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空井戸から湧く水
___【オープニング】_______________
「――それであなたは、息子さんをご出産なさった日、大切なものを井戸に落としてしまった…様な気がする、と」
捉えたペンの尻でかりかりと蟀谷を掻きながら、口をヘの字に曲げて草間――草間武彦が問い直す。
彼の前で申し訳なさそうに俯いていた、和服姿の若い女性――木浦史保【コノウラシホ】は更に深く俯き、小さな頷きを落とした。
ストレートの真っ黒な長髪が肩の上ではらはらと前に零れ、困惑の面持ちを隠す様に濃い影を作っている。膝の上で重ねた両手をきゅっと握り締めて、彼女はか細い声で草間に言葉を返す。
「何しろ、私も取り乱していましたから…本当の所は、良く覚えていないんです。冷静になって考えてみれば、出産したその直後に屋敷をうろつきまわるなんて事、普通じゃ無いと…思いますし…」
握り締めた指先を見詰めながら、おそらくは何度も反芻した記憶なのだろう。それでも確認が持てないと言う風に、史保は緩やかに首を振った。
胸の前でトレイを握り締め、それをじっと見詰めているのは草間零である。史保に冷たい茶を出した後で、聞きかじってしまった話に奥へ引き込む事もできなくなり、ちらりと草間の横顔を窺った。
当の草間は、史保の話を元に取ったメモを読み直しながら、テーブルの上の煙草を指先で手繰り寄せている。くしゃりと紙箱が鳴った時、
「ああ、失敬…それで、木浦さん。その日にご主人は――?」
ご夫人の前では煙草を控える――それが彼なりのルールなのか、触れた紙箱はデスクの上へ放り投げる。そしてから再び史保の方をちらと見上げて、話を促す様に首を傾いだ。
「はい、…木浦家の仕来りで、女の出産に男は立ち会ってはいけないという物があるらしくて…主人も、義父も…使用人達も、その日は全員離れに寝泊まりしておりました。その日母屋にいたのは私と、義母と…それに代々木浦家の出産に立ち会う助産婦さんだけです」
彼女が「大切なもの」を落としたと言う井戸は母屋と離れの中心に位置している。産声が聞こえてから、離れに居た全員は安心して眠ってしまったと言う事らしく、その後彼女を見かけた者は居なかったと言う。
疲れて眠った自分が見た夢だったのでは無いか、最初の数週間はそう思っていたらしい。
が。
「でも、何かおかしい様な気がするんです。こう…産んでから、朝…目が醒めるまでの事が、すごく曖昧で…」
年の頃は、23、4と言う所だろう。若くして旧家に嫁いだ史保の眼差しは、それとは不相応に大人びている。漸く産後の体調が整い、義母の目を盗んで草間興信所へ駆け込んだのだ言う。
「義母も、取りあってくれないんです…むしろ、この事を口にすると、何だか怒った様な顔になって…。でも、」
嘘じゃ無いんです。多分、夢でも無い――
日が傾きかけている事に気が付いた史保は、それから慌ただしく草間興信所を後にして行った。
後に残された草間と零で、メモを置いたテーブルを挟みながら困惑の唸りを挙げる。
時刻は24時、史保が去ってからかなりの時間が経過していた。
「――指輪? 臍の緒?」
思い付く限りのそれらをリストアップして行くが、どれもこれと言った確信が持てない。諦めかけた草間が新しい煙草の箱に手を伸ばした時、史保が置いて行った何葉かの写真を見詰めながら零があ、と小さく声を漏らした。
「ん?」
「あの、これ…」
咥え煙草の草間が零から受け取ったのは、おそらく出産直前の物であろう。
大きなお腹をした史保と、精悍な顔つきの青年が玄関らしき門の前で並んで映った写真だった。
「勘違いかも、しれないんですけど」
続けて渡された写真には、史保と、その腕に抱えられた赤子が映っている。
アイスブルーの他所行きを着せられた赤子は安らかな寝顔で史保の胸に抱かれていた。
その二葉を見比べ、草間が首を傾いで零を見遣る。
「赤ちゃんって、何て言うか…そんなに小さいものなんですか? こっちの写真では、史保さんのお腹、こんなに大きいのに…赤ちゃんの方は、こんなに小さい」
妊婦の腹の中で、子供は羊水と言う体液の中で浮遊する様に育つ。
子供の体重と、それを包む羊水の分だけ妊婦の腹部は膨らんでいるのだが、言われてみれば確かに、それを差し引いても赤子は小さい様な気がした。
ましてや、写真の日付を確認すれば、それが盆の頃に撮られた物だと判る。
「その頃だと、もうこの子、三ヶ月にはなってた筈の…」
「………!」
