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<東京怪談ノベル(シングル)>


悪魔のトリル -Red Violin-

「──……っ!」
 指が縺れたと同時に、又しても鋭い痛みが指先に走った。薄らと血が滲んでいる。──これで何度目だろう。
──……勘弁して欲しいよな、……プロの演奏家でもない俺に、 
 涼は眉を顰めたままきゅ、と口唇を吊り上げる。
 ……勿論、そんな云い訳がこの「意思を持った」楽器に通じる筈は無いと分かって居ながら。

──────……

 草間・武彦と零が見守る中、珍しく静かな草間興信所の応接室で御影・涼(みかげ・りょう)はテーブルの上のヴァイオリンケースを開けた。
「……ふーん……、」
 そして、慎重な手付きで中のヴァイオリンを取り出す。丁寧にそれを検分している涼に、草間が云う──相変わらずのヘビースモーカー、煙草を取り出しかけて、涼の手の中のヴァイオリンを指した零に兄さん、今は駄目です、と止められている。
 そこまで気を遣う必要はないが、他人の持ち物である限りすぐに匂いの移ってしまう木製楽器の前では止した方がいいだろうな、と涼も苦笑した。長時間煙の中に放置すればタールを含んだヤニさえ音質に影響する事もある。
「このヴァイオリンがおかしいらしいんだ。弾いた人間が次々と怪我をして演奏が出来なくなるとか」
 この音楽音痴の怪奇探偵の事だ、自分では調査し兼ねると見て涼を頼ったらしい。
「もしかして亮一さんから聞いた? 俺が少しヴァイオリン齧ってたって」
 草間にそんな事を云った覚えが涼には無い。果たして草間は頷いた。
「それに、『あの依頼』の時もお前、中に居たんだろ? 音楽と霊的な物が絡んだ事件なら、うって付けじゃないか」
 そうだったな──「あの依頼」、少し前に涼も関わった、音楽の世界に精神を閉じ込められてしまった青年の救出劇。彼の亡くなった恋人の思念体まで絡んだ、不可思議極まりない事件だった。
 それはともかく、と涼は楽器の状態を目視点検する。イタリア製だろうか、赤みの強い色のボディだ。割合新しい物らしく、ニスの剥げやひび割れも無い。
 新しい、と云っても勿論ここ数年、という訳ではない。オールドなら400年近く前の楽器すら存在するヴァイオリン、製作から100年未満であれば「新しい」部類に入る。軽く指の関節で表板を叩いて見た涼は、大体50年位だろう、と見当を付けた。──否、そうした曰くがあってあまり使用されていなかったとすれば……それにしても100年は経っていないだろう。
 制作者のラベルが無いかとf字孔を覗いたが、ラベルは存在しなかった。が、返してみれば裏板には目を奪われる程美しい虎目が見える。それだけで、熟練の職人に依る物だろう事は知れるが──。
「見た所妙な箇所は無いね。……そうだな、強いて云えばここにちょっと黒い染みがあるのが気になるけど、手擦れの跡と云えばそれまでだし……」
 そう、涼はネックの裏側を軽く撫でて呟いた。演奏中は常に親指と人さし指の間に擦られる為、どの楽器に於いてもニスが剥げて色が薄くなっている部分だ。そこに一部、ぼんやりと影のような染みが滲んでいる。ニスが剥げて居る上、常に手の触れる位置なので汗の跡や汚れが付着し易い部分でもある。ともかく、これが原因とは考え難い。
「……実はな、弾けないにしてもちょっと音を出してみようかとは思ったんだよ。でも、駄目だった。滅茶苦茶な音どころか、すかっ、とも鳴らなかったんだ。零も試したが、駄目だった。それで、お前を頼ったんだよ」
 草間は苦く笑いながら髪を掻き回して白状した。鳴らない? と涼は訝る。
「いくら弾き方が悪くたって、無音と云うのはおかしいな」
「やっぱり、曰く付きなのか……」
 神妙な表情で低く唸った草間とこのヴァイオリンを見比べている内、涼はある可能性に思い当たって一緒に仕舞われていたボウを取り出した。
 ボウの方は、大量生産の安物のようだ。全く新品らしい所から見て、調査依頼に当たって取急ぎ買い求めた物だろう。その、弦に触れる馬の尻尾の部分に指を当てた涼はやっぱり、と呆れた表情を真面目くさった顔の草間に向けた。
「……鳴らなくて当たり前だよ、……この弓、全くの新品じゃないか」
「だったら?」
 涼は続けて、ケースの小物入れから紙製の小さな筒状の箱を取り出し、蓋を外して草間の目の前に突き付けた。
「何だ、それ」
「松脂」
「?」
「……、」
 涼は微笑しながら、螺子を回して張ったボウを、その琥珀色の固まりの上に滑らせた。まあ、一概には笑えまい──よくある事だ。粘着製を持った松脂をそのボウに塗って弦を引っ掛け、音を出すヴァイオリン──松脂が全く付着していない状態では、すか、とも音が鳴らないのは当然である。

