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温もりのもとで
ずっと抱いていた夢が、今、目の前にある。
あずきを鍋に入れて水を注ぎ、強火にかける。
その後の流れを頭の中で繰り返しながら、ふっと笑う。
私も、やるじゃない。
娘に見つからないようにしながら練習していたかいがあって、もう本を読まなくても、作り方がわかるようになった。
これなら、ダンナさまの期待に答えられるかもしれない。
――十日ほど前、ダンナさまが言ったのだ。
『赤飯を炊けるように』
(最初は、なんで赤飯を炊く練習をするのかわからなかったけど)
とにかく私は毎日赤飯を炊く練習をした。理由はわからなかったけれど、私にとってはどうでもいいこと。ダンナさまの喜んだ顔が見たいだけ。
(必要になればダンナさまの方から理由を教えてくれるだろうし)
事実その通りになった。
――三日後のこと。
私は仕事へ向かうダンナさまを送り出そうと、家事の手を休めて玄関にいた。
珍しいことではない。
ダンナさまが仕事帰りのときも同じで、三つ指ついて――とまではいかなくても、丁寧に迎える。
戦場が家のような日々を送っていたときの自分と違って、私はダンナさまに対して従順だった。
無理に自分を変えようとしているのではなく、今も戦場に出るときの自分の表情に何ら変化は無い。
ダンナさまの腕の中にいると、自然と尽くしたがる自分がいた。尽くせる相手と、微笑みを見せてもいい場所があるということが、私にはたまらなく嬉しかった。
――だからこの日も、いつものように玄関に立った。
と、ダンナさまは一通の手紙を取り出し、私の手に握らせた。
「お母さん、頑張ってね」
そう残して、玄関を出て行く。
――お母さん。
意味は掴めなかったけれど、ダンナさまのことだから、何かあるんだろうな。
(それより、赤飯を作らなくっちゃね)
手紙を持って、台所へ向かう。
私は鍋に視線を落とす。
透明な水が、鍋の中で微かに揺れている。
その微妙な水の揺れに、今日の娘の姿を重ねる。
娘は、戸惑いとひとかけらの恐怖を顔に浮かべていた。
そして――あの姿。
娘は私を見上げていた。
風に揺られる枝よりも小刻みに震え、涙ぐんでいる。
「お母さん……」
と呟いてから娘は自分の足だったモノと私を交互に見、
「あたし、病気にかかっちゃったの?」
と訊ねた。その声も、震えている。
娘が怖がるのも無理はない――娘の身体は、人の影を残さず、完全なまでに人魚の形をしていたのだから。
――私も、内心では驚いていた。が、ダンナさまの言葉を思い出し、納得もしていた。
『お母さん、頑張ってね』
ダンナさまはそう言っていた。
――私の目の前で、震えている娘。
私が受け止めないで、誰が娘を受け止めるんだろう。
一回、息を吐いてから私は首を傾げた。
それから目を細めて、微笑む。穏やかに。
おめでとう、と私は言った。
「あなたも大人になったのねぇ」
娘は目を瞬いている。
「今日はお赤飯にする?」
わざとあやすような口調で、娘をからかう。
――娘は目に涙を浮かべたまま、ちょっとだけ頬を膨らませた。
けれど、不安はまだ残っていたらしい。
私が部屋を出ようとしたとき、娘はそれを口にした。
「どうして、あたしは人魚になったの?」
立ち止まる。
そして振り返る。
娘の目。まだ不安げに揺れている身体。
愛おしく震えている。
心の奥で、感情が乱れる。
どうして娘が人魚になったのか――今の私に断言できることではない。
ただ、流れのようなものは感じている。受け継がれていく、血というもの。
――でも、それが何だって言うんだろう。
(正確な理由なんて大した問題じゃない)
そんなことより――今は娘の不安を拭い去ってやりたかった。
理屈よりも、ぬくもりで。
――私は微笑む。包み込むように。
娘の髪を撫で、呟く。
「これから、ゆっくり話すわね。だから怖がらなくても大丈夫よ」
娘が私を見上げる。
視線が重なったのを合図に、私は娘の髪に手をまわし、抱きしめた。
――娘の鼓動は速い。
肌にふれていると、娘の感情のうねりまでもが伝わってくるようだった。
娘の肌はあたたかく、身体は細い。抱きしめている力を強めれば、消えてしまいそう。
――愛おしい。その思いを噛み締める。
「まだ、怖い?」
娘に問う。
――娘の身体の震えは、まだ止まってはいなかった。
けれど――。
娘は首を左右に振った。
「大丈夫」
瞳はまだ揺れていたが、凛とした、透き通る声だった。
――その後、娘はやってきたもう一人の娘に連れられ、出かけていった。
儀式を受けるためだという。
思った通り、ダンナさまから渡された手紙には、それらの事情が事細かに記されていた。
小さな字が並ぶ、長い文章。
時間を掛けて読み終わり、ひと呼吸する。
色々な事情が絡み、頭の中にはもやがかかっている。
その中で、唯一はっきりしていること。
「母親、か」
呟いてみる。
実感を伴うように、波にのせ――何度も何度も呟いてみる。
――涙が出てきた。
私も母親になったんだ、という喜び。
手紙を手から離し、涙を拭う。
ぬくもりが溢れる。
(さぁ)
嬉しさを飲み込んで、私は立ち上がった。
(今のうちに、赤飯を炊いておかないと)
人を待つということが、こんなに胸を高鳴らせることだなんて、知らなかった。
目の前には、蒸しあがった赤飯。
決して見栄えがいいとは言えないけれど――それでも私が今まで作った料理の中では、かなり良い見た目をしているんだから。
それに、思いだって一杯こもっているんだし。
――これを見たら、娘はどんな表情をするだろう。
(恥ずかしがるかもね)
想像するだけで、待ち遠しい。
赤飯を器に広げながら、一口つまむ。
「あったかいな」
呟いて、噛み締める。
――玄関の扉が開く音がした。
終。
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