くなる。
 小さな体の奥に眠る何かが、内側から表皮を刺激する。
 ふわりと舞い上がる風を、体内に感じる。
 イメージするのは、青。
 心に描くのは、青い鳥。
 人々に倖せを運ぶ、小さな、小さな青い鳥――――。
「な……っ、なななな、何だあっ? お、おい、嬢ちゃん……!」
 隆之が素っ頓狂な声を上げた。
「ああ……感じます。柔らかな羽と風の存在を」
 セレスティが、穏やかな笑みを眼許に過ぎらせた。
 トオルと蓮は黙したまま、眼前で一人の人間がその姿を変え、羽搏き始める光景に心奪われていた。
「こういうのを、奇跡って言うのかな」
 トオルがぽつりと呟いたのへ、蓮が苦笑で応えた。
「随分と人騒がせな奇跡だな」
 そんな中、カメラマン武田隆之はまだみあおの見せた変化に動揺し乍ら、それでもアウェルヌス探索の目的を達するべく、編集部室の中を巡り、シャッターを切り始めていた。
 みあおが飛び、隆之が写真撮影をしているその間、セレスティは三下の傍らでただ静かに呼吸していた。彼の息遣いに合わせて、穏やかな波が打ち寄せまた退いてゆくような、絶えることのない悠久のリズムが場を包み込む。眼を瞑ると、まるで水中、もしくは小舟の上に身を置いているような錯覚に囚われる。心地よい揺らぎが体に沁み入り、凝り固まった不安や恐怖をも融かしてくれる。
 三下は、セレスティから通ってくる雰囲気に心を許し、つい自分から、
「あ、あのぅ」
 と話しかけた。相変わらず体の動きは封じられたままで、振り返ることもできない。無論、振り返ったところで、眼鏡をシンに奪われている今、セレスティの顔をはっきり認識することもできないのだったが。
「そのぉ、今日はいきなり、こんなことでお越し願いまして、ご迷惑を」
「……いえ、こちらとしましても仕事としてお受けした一件ですから」
 セレスティは静逸な声音を鳴らせた。
「それにしても……、こういうことは、今回が初めてなのですか?」
「え……、こういうこと、と言うと、その、幽霊が出る……ことですか」
「ええ。もしこの部屋に冥界への入口があるのなら、シンの他にも霊魂が集って不思議はないのですが」
「そ、そうですねぇ、僕としては、た、大変に困りますが、確かにそういうことも考えられますよねぇえ」
「それで、実際にどうなのです?」
「は、はぃ、記憶にある限りでは……、ま、まあいろいろありましたけど、今回みたいにアウェルヌスがどうのと言い寄ってきた霊はいませんでした」
「そうですか。ならば、アウェルヌスを察知できる霊が少ないのか……それとも、アウェルヌスは一時的に開いたその時を捉えない限り、存在しないも同然のものなのか……」
 セレスティは自分に言い聞かせるように小声で言葉を紡ぎ、三下の頭を止まり木代わりにしているみあおに表情を和ませた。


