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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


胎児の記憶

【オープニング】

*
 網戸の向こうで、涼しげな虫の声を聴いた。
 夏の名残、惰性の壗に今夜も炊く蚊取線香の香りが鼻腔を擽る。
 女は、寝具の上で深くうな垂れていた。

 彼女は待っている。
 裁きの雷が彼女を撃ち、この身に宿った泥土の様な澱を霧散してくれるのを。
 彼女は、待った。

 枕の下から、薄く鋭利な剃刀の刃を取りだす。
 常夜灯の橙の仄灯に照らされて、不自然に白いその切っ先は煌々と光を反射させる。
 ある日彼女がそれをそっと枕の下へ忍ばせた時から、その刃は己の為すべき使命を悟って居た様に、今の彼女には思えた。
 指先に捉えた刃の縁に冷たい視線を走らせながら、彼女は薄く――微笑んだ様だった。
 己が腹部に掌を添え、優しく、撫でる。
 何度かその仕草を繰り返した後で、彼女は右手に捉えた刃の切っ先を、左手の首に当てる。
 ゆっくりと、押し当てる。

 ―――散。

 障子に散ったのは、桜色の飛沫。
 乾いた障子にぬめった飛沫が僅かに鳴ったが、後には矢張秋の虫が静かに草の葉を揺らすだけだった。

 夜風も絶えた。

**
「あの晩、俺は自宅でずっと作業をしていたんです。ご存知かどうかは判りませんが、週に一度の締め切りと言うのは実に大儀なものです。しかも火曜日と言えば締め切りの前日だ、俺が家を出てどうこう出来る訳無かったんですよ」
 男は、ソファを勧めてから数分としないうちに、堰を切った様にやかましく喋り始めた。顰めた表情を、草間武彦はたばこの煙を吸い込む仕草に隠す。
 草間興信所。エキセントリックな事件の解決はエキセントリックな人物に依頼しろ…天下の警視庁にですら、そんな格言が浸透し始めている。
 エキセントリックな人物とは、言わずもがな。
 草間興信所の所長である武彦の事である。
「――事件に関しては、新聞で拝見しています。現代詩人、佐波陽子【サナミヨウコ】が謎の死を遂げる…ですがそれは二ヶ月も前に、失礼…自殺だったと警察も断定したそうですが」
 慎重に選んだ言葉をゆっくりと紡ぎ、武彦は目の前の人物――佐波慎一【サナミシンイチ】の表情を窺う。彼自身、慎一の狼狽え振りには何か不自然な物を嗅ぎ取っていたからだ。
「それが今になって、畜生あいつら――俺のアリバイには証人がいないとか言いだしたんですよ。書斎に立て篭もって原稿用紙と格闘するフリーのライターに、アリバイも証人も有りゃしないってのに…‥・!」
 ギリ、と爪を噛みながら、慎一は心底悔しそうに毒突く。その表情を武彦は、じ…と見据える様に観察していた。
「何て言ったって、火曜日は水曜日の前日ですから。担当と二、三、電話での遣り取りはありました。でも、それだけじゃ列記としたアリバイとは成り得ないなんて、あいつら…畜生!」
 うな垂れた慎一に、心中お察しいたします、と。
 零が蚊の啼く様な小さな声で、彼を慰めた。

***
 激昂する慎一を宥め賺しながら、武彦は最後の最後にその首を縦に振った。
 依頼を受ける事の意思表示である。
 ただし、それが慎一に取って必ずしも芳しい結果を収める事にはならないかも知れない事に、あらかじめ釘を刺す。
 一頻り激情を露にした後の慎一は、その言葉に小さく頷き――隈に縁取られた眼差しをそっと伏せたのだった。

「慎一のアリバイを証明する事がまず先決だろうな、それと――ヤツがどうしてあんなに脅えているのか、それを知る必要がある」
 給湯室から現れ、デスクの上に年季の入った湯飲みを置く零に、武彦は己の心中を反芻する様に言葉を聞かせる。
 彼女はと言えば、先ほどの慎一の激情に当てられたのか…唯無言で、こくりと頷くだけだった。
「―――双子、か」
 吐き出す紫煙の向こうに茶の湯気を見詰めながら、武彦は己の顎に手指を宛て。
 考え込む様に、黙り込む。

