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<東京怪談ノベル(シングル)>


You Good Luck!?

―1―

「そんなバカみたいな依頼受けてらんないわよ――なんて、」
 簡単に無碍にする事も出来ないのよねえと。
 大仰に溜息を吐きながら首を傾ければ、柔らかな長い金の濡れ髪が肩の上で物憂げに揺れた。携帯電話を肩と顎に挟みながら、女はソファの上で緩慢に両足を組み直す。
 真っすぐに伸ばした爪先の、深紅のペディキュア。その端が僅かに剥がれ落ちている事に気付いて小さく舌打をした。
「それで、その馬鹿息子は? …あーそう。何としてでも取り戻せと。良い気なモンね、無知で無学で女の尻追い掛ける事しか出来ない癖に、政治の腐臭だけは嗅ぎ分けられるなんて」
 真鍮の四つ足に支えられた陶磁のバスタブは、なかなか悪く無かった。
 シャワーの出が余り良くなかった様だったが、この地域の経済状態を鑑みればそれは仕方の無い事だと思う。昔も今も、余計なカネなどは余っては居ない。
 唯一人々が誇りにした心の強さも、今はその輝きを失って仕舞っている事だろう。
 隣の強国より攻め込まれ、自治権を奪われたばかりのこの地域に住む人々には、今はもう何も残されては居ない。
「――そ、まだこっちに居るわ。・‥…大丈夫よ、私がテロリストなんかに黙って襲われると思う? 返り討ちにして遣るわ、ついでにお姫さまも奪還出来るし?」
 肩を竦めながら、愚とも付かない言葉を受話器の向こうへ返した。有り難うと、投げキスの音だけを届ける事も忘れずに。
 海原みたま。
 地球上、最も危険な美女。
 死神の鎌を振り降ろす美しき雌獅子――等々。
 戦場では悪夢めいた噂が後の断たない女である。

 閉じられた大国、ロシア。
 国内では未だ統制が取られ切らず、民族や地域レベルでの小競り合いが後を絶たないと言う。
 彼女――みたまの許に依頼を持ち込んだのはそんな小さな絶対君主制国家の中の1つ『N国』で、内容は花嫁の奪還。曰く、テロリストに誘拐されたのは首席の息子(時期君主、だ)が娶る花嫁で、N国の北西に位置するJ国の王女だと言う事だった。
 テロリスト?
 アンタ方が滅ぼしたJ国の国民の仕業に決まってるじゃないか。
 みたまはグラスに満たしたスパークリングワインの琥珀を見据えながら毒突く。
 実際、日本の情報源――彼女が愛して止まない『ダンナ様』――に確認を急がせた所、十中八九の割りで彼女の想像は的を得ていた。先ほどの国際電話がそれだ。
 前世紀的な、武力同士の衝突。
 自国と自らの血筋を富ませる為に、そして民族と地域の誇りの為に――彼らは戦い血を流し、有史に刻まれる事も無い様なそれらの小さく無数な戦闘に全てを費やしていく。
 国際的にその名を轟かせているとは言え、彼らからすれば「海に囲まれた無名の小国」である日本のみたまに彼らが今回の依頼を働き掛けたのは妥当な判断と言えるだろう。
 なまじ近い地域にある者では、血腥い彼らの真実を知り過ぎて仕舞って居るだろうから。

 愛する『ダンナ様』からの報告によると、テロリストのリーダーは28歳の若者。
 J国の騎士団で団長を務めて居り、その過ぎる程に真っすぐな信念と忠誠心で、J国没落迄最後の最後まで団員達を励まし続けていた戦いの立役者でもあった。
「北欧の民の血を引く、生粋の騎士なのね…だから気乗りがしないって言ったのよ」
 ソファの上で細く白い素足を投げ出したみたまは、うんざりだとでも言う様にぼやいた。
 戦いに負け、自治を失った誇り高き民族、その姫と騎士。
 みたまには、愛する連れ合いにも――いや、愛する連れ合いだからこそ、どことなく気恥ずかしくなって告げていない直感が有った。
 その騎士と姫は、愛し合っている。
 共に激しく深い愛情で繋がれて居り、おそらく姫はN国に連れ戻され、テロリストと離れる事を望んではいまい。
 無論、誇り高き騎士…テロリストの青年も。
 はふ。
 小さく頼りない、年端行かぬ少女の様な溜息は、『死神の鎌を振り降ろす美しき雌獅子』を知る者に取っては…むしろ寒々しさを感じる物で有ったかもしれない。
 それでも、いや、それ以前に…傭兵である以前に、自分は女で有ると、みたまは思う。
 愛する男の懇願や囁き、笑顔や泣き顔に弱い普通の女で有る。
 愛を、そして純潔を貫き、心に決めた男にそれを捧げる。
 女の本当の仕合わせはそこにあると信じているし、その気持ちを違える事はこれからもずっと無いだろうと思う。
 だからこそ。
「うぅ…厭だ厭だ…本当に…気乗りがしない…‥・」
 雌獅子の腰も、ここ迄来て殊更に重くなるのである。

