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<東京怪談ノベル(シングル)>


comfortable place

 空に青が静かに満ちて行く。
 濃紺の天蓋を西へと追いやりながら、夜の間に冷やされた空気を清める朝日を銀の髪の間から透かし見、翠簾野朝生は眩しげに翠の目を細めた。
「えぇ天気や。今日も暑なりそうやなぁ」
白の長襦袢を紺の羅の長衣に透かせた和装は夏の誂えに、濃色ながらも白磁の肌に涼しげに、凛と背を張る長身を包む。
 朝生はその場で手早く髪を結い上げ、穂先を上にして壁に立てかけた竹箒を取った。
 茶房「翠霄」の裏手、棟続きではあるが竹垣と濃い樹木の配に独立したかのような造りに見せる、隠れ家のような住居部分である。
 彼の淹れるお茶と、季節に応じた手製の菓子を楽しみに茶房を訪れる客に、生活の場を見せるべきではない、という配慮からだ。
 主人である朝生一人切り盛り出来る程の、茶房自体はさほど大きくはない。
 その分、目に優しい程に鮮やかな緑、せせらぎまで配した庭の延長に住居の縁から望む裏手の緑も濃く、水気を含むが、風に乗って届く乾いた砂塵を防ぎきる事は出来ず、飛び石を薄く覆う砂を掃き清めるのが朝生の日課であった。
 柄を胸の位置で両手で握り、左手で支えて右手で穂先を左右に動かす。
 細かな枝は僅かな力でも強く石の表面を撫で、穂先は一掃き毎に塵を掻き集める、動きをふと、止めた。
「……?」
 何か視界の端で、箒の動きに併せてひょこひょこと動くものがある。
 低い垣の下、緑の影になった其処を注視する事はせず、ざ、と地面を掃く。
 ひょこりと影の中で灰色の何かが動く。
 また掃けば、また動く。
 それを何度か繰り返した跡、朝生はひょいとその場にしゃがみ込んで影を覗き込んだ。
 其処にはぺとりと毛を寝かせ、地面についた腹を緊張に忙しなく動かして、こちらを凝視する一匹の……仔猫。
「なんや、こんなトコロに入り込んでどないしたんや」
箒の動きに併せて動いていた長い尾が、警戒にゆらめいている…チチチッと短く舌先を鳴らせば、ぺたりと寝ていた耳が僅かに浮いた。
 人を恐れていない、その証拠に仔猫が真っ直ぐに朝生と視線を合わせて来る、瞳の色は水のような色だ。
「なんや自分、怪我しとるやん。そいで動かれへんのやな?」
長く伸ばした後足の片方が、乾いた血が天鵞絨のような灰色の毛並みに乾いてこびり付いている。
 朝生は袂を合わせてしばし悩むと、その場に膝をついた。
 背を丸めて、急な動きを取れないと、身体で主張しながら、手を伸ばす。
「だいじょぶや、なーんもせぇへん。恐ないで、手当てさせてぇな」
柔らかい声音でゆっくりと、仔猫がこちらの動きに脅える必要がないように、身は遠く精一杯に腕を張り、指先を仔猫の鼻先へと近付けた。
 それでもやはり、見知らぬ人間に対してたじと身を引きかけていた仔猫だが、距離を詰める指先にくん、と鼻を鳴らして動きを止める。
 見計らって僅か、朝生は指を引いた…仔猫はその動きを追って身を乗り出し、その指先をぺろりと舐めた。
「美味しか? 家に上がってくれたら、もっと美味しいん、ようさんあげるさかい」
おいでぇな、ちょいと招く動きにびっこを引きながら影から出る、小さな身体を逃げる間を与えずにひょいと片手ですくって胸に抱き寄せれば、目を丸くした仔猫の早い鼓動が伝わる。
「あぁ、吃驚させてもた。堪忍な。先ずは傷を診て、そいからミルクにしよな」
宥めるように指先を鼻先に持っていってやれば、動けぬままに余程空腹だったのか、紅茶に使う濃縮ミルクに浸した指先を桃色の舌で何度も舐めた。


 ぺたぺたと、仔猫は縁側で皿に入れたミルクを舐めている。
「やれやれや」
襷を解き、朝生は自らの肩を叩く…抱き上げてみれば、仔猫の灰色の毛並みの腹は泥まみれで、やれ風呂だ薬だと家中を走り回ってようやくの落ち着きいたのは、仔猫を家に招じ入れてから1時間程も経ってか。
 濡れた毛並みを乾かすのは陽光に任せ、仔猫はひたすら空腹を満たすのに集中している。
「俺も一休みしょ」
 何処からか取り出した茶器で淹れたお茶を一口啜り、朝生は眩しそうに天を見上げた。
 強い日差しに薄い雲の位置も高く、燦然とした熱が大気を輝かせている…夏独特の空だ。
 なんとなく、仔猫と隣り合わせにのんびりしている自分が可笑しくて、ふふ、と小さく笑う。
 それに気付いてか、仔猫はぺろりと黒い鼻の頭を舐めながら、朝生を見上げた。
「あぁ、気にしんで。ゆっくり飲んどき」
掌で撫でるにも小さな頭、ピンと立った耳の間を指で撫でてやれば、心地よさに喉を鳴らす…首輪も何も、彼女の居るべき場所を示す物は何もない。
 足の傷は別の猫の縄張りに入り込んでついたものか、同種に噛まれた痕で、野良猫ならば親猫と離れるにはまだ早い…多分、何処か人の家で生まれたのだろう。それを示して何より、彼女は朝生を怖じずに真っ直ぐに見つめる。
 人の手が、優しい事を知っている。
 一皿のミルクをきれいに舐めて漸く満足した仔猫は、ぽっこりとふくらんだお腹によろめきながら、朝生の膝に片足をかけた。
 意を察して抱き上げ、膝の上に乗せてやれば、身を丸めてさりさりと、乱れた毛並みを舌で整える。
 安心しきった様子に目を細めた…こんな小さな生き物の、無為の信頼が温もりの灯を胸に宿す、快さは長く忘れていただけに、手放すのが惜しいように思えた。
 丸めた背の毛の流れに沿って梳くように撫でてやり、問う。
「うちの子になる?」
けれどその意味が分からないのか、仔猫はそのまま丹念に、前脚を舐めている。
「やっぱあかんかな……」
苦笑し、朝生はもう一度仔猫の背を撫でると、仔猫は後ろ目に青い目で一声、「ニー」と鳴いた。
 その少し遅れた声がまるで、返答のようで、朝生はもう一度聞く。
「えぇっと、うちの子になってくれるん?」
「ミャー」
今度は即答。
くるんとその場で身体を返して、朝生の胸にたし、とおいた前肢を支えに見上げる。
「おおきに」
そのあまりに真っ直ぐな空色に思わず礼を述べると、仔猫は安心しきって其処にそのまま丸くなった…うとうとと瞼を閉じる。
「……したら、名前が居るなぁ」
残される形に、朝生は苦笑し、しばし口元に手を添えて悩む…見上げる空の、夏の色、それをそのまま宿したような瞳。
「……碧霄、なんてどないやろ」
店の名前捩っただけみたいで、ひねりがないかなぁ?と独言めいた言葉に、その美しい空の呼び名に対して仔猫は満足の意に、ぱたりと尾で背を撫でる朝生の手に触れた。