 依頼人、佐波慎一。職業フリーライター。
 依頼内容、依頼人の身の潔白の証明。
 極秘任務――依頼人の焦燥の理由を探り、現代詩人にして依頼人の双子の妹・佐波陽子の変死との関連性を見出す事――

「――ま、脅しても口を割らないだろうからな。外堀から埋めて行くしか無いだろう」

【赤坂修也】

「――それで、どう言ったご用件でしょうか」
 赤坂心療内科、その診察室である。
 プラチナブロンドの麗人、ウィン・ルクセンブルク…それに和服姿の十桐朔羅が、勧められた丸椅子に腰掛けている。前の患者のカルテを纏めていたのだろうか、漸く机から身を起した院長、赤坂修也【アカサカシュウヤ】が二人を見詰めて口を開いた。
「先日お亡くなりになった、佐波陽子さんの事で――」
 面持ちに僅か表している苛立ちの様な色は、今回の依頼に対する焦燥そのものが滲んだ結果なのだろう。ルクセンブルクは神経質そうな指先で、耳に髪を掻け直す。
 これと言って、特筆すべき特徴の無い白い部屋。視界を刺激するのは明るいオフホワイトの壁紙のみである。むしろ、その無特徴さそのものが特徴と言えなくもない――十桐はただ沈黙のままで、そんな室内をただ見回していた。
 赤坂と呼ばれ若い医師は、ああ、と小さく相槌の様な曖昧な返答の後で、ずれた眼鏡のつるをゆっくりと押し上げた。
「あの頃にも、警察の方々が見えられては…いろいろな話しをさせられました。確かに彼女は自分が治療を行っていましたし、交際もありましたが――どうして自殺などと言う形を彼女がとらなくてはいけなかったのか、決定的にそれを表す事の出来る様な事実は、どのカルテにも載っていませんよ」
 当初、警察は「元恋人との痴情のもつれ」と言う線で捜査を行っていたらしく、赤坂の提出したカルテの内容すら信用しないと言う有り様だったらしい。
 だが晩年の彼女が以前ほど頻繁にこの病院を訪れなくなっていた事もあり、警察はしぶしぶと言った具合に陽子の死と赤坂を関係付ける事を断念している。
「別れ話の一言一句まで丁寧に聴取されました。現場検証で、彼女が自ずから命を絶った事は証明されている様なのですが…彼女を自殺に追いやったのは、僕と離別した事が直接の原因だったのでは無いか、と。まあ、要するに――僕も疑われていた訳です」
 ギシリ、と椅子を軋ませながら赤坂が苦笑する。そしてから右手で机の脇にある引出しを大きく引き開け、その中から薄い書類の様なものを手早く取り出した。
 十桐が受け取ると、それには佐波陽子、と書かれて居り――右上がりの角張った文字で、陽子の治療の内容が事細やかに記されている。
 カルテだった。
「彼女がここで受けた治療と、報告してくれた日々の生活が記されています」
 十桐は、伏せた眼差しのままでゆっくりと――それらに目を通し、緩やかに足を組んだ。
「随分と協力的でいらっしゃるのね…‥・。…と言う事は、」
 ――ご存知なのね、と。
「………」
 ルクセンブルクの言葉に、赤坂が静かに口端を引き上げる。
 音も無く、笑み――そして。
「・‥…誰の子供だったかまでは、存じ上げませんが」

「本当に煮え切らない男…! 信じられない。ねえ、医者ってみんなああいう人種なの!? アイツが特別で、アイツが一番心を病んでると言う事!?」
 カツカツと、堅い踵をアスファルトに鳴らしながら、ルクセンブルクが十桐に語りかける。
 その歩調に続きながら、それでも僅かな焦りも感じさせない横顔の十桐が、仰いでは標識を確認する――草間興信所へ戻るための道を確認する為だ。
「いや。――私には、そうは思えませんでした。…ただ」
「ただ?」
 苛立たしげにルクセンブルグが合いの手を打ち――ちらと十桐を見遣る。
 彼の横顔には、やはり表情が伺えない。
「その道の手だれとも言うべき、彼の様な人間を魅了してしまう様な、そういう…感情や事象、関係…が、佐波陽子と――何者かの間に、有ったと言う事なのでしょう」
 淡々とそう告げる十桐の顔を、尚もじっと見詰めていたルクセンブルグが。
 ふ、と笑んだ。
「すごいでしょう? でも」
 それが、双子、なのよ。