 ちょっと良いかな、と断って涼はヴァイオリンを構えた。ともかく音を出してみよう。
「……、」
 調弦の時点で、音の抜けは大分良い事が分かった。皮膚を通して、ボディが非常に「鳴って」居るのが分かる。
 弾き始めたのは「パッフェルベルのカノン」、本来はアンサンブルでの輪唱形式の掛け合いが美しい曲で、一台では少し物足りないが、無理のない音域のロングトーンが多く、指慣らしを兼ねて音を聴くには持って来いの曲だ。
「──……、」
 ほう……、とでも云うように草間と零は耳を澄ませて涼の手許に見入っている。
 弾き終えた涼は二人の拍手を受けつつ、首を傾いだ。
「……特におかしくは無いよ、何も『感じ』無いし……」
 感じる、とここで涼が云うのは霊叉の類や「念」、彼が感じ取る事の出来る人や物に宿った感情の事だ。曰くが在るとすれば、何らかの感情が読み取れそうなものだが。──肝心の音、は。
「ね、このヴァイオリン、結構な名器みたいだけど。……ストラディヴァリのような繊細な音やグァルネリのような深みを併せ持ってて。……でも、無銘なんだろ? ……それに、ここまで音が響く割には新しいよね」
 何故ヴァオリン等の木製楽器はオールド、オールドと騒がれるか。それは、木が100年単位で乾燥してその分良くボディが振動するからだ。ここまで新しい楽器で、これ程の響きが出るとしたら、やはり類稀な天才職人の手に拠る物としか考えられない。
 再び、涼はf字孔を覗いた。ラベルは無くとも、たまにサインペンやインク等で裏板に直接銘が記されている事もある。そうした物がないか確認しようと灯りに透かしながら角度を変えつつ中を覗き込んだ涼は、はっとした。──有り得ない事だ。
「……草間さん、分かった。……これ、やっぱりおかしいよ」
「どうした?」
「……魂柱が無い、このヴァイオリン」

 魂柱、とは楽器の内部、丁度駒の下辺りに立っている細い木の柱の事だ。注意して見ないとその存在に気付きさえしないが、実際には駒を通して表板に伝わった振動を裏板に通す、尤も重要と云える部品の一つだ。文字通り、楽器の「魂」なのだ。
 その存在無くしてここまで音が響くのはやはりおかしいとしか云いようがない。それが、どれほど美しい音色であっても──否、だからこそ。
「草間さん、懐中電灯あるかな、」
 ペンライトなら、と云って草間が雑然としたデスクから掘り出して寄越した小さなライトを受け取った涼は、内部を照らして更に注意深く観察した。そして、果たして見つけたのである。余程探さない限り気付かないような裏板の陰に直接書き込まれた銘──メッセージを。
 
