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<東京怪談ノベル(シングル)>


風のむこう、路のむこう


「お久しぶり、トオル」
 携帯から聞こえてきたその声を耳にした瞬間、俺は茜色に揺れる空と、銀色に煌く海を思い浮かべていた。
 反応が少しだけ遅れたのは、そのせいだ。
「……やあ、ご無沙汰」
 我ながら呆れるほど凡庸な返答だった。
 電話の相手が『彼女』でなかったら、きっと心の中で自分を罵ったことだろう。プロのホストが久々に連絡してきた客に対して口にする言葉としては、あまりに無粋すぎる。
「よかった。ちゃんと憶えててくれたみたいね」
 高く、張りがある彼女の声は、はきはきとした気質を感じさせる。変わっていない。
「まさか。忘れるわけないさ。ずっと声が聴けなくて、寂しかったよ」
「またまたぁ。……ごめんね、ずっと音沙汰なしで」
「謝ることないさ。でも……五年ぷり、くらいかな」
「そうね……」
「元気してる?」
「うん、元気元気。ちょっとこのところバタバタしてたけどね。トオルも元気そうでほっとしたわ」
 そう言って陽気にけらけらと笑う彼女。そして不意に、
「……ねえ。今度、一日身体空けといてくれない?」
「えっ?」
「久しぶりに、走りたい気分なの」

 約束を交わして携帯を切ると、俺はそれをスーツの胸ポケットに収めた。
「デートの約束っスか? もてますね」
 控え室で休憩していた、若い新人のホストが雑誌から目を離して、にやりと笑う。耳敏く、会話を聞いていたらしい。
「まあ、そんなとこかな」
「オーナー……じゃなかった、トオルさんのデートって、どんなとこいくんスか? やっぱり、ホテルの高級レストランで食事とか?」
 どうやら彼は、No.1ホストの企業秘密に興味津々のようだ。
「ま、相手によってはそういう場合もあるけど」
 俺は苦笑いを浮かべると、
「今度の相手は特別でね」
 とだけ言って、控え室を出ていった。

         ※         ※         ※

 数日後。
 久しぶりにガレージのシャッターを開けると、薄闇の中は埃の匂いがした。
 その中に無言でうずくまっていたのは、一台の大きなバイクだった。長い間待ち焦がれた恋人の訪れを、拗ねた目で睨むかのような姿。
 差しこんだ光に照らされて、銀色に輝く優美かつ精悍なフォルム。
 KAWASAKI ZX12R。2000年EUモデル。
 ストック状態のマシンですら時速300キロオーバーの速度を叩き出すその性能から、『怪物』とさえ呼ばれる、世界最速のレーサーバイク。俺の愛車だ。
 趣味がツーリングだと言うと、大抵皆驚く。どうも俺は、貢がれた高級車でドライブ、というイメージの方が合うと見られているらしい。……まあ、そういう時もあるけどね。
 ここ最近は仕事や、怪異事件に巻きこまれたりでゴタゴタしてて、バイクで走っている余裕もなかった。こいつに人のような心があったなら、その『色』はさぞかし濃い赤をしているだろう。赤は怒りの色だ。
 久しぶりに火を入れると、眠りから目覚めたエンジンはまるで歓喜したように震えた。
「かまってやれなくて悪かった。今日は、思いっきり走らせてやるぞ」
 最近はすっかり俺のトレードマークのようになってしまったダブルのスーツも、今日ばかりは部屋に置いてきた。代わりにこの身体を包んでいるのは、Tシャツとジーンズといったラフな服装。その上にバイクジャケットを纏い、フルフェイスのヘルメットを被っている。
 少々固めのシートに跨り、愛車とともに薄闇の世界を抜け出すと、頭上には雲一つない澄んだ青空が広がっていた。
 ――風になるには絶好の日だ。

         ※         ※         ※

 思えば、バイクに乗るようになったきっかけは、彼女だった。
 もう10年近くも前の話だ。
 俺が夜の仕事をするようになって、間もない頃。
 友人に連れられて店へとやってきた、他の客とは少し違った雰囲気の女性。
 それが彼女だった。
 めくるめく琥珀色の光の中。はしゃいでいる連れの友人たちとは対照的に、ソファにもたれて退屈そうな顔をしている彼女。ホストたちの甘い言葉や笑顔も、テーブルの上に置かれたグラスも、まるで彼女の心を振るわせることができないようだった。
 そんな厄介なお客の相手が新人の俺に廻ってきた。
 一目見て、心の色がわかった。
 赤みがかった昏い紫。不満の色だった。おそらく、彼女自身はこんな場所には何の興味もなかったのだろう。ただ、友人たちへの付き合いでここへ来たに過ぎない。
 でも、どうせなら、楽しい時間を過ごしていって欲しい。そんな思いを伝えるように、彼女に微笑みかけたとき、彼女の表情がかすかに和らいだような気がした。
「あなた、名前は?」
「トオルです。――よろしく」
 そして目を合わせた時、初めて彼女が微笑んだ。
 夜のネオンより、真昼の陽光が似合う笑みだった。