零が言葉を紡ぎきらぬうちに、勢い良く草間は立ち上がった。
ばりばりと頭を掻き毟りながら、慌ただしく電話帳を探し当て――ページを捲る。
側に引き寄せた電話の受話器を素早く取り上げると、煙草を取り落とす程の剣幕で相手へまくし立てた。
「俺だ、依頼なんだが…明日の昼、依頼人の自宅に行って欲しいんだ。最悪、いや…俺の思い違いだと良いんだが、…汚れても良い服装で向かって欲しい。クリーニング代? ああ出すよ、出すから…」
その剣幕に圧倒されて、ソファの上から草間を見上げていた零だったが――
「・‥…―――!!」
其処に至り、漸く思い至った結論に。
小さく息を呑み、口許を押さえた。
【忌み子と呼ばれるもの】
一堂の足取りは重く、緩慢であった。
依頼人の屋敷へ訪れる道のりは長く、それはどことなく処刑場へ向かう囚人を思わせるものだった。
誰もが、口を開かない。
依頼人――木浦史保の長男を取り上げた助産婦の家を出てから、ずっと。
「・‥…死産だったから、捨ててしまった…なんて事は…」
「有りえないわね。見たでしょう、九条さんの様子を」
一縷の望み――それは慰めにもにた感傷の願いではあったが――を託し、みなも――海原みなもが重い口を開く。
それを振り払うかの様に冷たい口調で言葉を継いだのは、ただまっすぐ前を向いて足を進めるウィン・ルクセンブルク――その後ろ姿であった。
「あの狸――この私に隠し事をしようとした事自体が許せないわ」
「おやめなさいな――そう簡単にほいほい本当の事を話してしまえる訳がないでしょう」
毒付くルクセンブルクを、シュライン・エマが窘める。その後から、知らず早立つ一堂の足取りについて行くのが精一杯と言った風に、半ば駆け足になりながらも歩を進める瀬川蓮が言葉を投げる。
「そうだよ〜、とりあえずアレを見に行けただけでも大収穫だったでしょ? 醜いよね、狼狽えてひくひくしてるオバサンの顔ってさ」
忌忌しげにそう言って口を尖らせるが、幼い横顔はさほどの険を周囲に与える事はない。が、その後ふっと口を噤んだ彼の面持ちを見遣る事があったならば、確実に――そこに宿る悪魔を、見たかもしれなかった。
幼い命が打ち捨てられた予感、否――事実に、彼は確実に、怒っている。
『あらあら、史保さんが――そんな事を?』
赴いた者達に茶を勧めながら、九条――木浦の助産婦は、ただ穏やかな笑みをその頬に浮かべた。
『あんなに立派なご長男を取り上げる事ができたのは、私の誇りです――史保さんもあの日は大変疲れておいでだったし、夢でも見られたのでしょう』
何度、その老婆を張り倒したい気になったか知れなかった。
閉ざしたい、閉ざすべきだと――ルクセンブルクの中で警鐘が鳴り響いていたが。
目の前で笑う女の心が己が内に入り込んで来た時、激しい吐き気に襲われたのだ。
「きちんと見る事はできなかったの、だって見たくないと思っていたから。でも―――」
冷たく研ぎ澄まされた掠れた声で、ルクセンブルクは独り言の様に呟いた。
「私の感覚が確かなら、その井戸…多分、――井戸じゃないわ。墓よ」
【木浦家にて】
たどり着いた一堂を客間に通したのは、大柄で素朴な面持ちの使用人だった。
先だって到着していたセレスティ・カーニンガムと同室に通されると、そこでは当主である木浦楓【コノウラカエデ】とカーニンガムが穏やかな談笑に花を咲かせている所であったのだ。
「ああ、皆さん――このご夫人が、木浦のご当主様ですよ」
まるで、旧友の屋敷でくつろぐかの様にカーニンガムは老いてなお凛とした女性を一堂に紹介する――その仕草も勿論、演技ではあったが。
全てが裏打ちの末に行われている事だと知っていたとしても、皆動揺に驚きを隠せない。
「井戸の探索については、楓さんからご了承頂きました。――魅力的な女性です、本当に…あなたは」
穏やかで、強引な…‥・何者をも逃れさせぬカーニンガムのうつくしい笑みが向けられると、妙齢の老婦人は僅かに俯き、その頬をほんのりと赤らめさせた。
おそらくは能力――魅了を用いたのであろう。
それに重ねて、彼女の血液の流れを緩慢にさせ、故意に脳への酸素供給を遅らせる。
数刻後に目覚める彼女は、己が今どれほど恐ろしい事を一堂に許可してしまったのか、その事実にがく然とする事になるだろう。
「お心遣い感謝いたします、楓さん。――それでは、私は…これで」
ゆっくりと車椅子の踵を返せば、床の上で車輪が軋んだ。呆然とする一堂を引き連れ、カーニンガムはゆっくりと――客間をあとにする。
「あなた――『年上好み』、なの?」
そっと耳打ちしたルクセンブルクに、カーニンガムが肩を竦めて小さく笑った。