──Red Violin, fur Diavolo

「『悪魔に捧ぐレッドヴァイオリン』、か──」
 大仰な名前だが、魂柱無くしてここまで音の抜ける事実を知った上ではあながち一笑に附す事も出来ない。それに、涼にはこの「音質」が気に掛っていた。
「倍音が尋常じゃないよ、これ。……普通、ヴァイオリンの音域ではここまで倍音が響く筈はないんだ。勿論、その分深みが出るのは確かだけど。……気味が悪い音でもあるよね。……さっき、『パッフェルベルのカノン』を弾いて思ったけど、ああいう音楽向きじゃない。……寧ろ……」
 ……悪魔に捧ぐ、か──。確かに、あの曲にはお誂え向きと云えそうだ。
「……あの曲は、途中までしか弾けないけど……試しに弾いて見ようか」
 ──「悪魔のトリル」を。 

 タルティーニ作曲の「悪魔のトリル」は、最初は非常に穏やかで繊細なト短調の旋律で始まる。
 反復は省略してラルゲットを弾き切った所で涼は右手のボウを少し持ち上げて短く息を吸った。──ここが、面白い所なのだ。ここまでキリスト教に於ける三位一体を表すと云う3拍子で穏やかに流れていた旋律は、この小休止を境に激しい二拍子のパッセージに変わる。そう、「悪魔のトリル」という曲名が示す通りの細かで魅惑的なトリルを伴って。
 こんなエピソードがある。作曲者のタルティーニはある夜、悪魔が枕許に現れて自分のヴァイオリンで遊び始めたのを見た。その悪魔のトリル遊びに魅せられたタルティーニは、彼に魂を売り渡す代償としてこの曲を貰った、という物である。ヴァイオリニストならずとも、誘惑を感じる逸話だ。
 トリルが連続的に出て来るのもここからだ。12/8から2/4へ、三位一体の三拍子系から不完全な二拍子系へ転じるこの個所こそが、作曲者、或いは奏者が悪魔に魂を売り渡す瞬間だ。
 調査とは分かっていても、つい夢中になってしまう。
 思った通り、豊か過ぎる程の倍音を持ったこのヴァイオリンの音色は一層この曲のパッセージを引き立て、トリルの魅力を際立たせた。演奏している涼自身が冷静さを失ってその音色に魅了される程。
 然し、アレグロ前半部は一見複雑な重音も無さそうに見えるこの曲、非常に難易度は高いのだ。指の長い涼は有利だが、それでもすぐに完璧に弾ける曲ではない。段々と運指が怪しくなって来た。──そして、完全に指が縺れた瞬間だ。
「──っつ!」
 俄に演奏を止め、楽器を置いて左手を押さえた涼に草間がどうした、と声を上げる。
「弦が──、弦が、噛んだ……?」
 左手の薬指の先が切れ、血が滲んでいる。

