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<東京怪談ノベル(シングル)>


さざなみ


 岐阜橋矢文が、どこから来てどこへ帰るのかを知る者はいない。
 建設現場や工事現場にふらりと現れ、時には飲まず食わずで12時間働き続けることもある。労働基準法のいろはも知らない監督でさえ、しばしば矢文の身体を気遣うほどだ。矢文は言われて初めて休みをとる。
 その矢文が、夏の終わりも近いある日に、ふらりと東京から姿を消した。

 ――えっと、これ、最新号です。お世話になってる人には、たまにタダで渡してるんですよ。……は、はい、たまに。
 とういようなことを眼鏡の記者は言っていた。矢文はまだ書店に並ぶ前の月刊アトラスを手に入れて、ぱらりとページをめくった。アトラスの記事は、彼のような特別調査員の報告によって成り立っているものがほとんどだ。彼は気がついたときにアトラスを確認するようになっていた。気がつかないうちに、見ていないところで、どんな事件が起きていたのか――矢文も気まぐれのように知りたくなるときがある。
 夏の最新号は、さすが怪談の季節といったところか。心霊系の記事が誌面の大半を占めていた。だが、矢文の目にとまったのは、それら空恐ろしい記事ではない。部屋の片隅にそっと座りこんでいるかのような小さな記事だった。
 『納涼榊村夏祭の真実』
 30年前にダムの底へと沈んだ村の、最期の祭。
 数名の調査員が体験したその祭は、人工湖の底からの贈り物。局地的な日照りが奇蹟をもたらしたのだ。
 ――俺は、何を期待してるんだ……。
 矢文は仏頂面でアトラスを閉じた。
 だが、ふと思い返す。
 そう言えば、前にも一度、書店に並ぶ前のアトラスを受け取ったことがある。あれは、何ヶ月前だっただろう。それから今日まで1日たりとも休日をとったことはない。……はずだ。
 ――帰ってみるか。
 何も期待してはいなかった。……はずだ。


 身体がぼろぼろと欠け落ちそうなほど大きい、蝉の大合唱。
 鬱蒼と茂る木々の間から降り注ぐ、夏の熱線。
 しかし、湖は涼しげな顔をしてだまっている。
 矢文がそうしているように、だまってそこに佇んでいるのだ。遥か彼方に霞んで見えるダムが水を堰き止め、この山の中に湖を築き上げていた。
 ――期待なんかしてなかったぞ。本当にしていなかったんだ。
 矢文は湖を望める草むらの中に、どっしりと腰を下ろした。
 彼はここから来て、ここに帰ってくるのだ。
『  村ま  あと1キ  』
『よ こそ    村へ』
 ペンキが剥がれた看板は、大木の傍らや藪の中で眠っている。
 彼はここで、かつてはずっと立っていた。



 なんまいだあ、なんまいだあ、なんまいだあ――
「コリャ、悪ガキども! 地蔵さまに何しよる!」
「けしょうじゃい!」
「よだれかけとりかえとんじゃ!」
「きょーは、じぞーぼんだど」
 なんまいだあ、なんまいだあ、なんまいだあ――
「余計なことせんでいい! 今年化粧させる係はカキヤマさんちのスミコに決まっとるじゃろ! 降りんか! こンの罰当たりが!」
「ひゃあ、おこったどー」
「だれがおりるかくそじじ!」
「落っこって首根っこ折っても知らんぞ!」
 なんまいだあ、なんまいだあ、なんまいだあ――
「あぎゃ!」
「わー! おちた! じっさん、こいつ頭からおちよった!」
「ほうれ、言わんこっちゃアないわ! だいじょぶかあ!」
「いい、いってえよぅ! 頭ぶったよぅ! ぶぇぇええええぇ!」
「……なんじゃ、擦り剥きもしとらんわ。ほうれ、男が泣くな。地蔵さまに礼を言うんじゃ。罰当たりなお前さんを守って下すった。ほんに、いい地蔵さまじゃ……」
 なんまいだあ、なんまいだあ、なんまいだあ――

