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***『FULLMOON』***
―獣化のトレーニング―
あたしは『あの夢』以降、獣化に苦痛を感じなくなった。
とは言え、異なる存在が自身の体を侵食していくのに慣れたわけじゃない。 今は獣化の度合いの訓練。
完全獣化したら制御も難しいし、無駄な破壊力と闘争本能が怖いから―――。
いざと言う時に困るのはイヤだから―――。
そして変化していく身体…。
心もまた、微細に変化を遂げてゆく…。
あたしが魔狼との同化ではなく、共存を選んでしまった代償に。
だけど――後悔はしていない。
「影」の気持ちも少しだけ理解できたし、あたしの気持ちも同じ位、「影」に伝わったのだろうから。
***『DRAW ME』***
――シャラシャラと、
鎖、ドロミーは鳴り響く。
「くぅ――uuu」
低い、それでいて異様な圧力を持つ声が、地下室の中央から漏れた。
じわじわと、
獣の心があたしを侵食していくのが分かる。
神経の一本一本が、邪悪かつ獰猛な衝動にうち震える。
血をすすり、肉を食(は)み、飢えたココロが満たされるのを渇望する。
(「そこ」までよ、「ここ」で止まって――)
適度なところで抑制のブレーキを掛けるあたしの意識。
「ハァ――っ!」
一瞬の後、美しくも裂帛の気合が響き、群がる邪心を粉砕した。
途端に凪砂の身体が、見る見るうちに獣の其れへと変貌を遂げていく。彼女の脳裏に描くイメージ通りに。
(先ずは腕、そして足、身体と――人型のままで)
「そう、あたしの意思に従って――そのまま、ここまでっ!」
ピタリと、制御を求める声にあわせて、凪砂が望む通りの結果で変異は止まった。
彼女の内に棲まう魔狼、「影」の協力もあってか、変異についてはもはや問題なく遂げることが出来ていた。今ならば、枷無しでもある程度の力を振るうことが出来、なおかつ暴走することはないと確信できる。
ヒトならぬ身となり遂げた後に、一息つく。
「ここまでは――順調ね」
緊張を解くと、また元の姿へと戻りゆく彼女。当然の如く一糸纏わぬ――裸身。
「……………」
自らのその姿を意識したのか、頬が朱色に染まっては、熱を帯びた吐息。
(こんなの慣れっこ無いわ――恥ずかしい)
羞恥心は相変わらず。しかし、どうせ此処ではあたしを見つめる者など誰も居はしない。そう思えば幾分かはマシと思えた。もっとも、首輪の存在にこそ今では慣れたが、シャラシャラと鳴り響く鎖、そして――手枷、足枷には永遠に慣れそうもなく。
「早く外したい、だからこそのトレーニングなのよね?」
自問し、今度は方腕のみの獣化を試みる。
眼差しの奥にイメージした映像、鮮明に、かつスピーディーに具現化する凪砂。
(大丈夫、今のあたしならば…。今度は右腕だけを……行くわ――サポート、お願いっ)
心の祈り、後半は「影」へと紡がれたもの。そして「影」からの確かな承諾意思の手応え。今では多少の違和感を感じるものの、初めに比べれば微々たるものに過ぎなかった。
やがて凪砂の右腕に、滑らにして深い獣毛が沸き立ち、指先は鋭さを増して、爪は刃のように鋭利な輝きを放つ。
「調子は良いですわね――」
口元を心持ち緩めて、わずかに緊張した笑みを浮かべる。
――ヒュン!
右腕の一閃。
続けて何度か高速で繰り返すと、やがて常人の動体視力では追いつけない残像すらも現れ始める。二つ、三つ、四つと――、
全てが易々と人の肉体を抉り、切り裂く威力。本能的にそれを悟ることが出来る凪砂は、しかし嫌悪と恐怖に崩されること無く、そのままゆっくりと左手も獣化させる。右手同様の過程を経て、瞬く間に凪砂の両腕は、小さな竜巻と化した。
仕舞いにはまるで、華麗なダンスのステップでも踏むように、リズムまで取り出す。
―――、
地下室に発生した竜巻、すなわち――凪砂は、徐々に勢力を強めて、やがては一個の台風と化す。
コンクリートを破砕する威力と速度で振るわれる両手は、小さな真空の刃すら生み出しそうな勢い。
止まらない、止められない? 止めたく…ない!?