──────……

 大丈夫か、と不安気な表情の草間には明るく平気だよ、と答え、「悪魔に捧ぐレッドヴァイオリン」を涼は自宅に持ち帰った。
 「怨念みたいなものは感じないし、何より、こんなヤニだらけの場所に置いておけないよ」、と笑いながら付け加えて。
「……、」
 涼はケースを開け、保護布を退けて何とも云い難い深い赤色をしたヴァイオリンをじっと睨み付けた。手に取るのが怖い気もする。その彼の左手の薬指には、零の貼ってくれた絆創膏が存在を主張していた。
 ──あの瞬間、楽器が弦という牙を剥いたように感じた。思わず、噛まれた、と吐き捨ててしまったように。
 草間には何も云わずに「暫く弾いて無くて指先の皮膚が鈍ってたんだ」と笑ったが、一見鋭利なワイヤーのように見える弦でも、コイル構造になった三弦は無論、シングルの一弦でさえ、わざわざ刃物にする気で滑らせなければ皮膚を切りはしない事は良く分かっている。──それに、一瞬だけ脳内に流れ込んで来た「感情」……。あまりにも一刹那の事でその本質を見極める事は出来なかったが、少なくともやはり何かしらの「意思」をこのヴァイオリンが持っていることははっきりした。
 これは思ったより厄介だぞ、と涼は直感した。長丁場になりそうだ、と楽器共々、草間興信所から引き上げた訳だ。
「……、」
 時計を一瞥する。まだ、近所迷惑になる時間ではないだろう。
 心の中で、よし、と決心すると涼はヴァイオリンを手に取った。
 そして帰宅早々、医学書に埋もれた本棚から掘り出して来たヴァイオリン曲の楽譜を広げる。名曲選と銘打って、音楽好きならずとも耳にすれば、ああ、と思うようなお馴染みの小品ばかりが揃った楽譜だ。最後の2、3曲はともかく、全体的な難易度も比較的低い。こうして、ただ楽器として傍で見ている分には何の感情も伝わって来ない以上、とにかく弾いてみるしかない。これなら閊えずに弾けそうだ、と思った物を選って片端から弾いて行くつもりだった。
 薬指の傷は辛うじて塞がってはいる。──ただ、中々決心が付かなかったのは、逆に自分がその音色に魅入られそうで怖かったからだ。
 「白鳥」、「タイスの瞑想曲」、「愛の夢」……、これ程の名器で美しい旋律を奏し続けても、然し涼には不満だけが募る。似合わない。シンプルな旋律にはこの楽器は手に余る。……それに、どんなに上手く弾いても手中の楽器は何の「意思」も解放しないまま、静かに沈黙している。
「……やっぱり、あれを弾けって事かな」
 弾き手に対して我侭な楽器だよ、と涼は苦笑した。
 「名曲選」を閉じ、別のピースを広げる。「Le Trille du diable.」、──「悪魔のトリル」。
 元々、この曲の誘惑に負けて難易度を無視して一度は取り組んだものの、最後まで弾けた試しはない。──だが。
「この曲でないと、駄目なんだろ」

 近所迷惑を慮っていた当初の落ち着きはどこへやら、涼は既に何時間もヴァイオリンを弾き続けている。アレグロもグラーヴェを経て後半部へ差し掛かれば悪魔そのもののような「トリル遊び」が頻出し、最終的には無茶としか云いようのない音域に渡る重和音のパッセージが続く。どれ程集中しても匆々、楽に弾き切れる訳はない。
 掠れて滑り易くなったボウに再び松脂を塗る為、一旦楽器を置いた涼の左手の四本の指は既に血だらけだった。「悪魔のトリル」に取り掛かってから、指が縺れる度、或いは音を外す度に弦はその「牙」を向いた。始めの時こそいちいち絆創膏を貼ったりもしていたが、段々と切り傷等気にしていられなくなった。思い切ると涼は、邪魔だ、とばかりに絆創膏を全て毟り取った。時間を経て軽く塞がった傷口も、強く弦に叩き付ける事で再び口を開き、それにも構わず押さえ損なった指が新しく切れる。血液が付着した指板や弦はぬるぬるとして押さえ難いが、涼には痛みよりも、──ここで負けてはいけない、という思いの方が強かった。
 全く、涼のような強靱な精神の持ち主でなければ──彼のように意思の力で演奏を続けているならともかく、ただこの楽器の魅力に引き摺り込まれて茫然自失のまま演奏を続けて居れば、最終的には演奏不能になるまで指を蝕まれて当然だろう。
 再び楽器を手に取る前に、涼は手巾で指板の血を拭った。白い手巾が一瞬で赤く染まる。
「……、成る程ね……」
 最初気に掛かった、ネック部の染みの正体が分かった。今迄の持ち主が、指先から血を流しながらも気付く余裕のないまま演奏を続けた結果、血痕がネックに染み付いたに違い無い。
 気休めだが、一旦左手を洗い流すと水気を良く切り、涼は再びヴァイオリンを構えた。
 先刻から梃子摺らされている、「悪魔のトリル遊び」の部分から。
「……──!」
 やった、と思いながら涼はそれでも演奏を続ける。上手く行った。何度も繰り返している内に左手のパターンが指先に叩き込まれたらしい。一度覚えてしまえば、普通の奏者には多きにネックになる音程も、指の長い涼には障害にならない。最初の音形をマスターすれば、後に出てくる音形も高さが違うだけで同じ事だ。 
 軌道に乗った演奏は、余す所無くこのヴァイオリンの深い倍音を持つ音色を妖しく響かせる。「悪魔のトリル」が、更にそれを深みへ誘う。
 アレグロの終止。リタルダンドを掛けながら向かった最後のD音をゆっくりと弾き切った涼は、ボウを持った右手を降ろすと、──……、目を細めてすっかり暗くなった部屋の奥の陰に視線を向けた。
「……あなた、ですね」
 恐らく、初老の男。その思念体の瞳が熱に浮かされたように輝くと共に、左手の中に在るヴァイオリンが静かな反響を伴って振動するのが分かった。