―2―

「――とにかく! 早々に助け出して貰わなくては困る。ミス海原、これはお互いの信用に関わる問題だ」
 翌朝、宿泊していたホテルには規定額の三倍の額を払い――同情? そんなのじゃない――、彼女はN国の首都へ引き返した。
 荒廃したJ国とは違い、N国は活気に溢れている。国内のさまざまな物品、蜂蜜や黒パン・ピロシキやスイカ等の食料から貴金属の類、ウォッカや布、鉱石に至る迄…大通りにぎっしりと軒を並べている屋台で、取引されないものは無い。
 それら大通りが幾筋も放射線状に張り巡らされて居り、その中心に首席の血筋が住まう大きな屋敷が建てられているのだ。
「彼女は私の大切な従姉妹であり、そして花嫁だ。ミス海原、これがどういう事だか…いくら貴女にだって想像に難くないでしょう。活気と緑に溢れたN国が他国に軽侮される事等、有っては行けない事なんだ」
 顔を真っ赤にしながら怒りを訴えるのは、この国の首席の長男。
 意志の強そうな(それは同時に「融通の利かなそうな」と言う意味合いも含んでいる)濃い碧眼に、明るい栗色の髪。年の頃は十七、八と言った所か、鋭い眼光と幼い造作が入り交じる様子はどこか不安定で、病的なものすら伺えた。
 プライドだけが高くて、自分の脅えにすら気付かない憐れな子山羊。
 みたまは彼の言葉を遮る様に口を開き、大きな溜息を吐きながら両腕をしなやかに胸の前で組み直す。
「――あァはいはい。判ったわよ。お国の為、お国の為――そんな事だからお姫さまにもアイソ尽かされちゃうんじゃないの?」
「…っな、」
 馬鹿息子――と、みたまは勝手に彼に名を付けた――の横に仕えていた、口髭を蓄えた執事が。
 そして馬鹿息子本人が目を剥いてみたまを睨め付ける。
 が、その視線を軽く受け流す様にひらひらと掌を振って見せ、みたまは大きなデスクの端に腰を下ろした。
「生憎、一度は引き受けた依頼だから――任務は遂行してあげるわよ。N国の為でも、ましてや馬鹿息子、あんたの為でも無く、私自身の為にね。勘違いしないで」
「っ馬鹿…」
 わなわなとその細い肩を震わせながら、馬鹿息子は口唇を噛みしめる。
 女と言わず、生まれてからこの方、どんな人間にもここまで激しい物言いをされた事が無かったのだろう。透ける様な白い肌は、怒りの為に不吉な青白さを孕んでいる。
 見兼ねた執事が我を忘れて怒声を張り上げようとした時。
「――まあ良いだろう」
 精一杯の虚勢を保ちつつ、馬鹿息子は咽喉の奥から呻く様な低い声音で呟いた。
「花嫁を奪還する為だ。多少の無礼は許そう。そうだろう?」
 尚も訝しげにみたまを伺っている執事は、そう窘められれば非とは言えない。大きく吸い込んだ息を、深呼吸の様にゆっくりと吐き出しながら、腹の底に怒りを鎮め抑える風に押し黙る。
 その様子に、馬鹿息子は幾許なりとも自尊心を回復させられたのか――それでも強張りの残る笑みを浮かべながら、再びみたまに向かって口を開く。
「――あなたはなかなか、見どころある女性の様だ、ミス海原」
「ミスミスって呼ぶのやめてよ。悪いけど結婚してるの、それも子持ち」
 この期に及んで、放蕩息子の愚痴や虚勢に付きあうわけにはいかない。気乗りのしない仕事だからこそ、手早く片をつけて次の任務に赴かなくてはいけない――みたまは馬鹿息子の幼いプライドに辟易していた。
 そんな彼女の思惑を汲む事など勿論できない馬鹿息子は、ほう、と言う様に瞬いた眼差しをみたまに向け――その後で、あからさまな訝しみをその面持ちに滲ませる。
 この女は一体いくつなんだろう。
 そんな、素朴と言えば素朴な…不躾と言えば不躾な視線に、みたまはムラリと苛立ちを覚えた。
 とっさに伸ばした右手は、机の上に鎮座していたライオンの置物を捉え、それを馬鹿息子の左耳を掠める様に振り投げる。
 風を切る様な音を立てて、文字通り馬鹿息子の耳を掠めたそれは大仰な音を立てて壁に激突し、そこに大きくめり込む事となる。
 ぱらぱら。
 壁の破片が零れる音を背中に聴きながら、馬鹿息子と執事はぽかんとその口を開け、事の次第が呑み込めないとでも言いたげにみたまを見詰めていた。
「――それで、仕事の話だけど」
 にっこり。
 机の上で妖艶に足を組み直したみたまが、満面の笑みを二人に向けていた。

