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悲願花
風が頬に涼しい。
鷹科碧海は竹箒を持つ手をとめて、空をみた。
夏とは少し違う、柔らかい青空が広がっている。
ふっと視界に影が差し、何の気なしに手を顔にかざすと、乾いた感触とともに、黄色く色づいたいちょうの葉が一枚、はらりと手のひらに舞い落ちた。
(もう、秋なんだな)
ぼんやりと思う。
神社の境内はどこまでも静かだ。だいたいこんな晴れた日曜日の午後に神社を訪れようという者はいない。
晴明神社や賀茂神社のような観光名所ならば、すでに人がちらほらと現れているのかもしれないが、碧海が住まうこの神社は観光ガイドに乗っていない為か、いつでも静穏な空気に満ちていた。
静穏さは嫌いではない。
風に梢が揺れる音、遠い鳥の声、かすかな羽ばたき。
目を閉じていれば自分が世界にとけ込んでしまったかのように、すべてが自分に無関心でいてくれる。
――だが、今は。
(会いたいな)
腕を伸ばし、指先でつまんでいたいちょうの葉をはなす。
とたんに風がそよぎ、いちょうの葉はくるりくるりと回りながら、碧海の白い袴にまとわりついては離れることを繰り返し、音もなく地面に落ちた。
会いたい。
唇で言葉をなぞる。
声には出さない。出せる訳がない。
あの人は、自分が独占して良い人じゃない。
警察という特殊な職業の、さらに特殊な部署に勤める調査官。
常に日本中を飛び回り、自分の部屋がある東京にすら、週に二日も戻ってこないのだ。
だから、会いたいなんて言えない。
自分と会う時間より、あの人に必要なのは安らぎと眠りなのだ。
わかってるから、言えない。でも、会いたい。
「いつだって、そうだ」
気を紛らわせるように竹箒を動かす。だが、先ほど落ちたいちょうの葉は碧海をからかうかのように竹枝の先から逃れては、境内の隅へと飛んでいってしまう。
ため息。
いつだってそうだ。
会いたいと思うのは簡単だ、だけど、結局なにもできない。
自分自身の気持ちを、自分自身が縛っている。
嫌われたくない、迷惑とおもわれたくない、負担になりたくない。
だからあの人が一番楽なように、束縛したくない、休ませてあげたい。だから、自分からは動かない。
――それでも、会いたい。
その気持ちだけは抑えられない。
「いけない」
頭を振り、竹箒を持ち直す。
会いたいという気持ちを悟られたら、あの人は無理してでも、会いにくる。そういう人だとわかってるから。
だから会いたいと思う気持ちすら悟らせちゃいかない。
負担になりたくないから、疎ましいとおもわれたくない。だから。
ため息をもう一度ついて、顔を上げる。
刹那。
目に飛び込む、紅の鎖。
「あ」
境内の端、少し崖になった所に一面につらなる紅の鎖。
曼珠沙華――それは彼岸の花。
燃える炎のようにちらちらと揺れる花弁。緑色の鉄格子のように、歪みなくまっすぐに天へとのびる茎。
まだ季節には早いというのに、昨日までは気づきもしなかったのに。
それは紅に、血の色に狂い咲いていた。
「っつ!」
胸を押さえたまま、片膝をついてうずくまる。
白袴が土に汚れるが、そんなことにまで意識が回らない。
急速に記憶が過去へさかのぼる。
左腕に「あの人」の左腕が添えられる。
「あの人」の右手が碧海の心臓の真上にある。
血が荒れ狂う感覚、力が暴走する感覚がよみがえる。
自分以外の意志持つ力が、勝手に自分の力を煽り、暴走させようとしている。
その感覚がよみがえる。
(ま、た……)
汗が、額から頬をつたって地に落ちた。
のどが引き連れ、何度もせき込んだ。
自分じゃない。
「あの人」の力が自分の力を暴走させて以来、微妙に体調と、力の制御が悪くなっている。
――怖い。
今まで何の疑問もいだかなかった。
だけど、あの事件以来、狂った機械人形のあの事件以来。
おびえる自分が生まれた。
心の奥底に封じ込めているが、ふとした瞬間に眠りからさめて自分に警告する。
怖い。あの人が、怖い。
おそらく、そのときがきたら。
そうしなければならない時がきたら、あの人は自分を殺すだろう。
何のためらいもなく、そうすることが当然のように。
嫌いだからじゃない、憎いからじゃない。
そんな感情の入る余地すら与えられない。
嫌われて殺されるなら、憎まれて殺されるなら、まだ、どこかで理解できる。
だけど、あの人は違う、そうするべきだと判断して、自分を殺すのだろう。
何の罪も後悔もみせず。
幼子が蝶の羽を、美しいからでむしり取るような無邪気さで。乙女が花を摘み命を奪うたやすさで。
それが、怖い。
直接聞ければいいのだが、聞くことすら怖い。
そうだ、とうなづかれたらきっと自分は……。
目を閉じる。
突然の突風が掃き集めた落ち葉を巻き上げる。