 ──……彼は、鈴木某氏の流れを汲む、当時の日本では数少ないヴァイオリンの職人だった。腕の良さは認められていたが、ヴァイオリンの製作と云うよりは寧ろ、過去に一度聴いた、海外のヴァイオリニストの来日演奏で奏された魔性の物としか云いようのない音色の「悪魔のトリル」に魅せられ、彼の曲に相応しい、──否、「悪魔に捧げる」に相応しい音を造り出す事にばかり打ち込んで周囲からは敬遠され、孤立していた。
 君の楽器は充分に鳴る、そんなに倍音を出す事にこだわらなくてもいいだろう、と遠回しに注意した仲間は居たが、彼は首を横に振り続けた。──駄目だ、こんな音では「悪魔のトリル」に相応しく無い、あの曲に比べれば他の曲なんかただの環境音だ、そんな曲に相応しい楽器を造ったって意味が無い、駄目なんだ、もっと、もっと……──。
 ……孤独な晩年、ようやく一台の、赤いヴァイオリンを完成させたと同時に彼は力尽きた。……魂柱を立てる時間は無かった。また、そのヴァイオリンがあれ程焦がれた「悪魔のトリル」を奏されるのを聴く事も叶わないまま。
 ──以来、彼は自ら「Red Violin, fur Diavolo」の「魂」となって、「悪魔のトリル」が奏されるのを待ち続けていた。

──……もう一度、弾いてくれ。

 彼の声が、ヴァイオリンの振動を通して涼に流入する。
 やっと、……ようやく、出会えたのだ。命を懸けて求め続けた音に。
「ああ、」
 弾くさ、何度でも。──君の気が済むまで、思い残しが無くなる迄。
 今度は最初から、遣り切れない程に美しいラルゲットから。涼はヴァイオリンを構えた。
 
──────……

「……で?」
「曰くは『消えた』よ。もう、弾いても指を傷める事はないと思う。……でも、」
 でも、と涼はケースを開け、駒が外れて弦が弛んだままのヴァイオリンを草間に見せた。
 
 ──カデンツは無視して勢いを保ったままアダージォへ踏み込み、終止の四和音を弾き切った。──瞬間、ばん、という打撃音と同時に四弦が悲鳴のような不協和音を響かせた。
 傾いていた訳でもない駒が、倒れたのだ。涼は慌てて表板の破損を調べたが、奇跡的に楽器自体は無傷だった。
「……、」
 その時、空気が穏やかに転じた部屋の隅から、「彼」が消えた事を涼は悟った。やっと、悲願の叶った彼は天へ召されたのだろう。──否、或いは望み通り、その魂を捧げた悪魔に誘われて地獄へ堕ちたのかも知れない。どちらが彼に取って倖せか、涼が判断出来る事ではない。
 ただ、憑き物が落ちたように穏やかな気配だけが、魂柱を失ったヴァイオリンから流れていた。

「もう弾けないのか?」
「いや、魂柱を立ててまた弦を張れば弾けるよ、普通に。……でも、その必要が在るかな」
 「彼」という魂の代替えとして普通の魂柱を立ててまで、再びこのヴァイオリンを弾く必要があるだろうか。
「──まあ、俺が決めることじゃない。後は、依頼主の判断に任せるよ」
 涼は、再び絆創膏だらけになった左手の指先でボディを撫でた。
 
──さよなら。