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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


靄の行方

 日曜日。通常ならば休日であるこの日も、サッカー部にとってはただの練習日にしか過ぎない。サッカーをやる者に、休日など存在し得ないのだ。
「今日だったよな?」
 ふと友人に声をかけられ、浅井・直哉(あさい なおや)は振り返った。その拍子に赤い短めでやや癖のある髪がさらりと揺れ、黒の目でまっすぐに友人を見た。
「何が?」
 ぐりぐりと足首を回しながら、直哉は首を傾げる。友人は「やだな」と言いながら苦笑し、言葉を続ける。
「浅井・智哉(あさい ともや)先輩の来る日だってば!」
(ああ)
 直哉は納得し、頷く。
「すげーよな。あの人、伝説の人だぜ?」
「うん」
「お前の兄貴なんだよな?」
「うん」
 賛美されるたび、直哉はにこにこしながら頷く。
「あ、そっか。今日だよな」
 別の友人がひょいと話しに加わる。
「いいよなぁ。俺もああいう兄貴欲しいよ」
 一人がそう言うと、直哉は誇らしくなりながら笑う。が、もう一人は「うーん」と首を捻る。
「どうした?」
「いや、俺は嫌だけどな」
「何が?」
 直哉は「嫌」という意味が分からず、思わず聞き返す。
「だから、浅井智哉が自分の兄貴だっていうの」
「何でだよ?伝説の人が自分の兄貴って、すげーいいじゃん。なぁ、直哉?」
「ああ。何でだよ?」
 誇らしい筈の事なのに「嫌」だという友人。直哉の胸が、どくんと波打つ。
「だってさぁ……伝説の人だぜ?」
(……伝説の人)
「しかも、医学部だっけ?頭までいいじゃん」
(……頭脳明晰)
「冷静で大人っぽくてさぁ。非の打ち所がないじゃん」
(完全無欠。そう、兄貴は完璧なんだ)
「俺、そう言う人の弟って出来ないな。だから直哉はすげーと思う」
「別に弟ってするもんじゃないんじゃねーか?」
 もう一人が言うと、友人は苦笑する。
「だからさ、俺だったらそんな兄貴と同じ道とか歩けねーよ。サッカーだってやってないと思うし……多分ぐれてるね」
 どくん、と再び直哉の胸が撥ねた。
「あーでもそれはあるよなぁ。俺もコンプレックスばりばり持っちゃうわ」
「だから直哉ってすげーと思うんだよな。ぐれてねーもん」
「そこかよ」
 直哉はどくどくする胸を抑えつつ、突っ込む。何となく、兄に会うのが怖いような気がした。胸の奥にしまっていたものを、引きずり出されたような感覚がしていた。
(兄貴は、確かに凄い)
 どくん、という胸の撥ねる音が全身を駆け巡る。
(自分に出来ない事を沢山出来て。……何でも出来て)
 サッカー一つ取ってみても、勉強を取ってみても、人当たりを取ってみても。どれをとって見ても智哉という存在は大きく立ちはだかっているのだ。
(嫌だな、思い知らされた気がする)
 否、それは重々感じ取っていた事なのであった。どくんどくんと撥ねる胸は、次第にその速さを増していく。
(俺は、兄貴に対してコンプレックス持っている)
 それは紛れも無い真実。あのような完全な存在である兄を持つと言う事は、逆にいえば完全ではない自分を認識すると言う事なのだから。
(知るんじゃなかったな)
 今、この場所で。今から智哉がくると言う状況下で。知ってしまうと言う事は紛れも無く失敗だった。
「……あのさ」
 それを少しでも軽減すべく、直哉は口を開く。この胸の内を少しでも吐き出せば、この胸の靄は無くなるのだから。
「ん?」
 友人が聞き返す。と、その時だった。もう一人の友人が「あ」と声を上げる。
「来たぜ、直哉。浅井智哉先輩だ」
 直哉は思わずそちらを見る。黒髪に黒の目、涼やかな雰囲気を持った、整った顔立ち。直哉は智哉の姿を見て、吐き出そうとした靄が再び胸の奥底に沈んでいくのを感じるのだった。