 赤信号に立ち止る二人の前に、大きなトラックが過る。
 そのエンジン音に掻き消されて、ルクセンブルグの言葉は消えた。

【AA、AO】

「性別までは判りませんでした――でも記録によれば、ご遺体が妊娠していらしたのは確実だった様ですね」
 検死書を小脇に抱えながら現れた大石警部は、トレイの上のインスタントコーヒーを零さぬ様そっとそれぞれの前に置き、自分は自分のカップからずずず、と音を立てて中身を一口呑み込んだ。
「血液型とか、何ヶ月くらいだったかとか――少しでも、何か…‥・」
 ソファの上で両手を握り締めたままで、海原みなもが上目に警部に問う。セレスティ・カーニンガムは車イスから僅かに身を乗り出して警部から検死報告の書類を受け取り、それをみなもに手渡した。
 佐波陽子。女。24歳。
 出血多量によるショック死。
 その結論に至るまでの細かな解剖結果がそこには記されている。
「剃刀で、すぱっとこう――左の手首を切ったらしいんですね。障子にまで血液が飛び散っていたらしいので、けっこうな勢いで切ったんでしょうな」
 大石警部は身振り手振りを加えながら――カーニンガムに向けて簡単な説明をする。彼がその目を盲ている事に気づかなかったのだろう。
 だが、ほんの僅かに感じる空気の揺れと、彼の口ぶりに。カーニンガムは緩やかに頷きを落としながら大石警部の言葉に耳を傾けていた。
「胎児の血液型は、確かご遺体と同じだったと…‥・ほら、A型と、ここに」
 大柄なれど、さほど鬱陶しさを感じさせない大石警部は、コーヒーのカップを再び口に運んだ後で、身を乗り出して書類の紙面を指差す。みなもはその指先に視線を遣り、んん、と曖昧な思考の声を漏らす。
「BB型、それにABの男性以外が相手である、と言う事になりますか」
 そんなみなもに対し、カーニンガムが口を開く。大きく頷いた所で、ふと――カーニンガムにはそれが見えないのだと気づき、はい、と慌ててみなもが返事をした。
「変死とは言え、陽子さんの死因が自殺であった事は明白だった訳ですから―――」
「そうですね、今となっては、それ以上の事は判らないと思います」
 ありがとうございます、との礼と共に、みなもは警部へとその書類を返した。

「産婦人科へ行った形跡も無い、形ばかりの血液検査しかなされていない、遺体もとうの昔に焼却されている――となると…」
「厳しい、ですね…実際、お腹の中の子が、誰との子だったのか…‥・きちんと証明する事が出来ません」
 先だって、佐波陽子――慎一の双子の妹、である――が、新しい命を宿していた事を知っていた。
 彼女が唯一心を開いていたと言われている、出版社の担当者がそれらしき事を本人から聴いていたと言うのである。
 ただ、その父親について言及する事はしなかった――相手は24のれっきとした女性である。また、それほど入り組んだ事情である等とは思いもしなかったのであろう。
「何にしろ、こちらからの洗いだしは…難しそう、ですね」
「決定的な証拠は掴めなそうです。………」
 カーニンガムの車イスに右手を添え、みなもが不意に口唇を噤んだ。そのまま、思案に沈む様に眉を寄せ――そしてから、再び静かに、口を開く。
「生まれて来る前に失われてしまった子供は、……どこに行くんでしょうか――」
「・‥…――」
 ああ、と。
 カーニンガムは思った。
 彼女の心を占めていたのはそれなのかと。
 なんとなく伝わり合う。その感覚は、おそらく互いの身体に流れている血筋の所為であるらしかった。
 彼はみなもの白くすべらかな顎を見上げ、しばしの間、沈黙する。
「還るんだろう。海に」
 それだけ告げると、みなもはカーニンガムを見下ろし――そして、哀しげに笑んだ。

