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<東京怪談ノベル(シングル)>


疵痕


 大禍によって抉られ膿んだ傷を随所に残しながら、いまだ癒えないその上に、ヒトは町を築き、日常を紡いでいる。
 移ろい流れる時の中、数多の業を刃へ刻み、その身に魂魄を孕みながら、いつしか自分はかりそめの瞳を以って、この国を眺め始めていた。



「避けろ!!」
 関乃孫六の声が、古い倉庫内に鋭く響く。
 60を目前に控えたその容姿から放たれたとは思えない指示に、模造品の銃や刃物類を手にして大立ち回りを披露していた男たちが一斉にその場から散った。
 刹那。盛大な破壊音を伴って、撮影用の照明器具が人と人の間へと倒れこんでくる。
 部品が飛び散り、砕けたガラスが陽の中で舞う。
「またか」
 それが事故なのか故意なのかを見極めるように、孫六は目を細めて、頭上を振り仰ぐ。
 これで何度目の中断となるのだろうか。
 自分が指導する殺陣のシーンは、本来ならばもうじきクランプ・アップの予定であった。
 だが、度重なる『些細な事故』がその予定を狂わせ、結果として、撮影スケジュール全体が圧迫され始めている。
「さっさと片付けろ!ちゃんと確認してんのか、馬鹿野郎!!」
 監督の怒声に煽られ、機材の片付けと再設置に奔走するスタッフを横目に、若い役者たちがひそひそと立ち話をしている声が耳に入ってきた。
 彼らは皆、黒を基調としたスーツを衣装とし、そのメイクはどれも精悍な顔つきを際立たせるものばかりである。
 だが、その話ぶりはゴシップ好きな普通の青年と大差ない。
「やっぱ、ここって出るんじゃないですかね?」
 一人が不安そうに眉をひそめる。
「この間はテープが回らなくて、その前は画像が乱れすぎて使い物にならなくて……止めとばかりに、今度は照明が倒れこんできやがった」
「美術さん、監督にどやされてかなりピリピリ来てるって話だ」
「ここでだけ起こるってのが怪しいんだよな」
 今はまだ幸い怪我人は一人も出ていない。だが、ここでの撮りを続けていけば、いずれ惨事を引き起こすかもしれないという不安を駆り立てる。
 現場には不穏な空気が流れ始めていた。
 『事故』は次第にその危険度を増している。
 今回、映画のイメージとして絶好のローションだとされた倉庫は、あちこちに焼け落ちた跡が残り、崩れかけた建物を構築する鉄筋コンクリートが剥き出しとなっている。
 今は撮影用のシートや機材の下敷きとなって隠れているが、壁や床にはべっとりと黒い汚れが染み付いている。
 ソレが何を意味するのか、ここにいる者たちは知らないのかもしれない。
 この国に起きた悲劇は、既に、彼らにとっては歴史の教科書の中に羅列されるだけの色褪せたものでしかないのだろう。現実感を伴って感じることは出来ないのかもしれない。
 孫六は何も言わず、この建物に刻まれた疵を辿る。
 ここには黒い想念が渦巻いている。
「ロクさん、すまん」
 台本を片手に、渋面の監督が大股で孫六に向かってくる。
「ここでの殺陣撮り、後回しにさせてくんねえかな……?」
「ん?ああ、仕方ねえだろうなぁ。なに、アンタが詫びることじゃない」
 そう、このスケジュールの狂いは彼のせいではないのだ。もちろん、彼が抱える助監督や照明技師、美術などもろもろのスタッフによる不手際でもない。
 しいて言うのならこの場所をロケ地と決めた判断そのものに問題があった。ただそれだけである。
「押してるんだろ?だったら、出来るとこからとっとと終わらせちまった方がいい」
 映画は総合芸術だという。
 今目の前に集うのは、自分には到底理解することは出来ない数多の機械を操る者たち。
 『映画』という愛すべき芸術を生み出す彼らの技は、孫六を惹き付けてやまない。
ならば、と思う。
 ならば自分が、彼らの持ち得ない力で仕事を遂行すればいい。
「大丈夫だ。アンタが外で『帝王』にOKを出す頃にはここも落ち着くだろう」
 何が落ち着くのか、何故落ち着くのか、何を知っているのか。
 孫六に対する疑問が監督の中で頭をもたげるより先に、スタッフ達の
「おらぁ!お前ら、とっとと機材を運びやがれ!外撮り行くぞ!!」
 監督の怒声が再び響き渡り、助監督が走り回り、役者たちが倉庫外へと案内される。