不思議なことに精神が異様に高揚するのだ。
(また、まただわ。あたし――…長らく獣化を行使し続けると、この胸の昂ぶりっ!? 以前の様に「影」の意識があたしを乗っ取るのではなく、衝き動かす感じでもないわ。これは――)
内部からまるで覚醒したかのように現れ出でる、もう一人の自分。魔狼の力を行使する時、確かに存在を主張する『そのあたし』は、あきらかにこの衝動を楽しんでいた。
そして驚きながらも、それは思う程の苦痛ではなく。
「次はっ――」
舞いながら、脳裏に想い浮かべる次なる姿。
――最も力を揮えるが故に、危険である魔狼という四肢立ちの超越者。
(大丈夫――今のあたしならば、無理じゃない、その筈よ?――そうでしょ、『貴方』もそう考えているの…分かっているわ)
地下室に渦巻く、禍々しい竜巻がゆっくりと勢力を弱めていく。
乱舞していた凪砂の黒髪がバラバラと肩に舞い降りた、まさにその瞬間、
「くぅ――uuu」
精神集中の呻きと共に、凪砂の全身が眩い光を放った。
まるみ帯びた柔らかな胸が、くびれたウェストが、瑞々しい背の肌が、
―――メリメリメリ、
―――バキバキバキ、
異音と共にゆるやかに伸縮し始めた。
瞳を伏せたまま眉根寄せる凪砂の容貌も、やがては魔狼のそれへと変貌していく。
「アァッ――ッ!」
(変わる、変わるわ、『影』―貴方を感じる、強く強く、そして、あたしも、あたしの精神も…)
地下室全体がゴオォッ――、と大きく振動する。
かつて、あの古城の石壁を吹き飛ばした衝撃波。無論、あの時ほど無秩序な破壊力ではなかったが、それでも人の手には有り余る。事象を喰い尽くす圧倒的な力を、凪砂は意思を持ったまま、やや不完全ながら、それでもある程度、想ったとおり制御出来ていた。
地下室の壁には浅いひび割れの痕。床からは土煙。埃が収まる頃に静かに、されど大きな存在感を保って姿を見せたのは、通常の狼をゆうに一回りは上回る、影色の魔狼であった。
『痛ぅっ――だけど、想った通りやれたわよっ!』
声帯が大きな変化を遂げた為に、勝利の言葉は正確なヒトの声とは到底かけ離れていた。が、紛れも無くヒトの意思を宿した眼差しは凪砂そのものであり。
――数分後。
見事に完全獣化を果たした凪砂は、ヒトの姿へと戻っていた。
息荒く冷たい床に両膝を崩しては、ぐったりと頭をたれて。
「はぁはぁっ――つ、疲れるぅ〜〜」
と、肩で絶え絶えの息をするのだった。
***『FULLMOON』***
彼女は夜の繁華街、その雑踏を、不思議な高揚感と共に歩み行く。
地下室の訓練から約半月。
凪砂と「影」を拘束していた枷と鎖、レーディングとドロミーがかつてのモノとなってから一週間が経っていた。
あれから枷、鎖を外しての訓練を、地下室でみっちりと行い、今ではさしたる苦も無く、ヒトの姿ですら約半分――5割程の能力を奮えるまでになっていた。ヒトの容姿を保ったままの半魔獣化にも理性を失わず、暴走する心配も無い。そして枷と鎖を外したままで完全なる魔狼に為っても、凪砂は凪砂でいることが出来るようになった。
(ここまで力を操れる様になったけど――きつかったわね。――この子のお陰も大きいし、感謝しているわよ?)
後半はこの子こと「影」へと紡ぐ。
生まれてから長らく数ヶ月前までは、控えめで、読書、昼寝が趣味と、どちらかといえばインドア派であった雨柳凪砂。
それが獣化するごとに日増しに変化しつつある。
心がより強い刺激と、スリルを求めるように…。
激しく、楚々とした凪砂が時として好戦的に、
大和撫子と形容詞されがちな彼女が挑発的に、
あるいは扇情的に変化を遂げる。
凪砂は片手で、さらっと黒髪をかき上げた。
――視線の先、スッと映るのは…
赤く、高く、煌々と夜を照らす――、
(ふふふ、そうね――上って見ようかしら?)
訓練の仕上げには丁度良いかも。
********
そよぐ黒髪を、薙ぐように過ぎ去りし夜風は、わずかに冷たい。
夜景の海、赤々と燃えるように聳(そび)え立つ、其処は…、
―――東京タワー
自立鉄骨構造では未だに世界最高と謳われるこの国の象徴は、今夜もまた不動の如く揺ぎ無い姿を首都に晒していた。
それにしても――、
「――…凄い」
の一言に尽きた。
勿論、感嘆の声は凪砂の唇から漏れたもの。
それも凪砂にしては珍しい自賛、の呟きである。
「ホント、凄いわ…これが、獣化したあたしの力なのよね?」
高度百メートルはゆうに超す、大展望台の真下で夜の東京を眺める凪砂。
上って見よう…そう思いつき、それを実行に移してから未だ数分にも満たない。が、彼女は殆ど苦労をせずに、『自らの足』でこの場所まで走って来れたのだった。さながら飛ぶように、という表現がピッタリと当てはまる速さである。赤き鉄骨の城を俊敏に駆け上る様は、まるで一陣の風のように鋭く、常人の目には映ることさえ無かったに違いない。
(綺麗な眺め――…)
滅多に見ることの出来ない景観は、高揚する心に少なからず安らぎをもたらした。
また、驚きの反面、
―――当然だ、
と言う、冷静な凪砂の存在もあり。
シックな黒のワンピース姿で、悠然と眼下を見下ろしている凪砂は実は二人居たのかも知れない。
「ホント綺麗な夜景。癖になりそうで、ちょっと怖いわね?」
魔狼の力は現在4割といったところか。勿論ヒトの容姿を保ったまま、ヒトの言葉を発し、ヒトの心も失ってはいない。
鋭く研ぎ澄まされた聴覚は、眼下に広がる鋼鉄の樹海、そこから零れ出す雑踏と喧騒を捉えて止まない。知らず五感も常人の何倍か、優れているのかも知れない。
黒い洋服を月に晒して、凪砂は「すぅー」と深呼吸した。
(心地良いわ――今まで感じたことの無い快感?)
――タンッ!
途端、人の数倍へと変化した脚力、その両足がしなやかな躍動を見せると、凪砂は悠々と月下の空へと舞い上がった。
(ふふふ、はしゃぎ過ぎて洋服が破れない様に――気をつけなくては、いけませんわね)
一抹の不安も…、
何処か楽しげで。
首輪――嵌めし魔狼と娘、
その夜を謳歌するが如く、
赤き象徴に跳梁する。
今宵は、満月――。
***『END』***
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