【佐波慎一】

「随分と美人さんなんだな…‥・」
 慎一に手渡された一葉の写真を覗き込み、感心した様な声音で武田――武田隆之は率直な感想を述べた。
 草間興信所。
 忙しいからと、一度は再びここに赴く事を拒んだ慎一であったが、捜査にどうしても必要な事であるからと説明すれば、しぶしぶと言った風に慎一はその姿を表した。
 その言葉に嘘は無かったのだろう。僅かに伸びたつやの無い髪に、ところどころ剃り残した無精髭の顔が印象的だった。
 ただ黙り込んで、武田の手先に捉えられている妹の笑顔を盗み見ている。
 眩しいまでの、しかし鋭くはない佐波陽子の笑顔をしきりに観察する素振りで、武田はそんな慎一の様子を盗み見ていた。
「詩人――なあ…‥・」
 溜息の様な声音で武田は呟き、慎一に写真を返した。ちらりと視線を遣った窓辺、カーテンの横では草間武彦が胡散臭そうな眼差しでこちらを見ている――畜生。意味もなく武田は己が内で毒突いてみる。
「何か、アレなんだろうな。毎日毎日、詩とか、一瞬のホラ…ひらめきみたいなモンばっかりを追いかける様になっちまうと、……そういうのに、引き込まれるみたいになっちまうのかなァ――」
 捉え様によっては、それは「他人事」という感情を孕むような口調であったかもしれないが。
 武田は、些か困惑していた。
 彼が得意とするのは、ファインダーを覗く事――そして、己が見たまま、触れて感じたそのままを四角く区切って写真に残す事、それだけであった。
 その彼が、先ほど佐波陽子の写真を、その笑顔を手にした時である。
 そこに、終焉の影が色濃く刻まれていた事を、強く感じたのだ。
 彼女は実際美しかったし、詩人と言う職業にその儚さがとても似合いであると武田は感じた。
 が――
「・‥…兄ちゃん、どうした。すごい汗だな」
 ふと目の前で俯く男の、散った髪の隙間から覗く額に滲んだ汗に眼差しが止まった。注意深く、だがやや朴訥さを孕んだ武田の声が興信所の室内に響く。
 小さな四角に区切られた写真の中で笑みかける――それはファインダーを覗く者に向けられた笑顔――陽子の、儚く白い光を帯びた様な緩い笑みの、その輪郭が、視線の先が。
 ぴたりと、武田の中で嵌り有った様な気がした。
「――なあ」
 筋肉とぜい肉が程よく隆起する大きな背中を丸める様に身を乗り出して、武田は慎一へ言葉を掛ける。
「俺ぁ、カメラマンやってんだよ。まあ、仕事だからな――大抵はどうでも良い奴とか、煮え切らない奴とか…まあとりあえず、ファインダーを覗いて写真を撮る。好きなものも嫌いなものも、沢山撮って来たし、沢山の奴と、見詰めあってきた。…コレを通してな」
 言いながら武田は、傍らのカメラに手を伸ばす。年代物で、ボディの所々には傷がついている。だが毎日、武田自身がきちんとした手入れを行い、今や己のパートナーとも言えるべきそれだ。
 それを一撫でしてから、眼差しのみで慎一を見る。
「この写真な、すごく良い出来栄えなんだよ――被写体が、カメラマンを信用してる。理解してる――判りあってる、とか言っても良い位だな。そうじゃないと、こういう顔は撮れない。無意識のうちに選び合ってるんだ、カメラも、カメラマンも、そして――勿論、被写体も」
 膝の上で握り締められている慎一の拳が、細かな震えを帯び始める。
 警察での取り調べにも、おそらくは――妹の自殺の報にもさほど動じる事は無かったのであろう彼が、カメラマンだと言う目の前の男の、与太とも付かない淡々とした言葉に、僅かな焦燥を見せ始めている。
「・‥…これ、撮ったのは兄ちゃんだろう? まさかとは思うが、アンタ、…妹さんの事…」
「愛していたのでしょう」
 背中に聞いたのは、凛とした女の声。
 十桐、そしてルクセンブルクが、扉の前に立っていた。