「おじぞーさま、おにぎりよ。あたしがにぎったのよ」
「やあい、なんだあ、こいつのにぎりめし、三角じゃねぇぞぅ」
「丸でもねえどぅ」
「なにさ、おじぞーさまから落っこちて泣いたくせに!」
「う、うるせー!」
「泣きむし!」
「うるせーよ! こんなヘンテコなにぎりめし、きつねにでも食わしちゃれ!」
「ああぁ! ひどい!」
「泥だんごじゃー、こいつ、泥だんごなんかじぞーさんにおそなえしてらー。やあい、ばちあたり!」
「いっしょうけんめい作ったのに……うぇぇん、ばかぁ!」
「あー、泣いたどー」
「コリャ、悪ガキども、なァに女の子泣かしとるかぁ!」
「うがっ、せんせだ!」
「にげろ!」

 なんまいだあ、なんまいだあ、なんまいだあ――
「地蔵盆も今年で最期じゃのう」
「この地蔵さんは、動かせんのか」
「ちと運ぶには大きいんじゃ……惜しいんじゃがの」
「まあ、でも、ここまでは水も来んだろうて」
 なんまいだあ、なんまいだあ、なんまいだあ――
「地蔵さま、地蔵さま、今までほんに有り難うございました。地蔵さまのおかげで、わしらの村はずうっと平穏無事でした」
「残して行くことをお赦し下され」
「儂らは、散り散りになりますが」
「ふるさとは、地蔵さまの御わすこの『村』です」
 なんまいだあ、なんまいだあ、なんまいだあ――
「わしらのこころが、ここから動くことはありませぬ」
 ごおおおおおぉおおお――



 矢文が目を覚ます頃には、朝方の清々しい風が吹いていた。
「すまんな、肝心の俺が、動いてしまった。……動くはずのない俺が」
 風に揺れる湖面を眺めて、矢文はぼそりと呟いた。蝉もまだ鳴き出す刻ではない。陽射しもまだ目覚めたばかりで大人しい。
 ずっと変わっていないものを感じ取って、矢文はほっとした。
 それは風と野鳥の声だ。
 それしか残っているものがない、というわけではなかったが――彼は、ほっとした。
「べつに飽きたわけではないんだ。ただ、……お前さんたちのいない村を守るのは、嫌気が差すほどつまらなくてな――」
 休日はそろそろ終わりにしよう。自分はさっさと守りたいものを見つけなければならない。人のために働かなければならないのだ。
 ――スミコの化粧は、くすぐったかった。チエの握り飯、美味かった。トシオ、鼻水は拭いてるんだろうな? タロウ、お前さんを振り落としたのは、ジンベエをくそじじいだなんて呼んだからだ。キクヨのおはぎ、絶品だった。
 他にも、もっともっともっと……
 言いたいことは……
 水の底に沈んだ想いには、どれほど呼びかけ続けたらいいのだろう。
 まだ間に合うのならば、榊村に行ってみるのもいい。答えが出るかもしれない――


 湖に背を向け、森に入った矢文の目に、立て看板の姿が飛びこんできた。比較的新しいもののようだが、それは先にペンキの剥げた歓迎板を目にしていたからそう思ったのかもしれない。看板の字体は古臭いものだったし、泥や木の葉で汚れていたのだ。

『 この先で泳がないで下さい 』

 その下にあるかすれたダム管理人の名前を見て、矢文はずっとむっつりとさせていた顔を、不意に綻ばせた。
 よくある名前だ。よくありすぎて、今では逆にいないかもしれない。だが、この管理人が「あの」タロウであるかどうか、今の管理人なのかどうかも定かではない。
 それでもよかった。矢文はようやく、期待してみたい気持ちになったのだ。
「お前さんが俺の頭を撫でたのは、三度どころの話じゃないだろうな」
 彼は自分の頭に手をやって、微笑みながらそう呟いた。
 ――お前さんたちが万が一、湖と俺を忘れてしまっても……
 彼はそっと頭を撫でる。
 ――俺はずっと覚えていよう。次に守りたいものが見つかったとしても。
 だが彼は、そんなことを約束する必要などないのだとも思っていた。
 最期の地蔵盆に聞いた、ずっと忘れることのないあの言の葉のすべては、嘘ではないだろうから。


 小さな幸福が訪れる。
 突風が吹いて、藪の中に転がっていた看板のひとつが、湖を望める開けた岸まで転がった。看板は若いクヌギの木に立て掛かり、掠れた文字が陽光に照らし出された。

『ようこそ、私たちの村へ』



(了)