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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


■月を見よ■
 行く当てもなく、目的も無く、大上隆之介はただ足を前に進めていた。どこかに行きたい訳でも、散歩を楽しみたい訳でもなかった。ただ、空から降り注ぐ、この青白い月光を浴びていたいだけだ。
 解けない氷のように冷たく鋭く、突き刺すような月の光を、目を上げなくとも、仰ぎ見なくとも体中に感じる。
 満月の晩は特に、それを強く感じた。
 そしてこういう夜は必ず、夢を見るのだ。
 太く逞しい四肢と、体を覆い隠す力強い毛並み、そして研ぎ澄まされた刃のような牙。物音一つ聞き逃さぬ耳はぴんと立っており、獲物の臭いを察知すべく鼻がぴくりと動く。
 音を立てぬように歩む足が水たまりを踏むと、水面に波紋が立った。ゆらゆらとたわむ水の鏡に映っているのは、大きな黒いケモノの姿だった。
 その姿に、何の違和感も無い。
 これは‥‥俺だ。
 大上は、確認するように心の中でつぶやくと、ゆっくりと現実に戻っていった。
 幾度も見た、夢。
 目を醒ました大上は、自分の体を隅々まで見つめる。これが現実なのか、それとも夢の中が真実なのか‥‥。あの夢の残骸がまだ体に残っている気がして、大上は自分の体に触れる。
 微かに漂う‥‥獣の臭い。
 あの夢をまた見るのが、少しだけ怖かった。あの夢を見るたびに、大きな喪失感を味わう。それが記憶の事なのか、もっと大きなものなのか分からない。だが、思い出さなければならないのだ。
 ‥‥きっと。
 あの時以来、その思いは強くなっていた。自分を黒王と呼んだ、あの女性を見てから。悲痛な声、求める心。あの声を思い出すと、無くした記憶に対する喪失感が胸を締め付けた。
(‥‥くそ、俺らしくねえ)
 では、自分らしさとは何か。三年分の記憶しか無い大上は、そう自分自身に問いかけて、苦笑した。
 空からは、相変わらず月が見下ろしている。月はあまりに美しく、心に染みこんでくる。あの光から逃げるように、大上は視線を通りの両脇に向けた。
 大上の目前に“深山”という喫茶店の看板がある。しばらく、あの忌々しい月から逃れるのも、悪くないかもしれない。
 大上は喫茶店のドアノブに手を掛けた。だが大上がドアを開けるより先に、誰かが向こう側からドアを開け、出てきた。
 ドアから覗いた人影は、ドアの前に立つ大上を見ると、うっすらと笑みを浮かべた。
「‥‥いらっしゃいませ」
 ドアを開けた男性は、大上を中へと誘うようにドアを開け放った。

