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<東京怪談ノベル(シングル)>


被写体にご用心



SCENE[1] 後ろの正面


 真夜中の暗室は、どこか奇妙に心身を興奮させる要素を孕んでいる。

 無味乾燥な住居とも機能的なスタジオとも言い得る自宅の一角に設けた、銀塩写真現像用の暗室で、武田隆之はサーモヒーター上に並べたバットの液温を確認した。カラープリントに適温の、三十度。「よし」と小さく呟き、現像作業を開始しようとして、ふ、と手を止めた。
「痛……ッ」
 思わず、こめかみに手を当てる。が、実際どのあたりが痛いのかよく分からずに、そのまま前後左右に指を動かして痛覚の元を探るも、判然としなかった。
「……ったく、原因の分からねぇ痛みってのは、どうも気持ち悪いな」
 言い乍ら、とんとん、と掌底で右側頭部を軽く叩き、歎息した。
 ここ一週間ほど、隆之は、頭痛に悩まされていた。
 最初は「風邪でもひいたか」くらいに考えていたのだが、日を追うごとに痛みに襲われる間隔は狭まり、気が付けば一時間に二度は頭に手を当てている有り様だった。
 カメラを構えていても、フィルムを引き伸ばしていても、取引先と商談していても、頭痛は隆之の事情など知ったことかとばかり脳天を直撃する。スコン、と叩かれる程度の痛みならばまだしも、ぐうっと脳髄を剔るように差し入ってくる無遠慮な激痛に、そろそろ隆之も本格的な対応策を講じねばと思い始めていたところなのだ。
 頭痛の、原因。
 それが分かれば、治療の方途も見つかるだろう。
 そう思いつつ、ともかく先ずは頭が痛いのだから頭痛薬、と、手当たり次第に鎮痛剤を飲んでもみたが、一向に効果はなかった。その時点で、不吉な予感が隆之の広い背をぞわぞわと這い上った。しかし、それについては敢えて無視した。
 次に、日々の生活を振り返ってみた。
 確かに、体調を崩すに充分なだけの理由は揃っている。このところ、仕事の忙しさにかまけて食事は腹が減った時に適当に摂る程度で、栄養バランスなど気にもしなかった。まあ、寡住みの男の食生活なんてものは、どこの家を見てもそう大差はあるまい。
 それから、睡眠時間。かなり、不足している。今日もこんな夜中に暗室に籠もる羽目になったが、昨日も一昨日も、同じような時刻に暗室にいた気がする。しかも、このデジタル時代にわざわざ手ずからバット現像などをやっているせいで、いろんな薬剤、液体を狭い室内で取り扱い、ひょっとしたらこれはかなり体に悪いのかもしれない。
 モノクロは勿論、カラーまでを自宅暗室でバット現像。現像の安定性という面で言えば、それはやはり自動現像機が最適なのだが、隆之はその時々の液の状態やバットから写真を出し入れする時の微妙な勘に左右される、一見いい加減なようで一番自分の経験と個性を発揮できるこの現像方法が気に入っていた。
 無論、仕事内容と扱うフィルムによってはプロラボに現像を依頼することも多い。が、結局のところ、こうやって自分の手で一から十まで写真をかたちにする作業が、カメラマンという職の醍醐味だったりもするのだ。
 ただ、そういう隆之の矜持とは別に、薬液の揮発した蒸気が体に悪影響だという可能性はある。大判サイズを焼く時などは、現像ムラを出さないために手で液を攪拌することもある。もしや、頭痛の原因の一端はそんなところにあるのだろうか。
「しっかし、それが原因でも困るよなあ。頭が痛えからって、現像をやめるわけにも」
 そうひとりごちた、直後。
 隆之は、左肩に鈍い重みを感じた。暗室内の空気が濃度を増し、どろりと肩にのし掛かってくるような感覚。心なしか、息苦しい気もする。
「……な……、な、何だァ?」
 バットに伸ばしかけた手を止め、隆之はごくりと喉仏を鳴らした。
 何だ何だ、何なんだ。
 冗談じゃねえぞ、何だってんだ。
 冥い暗室の中、隆之は足許で二、三、何か四角い物体を蹴転がし乍ら数歩進み、引伸機の隣に置いてあったポラロイドカメラを手に取った。