―3―

 ベッドに横たわったままその眼差しを見上げさせれば、視界の端に小さな窓が有った。
 背伸びをしようと、部屋の隅に設置されている瑣末な木の机に乗ろうと――おそらくあの窓には手が届かないだろう。
 そこから、今夜は丁度良い塩梅に、満月が窓の縁に欠ける事無く浮かび上がっているのが見える。
 淡いその月明かりに、うっすらと力無く微笑んだ少女の面持ちが照らされていた。
 N国首席長男の従姉妹で、今は亡きJ国の王女である。

 この塔に入ってから、何日が過ぎようとしているのだろうか。
 最後に見た国民達の、非道くやつれて疲弊した顔が目に焼き付いて離れなかった。
 もう、帰る場所はどこにも無いのだ。
 しみじみとそう感じれば、煤けて汚れたマントの裾で何日も涙を拭って過ごした。
 今でも、N国の警邏隊に連行された父の背中を思う。
 今でも、ばたばたと慌ただしく軍靴が穢す己が部屋の様子を思う。
 この国を統べる者は、父ではなくなってしまったのだ。
 誇り高き民族はその心を打ち砕かれて、あの恐ろしい警邏隊にびくついて暮らさなくてはいけなくなってしまったのだ。
「――なんて…事…」
 見上げていた月が潤んだので、姫はシーツで涙を拭う。
 やがて、既に己が耳には聞慣れて仕舞った嗚咽が、咽喉の奥からせり上がってくる。
 シーツに包まって丸くなり、壁際にその小さな身体を寄せて彼女は泣いた。

 だから、分厚い扉の向こうで、閂がギシギシと鳴っている事になかなか気付けなかった。
 息遣いの隙間に聞こえた重い木と金属のぶつかり合う音に、漸く涙に濡れた眼差しを扉に向け――息を凝らしてじっと見守る。
 そして開いた扉の隙間から、良く見慣れた男の影が伺わされた事に、強ばった両肩の力を抜いて深い溜息を漏らした。
「・‥…あなただと判っていても、やっぱり…その姿を目にする迄は恐ろしい。――ねえ、もっと良くその顔を見せて頂戴」
 左肩に、食料や衣服を詰め込んだ麻袋を担いだ青年――テロリストのリーダーであり、誇り高きJ国の騎士は、ベッドを抜け出して己に駆け寄る姫の素足に僅か眉を寄せたが――
「ご心配をお掛け致しました、姫…怪我をします。どうか裸足で歩き回る事はお止め頂きます様」
 逞しい右腕で、寄りそう姫を力強く抱き締めた。