「冗談言わないで下さい。私は異性に興味はありませんから」
調子外れの事を真顔で言い放つ彼が面白かった。
【底無しの湧き水】
屋敷の空井戸はすぐに見つかった。
木浦家の門を潜ってすぐの建物と東屋とは廊下で繋がっている。庭師が作庭する中庭の端に、大きなそれが場違いに取り残されている。
「ああ――、かなり…‥・」
その眼差しに、光を宿す事はできない。カーニンガムが井戸の辺りへとその面持ちを向け、続けようとした言葉を言いよどんだ。
井戸に潜って行こうと、その用意を固めてきたのは四人。出来れば参加したいと申し出たカーニンガムを、一堂は押しとどめたのだ。
「いっぺんに降りてもしようがないんじゃない〜? できればボク、汚れたくないし。いざとなった時に、綱を引き上げる人も大切だよね?」
蓮の言葉に、他の三人が大きく頷き――ほぼ同時に、井戸の縁へと手を掛けた。
「――あなたは駄目。…とても感じやすい人だから…‥・見たく無いでしょう?」
「でも…‥・」
ルクセンブルクの手に、やんわりと自身の手を掛けてエマが小さく頷く。沈痛な面持ちをエマに見せたあとでルクセンブルクは、井戸の中に広がっている濃密な暗闇の中をじっと見下ろし――そして、半歩をゆっくりと、引いた。
「良い?」
エマの短い問い掛けに、みなもが口唇をきゅっと閉め、力強く頷いた。
「面倒だから、危ない真似はして来ないでね? 大丈夫だとは思う、けどさ」
蓮がくすくすと笑いながら、井戸に足を掛けた二人に言葉を投げる。しっかりと繋いだ縄梯子の一段一段を、エマとみなもが注意深く降りて行き――そして、その姿が闇に飲まれて行った。
「――どこまで、続くんでしょうか?」
細い筒の様な暗い空間では、小さな声も不必要な残響を残してがんがんと響く。
不安定な縄梯子を踏み外さぬ様に細心の注意を払いながら、二人は一足ずつ、井戸の底に近づいていく。
「―――かなり降りて来たから、もうすこしだと思う。――でも」
一度、頭上にぽっかりと開いた丸い光を見上げてから。エマはみなもに応え、そして――言葉を切った。
「枯れ井戸だって話しだったけれど…‥・みなもちゃん。…聞こえない?」
全く同じ事を、みなもは考えていた。
それ故の問いだった、自らの足が踏み締める縄梯子のかなり下の方で、僅かだが水が流れる音を聞いていたのだ。
「・‥…流れてます。すごく少ないけど、でも…確実に」
目を閉じる。
耳を澄ませば、光に満たされている時よりも強く、水の匂いを、その質感を感じる事ができる。
澱みの無い、それはおそらく湧き水だろう――流れのもっとずっと下の方で、それはおそらく小さな川に繋がっていた。
ずっと上流の、空から降り注いだ雨水が流れを作り、岩と岩の間や土に染みて湧き水を作る。
長い時間を掛けて、幾層もの土にろ過され、蒸留された湧き水がこの地を流れ、そして―――
「・‥…――っ」
ぴちゃり。
不意に爪先が、薄い水の膜を踏んだ。
井戸の底に、たどり着いたのだ。
【時間が晒す】
「エマさんっ、着きました…!」
囁く様な声でみなもが頭上に向かって告げる。地上の位置を告げる光の丸ははるか遠く、エマの肩口で眩しく見えた。
「・‥…以外と広い、のね…」
「もとは、豊かな水脈があった証拠だと思います。・‥…エマさん、懐中電灯」
ああ、と思い出した様にウエストバッグを開くエマの気配を傍らに感じながら、みなもは辺りの様子を肌でじっと伺っていた。
息苦しい。
井戸の底は酸素が薄く、おそらくはエマも同じ様に感じている事だろう。降りるのは二人が限度だったかもしれない。
「はい、・‥…気をつけて」
二つ取りだした電灯の一つを、注意深くエマはみなもの手に握らせる。地上の光は届かない。いくら暗闇に慣れようとしても、すぐ傍らのみなもの輪郭すらたどる事の出来ない完ぺきな暗闇。
指先で手繰り寄せた電源を、そっと入れる。まず照らしたのが、それぞれ己の足下――そして、互いの姿だった。
「・‥…何があっても、驚かない。悲鳴を上げない、恐がらない――判るわね?」
エマが囁く。
そしてその言葉に、みなもが大きく――頷く。
生まれたての嬰児、である。
さらに底までのこの高さだ――万に一つも、生存の可能性はない。
息を凝らし、そっと照らした周囲の様子に―――
ひ、と、みなもは声にならない息を飲んだ。
辺りには、新旧問わず、沢山の小さな白骨が転がっていたのだ。
「―――ここは多分、『忌み子』を捨てるための井戸だったのね」