□ アウェルヌス開闢


「やっぱ、三下だよっ」
「ああ、この机のあたりだな。何か波紋みたいなのが写ってやがる」
「……渇水の匂いを感じますね」
 いつもの少女の象に還ったみあおが三下を肘でつつき、編集部のパソコンを借りて画面上に大きく写真画像を表示させた隆之が同意し、最后にセレスティが感じたままを告げた。
「そ、そんなあぁあ」
 三下は情けない声を上げ、両眼を屡叩かせた。
 後方で、麗香がふうと歎息した。
「三下くんの机ね。……あの机、前使ってた人はイタリアに取材旅行中一時期行方不明になったことがあるし、更にその前に使ってた人は、水難事故に遭ってるのよね、確か」
「へ、編集長ぅ、そんな曰く付きの物品を僕にまわさないでくださいよおおぉ」
「仕方ないでしょ、他になかったんだから」
 編集部内の物品使い回しの実態が明らかになったところで、「おい、ちょっと」と隆之がパソコン画面をみつめ乍ら皆を手招いた。
 蓮とトオルが、すかさずひょいと左右から画面を覗き込んだ。
「これな、ちょうど三下の机の真上の天井を撮ったんだが」
 隆之が、画面を指さして言った。
「ああ、あの星形の染みが写って……」
 言い止して、蓮は口を噤んだ。
「写って……ないみたいだね」
 トオルが、はは、と困ったように笑った。
「おい。おまえのカメラは心霊写真を撮るのが得意だとは聞いたが、そこに在るものを撮れない欠陥品だとは聞いてない」
 蓮に言われて、隆之は「うーん」と頸を捻った。
「欠陥品まで言うこたァねえだろ。けど……、何だ、在るのに写らないってのは……説明つかねえなあ」
『なんだ、そんなこと』
 突然、シンが笑い出した。
『眼で視えるものなんて世界のほんの一部で、しかも視えている世界が正しいとも限らないんだから、気にすることはないよ』
 さっき、この「サンシタくん」にも教えてあげたことなんだけどね――――と言い、シンは三下の黒縁眼鏡に入った罅を指でなぞった。皆が揃いも揃って三下忠雄を「サンシタ」と呼び付けるせいで、シンの脳裡にもそのように刷り込まれてしまったようだった。今更、「ミノシタです」と訂正したところで定着するかどうか。
「なかなか穿ったことを言う少年ですね、君は」
 セレスティは僅かに昂揚した声で言った。
「確かに、人が視ている世界が総て正しいのかどうかなど、分かりません。寧ろカメラのような無機物を介して得られる光景の方が、公正かもしれませんよ。それに、視えているものを写せないのも、心霊写真のうちでしょう。天井の染みそれ自体が心霊現象なのだとしたら、どうです」
「どうですって……、その場合、この世を忠実に捉えたのは武田さんのカメラの方で、俺達が見てる染みのある天井は」
「あの世だか冥界だか、そっちの世界が介入してきた結果生まれた光景だな」
 トオルに続いて蓮が、天井を仰いで呟いた。
 みあおは、ムム、とこめかみに指を当て、話が分からなくなってきたことに少々苛立っていた。トオルはそんなみあおをあやすように頭を撫で、ややこしくなってきた話を分かり易い方へ引き戻した。
「そうは言っても、あの染み、上の階の水漏れが原因としか思えない感じなんですけどね。自分の眼を信用するなら」
「あ、ええ、確かに水漏れのせいでできた染みですよ」
 三下があっさりと結論を述べてみせた。
「は?」
 トオルと蓮、そして隆之が一様に顔を顰めて訊き返した。上階の水漏れが原因でできた染みが、どうして心霊現象になるのだ。
「……皆さん、単純に過ぎますよ」
 セレスティがやれやれと溜息を吐いた。
「染みの原因など、何でも構わないのです。要は、ここに漏れ落ちてきた水に反応した何かが、ある境界を踏み越え、この世ならぬ状況を創り出したわけですから。染みの象そのものは水漏れのそれでも、その象を保っているのは冥界の霊力だということでしょう」
 セレスティが言い終わってから約十五秒後。蓮が「つまり」と頭の中で噛み砕いたセレスティの説明を、自分なりの表現に置き換えた。
「水が問題だということに変わりないんだろう。水のせいで、この場処に霊力を喚起するはめになった。水が、冥界への扉を開く。逆を言えば、水がなければ扉は閉じたままだ。霊的干渉もない。だから、アウェルヌスの気配は驚くほど弱い」
「水、ね。成る程。悪いんだけど、誰か、水を持って来てくれないかな」
 トオルが言うと、麗香と一緒に事の成り行きを黙って見ていた女性編集部員数名が、急にぱあっと顔を輝かせて給湯室へ走った。
「あ? 水? ああ、水なら、ここにもあるぞ」
 セレスティの発する言葉に半ば幻惑されていた隆之が、ハッと我に返ったようにバッグの中を探り始め、ミネラルウォーターを取り出した。彼が編集部へ来る途中にコンビニエンスストアで買ったばかりの一本で、パッケージに《 富士山の朝露 》とある。それを、ほれ、と蓮に手渡した。
「用意周到で助かる」
 蓮は受け取った《 富士山の朝露 》を、みあおの頬に付けた。ひやりとした感触に、みあおが思わず小さく跳び上がった。
「わわっ! 香坂っ、何するの!」
「大人しく話を聞いているのに疲れた頃だろう。この水、ぶちまけていいぞ」
「ぶちまける? って、どこに?」
 みあおがミネラルウォーターを受け取り乍ら訊くと、蓮はすっと三下を指さした。
「……三下?」
「主に、机の上にな」
『机? そう、じゃあ僕は少し退いてるね』
 シンはそう言ってふっと身を消し、しかし次の瞬間にはもう窓辺に佇んでいた。
「おーしっ、じゃあ、いくよっ!」
 みあおはボトルの蓋を開け、中の水を勢いよく三下の机めがけて放り出した。
「うわあ!」
 未だ体を動かすこと叶わず水を避けられなかった三下は、机と伴に見事に濡れ、机上に置きっぱなしになっていた彼の原稿もまたしっかり水を被った。が、三下がそれを嘆く間もなく、怪異な気配が唐突に擡頭し、その場にいる者の言葉を奪った。円板形の渦巻銀河に肖た形状の、緩やかな渦模様が机上に揺れている。
『あ……!』
 一人、眼を輝かせたのはシンだった。
 シンは、三下の処まで戻ってくると、
『アウェルヌス!』
 そう、叫んだ。