【その時、女は】

 ルクセンブルクは、男を――十桐朔羅を従えているかの様に、大きく開けた扉の前に仁王立ちになっている。その手には小さな本が捉えられており、意味あり気な眼差しで慎一を見遣った後で開かれた。
「随分と繊細な女性だったのね。ご存知だった?」
 ぺらり、ぺらりと。
 勿体ぶる様に、ゆっくりと捲られるページの音に、慎一がその本の背表紙を食い入る様に見詰めた。
 薄い桜色の、見覚えのあるそれ。
 妹――陽子が自ら命を絶つ数週間前に発行された、それは言わば遺作とも言うべき作品集であった。
「抽象的な描写の多い方―――最初に読んだ時は、そんな印象しか受けなかったの。でも、違う。
 これこそが、彼女のリアル――表現しえる全てが、ここに記されていた」
 慎一は、ルクセンブルクの言葉をじっと聞いている。
 握り締めた拳を見下ろし、おそらくは目を閉じ――言葉を聞きながら、記憶を辿っているように、短い呼吸を一度、した。
「――粟立つ木立の慎ましやかな横顔…」
「凛々しく息吹くそれの果てに、零れる泉を共に讚え様」
「一度だけの、ただの――」
「言い訳はお止めなさい。見苦しい」
 沈黙し、事の次第を見詰めていた十桐が、不愉快そうに目を細めながらぴしゃりと慎一に言葉を投げる。ただ一人事情を理解できない武田のみが、慎一を、そして突如姿を表したルクセンブルクと十桐を交互を見詰めては、ぽかんと口を開けていた。
 無意識に掌は己がポケット、煙草へと伸ばされる。
「読んだのでしょう? この本を――おそらく何度も。・‥…何を感じたのかしら、あなたは?」
 苛立つ。
 ルクセンブルクにとって、目の前のこの頼りない男が「双子」の兄である事と言うのは、捨て置けない事実の一つである。
 どうしても、比べてしまう――己が兄、と。
「憎らしかった? 言葉に出してあなたを責めない彼女が。それでもこんな風に…妊娠を喜ぶ事が」
 妊娠。
 その言葉をルクセンブルクが口にした時、慎一の口端が僅かに引攣った。
「あなたになら伝わるだろう、あなたになら喜んで貰えるだろう――そんな彼女の思いは、あなたにとって――疎ましい事でしか無かった…?」
 そんな慎一の様子を視界に留めながらも、ルクセンブルクの言葉は止まない。尚も慎一を言及しようとした彼女を止めたのは、更なる来訪者の足音、だった。
「もう――それ以上、愛しい人を哀しませる様な事、しないで下さい…‥・」
 海原みなもの、小さな声が室内に響いた。
 