 二人がその愛を互いに打ち明けたのは、まだこの国がN国の侵略を受ける前――屋敷の裏に有った小さな森の中である。
 遡る事半年前、そこで二人は永遠の愛と互いへの貞操を近い、それは婚姻と言う形でいつか為される事になるだろうと――確信していたのだった。
「申し訳有りません――姫にばかり、こんな不自由を強いてしまい…」
 ぎり、と口唇を噛みしめながら、押し殺す様な低い声音で騎士は呟く。
 色の変わる程に噛みしめられたそれに、姫は冷えて桜色になった指先でそっと触れ――穏やかに、そして美しく綻ぶバラの花びらの様な笑みを、己の口唇に浮かべるのだった。
 感極まった様に、騎士は、彼女の背中へと回した腕に力を込める。
 姫が騎士の首筋へとその両手を伸ばした、その瞬間――

「――っもう! 見せつけないで頂戴、此処まで登ってきたのが馬鹿みたいに思えるじゃない!?」

 甘い口付けを求めた騎士の口唇が風を切り、姫を背中に隠しながら勢い良く振り返った。
 ガチャリ、と金属が鳴る音に、姫は彼が長剣に手を掛けた事を知り――その両肩を強ばらせる。
「ああ、抜いちゃ駄目よ。これ以上後味の悪い仕事にさせないで」
 カツリ。
 優美な踵の音が鳴り、先ほど騎士が開け放した扉の影からみたまが顔を覗かせる。
「ズドラスツヴイチェ♪」
 ひらりん、と指先を振ってみせた彼女の満面の笑みに、二人はただ呆然と――其の場に立ち尽くすしか他は無かった。

―4―

「――どうでも良いけどね、どうせ他人事だし、干渉しすぎない事が仕事のうちだし」
 ベッドに腰を下ろす姫の足下に跪き、足首から下を丁寧に布で包んでやる騎士の背中へ――みたまは容赦の無い言葉を浴びせ掛ける。
 不意の闖入者へ、当初は騎士も剣の柄へ手を掛けたが――余りに隙の無い、無さ過ぎるみたまの身のこなしに、まずは彼女の話を聞く事を承知したのだった。
 布の端と端をきっちりと縛り上げ、その後で柔らかな靴を履かせる。するりと掌から抜かれた白い両足は、騎士の傍らの床へと着地した。姫は改めてまじまじと、みたまにその眼差しを向けては目を瞬かせている。
「如何にも――自分は、北欧からの移民です。姫の、…姫の父君に剣の腕を買われ、騎士団に入団しました」
 ヨーロッパやロシアの民族が入り乱れ、移民を繰り返す事は珍しくは無い。その事を隠す必要もなければ、糾弾される事も、余程の事が無い限りは有りえない。
 ましてや、それを言わさぬ程に腕の立つ騎士である。
「・‥…悔しかったのです。自分の父と母は、愛する母国を離れ…この地に骨を埋める事を決めました。そして自分は、この国の誇り高き騎士となり、騎士団長すらを仰付かり…なのに、…この国を、そして姫を…守りきる事が出来なかった…」
 尚も、姫の足下に傅く壗。苦い胸の内を吐露し、騎士は深くうな垂れる。
 姫は、男の――愛する騎士の肩にそっと手を置いて、悲痛な面持ちを俯けて隠した。
「…まあ、判るけどね…?」
 んん、と鼻先を掻きながらみたまは同意し、扉の前で足を組み直す。
 自分が彼の立場だったら、と想像する事は難しいし、無意味な事であると彼女は思う。
 彼は彼の前にある選択肢の中から常に最善を、そして全力を選び抜くタイプであるとみたまは直感した。
 そしてそれを貫き続ける以上、それが彼の正義であり続けるだろう事も。
「――でも、ごめんね。これは私の仕事なの。私が請け負った、私のプライドを貫き通す為の、仕事」
 肩を竦め、表向きは、あっけらかんと――みたまはそう宣告して、コートの合わせの中へ手を伸ばした。
 小さく弾ける金属音に、騎士の身が僅かに強ばり――そして再び剣の柄へそっと、利き腕を触れさせる。
「…抜いたら、どう成るか判ってるわよね?」
 こくん。
 騎士が生唾を呑む音が聞こえ、その後――
「―――…‥・!!」
 小さく鳴った金属音の後で、姫が絹を割く様な悲鳴を、挙げた。