 そして、殺陣師として招かれ、今その仕事が中断した孫六だけがここに残る。
 扉は閉ざしても、吹き抜けの天井から外の音が遠く聞こえる。
 
「………そろそろ姿を見せてくれんか?」
 何もない空間へ、当たり前のように話しかける。
 声だけが不自然に宙に浮く。
「あんたたちだろ?何故、邪魔をする?」
 再度投げかけられた声に引き摺られるようにして、ゆうらりと、痩せこけた女が幼子の手を引き、不定形に揺らぎながらも孫六の前に姿を現す。
 彼女が身に纏うのは、現代日本では資料としてしか存在しない、防空頭巾ともんぺ。
 布地とも皮膚ともつかないぼろぼろの朽ちた姿は、右の足を膝から失い、血と泥にまみれて赤黒い。

――――モウヤメテクダサイ コロシアイハヤメテクダサイ

 暗く落ち窪んだ瞳が、濃い翳を落として揺らめく。
 孫六の身に刻まれた記憶の中で、空襲を告げるサイレンが耳鳴りのように呻きだす。
 イタイクルシイイタイと、幼子は母の腕に縋って繰り返す。
 この場所に刻まれた、悲しい記憶の傷痕。
「俺達がやっているのは戦争ではない。本物の殺し合いでもない」
 全てはスクリーンに映し出されるためのもの。
 偽りだけを描き続け、それを以って人の心に訴えかける、事実の記録ですらない映像。

――――ナゼ コロシアワナケレバ ナラナイノデスカ

 日々の生活を護り、子供を育て、ただ平穏でありたいと願うことは罪だという。
 男は国のためにうそぶいて、武器を手にして戦地へ向かう。
 あの悲劇には一体どんな意味があったのか、女の身では分かりようはずもない。
 大義名分を振りかざす男達。
 意識が、『個人』から『集団』に切り替わるその悲劇を、孫六は確かに知っている。
「ここに在るのは殺し合いじゃない。ここではもう死も戦いも生々しさを失っている。全ては架空の出来事だ」
 説得なのか慰めなのか、届かない言葉を孫六は懸命に紡いでいく。
 迷いなのかもしれなかった。
「フィルムの中に焼き込まれる、ただの虚構でしかない」
 だが、紡がれた言葉のひとかけも、彼女とその幼子には届かない。
 コワイイタイユルセナイヤメテと、想いは周囲に溢れていく。
 それは忘却の蓋を抉じ開けて、その下で膿んだ傷の記憶を孫六の中へと流しこむ。

 
 1945年のあの夏の日。一瞬にして死の山が築かれたこの場所。
 燃え盛る炎。空気を震わす轟音。サイレンと爆撃音が、頭上から雪崩れ込んでくるコンクリートの残骸とともに降り注ぐ。
 土塊と瓦礫に挟まれて、悲鳴が幾重にも重なり合い、子供の泣き声がそれを覆う。
 防空壕には遠い。足は潰れてもう逃げられない。
『敵が来る』『すぐそこまで迫っているぞ』
『お国のためだ』
『捕虜になる辱めを受けるくらいならいっそ』『いっそ』『いっそ―――ッッ』
 振り上げられた刃。ともに暮らし、ともに支えあい、生き延びるために武器を手にしたはずの者が、保護する立場から殺戮者へとその身を変じて襲い掛かる。
 悲鳴や怒声、銃撃の爆音で埋め尽くされた暗黒の世界。


――――ドウシテ ユルシテクレナイノ アノヒトヲマチタカッタノニ コノコトイキテイタカッタノニ

 時に『ヒト』は、刻みつけられた恐怖の傷痕をもって、刃物の一瞬の閃きから死を励起する。
 花火の音が空爆を思い起こさせて苦しいのだと、嘆くものが今もいるように。

―――――モウヤメテ モウヤメテ モウミタクナイノ

 あの夏、この国はむせ返るような死臭とともに、悲劇がそこかしこに溢れ、増殖していた。
 カナシイクルシイモウヤメテと、悲痛な叫びは渦を巻く。
 傷痕に悶え苦しむ訴えが、凶器となって孫六を斬りつける。