「っぷあ」
あり得ない声に、あわてて立ち上がり振り向く。
「……ひろ、さん?」
声が、かすれる。
(ありえない……)
まるで自分の気持ちを読んだかのように、彼がそこにいた。
いつも通りの微笑みで、鮮やかに輝く緑柱石の瞳を突風にほそめたまま。
緩く癖のついた髪と、きちんと手入れされた背広に落ち葉をまといつかせながら。
榊千尋がたっていた。
「やあ」
「千尋さん、どうして」
碧海の言葉に榊は肩をすくめた。
「近くまできたから。ついでに」
「仕事で、京都ですか?」
「いや、和歌山」
あきれに口が開く。全然近くじゃない。
だが榊は碧海のあきれなど気づかない、といった体で髪から落ち葉をはらい口を開いた。
「とりあえず、おみやげの栗と抹茶のタルトです」
小豆色の包み紙に象牙色の薔薇が印刷された箱をつきだした。
「巫嫗(ふう)に何か用でも」
先ほどまでのおびえを悟られないように、目を半分伏せながら訪ねる。
それならば、わかる。
祖母に仕事上の用事があって尋ねることが、今までにも数度あったから。
そうでなければ、忙しいこの人がわざわざ遠回りをして京都に来るなんてありえない。
自分に言い聞かせてると、榊が、んー? とうなった後で照れくさそうに笑った。
「碧海君に会いに来た、なんていったら怒ります?」
社殿の縁側に向かって歩きながら、彼の年齢にしては幼すぎる仕草で首を傾げて笑う。
何の邪気もない笑い。
暖かい日溜まりそのものの、のんきな笑いに、つられて碧海も笑う。
「でも、仕事忙しいんじゃ……。休んだほうが、いいんじゃ」
「睡眠なら朝飛行機の中でとりましたよ」
全然、足りない。
何のてらいもなく言う榊の言葉に、罪悪感がつのる。
自分が会いたいと思ったからだろうか、どこかで、彼に気をつかわせてしまったのだろうか、と。
「俺は……」
気にしなくていいですから、と告げようとした途端、先ほどとは完璧に調子が違う堅い声で榊が振り向きもせず告げた。
「いいから、ここに来て座りなさい」
逆らうこともできず、縁側の榊の隣に座る。
少し、微笑みが堅い。
風が二度吹いた。
沈黙をかき消すように梢がなった。
「つまらないこと、考えなくて良いです。頼りなく見えるでしょうが、一応、私は警察官です。だから健康管理ぐらいちゃんとできます」
「でも」
「プロが健康管理している、と言っているのにそれを否定するのは失礼ですよ」
碧海の反論をぴしゃりと遮る。
言葉は遮られても、心の中の想いまでは消せない。
でも、でも、自分さえ願わなければ、と。
うつむいていると、榊がため息をついた。
「私は碧海君に会いたいから、来たんですけどね」
その気持ちはうれしい、なのに、どうしてごめんなさいと言いたくなるのだろう。
「碧海君からみると、私は休憩が足りないわけだ」
淡々とした口調が、責められてるようで、ひどく、つらい。
どうすればいいのか、わからないまま、後悔と謝罪の言葉が口をつきそうになった時。
突然、榊が碧海の膝の上に倒れ込んだ。
「ちっ、ち。ひ、千尋さんっ?!」
狼狽のまま受け止める。と、榊は碧海の膝に顔を埋めたまま、肩をふるわせていた。
ひどく、楽しそうに笑っていた。
「千尋さんっ」
理解できず、叫ぶ。
と、榊は膝に顔を埋めたまま、手をあげて、指先で碧海の唇に触れた。
「だって、こうするしかないでしょ。私は碧海君に会いたいし。碧海君は私に休んで欲しいんでしょ?」
くすくすとのどを鳴らして笑いながら続ける。
「いや、そういう事じゃなく」
「そういう事ですよ」
指先を唇から外し、碧海の手を自分の頬に導く。
「時々ね」
手を頬にあてたまま、笑いを止めて榊はつぶやいた。
「時々ね、ひどく一人で寝るのが嫌になる時がある」
手のひらが榊の頬にふれて、体温が伝わる。
「だから、今はこうさせてください。……わがままですけどね」
言って榊はゆっくり目を閉じた。
何か聞こうとして、結局なにも聞けなくて。
躊躇していると、先ほど目を閉じたばかりだというのに、榊はすでに規則正しい寝息を立てていた。
秋の風が柔らかく、碧海と榊の髪を揺らす。
日が落ちるのが早いのか、風景が少し橙がかった色になってきた。
ふと視線をあげると、境内の端につらなる彼岸花の紅い鎖。
ああ、と想った。
昔聞いた事がある。
彼岸花とは悲願花とも呼ぶのだと。
悲しい願いが叶う時に咲くのだと。
どうしてもとげようと思う悲壮な願いかなう時に、神様がそのしるべとして咲かせるのだと。
ならば、咲き続ければいい。
日が落ちても、秋がおわっても。
この痛む胸の中で咲き続ければいい。
碧海は腕の中に榊を感じながら、連なる紅い花をみていた。
いつまでも、ずっとみていた。
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