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<東京怪談ノベル(シングル)>


モノクロームをたゆたう中で

 そこに居るのは何者か。
 思った時には黒い水が舞っていた。
 慣性のままに。
 放り投げられた白い塊に引き摺られ。
 弧を描き。
 ばちゃりと。
 飛び散る。

 鮮やかな彩りの――全く無い世界。
 白と黒、そして数限りない…その中間の明るさの色。
 すべてがそれらで構成された、モノクロームの状景。
 気付いた時にはそこに居た。
 …否、気付く、などと言う事も無いか。
 その時点から続いているのが当然のように。
 ステッキに頼り佇む自分がそこに居た。
 状況は掴めない。
 ただ、白い塊がそこかしこに転がっていて。
 人型の。
 生々しい。
 ツクリモノでは無い。
 本物の。
 生きていた事のある肉のカタマリ。
 それらが浸されている、浅く広い――黒い池。

 中央に。
 少年が紛れるように――放心し、力が抜け崩れ落ちたかのように、両膝を突いて、座していた。
 …それもまた白と黒のかたまり。

 暫くそれを見ていて。
 何秒経ったか。
 それとも、自分が彼を見て、すぐの事だったか。

 凄まじい眼力が。
 向けられた。
 …いつの間に顔を上げた。
 思う間にも少年の背丈が高くなる――その場に、立ち上がった様子。
 殺意。
 明らかに。
 判じた刹那。

 ステッキを頼りに佇む紳士――セレスティ・カーニンガムは、ゆっくりと瞼を下ろした。
 …時には。
 辺り一面を濡らす黒い水が、意志でも持ったように、ざぁっ、と舞い上がる。
 それはセレスティの仕業。
 水霊使いの持ち得る能力。
 流れる液体――水を扱うその力。
 何故今それを使ったかと言えば答えはただひとつ。
 少年を。
 止める。
 …私に殺意を向ける、その事の愚かさを――その身を以って教えてあげよう。
 視力など元々、有って無きが如し。
 むしろ瞼を閉じている今の方が――視覚からの余計な情報を取り入れないだけ、色々と鋭敏になっているかもしれない。セレスティにとっては他の感覚の方がより『確か』なのだ。
 その『確か』な方の感覚で辺り一帯に注意を払う。
 今の状況がはっきりとわからない以上、何が起こるかわからない。
 と、白と黒のかたまり――少年の身体が一旦沈み、弾かれたように飛び出した。移動する。低い位置を突進してくる。思った時にはセレスティは彼との境に黒い水を巻き上げていた。高波の如く、ざ、と重厚な壁を作り出し、その勢いを遮断する。
 少年も只人ではないようだった。黒い水が揺れている。彼の手許か。細かく動かす事が可能なごく一部――両手を、大きく薙ぐように動かされ、次の瞬間には――セレスティでは無く少年の攻撃の意志で黒い水が舞っていた。
 鋭い水の爪が水の壁を貫き、セレスティを襲う形で飛んでくる。ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。不規則に別の軌道を描き、鋭く。黒色の液体が中空を疾る。
 だがセレスティは動じない。瞼を開きもしないまま、自分に襲い来る黒い爪の側に静かに顔を向けた。

 と。

 ぱしゃん

 …水の爪はその時点で『爪』としての形を失い、地表に滴り落ちた。
 少年の殺意は消えていない。
 何事なのか。
 いきなり狙うとは。
 周囲にあるこの白い塊も――この少年が作り出したモノだろう。
「理由を訊いても――構わないですか」
 少年は答えない。
 返るのは沈黙と再度の攻撃の意志。暴れる水の龍をその手で操り、セレスティに向け放つ。放たれた龍は牙を向き襲い掛かった。が、その時セレスティも抜け目無く水で小さな渦を作り出している。龍の頭。それを吸い込むような形に――無効化させた。
 そして。
 セレスティは次には中空の広範囲に黒い水を撒く。少年の位置。未だ殺意は消えていない。確かめてセレスティはそこに意識を集中した。刹那、撒かれた黒い滴がそれぞれ一気に凄まじい勢いで尾を引き、少年に集中する。苦鳴。矢ででも狙い撃ちされたようなその仕業。水の矢。
 少年はその水の矢に一時に貫かれ傷付く。更にその身から黒い水を飛沫かせ、後、垂れ流していた。
 …やはりこの黒い水は――ヒトの血液ですか。
 セレスティは漠然と思う。
 少し粘性があるとは思っていたのですが。
「何か――焦燥に駆られていますね」
 少年は答えない。
 その身体から黒い水が、ぼたぼたと。
 付着したものか傷口から流れ出てきたものか判別付かない程、最早少年の身は黒色で塗りたくられていた。
「避けられない何かだと――君はそう思っている。違いますか」
 問う。
 少年は答えない。
 答えられない――のではない。
 …この満身創痍の今の状況で、それでもまだ、私を。
 まるで動くものは皆、殺さなければならない、とでも言うような、強迫観念に駆られている。…そう見えた。
 少年の眼力が揺らぐ。
 余裕が消えていた。
 生と言う名の余裕が。
 真実、死に瀕すれば――余程の事でもない限り…己自身にしか意識は向かなくなる。
 …私は君を殺す気はありません。
 君が私を殺す気が無いならば、と注釈は付きますが。
 今のその瀕死の傷でも、傷口から流れる液体を止める事も、失われた分量を戻す事も、私にとっては容易い事です。
 君よりも水霊使いとしては上という事でしょうか。
「私が君の――その運命を曲げてみましょうか」
 …そうしたなら今の君にとって、何が変わりますか。
 問うように。
 突き放すように。
 言い聞かせるように。
 救いの手を差し伸べるように。
 そのどれでもなく、同時にそのどれでもあるように。
 …告げる。
 理由は無い。
 強いて言えば、興味か。
 と。
『僕…は』
 ぽつりと。
 初めての静かな声。
 思ったよりも高音の、その声が少年から発される。
 未だ声変わりにすら至っていないかもしれない。
 何にしろ、もう殺意は消えている。
 ならば――構わない。

 思ったところで。
 モノクロームの世界が暗転した。

 そして。
 僅か淡い光を感じる。
 白でも黒でも無い、彩りのある。
 光。
 知覚したのは薄く開いた瞼の奥。
 深い蒼色の瞳が現実を捉えた。
 …ああ。
 セレスティは漸く自覚した。
 今のは、夢、と。

 …ベッドからゆっくりと起き上がった銀髪の紳士。
 彼は一度、静かに瞼を閉じると、たった今見たモノクロームの状景を、少年を――思い起こした。

【了】