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<東京怪談ノベル(シングル)>


桜月夜
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出会いは、十数年前に遡る。記憶を辿っていって蘇るのは、ちらちらと雪のように暗闇に舞う夜桜と、紅葉のような小さな掌。自分が居なくては生きていけないのだと思わせたあの幼子は、今ではすっかり大きくなった。巣立っていく息子を見るのは、誇らしいようでもあり、寂しいようでもある。

長いこと連絡を取り合っていなかった仲間からの通信が、ことの始まりだった。数年前にバルコフがこの星で暮らすことを選択した日以来、彼から連絡があったのはこれが始めてである。
『規格外のものを拾ってしまった』
と、電波ごしの声は弱りきっている。この星で予想外の事態に遭遇した仲間は、初めてバルコフの事を思い出したに違いない。元々、滅多なことでは人に相談をしてこない男だった。「人間」としてこの星に根を下ろしたバルコフ・クロガネは、確かに相談相手にはもってこいである。
「大変…とは?いくら私でも、できることと出来ないことがある。何を拾ったんだ?」
『人の子なんだが、連れて来てみたら、どうも様子が違う』
いくら星に不慣れとはいえ、人の子と動物の子を間違えるほどには、仲間も耄碌していないであろう。相手の歯切れの悪さに、バルコフは眉を寄せた。
「何だというんだ。はっきり言ってくれなくては、いくらなんでもわからんぞ」
通信に、相手が考え込むだけの間が空いた。やがて考え深げに口を開いた仲間は、滅多に発音しなれない単語を口にする。聞き逃して、思わずバルコフは尋ね返した。
「なんだって?」
『だから、妖怪、だ。ただの赤子に見えるのだが、どうも妖怪の気が感じられる』
「妖怪……」
さすがに、唖然とした。
バルコフも地球に住んで長いから、妖怪のなんたるかは、知識として、また人々の認識として、承知している。してはいるが、妖怪の気を持った赤ん坊という話は聞いたことがない。
『人の子ならば対応のしようもあるというものだが、妖怪の子ではどうにもならない。どうにかしてくれないか』
普段はあまり感情を表に出さない仲間の声に、悲壮なものが混じっていた。多くの宇宙人仲間にとって、太陽系のはずれに位置する地球とは、まだまだ未知な部分も多いのである。ただの人ですら未だに全てを把握したわけではないのに、妖怪だ幽霊だなどという話が持ち出されては、お手上げだ。
「しかしな……」
『私はこれから、星を離れなければならないんだ。あやかしの者をつれていくわけにも行かんだろう。……とにかく、恩を売ると思って、ここまで出向いてくれないか』
頼む、と一言言い置いて、通信は一方的に途絶えた。再び交信を試みるが、相手からの応答は得られない。こういう時、互いの意思が必要になる電波通信というものは不便である。
行かなくてもいいのだ、と自分に言い聞かせてバルコフは数十分、椅子に背中を預けていたが、どうも落ち着かない。拾われたのは、赤子だというではないか。
仲間は、すぐにでも星を離れると言っていた。人の子でもないその赤ん坊を、仲間はその場においていったりはするまいか。
季節は、春。段々風も温んできたとはいえ、まだまだ夜になれば空気は冷たい。生命力のない小さな幼子が、夜じゅう放り出されていたら命に関わる。
(楽観視するわけにも、いかぬのだろうな)
そういう意味でも、仲間たちはまだ地球という星のことを知らない。他の動物たちと同じように、元の場所においておけばそれで大丈夫だと、誤解している可能性もあった。
何よりも、このままでは目覚めが悪い。
結局は行くはめになるのだ。そう自分に言い聞かせて、バルコフは椅子を立ち上がった。
仲間が電波を送ってきた場所は、幸いここからそう遠くない……。

□───月下
「来てくれたか」
バルコフの姿を認めるなり、仲間は明らかにほっとした声を出した。無骨な腕に、不器用に白い布の塊を抱いている。
「そろそろ、タイムリミットだったのだ。置いていくのも止むなしと思っていたが」
「男の子、か」
湧き出る泉のように澄んだまなざしをしている。目の大きな、活発そうな赤ん坊だった。そして、確かに普通の人間とは違った空気を纏っている。邪気は感じられないが、やはり妖気と呼ぶべきものが、確かに赤ん坊からは感じられた。
「私はもう、行かなければならん」
まるでラグビーボールを扱うような気軽さで、バルコフの腕の中に柔らかい生き物が押し付けられた。
「おい……!引き取るつもりは」
ない……と続けようとした時には、彼はもうその場から消えかけている。
「そのつもりがないのなら、好きにして構わない」
時間がない、というのは本当だったのだろう。その言葉を残して、仲間は忽然とバルコフの前から姿を掻き消した。ザァッと桜の梢が風に鳴る。示し合わせたように、ひらひらと薄い紅の乗った桜の花びらが飛び交った。
話し声が途絶えると、夜の闇に閉ざされた桜の山は静まり返っている。どこかで渡る風の音だけが、やけに大きく聞こえていた。腕の中の温かなぬくもりを、返そうにも彼はもう、どこにもいない。しばし呆然と、バルコフは桜の林の中に佇んでいた。
もそ、とバルコフの腕の中で柔らかな生き物が動いたので、ようやく彼は我に返る。白い布の中から顔を出した赤ん坊は、恐らくはまだ明瞭とは見えていない視界の中で、バルコフに向かって手を伸ばしていた。
小さな小さな掌に、桜貝のような色の小さな爪もついている。まるで作り物のような手が、バルコフの服の裾を掴んで、力いっぱいに握り締めた。どこにこんな握力があるのかと驚くほどに強くバルコフの服を握った小さな拳は、精一杯に生きることを主張しているかのようだ。
赤ん坊の顔を見下ろすと、バルコフの注意が向いたことが分かるのか、彼は嬉しそうに笑った。親がいないということも、捨てられていたのだということも、未だ知らない無邪気な笑顔である。バルコフに、再び置いていかれるかもしれないのに、明け透けに好意だけを向けてくる。
はじめて、バルコフは腕に抱いた子どもの温もりを実感した。柔らかく、形の覚束ない赤ん坊は、だが確かに暖かい。
こうして誰かを腕に抱いたのは、一体どれくらいぶりだろうか。人の温もりを感じ、腕の中にある小さな命を、護りたいと思ったのは……。
それだけがよすがだというように、バルコフの服の裾を握った赤ん坊を、引き離すことなど出来なかった。
自分でも気づかないうちに、きっと温もりに渇いていたのだろう。共に人生を生きようと誓った伴侶を失ってから、世界はずっと色を失っていた。
だが、今は。
「……私と来るかね?」
何が楽しいのか、足を突っ張って笑っている赤ん坊に話しかける。
雪のように降り注ぐ桜の花びらは、確かにほんのり薄紅がかって見えた。闇の中で、満開の桜の花は、ぼんやりと光を帯びて見える。
ひらひら、ひらひらと無数の花びらは風に舞い、バルコフの足元を踊るようにすり抜けた。
「名前を、つけなくてはいかんな」
冷たい夜風に餅のような赤子の肌が傷つかないように、大切に抱き直して、バルコフは歩き出す。桜の木の隙間から零れる月明かりは、道を覆いつくすほどに散った花びらと、子どもを抱いた一人の男を、白く優しく照らし出していた。

それは、彼にとって、世界が色を変えた日。
舞い散る桜が満開の、春先の夜のことだった。


「桜月夜」