【零れた泉】

 彼女のか細い言葉の後、小さな軋みの音と共にカーニンガムが姿を表す。
 車イスに乗り、傍らのみなもよりも視線の低い彼の姿は、それでも堂々と、大きく見えてしまう。
「思ったよりも、簡単ではありませんでした。証拠は、見つけられるに至りませんでしたが――でも」
 確信には、至りました。
 カーニンガムの言葉に、みなもが力無く頷く。
「――ちょ、ちょっと待ってくれ」
 咥えたまま、火を灯していない煙草の端を噛みながら――武田が些か慌てた様に言葉を次ぐ。
「俺にも判る様に説明してくれや…この兄ちゃんは…‥・一体、何をしたってんだ…?」
 慎一の目の前のソファに腰を下ろしたまま、その身を捩らせつつ武田が問う。その様子に、十桐が慎一から眼差しを逸らさぬまで静かに答えた。
「おそらく、――佐波陽子を死に至らしめたのは、そこにいらっしゃる佐波慎一…‥・その人ですよ」
「厳密に言うなら、そのお腹に宿っていた…‥・二人の間の子供、も」
 言葉を継いだのはカーニンガムだった。人の輪郭すら捉えないその蒼い瞳が慎一の辺りをじっと見据え――そして、閉じられる。
「為事を依頼する興信所を間違えましたね…‥・そこにある事実や道理だけで、我々はあなたの思う通りには動かない」
「何…‥・を・・・」
「さっき、一度だけ――そう仰いましたね?」
 十桐が、一度は己が遮った言葉の先を透かす様にそう問いたずねる。此処に至り、漸く合点がいったとでも言う様に武田がああ!と声を漏らし、みなもが切なげにその眉を寄せた。
「――確認…したかったのでしょう?あなたと、そして彼女を繋ぐ絆の深さ…‥・それまでにも、…不思議で溜まらなかった。どうして二人は、別の意識を持つ、別の生命体として生まれてきてしまったのか。もともと一つであった筈なのに、どうしてまた一つになれないのか――だからあなた達は、確認したかった。『一度だけ』、それをすれば…あとは大丈夫だと、思ってた」
「ア…アンタ…‥・」
 緊迫した武田の声。既に己がたばこを咥えているのだと言う意識すら無いのだろうか、噛んだフィルタに前歯が食い込む。
「どこに、誤算があったんだと思います? 妹と関係を持ったそのこと自体に? それとも、…妹が、たった一度の関係で…身ごもってしまったこと?」
「その子を、産みたいって――陽子さんが願った事…‥・ですか・・・?」
 執拗な、一堂の言葉に。
 慎一は既に狼狽える事も無く、視線は彼方窓の外を眺めて放心している様でもあった。
「――汚らわしい。あなたが彼女に抱いていたのは、愛情でも、回帰でも――ましてや、母性でも無かった。…ただの…執着」
 開いた紙面に視線を落としていたルクセンブルクが、ぱたりと音を立ててそれを閉じた。
 もう終わりだとでも――言う様に。
「―――あの日」
 押しだす様な声音は、食いしばった慎一の歯の隙間から漏れる。
「あの日、ただ…いけない事だと――強く思った。陽子が子供を産みたいと言う意志を俺に――伝えた日」
 かっとなり、怒声を発しようとしたルクセンブルクの服の裾を、みなもが掴む。
 もう言うべき事は、何もないのだと。
「あの日、あの時に…もう、全てが変わってしまったんだ。強く念じたのは、そう――多分、『断て』――言葉にするなら、多分そんな気持ちだったと、思う。・‥…産むなら産めば良い。堕ろすなら、堕ろせば良い――ただ、今まで俺と共有していた互いへの執着が、子供に向けられたと感じた――から」
 その執着を、断て、と。
「あれが死んでから――何も手に付かないよ…‥・どうやって自分が生きて来たのかすら、上手く思い出す事が…‥・できないんだ・・・」

【死んだ男】

 それから、約半年後。
 やっとの思いでこぎつけた連載を慎一は投げ捨て、ただメディアに姿を現さない日々が続いていた。
 だが、彼の名は「仕事場で見つかったライターの変死体」として、週刊誌の紙面を飾る事になったのだ。

「まあ、そうでしょうね――今更になって罪の意識に駆られても、警察が裁いてくれる訳でもないでしょう。殺人示唆として形になる言葉を投げた訳でもない、ましてや直接手を下した訳でもない。現代日本でミイラになれるなんて仕合わせなもんだわ、最後まで勝手だった男に相応しい死に様じゃない」
 電話口でルクセンブルクはせせら笑った。
 武彦は受話器を置き、あの日の憔悴しきった慎一の弱々しい言葉を思い出す。

「自分が、あの精神科医でも、お腹の中の子供でもない――何にもなれず、ただ佐波慎一である事そのものに、深い罪悪感と嫌悪を持った。愛する者と同じ腹から産まれた事そのものが罪なんだとしたら、俺はその罪だけを償いたいと思う。たとえ、この命をかけても」

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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1252/海原・みなも       /女/13 /中学生
1466/武田・隆之        /男/35 /カメラマン
1883/セレスティ・カーニンガム /男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い
1588/ウィン・ルクセンブルク  /女/25 /万年大学生
0579/十桐・朔羅        /男/23 /言霊使い


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■         ライター通信          ■
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こんにちは、森田桃子です。
「胎児の記憶」をお届け致します。
今回、平素よりお届けが遅くなってしまい、申し訳ありません。

未だ拙い描写ばかりでお恥ずかしい限りですが、
少しでもお気に召して頂ければ幸いです。

ご意見やご感想など、次回の作品への励みになりますので
どうかお気軽にお寄せ下さいませ。
不慣れな不束者ですが、皆様、どうぞこれからも宜しくお願い致します。
この度は本当に有り難うございました。

担当:森田桃子