―5―

 式の始まりを知らせる、盛大なラッパの音が鳴り響く。
 臙脂色の縦に長い絨毯が中央の通路に敷き詰められ、その左右は沢山の民衆が興奮の面持ちでじっと城を見上げていた。
 婚姻の儀を城で終わらせた馬鹿息子――N国首席の長男と、その従姉妹である姫の、盛大なる披露の儀に集まった人だかりであった。
 声高々に叫び、熱狂する民衆の中で、唯一…‥・
 腕を胸の前で組み、醒めた緋色の目でその様子を観察している女がいた。
 みたまである。

「それが情けだと仰るのですか、あなたは――!!」
 あの日、勝負はあっけない程に早く付いた。
 騎士が剣の柄に手を掛け、それを抜く仕草に息を僅か詰めたその瞬間――
 懐から抜かれたみたまのレイピアが、何よりも早く騎士の右手指を切り裂いていた。
 熱が灯った様に鋭い痛みが彼の指先に走り、躊躇の様に爪先が柄を撫でる。
 真っすぐに投げられたレイピアは騎士と姫の間を抜けて、白いシーツに深々と刺さって止まった。
「…命拾いしたわね。私よりも早かったら、あなた今頃横隔膜に孔が開いてた所だったわ」
 言いながら、きゅっと右手を握り――再び開いたみたまの指先には、三枚の剃刀が挟まれていた。その俊敏さ、そして、厳かな物言いに宿った冷徹さに…騎士は戦慄し、その双眸を細める。
 隙や幸運が決めた勝負では無い。
 大きく開いた実力の差に、負けたのである。
「馬鹿な事を言わないで。…後味の悪い仕事にしたくない、最初にそう言ったでしょう」
 笑みすら浮かべぬ、その口唇で――みたまは騎士の言葉に答え、そしてつかつかと二人に向けて歩みを進める。
 さながら、獲物を追い詰めた獅子の歩みであると――微動だに出来ぬ壗で姫は、ただみたまの表情を見上げていた。
 この人は、強い。
 今まで自分が目にした、どんなに強い騎士や、傭兵、そして…騎士よりも。
「い…‥・厭・・・」
 伸ばされたみたまの、白くしなやかな指先が。
 彼女の強さや冷徹さに、妙に不釣り合いだと姫は思った。
 肩に触れられた瞬間、びくりとその身を強ばらせたが――
「あなたの勝利は、あなた自身で勝ち取りなさい」
 堅く力を込めた肩の上に、柔らかな温度でみたまの掌がそっと置かれる。
 恐怖に潤んだ眼差しは、己を見下ろすみたまの表情を僅かに滲ませたが――それでも姫は、彼女から目を離す事はしなかった。
「あなたはもう、姫じゃない。国を失ったから、従兄弟に望まれたから、騎士に攫われたから――そんな事で自分の人生を決めたりしては、もういけないの」
 緊張に、幾許かの困惑が混じった眼差しで。騎士がみたまを見上げ、じっと息を殺している。
 その指先からは深紅の雫が床に零されていたが、既に痛みなどは忘れ去ってしまったの様だった。
「私は、あなたをN国に連れて帰る。それは私の任務だし、私の責任。――ただ」
 そして、此処に至り漸く――みたまは、に、と口唇を笑みの形に引き上げ、続けた。
「その後で何が起きようと、私にはもう関係がないの。一度は連れ帰った花嫁が、再びテロリストに攫われる様な事があろうと、その後で――どんなに仕合わせに過ごそうと、ね?」

 民衆の熱狂が、いよいよ以て高まった。
 サングラスの奥のみたまの緋色が城のテラスを見上げる。
 と。
 民衆が放つ数々の祝福の言葉に、新郎と新婦がその姿を現した。
 純白のドレスに身を包んだ美しい姫と、得意げな厭らしい微笑みを頬に貼り付けた馬鹿息子である。
 彼女の腰に回された馬鹿息子の左手を目ざとく見つけたみたまは、思う様に顔を顰め――日本語で、小さく毒突いた。
 拳をめちゃくちゃに振り回し、その喜びを表現する者。
 胸に指先で十字を描き、指と指を絡めあわせて神に感謝を表す者。
 思い思いの祝福の渦に向けて、馬鹿息子が貴族特有の仕草でその掌をあげた時――