 撮りたくはないが、
 撮ってみた方が良い気がする。
 写ってほしくはないが、
 写ってしまうような気がする。

 重苦しさを引きずりつつ暗室を出、リビングだか物置だかすでに隆之自身にも不明なその部屋の蛍光灯の下で、ポラロイドカメラのレンズを自分に向けてシャッターを切った。
 カメラから吐き出された写真を手に、そこに画像が浮き上がってくるのを待つ。
 待つ。
 待つ。
 待つ。
「お……っ」
 現れたのは、壁を背に顔を強張らせた男三十五歳、バツイチ独身、恋人ナシ。
 撮影の瞬間、つい、眼を瞑ってしまったらしい。印画された隆之の両眼はきれいに閉ざされていた。撮るのはプロフェッショナルだが、撮られるのはアマチュアもいいところである。たとえ自分撮りといえど、被写体になるのは慣れていない。
 だが、問題はそこではなかった。
「……気のせい……だと嬉しいんだがなァ」
 隆之は力の脱けた声を上げた。
 少し伸びた無精髭も、眼の下のクマも気になるが、それよりも。
 ただの白い壁である筈の隆之の背後に、何か――――そう、たとえばアンフォルメルのような、意味不明な非定形模様の混沌とした冥さが口を開けている。その混沌のアンバランスな位置に、一つ眼を思わせる棗型の光が引っ掛かっていた。
 隆之は念のため、後ろの壁を振り返ってみたが、それは確かに煙草の脂に汚れた以外はこれといって特徴のない、白いだけの壁だった。
 写真に写らないものは信用しない、などとどこかで誰かに嘯いたのが悪かったのか。本当に隆之の手にかかると、写らないものはないらしい。そして、写ってしまったからには信用するしかないということか。
 いや。
 この場合、信用して、どうなるものでもない。
 気のせいだ。
 これは、きっと、気のせいだ。
 自分の手で撮影しておき乍ら、隆之は往生際悪く幾度も「気のせいだ」と呟くと、テーブルの上に転がっているミネラルウォーターのボトル隣にポラロイドカメラを置き、暗室へ戻った。
 戻ったはいいが、相変わらず周囲の空気は重く、現像作業は手に付かなかった。
 しかも、何だか頭痛まで酷くなってきた。
 ああ、もしかして、頭痛の原因もアレなのか。
 さっき写真に写ってしまったアレなのか。
 ならば、頭痛が始まった一週間前から、アレはこのあたりに存在したというのか。
 アレが原因なら、鎮痛剤が効かないのも道理。
 あまりにも嬉しくない結論だが、整合性はある。
「畜生、やっぱり撮るんじゃなかった、あんなモン」
 撮ろうが撮るまいが、在るものは在る。
 分かってはいるが、視覚で確認するという行為は人間から逃げ道を奪うものらしい。とすると、カメラマンとは何とも罪な仕事である。
「いったい俺が何したってんだ……って、心当たりはいろいろあるよなァ……」
 隆之の深い溜息が、暗室の闇に沈んだ。
 ズキンと頭痛の走ったこめかみから、厭な汗が一筋流れた。
 いつまでこうしていても仕方ない。
 隆之は、気分転換に顔でも洗うかと、洗面処へ向かった。