 懐かしい空気が、智哉の周りを包み込んでいた。
(数年前まで、確かに立っていた場所だ)
 広大なグラウンドにぽつりと置かれたゴール。それは上から見ていると、両手で優しく包み込めるのではないかと思わせられてしまう。
(ゴールは、両手)
 智哉はグラウンドを見つめたまま、頭の中でふわりとした想像を膨らませる。
(掌に向かい、如何にしてボールを持っていくか)
 妨害してくる相手の動きを読み、掌へとボールが抱かれていくイメージを持つ。すると、自然とボールが動くべき道が浮かんでくるのだ。
(……今となっては、あまり関係の無いことなのかもしれないが)
 医学生、という肩書きと、決められているレール。その上を歩く事に何の文句も反発も無いが、ふと気付くのだ。かつて走っていたこのサッカーコートでの出来事が、本当に切り捨てていい事だったのか。そしてそれは未だに答えは出ていない。
(だからこそ、俺は監督に頼まれると断れないのかもしれない)
 サッカーに関わると言う事を、やってしまうのかもしれない。勿論、理由はそれだけではなく。
(……いたか)
 練習を始める前のウォーミングアップをしている集団の中に、見慣れた姿を見つける。弟の、直哉。何事にも冷静に対処する、言い換えれば何処かしら冷めている智哉であったが、弟である直哉に対してだけは違っていた。それが良い事なのか良くない事なのかの判断はつきにくいが。
(まあ、いい。いつも通りするだけだ)
「浅井すまんな、いつも」
 サッカー部の監督が苦笑しながら言う。
「いえ、いいですよ。今ではサッカーに関わっていない生活をしているので、こういう機会があると昔に戻れたようで」
 それは半分本当で、半分は嘘だが。昔に戻りたいと願っている訳ではなく、ただ頼まれたからやっているだけなのだから。
「そうか。部員達はな、お前が来ると喜ぶんだよ」
「そうですか?」
 がはは、と監督は豪快に笑う。
「伝説の司令塔に教えてもらえるってな。実際、俺が教えるよりも上手いからな。お前に教えてもらってから、動きが断然良くなったし」
「でも、俺は監督に教わったわけですから」
「そう言うな。そういうのは俺が一番分かっている」
 苦笑する監督に、智哉は口だけで笑った。監督自身、感じているのだ。智哉は自分が教えたい上の力量を持っているという事実に。
(それは単なる事実だ。実際、どうでもいい事実)
「じゃあ、そろそろ始めるか」
 腕時計をちらりと見、監督はグランドに向かって歩き始めた。智也も監督に続き、歩き始める。広げられた腕の中に。

「集合!」
 ピイ、と監督が笛を吹いて全員を集合させる。監督の一歩後ろには、智哉。
「すげーな、いつ見ても」
「試合のビデオ見たかよ?すげー動きだったよな」
「まるで智哉さんの動きに合わせて敵も味方も動いているみたいでさ」
「そうそう。ボールが吸い込まれるようにゴールに行ってさ」
「それに加えて、智哉さんの滑らかな動き!」
「あれは常人には真似できないよな」
 こそこそと聞こえる絶賛の声に、直哉は誇らしく思う。だが、同時に胸の靄は薄暗く架かるばかりだ。
(確かに、兄貴ってすげーよな)
 それは周知の事実。加えて、自身も認める事実。
(どうしていいか分かんないほど、すげーよ)
「前々から言っていたが、今日は浅井智哉がコーチしてくれる。しっかり教えて貰えよ。少しでも教えられた事を吸収してな」
 にやり、と監督が意味深に笑った。部員達は元気良く「はい!」と答える。
「じゃあ、練習を始める。各自ウォーミングアップをして、30分後に練習試合を行う」
 智哉が言うと、皆「はい!」と答える。先程監督の言葉に対してした返事以上に元気良く。
「俺よりも浅井が良いとか思ってるな、こいつら」
 監督がぼそりと呟いたが、それは誰の耳にも届く事は無かった。