おそらくは、懐中電灯をつける前。みずからの足の下にも白骨は有っただろう――そう思えば、立ち止ったまま一歩も歩き出す事ができないままで、二人はただ辺りをぼんやりとした光の輪で照らした。
「・‥…んな…そんな…、ひどい…‥・!」
やっとの思いで咽喉の奥から吐きだした言葉の後で、みなもはその目に涙を浮かべ、おし黙る。
僅かながら、それでも絶える事のなかった清らかな水の流れに、この井戸の底にたどり着いた赤子の身体は洗われ、浄化され――流れ落ちた肉はやがて川にたどり着き、再び空から降り注いだのだろう。
何回も、何回も。
その残骸とも言える真っ白な骨達だけがここに留まり、尚も水に洗われ、朽ちる事なくその形を保っていた。
「産まれて来たのに、せっかく――頑張って、やっと―――」
「………」
いたたまれないと。
エマが力無く首を横にふる。
みなもはほたほたと双眸から涙を零し、しばしの間――足下に朽ちた小さな、小さすぎる白骨を、じっと見詰めていた。
【やがて、枯れる】
少しでも動かしてしまえば崩れてしまう様なものは、そのまま井戸の底に残した。
おそらくは、数ヶ月前――史保によって捨てられた子のものだろう子供の骨と、そして比較的新しかったもう一つの骨。それらを大切に、エマの持っていた産着に包み、二人は再び地上へと戻った。
「―――やっぱり…‥・」
ただ無言の二人から受け取った、小さな産着を。
ルクセンブルクはしっかりと抱きしめ、静かに――泣いた。
「もともと、多産系の血筋なんですよ――でも、数代前にそれが原因で一家が傾きかけた事があった。二人の当主がいがみ合ったのですね。それから代々、先に取り上げた方の子を正式な嫡男として認める事になった」
草間興信所。
後日談、である。
カーニンガムはそこまで言ってから神経質そうに膝の上で両手を組み直し――蓮がその横から、零の出した茶請けに手を伸ばす。
「あのオバサン、オカシくなっちゃったって?」
もぐもぐと口を動かしながら蓮が問えば、湯飲みで手指を温めるエマが曖昧に頷く。
すっかり、秋の陽気だった。
「『無かったこと』にしてきた自分の子供と孫を、あんな姿で見せつけられたんだもの。――自業自得、とも言いきれないものがあるけれど…‥・」
おそらくは、彼女――楓よりも、もっと前の世代から。
それは、ごく当然の事として行われてきた事なのだろう。
「それで…依頼人のお嫁さんは…?」
「水子として、荼毘に付すって言ってたわ。――仕方のない事、とは思いたくない。けれど…」
哀しげに、それでも強く骸を抱きしめた彼女の顔を、ルクセンブルクは忘れられないと思った。
既に性別すら判らなくなった我が子を抱く母のその姿は、言葉に尽くせぬ愛に満ちていると――思えたからだった。
「木浦に嫁いだ女として、恥じない一生を送る。そう、言ってた」
「あの井戸はもう枯れました――あの時、おそらくは二人があの底で、骸を――抱いた時」
カーニンガムが静かに告げる。
その言葉を継ぐ者は、誰もいなかった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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0086/シュライン・エマ /女/26 /翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
1790/瀬川・蓮 /男/13 /ストリートキッド(デビルサモナー)
1252/海原・みなも /女/13 /中学生
1883/セレスティ・カーニンガム /男/725/財閥総帥・占い師・水霊使い
1588/ウィン・ルクセンブルク /女/25 /万年大学生
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■ ライター通信 ■
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こんにちは、森田桃子です。
「空井戸から湧く水」をお届け致します。
今回、平素よりお届けが遅くなってしまい、申し訳ありません。
未だ拙い描写ばかりでお恥ずかしい限りですが、
少しでもお気に召して頂ければ幸いです。
ご意見やご感想など、次回の作品への励みになりますので
どうかお気軽にお寄せ下さいませ。
不慣れな不束者ですが、皆様、どうぞこれからも宜しくお願い致します。
この度は本当に有り難うございました。
担当:森田桃子
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