SCENE[2] 救いの冷蔵庫


 何かを吹っ切ろうとするかのように、勢いよく蛇口を開いて水道水を迸らせた。
 厚みのある頑丈そうな隆之の掌の上で水が撥ね、飛び散った。少し火照った手に冷たい水が心地良く、隆之はばしゃばしゃと何度も顔を洗った。
 全く、俺はこんな夜中に一人で何やってんだ。
 空気は重いし、
 頭は痛いし、
 現像は進まないし、
 その上、どう考えてもヤバそうな被写体サマとご対面ときたもんだ。
 大体、最近何かと怪しいモノがカメラに写りすぎなんだ。
 ついこの前も、アトラス編集部でアウェルヌスの入口なんかみつけちまった。
 あの時は、確か……そうそう、妙な波紋みたいなのが写ってたんだよな。
 で、逆に天井の星形の染みが写らなくて、霊界の影響がどうとかこうとか。
 波紋にしろ、染みにしろ、どうも水関係はロクなことがなさそうな――――。
「……水……関係?」
 隆之は、ハッと顔を洗う手を止めた。
 ちょっと待てよ。
 アウェルヌス?
 水?
 霊界?
 ロクなことがない?
「だから、つまり……水はヤバイんじゃ……ないか……?」
 そう気付いた隆之は正しかった。
 しかし。
 時、すでに遅し。
 おそるおそる顔を上げ、洗面台の鏡を見た隆之の眼に、カメラのファインダーを覗かずともはっきりと、靄めいた影が映った。
 最早、希望的観測は絶対的に不可能。
 影の中に光る一つ眼が、まるで隆之を品定めでもするかのようにくるくると揺れ動いている。
 隆之は、今すぐタオルで顔を拭くべきだと思った。
 何だか知らないが、水は霊を召喚し、異世界への通路を開くのだ。
 こんな状況下で気持ち良く水を浴びてしまった顔面はどうなるのだ。
 まさか霊のヤツ、口から入ってどこかへ抜けようとでも言うんじゃないだろうな?
 早く、一刻も早く、顔を拭かなければ!
「……って、うわああぁッ?」
 タオルを手に取ろうと、隆之が鏡から眼を逸らした、途端。
 うわんっ
 烈しい耳鳴りに似た音を曳き、影が隆之めがけて突進してきた。
「ま……ッ、待て! 落ち着け! まさか本当に俺の顔を入口にする気か!?」
 すんでのところで影の一撃を避け、隆之はタオルを掴み損ねた手を壁に突いて方向転換した。狭い洗面処で霊と渡り合うのは分が悪すぎる。せめてもう少し広い場処で対峙すべきだ。
 背後に影の気配を感じ乍ら、リビングへ駆け入った。
 窓でも開ければそこから出て行ってくれはしまいかと、窓際へ向かおうとして何かを踏み付け派手に滑り、転んでしたたか膝を打ち付けた。見ると、床に投げ出されていた《 クロスワード倶楽部九月増刊号 》が隆之の足の下にあった。
「こ、こんな時に……!」
 日頃から部屋を片付けておかない自分が悪いのだが、今は反省をしている暇も八つ当たりをしている余裕もない。慌てて体勢を立て直そうとした隆之の視界の隅に、小さな冷蔵庫が映った。
 ――――冷蔵庫。
 暗室脇に据えたその冷蔵庫は、食材を保存しておくそれではなく、リバーサルフィルムの温度管理をするためのものである。リバーサルフィルムは何かとデリケートな代物で、十三度前後の温度で保存しておかなければ、いざ使おうという段になった時に本来の性能が発揮されない。常温で放置しておくと、いわゆる温度かぶり現象、つまりは色ムラが生じたりするのだ。
 そのリバーサルフィルムを管理するために用意した冷蔵庫なのだが、そういえば、この前、フィルム以外のものを突っ込んだ気がする。あれは、何だったか。あれは、
「あ! 銀の水、か……!」
 隆之の心に明るい光が射した。
 アウェルヌスの扉を閉ざす、銀の水。
 霊界の水。
 あの銀の水があれば、あるいは。
「よ、よし、とにかく、やってみるしかねえか!」
 隆之は冷蔵庫に走り寄り、中から銀の水が入ったボトルを取り出した。
 と。
 ぬるり、
 臭気のある粘液が頸筋をぬめる感触に、全身の毛孔という毛孔が開いた。
「ひ……、ひい、ぃ」
 隆之は振り向くこともできず、震える手指で必死にボトルの蓋を外した。
「たっ、頼むから、効いてくれよッ」
 ぎゅっと眼を瞑り、背に向かって、ボトルを大きく振った。中からちゃぽんとこぼれ出した銀の水が、抛物線を描いて影に吸い込まれていった。


SCENE[3] 孤独な黎明


「た……助かった……」
 隆之はずるずるとその場に腰を落とし、冷蔵庫に向かって疲労感あふるる声音で囁いた。
 銀の水を振りかけた瞬間、一つ眼の影霊の鈍重な気配は消え、同時に隆之の頭もすっきりと痛みから解放された。
 水をこぼしたというのに床が濡れていないところを見ると、銀の水は影に触れて霊と伴に異界に旅立ったのだろうか。何にしても、銀の水は隆之の身を守ってくれた恩人、いや、恩水である。
 すでにカーテンの隙間からは、夜明けの薄陽が滲み入って来ていた。
 もう、朝になるのか。
 隆之が赤い眼を手の甲で擦った時、玄関の方で、がしゃん、と金属的な音が鳴った。新聞が郵便受けに差し入れられた音だった。
「……朝刊、か……」
 予定していた現像作業もできぬまま、一睡もせずに朝刊を受け取ることになろうとは。
 隆之はよろよろ立ち上がると、郵便受けから新聞を取って来、何気なく紙面を開いた。
「……ん?」
 三面記事下段に大きく取り上げられている《 谷蟆ダムの行方不明者、他殺体で発見 》のタイトル文字横に掲載された写真に、眼が吸い寄せられた。
 左眼を黒い眼帯で蔽った、中年女性の顔写真。長めの前髪の黒と眼帯とが融合して見え、棗型にくるんと大きな右眼だけがやたらと強調されて写っている。
 黒い影。
 棗型の一つ眼。
 他殺体。
「ハ……、はは……、まさか、なァ?」
 記事には、一週間前から行方不明とされていた女性が他殺体で発見された、とあった。直接の死因は、溺死。
「溺死か……」
 水、だな。
 隆之はぎこちなく表情筋を動かして苦笑い、それから急に泣きそうな顔で天井を仰いだ。

 もう、懲り懲りだ。
 世の中にカメラマン多しといえども、
 こんな思いで徹夜明けの朝を迎えてるヤツは、
 俺くらいのもんだ。

「あー……、眠ィ……」
 隆之は数回眼を屡叩かせ、床に寝転がった。
 その手に握りしめられたボトルの中で、半分ほどに減った銀の水が揺れていた。この銀の水だけが、一夜、隆之の大切なパートナーだった。
「……ありがとよ」
 そう呟いて静かに瞼を下ろした隆之の頬の上を、黎明の光が柔らかに過ぎった。


[被写体にご用心/了]