 次に店を訪れた時、彼女は一人だった。
 そしてその日、彼女は初めての俺の指名客となった。
 感謝の言葉を述べると、彼女はけらけらと笑う。
「礼なんて言わなくていいわよ。あたし、あなたが気に入ったから」
「俺を?」
「こないだここへ来た時、あなた、一度もあたしを誉めたりしなかったでしょ。だから、気に入ったの」
 それを聞いて、俺は苦笑した。それは決して彼女の心情を理解していたからではなくて、若さ故に気が利いてなかっただけのことでしかなかったのだけれど。
 そして俺と彼女は、いろいろなことを話した。
 彼女が俺よりも二歳年上なこと。趣味はバイクで、一人で日本全国のいろんな場所へとツーリングに出かけたりしていること。
 スタイルのいい彼女の身体に、ライダースーツはさぞかし似合うだろう。そんなことを考えていると、
「ねぇ、トオルはバイク、どんなの乗ってるの?」
「あ、いや、俺……もともとあんまそういうの、乗ったことなくて」
「ええっ!」
 彼女は大げさに驚いてみせた。
「もったいないよ。すっごい気持ちいいのに……」
 そして、ぽん、と手を叩く。
「そうだ、今度、お休みいつ?」
「えっ?」
「一日付き合いなさいよ。あたしの恋人に乗せてあげる」
 恋人、というのは愛車のことだろう。有無を言わせぬ押しの強さで、彼女は俺の休日の予定を強引に埋めてしまった。

 そして、俺は生まれて初めて、バイクというものに乗った。
 といっても、彼女が運転するバイクの、リヤシートにだけれど。
 いわゆる、タンデムってやつだ。
 赤いライダースーツに身を包んだ彼女は、炎のような美しさと凛々しさを漂わせていて、想像していたよりもずっと素敵に見えた。そんな彼女の腰に手を回して必死にしがみつきながら――そして、伝わってくる体温に少しどぎまぎしたりもしながら――俺は初めて、『風になる』という言葉の意味を実感した。
 全身に感じるGの強さと、受ける風の心地よさ。まるで色彩の中に溶け崩れていくように、背後へと流れてゆく景色。
 全く感じたことのなかった、バイクと一体になり、スピードに身を任せる歓びに満ちた世界がそこにあった。そして彼女は、この世界からやって来た人間なのだった。
「――どぉ、気持ちいいでしょお!?」
 フルフェイスのメットと、激しい風、エンジンの音に遮られながらも、彼女の弾むような声はよく聞こえた。それに応じる俺は、きっと誰にも見せたような、無邪気な顔をしていたに違いない。
「――最ッ高だよ!」

 それから、俺と彼女は、しばしば一緒にツーリングに出かけるようになった。
 そんな時はいつも決まってタンデムだった。彼女が運転し、その後に俺が乗る。
 男女のデートというよりは、姉と弟のような関係。
 そのうちに俺は、いつも乗せられてばかりでは、と思うようになった。一念奮起して、免許を取ったのは、それからしばらくしてのことだ。
 最初は、大切な指名客に対するサービス、ほんの付き合いのつもりだったのが、俺はいつしか夢中になってしまっていたのだ。
 そして、二人でそれぞれのバイクを駆るようになってから、しばらくの後――。

「結婚するの」
 不意に彼女がそう告げて、俺は言葉を失った。
 夕刻の空は茜色に揺れて、潮風が頬を撫でていた。
 柔らかな声を上げて、ウミネコが彼方へと渡って行く。
 沈黙よりも静かに聞こえる波の音が、世界の全てであるかのようだった。
「……あ……そう、か。よかった、おめでとう!」
 俺は詰まりながら、祝福の言葉を告げた。
 喜び、祝う気持ちは偽りではなく、本心には違いなかったけれど。
 胸にわだかまるこの気持ちは、何だろう。人の心の色は見えても、自分の気持ちはわからない。
「ダンナがさ、言うんだぁ。もうバイクになんか乗るなって。あたしだって一応女なんだし、もしものことがあったらどうする、ってね」
 寂しそうにそう笑って、海岸線に沿って伸びた白いガードレールに、その背を預ける。
 銀色に煌く波間を見つめながら。
「だから、もう走るの、卒業。ちょっと残念だけどね」
「そっ、か……」
「トオルは、走っててよね」
 ぽん、と俺の頭を、彼女の手が叩いた。
「あたしが見れなかった、風のむこう、路のむこうにあるたくさんの景色。たくさんの瞬間。いっぱい、いっぱい、あたしの代わりに見て来てほしい」
 そう言って、彼女は笑った。
 でもその心は、寂しげな海の色をしていた。

         ※         ※         ※

『今更、未練がましい、かな?』
 五年ぶりに電話してきた彼女は、そう言った。
『やっぱあたし、いい奥さんになれなかったみたいでさ。ダンナと結局、別れちゃったんだ』
 そう言って陽気に笑う彼女の声は辛そうだったけれど、決して沈んだ響きではなかった。
 なんて強い人だろう。
 ZX12Rに身を預けると、加速とともに精神も肉体も、スピードの中へと溶けこんでゆくような気がする。

《バイクは孤独な乗り物だ。だからこそ、強くないと、バイク乗りにはなれないんだ》

 昔、何かの本で読んだ言葉を俺は思い出していた。
 そして、なるほど、と心の中で小さく呟くと、蒼穹の空の下、彼女との待ち合わせの場所へと、愛車を走らせた。