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殺虫衝動『孵化』
■序■
三下ほどひどい仕打ちを受けているわけでもないが――
彼は頭痛持ちではなかった。医者によれば、ストレスによるものらしい。
月刊アトラス編集部所属、御国将40歳は最近しつこい頭痛に悩まされている。忘れられるのは寝ているとき、趣味で帆船模型を組み立てているとき、好物の寿司を食っているときだけだ。
いや、もしかすると、毎日のように瀬名雫の運営するBBS群の書き込みをチェックしているせいかもしれない。これは別に将の趣味ではない。雫のBBSの書き込みをまとめるのが、将の担当している仕事だった。
この担当を外してもらえたら、頭痛の原因がストレスなのかはたまた電磁波によるものなのかはっきりするところだろう。
しかし――
「ひぃぃぃいいッ! わわ、わかりましたぁああッ!」
……麗香に早退届を出そうとした三下は、どうやら今日中の取材を命じられたようだ。
そんな様子を目の当たりにしてしまっては……。
将は溜息をついてディスプレイに目を戻した。
カサ。
――モニタ画面を、うじゃうじゃと脚を持ったムカデのような蟲が横切った――ように見えた。
……ムシを、見た。
その書き込みを、将はBBSで何度も目にしていた。
まさか自分がその書き込みをすることになろうとは。
■ダイイング・メッセージ【Ver.2】■
藤井百合枝、彼女に嘘をつける人間はいない。
『炎』が見えるこの能力を自分に与えたもうた神に、彼女はちっとも感謝などしていなかった。しかし「いちどは騙されてみたい」と願うのは贅沢なことなのだと、自分に言い聞かせもしている。彼女は幼少時の苦い記憶を踏まえ、自分の能力については一切他言しないことにしていた。
だから、今の仕事は気に入っている。プロバイダのサポートセンターで、パソコンを前にしインカムをつけて、電話線の向こうの迷える仔羊を救うのだ。相手と顔を会わせずにすむ。それに身についていく知識は、これからの社会で役立つものばかりだ。……ポール・シフトやら隕石衝突といった天変地異や、機械の叛乱といった事故が起きない限りは。百合枝には、幸いにも(と、彼女は思う)未来を見る力はない。
「お電話有り難うございます。ジェイドネットサポートセンター藤井です」
『あ。すいません、何か今朝から調子……』
「……?」
『……』
「もしもし?」
『…………すいません、足元にムシが居たもんで。あの、今朝から接続が切れるんですけど――』
それでも、日に何十件とかかってくる電話の中で、それだけはその日が終わるまで鮮明に覚えていたのだ。
何故なのかはわからなかった。
だが、仕事を終えた後にネットをそぞろ歩き、自分がそれを覚えていたことを気味悪く思った。
――ま、きっと、皆私の力を知ったら、こんな風に思うんだろうね。
気味が、悪い。
自分には未来を知る力などないはずだ。
ただの勘だったのだ。ただの偶然だ。
そうだと言って、笑い飛ばしてくれ。
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804: :03/04/11 01:23
おいおまえら、漏れムシを見たましたよ。
805:匿名:03/04/11 01:26
おちけつ。日本語が崩壊してるぞ。
どこで見たって?
806:匿名:03/04/11 01:30
どうした?
807:匿名:03/04/11 01:38
おーい
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203:ウラガ:03/4/12 21:32
ムシを、見た。
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13: :03/4/13 9:16
ムシ見た
14: :03/4/13 9:18
マジで
15:匿名:03/4/13 9:20
詳細キボンヌ
16: :03/4/13 10:01
13来ないな。ムシにあぼーんされたか。
17:匿名:03/4/13 10:05
>>16
冗談にゃきついぞ
やめれ
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ブックマークに入れていた、『ゴーストネットOFF』の匿名掲示板群だった。いつブックマークに加えたのかも覚えていない。それほど頻繁に覗いているところでもなかった。『偶然』、彼女はこの日にこの掲示板を見たのだ。
百合枝は癖で、ソースを開き、書きこみ元のホストを確認してしまった。
自分が務めるプロバイダのホストが見当たらないことにはほっとしたが、ムシを見たという書きこみをした人物、そして「ウラガ」なる人物のホストは書き留めておいた。
それらのホストのうちふたつに心当たりがあり、百合枝はぞっとした。
ひとつは――ある大学からのものだ。
それも、彼女の妹が通う大学からのものだ。
――何をビクついてるんだよ、自分。あの大学には2000人近く生徒がいるじゃないか。あいつが書きこんだなんて決めつけるんじゃないよ。
心を落ち着けて、もうひとつ。「ウラガ」のホストだ。
――……まあ、あそこなら、関わっててもおかしくはないね。
月刊アトラス編集部。
背後で聞こえる、かさこそという音は、現実のものか。
このときばかりは、その音の主がただのゴキブリであることを願っていた。
■アトラスの魔【Ver.2】■
その日は幸いにも5時間勤務で終わっていたのだが、百合枝は悠々自適に午後を過ごすという計画を捨て、『重い』竹刀ケースを掴んで自宅を飛び出した。目指すは白王社ビル、月刊アトラス編集部。この不景気の中、発行部数を伸ばし続けている雑誌の編集部だ。きっとこの時間になっても慌しい。会いたい記者はいなくとも、『誰か』はいるはずだ。
百合枝はそう考えていたのだが、現実は意外にも甘かった。
夜の月刊アトラス編集部の様子は、昼間と対して変わらなかったのだ。電話の呼び出し音は景気よく鳴り響いているし、記者はほとんど全員揃っているようだった。
――ここの人たちは、ここが家なのかい?