 最後の客が出たのが、午後八時であった。誰かこの喫茶店‥‥深山を必要としているなら、出来る限り店を開けておきたい。それが深山のスタイルであるから、この時間まで仕事をしている事も少なくはない。
 酒類も置いていると、酒を目当てに来る客もぽつぽつと居た。
 元から人を見る目は、ある方だった。裏も表も‥‥深山智にとっては、手に取るように分かる。その青年を見た時、深山は直感のようなものを感じていた。
 何か、自分が彼の人生における切っ掛けを持っているような‥‥この“深山”が必要であるという、感を。
 年の頃は、二十そこそこ。肩までの長髪の中に光る、獣のような瞳がじっと深山を見つめていた。
「‥‥いらっしゃいませ」
 深山が青年を中に案内しようとすると、青年は少し身を引いた。彼の視線が、店の中に向けられている。店には客は一人も居らず、ウェイトレスも居ない。
 店を終おうと思っていた事に、気づいたのだろう。
 深山は大上の肩に軽く手を添え、中に誘った。
「‥‥閉店だったんじゃないのか?」
 青年が聞くと、深山はカウンターに中に戻りながら、答えた。
「かまいませんよ、あなたがここを必要とし、そして出会った。客が必要とするものをお出しするのが、私のつとめですから‥‥その運命を拒みはしません」
「運命‥‥か」
 青年、ふ、と唇の端をゆがめて笑うと、椅子に掛けた。青年は、ぐるりと店の中を見回すと、カウンターの後ろに目をやった。
 カウンターの背後には、酒類や紅茶、コーヒーといった様々な飲み物の瓶や缶がきちんと整頓して陳列してあった。その種類たるや半端な数ではない。
「‥‥これ、みんな客に出す為に置いてんのか?」
「はい、そうですよ。たいした量ではありません、酒もコーヒーも紅茶も、基本的な種類さえ足りれば、自在に造り出す事が可能ですから」
 深山はちらり、と青年の顔を見ると、グラスをカウンターに滑らせた。彼は、まだ何も注文していない。しかし、深山には彼がこの飲み物を必要としている事を、理解していた。
 長い間培われてきた直感と、経験から深山は、彼の心の色や臭いというものを感じられるようになっている。どんなに無表情を装っていても、心の中の欠片は隠し通せるものではない。
 その色を、グラスの中に造り出してやるのが、オーナーとしての仕事。
 青年はグラスとオーナーの顔を見比べ、眉をしかめた。
「俺、まだ何も頼んで無いけど」
「失礼‥‥これがあなたに一番必要であると感じましたから‥‥」
 深山が差し出した飲み物を、青年が見つめる。カクテルグラスに入った、白い液体。何の飾りもない、一見シンプルなカクテルだ。必要であるとは、酒の事か、それともこの酒自体に意味があるのか‥‥。不思議そうに青年は見つめ、やがて手を伸ばして手元に引き寄せた。
 静かに口元に運ぶと、独特の芳香が鼻についた。
「‥‥何入ってんの、これ?」
「それは、タワーリシチというカクテルです。キュンメルというリキュール種のお酒が入っていまして、その香りでしょう。他にもウォッカとライムジュースが入っています」
 白く輝く液体を見ていると、どこか‥‥いや誰かを思い出すような気がした。誰なのか、はっきりとは分からない。だが、確実によく知る‥‥誰か。
「これが‥‥どうして俺に必要だと思ったんだ?」
「感‥‥でしょうか。ああ‥‥失礼、私は深山と申します」
 深山が自己紹介をすると、青年は大上、と名乗った。
「俺‥‥白色ってイメージかな」
「白は‥‥月の色ですよ」
 月? と大上が聞き返した。月は青とか、黄色じゃないのか。
「冷たく、鋭く、強い色‥‥だから白だと思います。あなたには、月のようなカクテルが似合います」
「月‥‥」
 大上は、真剣なまなざしでカクテルへ、もう一度視線を落とした。
 大上の運命を決めるかもしれない、あの月を思い出しながら。
「なあ、運命って何だと思う」
 答えられない答え‥‥だと思ったのだろう。大上は、じっと深山を見つめて、答えを待っている。
「申し上げたはずですよ。‥‥必要な時、必要な者が、必要なものを得る。それが運命です」
「欲しいものを手に入れる事が、運命なのか?」
 大上は軽く笑いながら、グラスに口をつけた。
「本当に必要なもの程、手に入れるのは困難なのですよ」
 自分の居場所‥‥自分にとって必要な人。当たり前のはずの、その必要なもの“運命”がまだ、大上の手の中にない。そうなのか‥‥? 大上は、視線をあげた。
「‥‥あんた、占い師かなにか?」
「いえ、私は単なるこの店のオーナーですよ」
「心理学の専門家とか?」
「何故、そうお聞きになるのですか?」
 今度は、深山が聞き返す番だった。
「どうして‥‥俺に運命というキーワードを言ったんだ」
 大上は、運命というキーワードをとても重要視しているようだった。彼は、運命について、とても興味があるように思える。
「人生とは運命の繰り返しですよ」
 深山が言うと、大上は椅子に背をもたれた。
 じいっと考え事をしながら、グラスを傾ける。
 深山が黙って居ると、大上は体を起こして、口を開いた。
「今まで‥‥誰とつき合っても、誰と居ても‥‥必要な人だと思える事が無かった」
 無かった、と言い切ったという事は、出会ったという事ではないのか。深山が聞くと、大上は苦笑いを浮かべた。
「俺らしくねえよ‥‥たったひとりの女の事が忘れられないなんてさ。‥‥運命とか‥‥もうどうでもいい」
 繰り返される夢、あの女の声。運命という言葉を口にした大上は、そんなのもうまっぴらだ、と言いながらも‥‥少し苦しそうな顔をした。
「大上さん‥‥顔を上げて、目を逸らさず、しっかり目の前を見据えてください。運命とは、自分一人で得るものではありません。目を上げれば、きっと自分が求めているもの‥‥運命が見えます」
 一番自分が“自分らしく”居られる事‥‥それが運命。それが出会い。深山のくれた答えは、ごく当たり前の事でありながら、大上が決してたどり着けなかったものであった気がする。
 当たり前の事が、一番難しい。
 大上が店を後にすると、すっかり夜も更けていた。
 きっと、大上の答えはもう目の前にまで来ている。それを見る事が出来なかっただけで‥‥。自分が手を伸ばせば、すべては大上の手の中に戻ってくる。そんな予感がした。
 あの獣の夢も、女の声も‥‥懐かしい臭いも、自分にとって一番当たり前で、一番求めているものであるに違いない。
 大上は顔を上に向け、黒々とした闇に輝く一点の光を見上げた。
 突き刺さるような冷たい光が、大上を突き抜けていく。
 すうっと笑みを浮かべると、大上は月から視線を逸らし、歩き出した。

 深山が出したカクテル‥‥それは、“同志”という名のカクテル‥‥。

(担当:立川司郎)