――――モウコロシアワナイデ モウミタクナイ コレイジョウ ミセナイデ

「言い分は分かる。だが、それではこちらが立ち行かない。俺達は殺し合いを繰り返そうというわけではない」
 移ろいゆく時の中で、孫六は確かにそれを目の当たりにしてきた。
 戦国の世にあって、剣を振るい、馬を駆って主君のためと命を賭した男達は、時代の流れとともに、銃を持ち、戦闘機に乗り込んでお国のためにと戦場に向かう。
 ある時は修羅の道を突き進む男の手の中で、またある時はガラスケースの向こう側から、自分は時代とともに見つめてきた。
 だからこそ思う。
 彼女の厭う『死』の有様を、この場所で繰り返すのはこちらの勝手に過ぎるのかもしれないと。
「俺達はただ、ここで映画を作りたいんだ」
 それでも、愛してやまないこの世界のために、言葉を重ねる。
「怒りを鎮めてはくれぬか?」
 赤の色彩が、身悶える親子を見据える。
 彼女の嘆きは確かに届く。
 だが、孫六の訴えはけして彼女に届かない。
 イタイクルシイカナシイヤメテと、渦巻いた力が吹き荒れる。
「このまま冥府の眠りについてくれないか?」
 年月はモノを変容させる。魂魄を孕めば孕むほど、有象無象の想いが器に凝集していく。
 だが所詮モノはモノ。
 身を切ればただ鉄の粉が舞い、ヒトがヒトとして許されたあらゆる現象をこの身は為さないのだ。
 剣として生まれた本分は、剣として主に振るわれること。
 刃によって引き裂かれ、ヒトであるが故にヒトではないものへと変容してしまった彼女とは、永久に相容れぬ存在なのかもしれない。
 この身が真実ヒトであったなら、僅かなりとも互いに歩み寄れたのだろうか。

――――ミタクナイ ミタクナイ モウナニモミタクナイ イタイ クルシイ ヤメテヤメテヤメテヤメテ

 怒りと嘆き、そして争いに対する全ての拒絶が、排斥の力を持って膨れ上がっていく。
 辺りに漂う黒い想念の断片が、彼女に引き摺られ、取り込まれて、牙を剥く。
 彼女達の想いが暴走していく。
 建物全体を揺るがす、強い波動。
「…………どうしても、怒りを鎮め、冥府に還ることが出来ぬのならば……」
 自身に残された道はただひとつ。
「我が身を以って斬るまでだ」
 身悶え泣く声に被せて、孫六の姿が一振りの日本刀へと変わる。
 名刀と誉れの高い反った刃は三本杉の刃文を描き、濡れた光と妖の気を纏う。
「…………赦せ」
 空間に刹那の間、鋭い太刀によって創が生まれる。
 孫六兼元の一閃が、力を持って膨れ上がる闇の塊を両断した。
 消え行くものの慟哭が辺りを震わす。
 薙ぎ払われた彼女らの首がごろりと地へ転がり、そうして砕けた魂魄を、刀は自身の内へと喰らい取り込む。
 彼女達にとって、戦争は未だ終わらない現実の時間。
 忘却の蓋をし、抉られた傷を覆い隠しても、その下では今も苦しみもがく声が深淵に満ちてこびりついている。
 だが、誰も、あの倉庫で起こった怪異を本当の意味で知ろうとするものはいなかった。
 孫六がその目に焼き付け、その身に刻み、数多の咎とともに過ごしてきた全ての時間が、時代という流れの中で風化していく。
「…………」
 刀からヒトへとその身を戻し、そうして孫六は、外の世界にあふれる音が自身の中に届くまで、この身を置く『現実』が確かな質感を伴って戻ってくるまで、目を閉じて、静かに待ち続ける。
 ヒトの形を模して動く器に宿る魂とそこの刻まれた数多の記憶が刹那の感傷を与えるけれど、この身が鋼で構成された『物』である以上、全てはかりそめ。
 疵痕が痛むと感じる、それも全て、フィルムに焼け付ける演技よりも虚構を含む、偽りの生命が見せるまやかしなのだ――――


 絶望と怨嗟の断末魔がしばしの間自身の内側で悶えるのを感じながら、孫六は無言のままそこに佇む。




END