百合枝は不安にも似た疑問を抱いたあと(若干呆れもしていたが)、編集長のデスクに駆け寄った。
「……貴方によく似た若い子が同じことを訊いてきたわね」
「え?」
碇麗香の言葉を聞いて、百合枝はぎくりとした。その心のうちを麗香には――探られてはいないようだ。百合枝にはわかる。
「黒い髪に、翠色の目の子。てきぱきしてて、記者にほしくなったわ。……その書きこみをした記者は、多分御国くん。今日は初めての無断欠勤よ。昨日は家にも帰らなかったみたい」
麗香は嘘をついていない。しかしよくもまあ、悪い事実が重なるものだ。
「貴方に似た子、御国くんを探してくれてるわ。彼女は彼女で、探してる人がいるようなの。見つかるといいんだけど。……御国くんの記事、わりと好評だから」
百合枝は心中で溜息をつく。……この『アイアン・メイデン』も、少しくらい本音を曝け出してもいいのではないかと思ったからだ。麗香は人並みに御国将という記者の身を案じている。最後のつけたしは照れ隠しのようなもの。
「私も手伝うよ」
「あら、嬉しいわね。でも……どうして?」
「さあ……不安なんじゃないかな」
麗香が首を傾げるのを見ないように、百合枝は誰も座っていないデスクに顔を向けた。御国将のデスクだ。
「彼のパソコン、見てもいい?」
「どうぞ。私が許可していいものかどうかわからないけど」
百合枝は礼を言うと、将のデスクに近づいた。
人の心の『炎』というものは、酸素を喰う炎よりも、ずっと儚く強いものだ。風と水と土ごときでは消えないが、人間の息吹によっていとも容易く揺らめき――消えることさえある。
それでも、その炎が燃えた痕跡は、けして消えることはない。人間がこの世にある限り、燃え殻でさえくすぶり続ける。心というものは、そんなものだ。百合枝はこの炎が見える力を呪ったことはあれど、炎そのものを憎んだことはなかった。むしろ、神秘と美を感じるときさえあるのだから。
将が使っていたというパソコンは、将の炎に炙られている。とりたてて強くもなく、特別なところなどない炎――だった。
過去形だ。
炎は変化している。
弱く、
そして苛立ちと痛みを帯びたものに。
OSが立ち上がり、壁紙が表示された。
「あ、あのう」
ファイルを抱えた三下が、後ろからおずおずと声をかけてきた。
「御国先輩は港公園にいるんじゃないかって、そういう予想に辿りついたというか、そんな感じなんです」
「ああ……そう」
「いっ? ……ゆ、百合枝さんは、そうは思わないんですか?」
「私はね、もう少し突っ込んだことが知りたかったのさ。それはいい情報だよ。これからちゃんと行くから安心しな」
「は、はあ。でも僕、他には何にも知りませんけど……」
「あんたじゃなくて、『御国さん』に聞いてるんだよ」
「え、えッ?!」
口をぱくぱくさせる三下に、百合枝はにいっと笑いかけてやるだけだった。
■『ひとり』■
潮の匂いが鼻をくすぐる。
だが東京の潮の匂いは、くすんでいた。
公園の一角は警察のテープで封印が施されていた。港前公園は広く、遊歩道や広場はすでに解放されているようだ。
三下の話では、今朝方このテープの内側で男の死体が見つかったということだ。
無論、茂みと道の一角に張り巡らされたテープには何の法力も加護もありはしない。ただの黄色のテープだ。だがこれは一般人にとって、封印以外のなにものでもない。ある意味、術なのかもしれない。
百合枝はその術を払いのけ、テープの内側を覗きこむ。死体があった場所にはまだマーキングが残っており、地面は血を吸っていた。
かさこそと、誰かがささやいてきているような気がする。
いや、これは――炎の燃え殻だ。
たすけてくれ、
ムシだ、
ムシが、
あんな大きい……
たすけて……
百合枝はものも言わずに、竹刀ケースから得物を取り出した。
骨董品屋で掴まされた霊刀だ。怪しげな主人ではあったが、彼は嘘をついていなかった。この刀は間違いなく『霊刀』なのだ。
「!」
耳のそばを蝿が通ったはずはない。
気配を感じなかった。
だが、この翅音は?