□ 「開けたら閉める」は躾の基本


「シン、行くならできるだけ早くお願いできるかな。何だか、妙な霊気がここへ向かって集まって来てるような気がするんだ」
 トオルが窓外へ視線を向けて言った。
『そうだね、アウェルヌスが開いたから、入口がここに在るって、他のみんなにも分かっちゃったんだね』
 シンは笑い、それから、蓮、みあお、トオル、隆之、セレスティ、そして三下を順にみつめた。
『ありがとう、アウェルヌスをみつけてくれて。僕、もう、行くね』
「それはいいが、おまえが行った後、この入口、どうやって閉じたらいいんだ?」
 蓮が訊いた。
『ここ、閉じるの?』
「当たり前だ。毎日見知らぬ霊にこんな処を出たり入ったりされるのは困る。……いや、俺はそう困らないが、三下が泣くことになる」
 すでに三下は半泣き状態だった。
『そう。まあ、君達に友好的な霊ばかりとも限らないしね、やっぱり閉じておいた方がいいのかな。どうしても通りたいって霊は、僕みたいに姿を現して話しかけるだろうし』
「そ……それはそれで嬉しくないんですけどおぉ」
『そんな声出さないでよ。いいじゃない、中には素敵な出逢いもあるかもしれないよ』
 シンは三下の頬を指先で抓んでびよんと左右に引っ張り、
『君の眼鏡、今日の記念に、僕に頂戴』
 一方的に告げて、じゃあね、と渦の中へ滑り降りていった。
「おっ、おい、シン! だから、この入口の閉じ方を……!」
 慌てて声を荒げた隆之の手に、渦中から飛んで来たものがあった。
「な、何だあ?」
 見ると、それは――――。


□ アウェルヌスの鍵


 シンが自分の在るべき場処へ去り、アウェルヌスを無事閉じた後、五人は麗香から「支払金額は、月刊アトラスの次号売上次第」と言われ、今回の件の報酬は一ヶ月ほど待たされることとなった。
 セレスティは、編集部を後にしようとして、三下に呼び止められた。
「あ、あの、セレスティさん。これ……あなたが持っていてくれませんか」
 三下は気弱そうに言い、シンがアウェルヌスの向こう側から投げて寄越したものを差し出した。
 セレスティの掌にちょうど収まる大きさのボトルに入った、銀の水。
 この水をアウェルヌスに一滴落とした瞬間、開いていた入口は一気に消滅した。
「これは……霊界の水なのでしょうか」
 セレスティは呟き、ボトルを揺らした。
 霊界の、銀の水。
 アウェルヌスを閉ざす、鍵。
 この世の水によって開き、あの世の水によって閉じる、アウェルヌス。
 あの入口が再び開く日は、いつだろうか。
 水をみつめて物思いに耽っていたセレスティの車椅子が、突然ぐんっと前に押し出された。さすがに驚いて顔を上げたセレスティの耳に、みあおの声が触れた。
「ねっ、セレス、また、階段降りるの、手伝ってあげるからね!」
「……おまえは何もしてないだろう。それに、車椅子を動かす時は、前もって声くらいかけろ」
 蓮の疲れた口調に、セレスティは急に声を上げて笑い出したい気分になった。
 そう、こういう賑やかな交流も、悪くはない。
 静かに揺蕩う水も、時に勢いよく流れ出すことが必要だ。
「よろしく、お願いします」
 セレスティは柔らかに微笑んで、銀の水をそっと胸に仕舞った。


アウェルヌスを探して / 了


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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+ PC名 [整理番号|性別|年齢|職業]

+ 香坂・蓮
 [1532|男|24歳|ヴァイオリニスト(兼、便利屋)]
+ 海原・みあお
 [1415|女|13歳|小学生]
+ 武田・隆之
 [1466|男|35歳|カメラマン]
+ セレスティ・カーニンガム
 [1883|男|725歳|財閥総帥・占い師・水霊使い]
+ 佐和・トオル
 [1781|男|28歳|ホスト]

※ 上記、受注順に掲載いたしました。

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■         ライター通信          ■
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こんにちは、杳野です。
アウェルヌス探索、お疲れ様でした。
その上、報酬がまだで申し訳ありません。後日お受け取りくださいね。
安すぎる! 納得いかん! という苦情は……碇編集長まで。
ノベル内容としましては、基本的なストーリー展開は同じですが、それぞれの視点で書き分けてありますので、よろしければ併せてお愉しみください。
今回、偶然にも蓮さんとトオルさんが教会に縁深い方で、それにみなさんのプレイングも一定の方向性を持っていて、とても愉しくノベライズさせていただきました。
またの機会がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

――セレスティ・カーニンガムさま。
はじめまして。今回は、ご参加ありがとうございました。
とても神秘的な出自をお持ちの方で、その雰囲気を壊さぬようにと思いつつ描写させていただきました。
占いをしていただく機会がなく残念でしたが、またご一緒できることがありましたら、今作では表面化しなかったセレスティさんの一面が見られるといいな、と思います。