 30分経ち、練習試合が始まった。紅白に分かれての試合。
「そこ、白3番!動きが遅い!」
 所々で、智哉の声が飛ぶ。
「いいよな、やっぱり浅井先輩」
「うんうん。動きが違うよな」
 囁きあう部員達には目もくれず、ただただ試合の様子を智哉は見る。全体を見るように、部員達全員を見るように。だが。
「赤10番、もっと早く戻れ!」
 どうしても目が行ってしまうのは、直哉の着ている赤の10番だった。他の部員達に比べ、格別悪いわけではない。寧ろ、悪くない動きをしている。にも関わらず、智哉の目は自然と直哉に目が行ってしまう為に直哉の動きがいちいち気になってしまうのだ。
「直哉、そんなに悪い動きしてないよな?」
 ぼそり、と呟く見ている部員。
「寧ろ、いつも以上にいい動きしているような気がするんだけど」
「やっぱり、浅井先輩って直哉の事が気になるんじゃないか?」
「というよりも、直哉に厳しい気がするんだけど」
 部員達の目から見ても、それは明らかだった。実際に智哉も自覚していた。だが、それはそれで受け止め、意識的に厳しくする事にした。どうせ気になるのならば、始動してしまえば良いだけの話なのだから。
「相手をしっかり見ろ!」
 智哉の声が飛ぶ。
「浅井、ちょっと弟に厳しくないか?」
 監督が苦笑しながら口を挟む。智哉は小さく微笑む。
「身内だと、つい遠慮しなくて良いような気がするんですよ」
 そう言う智哉に、監督は「お?」と言いながら再び苦笑する。
「まるで、今皆に遠慮して言っているみたいだな」
(しているな)
 監督には充分厳しいと感じていたのだが、智哉にしてみれば十ある内の二、三は胸にしまったままであった。それは相手が他人であるという事からの、所謂遠慮だった。だが、相手が弟となると話は違ってくる。遠慮など、何処にもいらなくなるのだ。
(だから、上手くなる筈だ)
 智哉は密やかに確信する。遠慮などせずに言うから、きっと直哉は上手くなる。それは希望などではなく、確信。
 ピピイ、と笛が鳴り響く。練習試合の終了の合図だ。智哉はグランドから引き上げてくる部員達を一通り眺めると、直哉と一瞬目が合った。直哉はにっこりと笑い、部員仲間たちと何やら話す。智哉は何故か口元が綻ぶのを感じるのだった。

「やっぱり違うよな、浅井先輩」
 ぽん、と背中を叩かれながら話し掛けられ、直哉は振り返った。汗を腕で拭い「ん?」と答える。
「俺達に対してと、直哉に対してだよ。何か厳しいよな」
「あー、そうかも」
 薄々感じていたことを友人に言われ、直哉は苦笑した。他の部員よりも、自分に向けられた注意が明らかに多かった。
「いいなあ、直哉。やっぱり羨ましいぜ」
 友人に言われ、直哉は「え?」と聞き返す。
「あれって、身内だからだろ?いいなぁ、遠慮せずに指導してもらって」
(遠慮?……そっか)
 直哉は気付く。そして笑みが零れていく。
(俺が弟で、遠慮しなくていいからあれだけ兄貴は俺に厳しくしてきたんだ)
 ふと、直哉は智哉と目が合った。思わず直哉はにっこりと笑う。誇らしい兄、自分に遠慮をしてこない兄。全てが嬉しく感じられた。
「そういやさ、直哉何か言いかけたじゃん?」
「え?」
「練習始まる前。浅井先輩の話をしていた時」
 それは、胸にかかった靄の事だった。タイミングを逃し、沈んでいってしまっていた靄のかかった言葉達。
「ああ、あれか」
 直哉は笑う。あの靄は既に晴れてしまっていた。あの時の靄を吐き出そうにも、既に靄はなくなってしまっている。
「ただ、兄貴が兄貴でよかったなって事だよ」
「何だよ、自慢じゃねーか」
「うん、自慢」
 吹っ切れた顔で、直哉は笑った。コンプレックスを持っているのは事実だが、だからと言って何が変わると言うわけでもない。兄は兄のままだし、自分も自分のままだ。コンプレックスなど、問題でも何でもない。寧ろ、自慢していい事なのだ。コンプレックスを持つほどの兄が、自分にはいる事に。
「自慢の兄貴だ」
 直哉はもう一度言い、智哉の方を見てにっこりと笑った。
「そこ、早く次のメニューに移れ!」
 監督の声が飛んできた。直哉は「はい」と答えて走り始めた。その様子に、智哉はそっと顔をほころばすのだが、それに直哉は気付く事なく、次の練習へと走るのだった。

<靄は何処へと吹き飛んで行き・了>