「……!」
こういうことだ。
有り得ない大きさの蝿が頭上を飛んでいる。悪臭こそないものの、何かちりちりと埃が焦げているような匂いがあった。
しかもその蝿の巨大な目の色は、赤から青へ、青から赤へと慌しい変貌を続けていた。蝿のわらわらと蠢く脚は、ぐしゃぐしゃと頭部を掻き毟っている。
ああ
頭痛いアタマいたい頭痛い頭痛い腹立つ嫌だもう嫌だ頭いたい誰か頭痛い嫌だ嫌だこんな頭痛いこんなもの書きたくないこんな頭痛いムシだ頭いたい首痛い頭痛い腕痛い頭痛い嫌だこんな嫌だこんな論文頭痛いからだ痛いああああたまいやだおれあたまいたはね翅が頭痛い翅が痛い脚あああ脚痛いいいいいらいらするああああ
蝿の中に見出したのは、黒い炎。
御国将のパソコンに煤をもたらしていた炎に似ている。
巨大な蝿はわなわなと震えながら飛び回っていた。苛立ちを誘う翅の音が、絶えず続いている。百合枝は、顔をしかめて霊刀を抜き放った。
「……その頭痛は、あんたが自分で治さなきゃだめだよ。いや……あんた以外に治せるやつはいないんだ。あんたが悪いわけではないよ。でも……他人じゃ、わからないことだから……」
ひょっとすると、自分でもわかっていないのか。
「あんたは、ストレスを溜めこみすぎだよ。まだ間に合うかもしれないから、何か気晴らしに――」
これは、気休めだ。
黒く染めてしまった布を、元の色に戻すことは出来ない。
百合枝は炎の揺らぎと色を見ることが出来るだけ。何の役にも立てない。こうして紡ぐ言葉が、どれほど役に立つというのか――百合枝は力を嘲笑い、恐れるばかり。
異形の蝿は空中で静止し、ぶるぶると震えていた。百合枝を襲う気配はなかったが、大人しくしようとする気もない。
だが――ほそい月が出て、霊刀の刀身には、清らかな光が満ちた。
ひゃあ、と叫んで――蝿は前脚で大きな目を覆い、不器用に逃げ出した。公園の木々の葉を撒き散らし、枝にぶつかりながら、空の彼方へと飛び去っていった。
不愉快な翅音は止んだ。
溜息をついて、百合枝は霊刀を鞘に収めた。
公園には静寂が戻った……ようだったが、話し声が聞こえてきた。
中年の男と、若い女のものだ。
女のものには聞き覚えがあった。からからに渇いた唇を舐めて、百合枝は(何故なのか自分でもわからずに)息を殺し、その会話の元へと近づいた。
「一緒に考えていこうじゃないか?」
「……そうだな、ひとりで考えるよりは……楽か」
黒と橙の間で揺れる炎。
片方は、よく知っている。22年見守り続けた心の炎。翳りはあるが、変わらない。彼女はまだ大丈夫。
――それに……その色は、自分で治さなきゃだめだよ。
飛び出して頭をひっぱたいてやりたい気持ちを抑えて、百合枝はそっと公園を後にした。
御国将は無事に見つかったという。
後日、百合枝はアトラスで知った。しかも妹の手柄だということだった。
そのとき将は不在だったが、会うべきか否か、未だに迷っている。
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登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【1873/藤井・百合枝/女/25/】
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ライター通信
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モロクっちです。『殺虫衝動・孵化』をお届けします。
百合枝様、妹様ともどものご参加、有り難うございます!
今回はいつものパラレル展開ではなく、妹さんのノベルの側面として書かせていただきました。今のところ、百合枝さんは将との面識がありません。そっと妹とその相方の行方を見守る展開になりそうです。場合によっては、最終回で合流させることも可能ですし、将と連絡を取ることももちろん出来ます。蝿が誰なのかはもうお分かりだろうと思いますが(笑)、蝿を追うという手もありますね。
妹さんのノベルを読み返してみて、恥ずかしいポカをやっていたことが発覚しました。将が消えたのは『昨日』なのですが、麗香が『一昨日からいない』とか言ってます。もう、何とお詫びをしたものか……。こんなライターでよろしければ、今後ともよろしくお願いいたします……。
それでは、この辺で。
またお会いできるととても嬉しいです。
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