 民衆の眼差しは、目の前で繰り広げられた光景に凍りつく。

「ッな、何だっ、無礼者――!!」
 おそらく、背後に不穏な物音を聞いたのだろう。
 馬鹿息子の口唇が動揺の形に動かされたと同時に、深い緋色の袋に顔を覆った覆面の男数人がテラスに躍り出た。
 二人が馬鹿息子を背後からがんじがらめにし、一人が純白の花嫁――姫に向けて歩み寄ったかと思うと、その右手を彼女に向けて伸ばす。
 僅かの間、呆然とその様子を見上げていた民衆であったが。
「テロリストだ!」
「奴らが来た!」
 誰かがそう叫ぶと同時に、蜂の巣を突いた様な大騒乱が立ち起こった。
 大通りからは見通す事の出来ないテラスの奥へ向けて、馬鹿息子を拘束した男達が何かを怒鳴っている。パニックになった民衆が好き勝手に喚き散らしているので、みたまの所まではその声は届かない。
 だが、彼女は、ただテラスを見上げていた。
 その口唇に、満足げな笑みさえ浮かべて。

 姫は、覆面の男に伸ばされた手を見詰めていた。
 奇しくも純白、それは花嫁の衣装である。
 次代の王、祝福されるべき盟主の息子の手を民衆の前で取り、それが披露の儀のフィナーレとなる筈だった。
「取るな、取るな姫様!」
 いち早くその次第を見て取った民衆の一人が叫ぶ。
 が、その声はテラスの上に居る者達には届かないだろう。
 むしろ、取れと叫ぶ者達すら存在した。
 J国から苦々しい思いで披露の儀を見届けにやってきたJ国民であろうか。

 男は、――騎士は、ただその場に傅き、真っすぐに右手を姫に伸ばす。
 彼女が息を呑み、背後に響かせられる様々な思いを載せた民衆の怒声に押される様に、一歩を踏みだす。
「――生涯を、あなたに捧げます…」
 呟きと、同時に。

 姫は純白のレースに包まれた右手を静かに伸ばし、騎士の掌へそっと重ねた。

―6―

「それでね、彼女ってばすごく綺麗だったのよ。馬鹿息子と一緒にテラスへ出てきた時とは全然違うの、表情が。すごく仕合わせそうに笑っちゃって、本当に綺麗だったわ…」
 空港の、搭乗待ちである。
 地球上最も危険な美女は、マトリョーシカとウオツカを一杯に詰めたトランクに腰を下ろし――携帯電話を持つのとは逆の手を頬に宛てながら、うっとりとした表情で『ダンナ様』に報告する。
 矢張、「女」、であると言う事か。空港は慌ただしく、出国まではもう少し時間がかかりそうだった。
「勿論、任務は完璧に遂行しました。当然だわ、誰がやったと思ってるの?」
 N国の首席は、テロリスト騒動直後に露呈した密輸の不正によって失脚した。
 さらにその後で、メディアには「不慮の事故」とあるが――あの豪勢な城は突然の地盤沈下により一夜にして瓦礫の山となり、揚げ句同時に引き起されたガス爆発により完全な粉塵と化した。
 それでも。
「だってもう、あのいけ好かない首席も馬鹿息子も、依頼人じゃないでしょ? 関係無いもんね――あ、搭乗手続が再開してみたい。行ってくるわ、まだ後でね」
 愛してるわ、と。
 投げキスの音を最後に届けてから、みたまは携帯電話を半分に折り畳む。

 すっかり顔なじみになっていたホテルのマスターが精算時、顔をくしゃくしゃに笑ませながらみたまに話しかけてきた。
 曰く、この国の元騎士と姫様が駆け落ちしたってのは聞いたかい? と。
「この国には、何事にも屈しない誇り高き民族の血が流れている。王家や騎士がその信念を貫いたとしても、俺達は俺達で誇り高く生きていける――願わくば、彼らに祝福を」

 愛を貫く事、思う道を唯歩む事。
 その難しさをみたまは知っているつもりだし、その大切さをも等しく知っているつもりだった。
 だからこそ、と。
 彼女は思う。

 あなた達に、神の加護と祝福を。

 みたまはその身を翻し、トランクを掴んだ手指に力を込めた。