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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


光矢と息吹


 むう、と顔をしかめて、銀の男が身体を起こす。
 狐のように心持ち吊り上がった目は、生来のものか、はたまた怒りによるものか。
 身体にまとわりついた草木の葉や蔓を払い落として、夏比古雪之丞は唸り声のようなものを上げた。
「この私が森で迷うとはな」
 猿が木から落ちるようなものだ。
「狐が森で迷うなど、世も末か――さもないと、笑い話だ」
 誰にともなく毒づくと、はあっ、と強く短い溜息をついた。
 しかしながら、齢600年を越す妖狐が道に迷ってしまったことには、それなりの理由があったのだった。



 伴から、手紙が届いた。
 この時世でもまだ連絡の方法に手紙を使う伴なのだ。
 御母衣今朝美という『森の人』で、いまは化粧師――もとい、絵描きをやっている。わざわざ雪之丞が脳内で『化粧師』という肩書きを打ち消したのは、今朝美がいつも自分は絵描きなのだと言い張っているからだった。昔から(彼らにとっての『昔』とは、人間にとって気が遠くなるほど昔のことだ)そうだった。あのどこか飄々とした我が道を行く伴は、へんに頑固なのだ。
 しかしその伴が、手紙で切々と愚痴をこぼしていた。嵐で家や作品が吹っ飛んでも大して動じないあの男が閉口するなど、よほどのことだ。
「……父親? ああ、あいつには父親がいたな」
 雪之丞はよくよく考えてみれば当たり前のことを呟いた。
 だが、無理もないことなのだと自分に言い聞かせた。御母衣今朝美というものは、どうも蕾や木の実から生まれたような印象を受ける男なのだ。
 その今朝美はいま、突如この島に戻ってきた父親に振り回されているらしかった。長いこと音信不通だったらしいのだが、やはり連絡もよこさずに突然帰ってきた。今朝美よりも人間社会に通じ、山を下りて仕事をしに行くこともままあるが、いまは今朝美のアトリエ兼住居に居候しているらしい。
 息子である今朝美ですらあまり会ったことのない父親であるから、雪之丞もあまり会うことはない。だが、一度会って(遭って)しまえば忘れられない人物だ。
「まあ、何千年も放任されていては、ぎくしゃくしても無理はないな」
 雪之丞は手紙をたたみ、意地の悪い笑みを浮かべた。その笑みは、まさに狐のもの。
 問題の父親は長期の仕事(と言っても、1ヶ月ほどである。彼らにとっては短期も短期だ)が入り、今朝美は束の間の静けさを満喫しているらしい。
「ふむ」
 雪之丞は、明日から数日間空欄になっているスケジュール帳を眺めた。
「行ってなぐさめてやるか」
 ――私もひとがいいな。
 自嘲しつつも、彼は土産に何を持って行くか考えていた。



 アトリエには何度か足を運んだことがあるのだが、雪之丞はまったく見事に遭難し、森の中をうろうろと歩き回っていた。しかも首を痛め、彼は時折顔をしかめてうなじを揉まなければならないはめになっていた。
 山に入るなり、籠を背負った身の丈5メートルはあろうかという大男3人に追い駆けまわされ、崖に落ち、落ちた先の清流では鱗模様の浴衣に身を包んだ美しい女にはりとばされ、また崖に落ちた。畳みかけるような災難の応酬に、雪之丞はすっかり不機嫌になっていた。
 大男はミズナラの精だった。浴衣の女はイワナかヤマメの精だろう。
 ――まったく、私は精霊とはウマが合わないんだぞ。
 精霊自体は珍しいものでもないが、こう立て続けに姿を見せるのは珍しい。このまま順調に精霊が現れ続け、クマやイノシシの精にでも登場されてはたまったものではなかった。雪之丞の持つ気は負のものだ。清い精霊の心を掻き乱す。
 雪之丞は痛みと怒りに顔をしかめ、ついには妖狐の姿をとると、崖をのぼり、森を馳せた。森のざわめきが大きくなり、森に住む者の心を騒がせる。


 森が急に騒がしくなったと、今朝美はアトリエを出た。
 周囲を満たすのは、ざわめきというよりも悲鳴。精霊たちの声に耳を傾けてみても、言葉は言葉ではなくなっていた。恐怖でも怒りでもない、狂気じみた感情が渦巻いている。何かが精霊の心を蝕んでいるのだ。
 絹を裂くような確かな悲鳴が、森の喧騒に割り込んできた。
 今朝美はぴくりと眉をひそめ、悲鳴の元へと走った。


『おまえか!』
 熊よりも大きい白銀の狐が、今朝美を睨んで吐き捨てた。言葉の前に、咥えていたヤマメを地面に叩きつけていた。
 妖狐はくるりと宙返りをした。
 地面に降り立ったのは四肢ではない。黒革パンツを履いた細い足だ。
 雪之丞はただでさえ吊った目を吊り上げて、びしと今朝美を指差した。
「おまえが精霊なぞを呼んでいたのだな!」
「……貴方が精霊を狂わせたのですね」
 困ったように眉をひそめる今朝美は、こまっているのではなく少し腹を立てていた。
「ヤマメはいい子でしたのに、殺しましたか」
「知るか、私を二度もはりとばす方が間違いだ」
「あのですね、精霊は……」
「消えろ!」
 雪之丞は右手を下ろすと、左手を上げた。
 つい先ほどと同じように、その指が今朝美を指し示す。人差し指に指輪が嵌まっているのを見て、今朝美は素早く左に動いた。
 雪之丞の左手には紋様じみた刺青が浮かび上がり、どこからともなく光を纏った弓が現れた。現れた頃には、右手が弦を引ききっていた。今朝美が左に動いた頃には、現れたばかりの矢が飛んでいた。今朝美の銀の髪を数本道連れに、光矢はひょんと慟哭し、ミズナラの幹に突き立った。
「何をなさいますか!」
「私の台詞だ!」
 どこからともなく現れた第二矢は、たちまち引き絞られて、瞬く間に放たれた。
 かわせそうにもなかったその一撃を、身の丈5メートルの男が今朝美の代わりに受け取った。
「まったく、貴方は怒ると手がつけられませんね!」
「おまえは何を考えているのかさっぱりわからん!」
 ミズナラの枝と幹を盾にして、今朝美は間合いを詰め、雪之丞の襟に手をかけた。
 ふッ、と気合をひとつ――
 だが投げ飛ばされた雪之丞は、くるりと宙で身を翻した。その身体が湿った地面に降り立っても、音は無かった。その手から弓と矢が落ちた。
 だが、まだ右の中指に指輪が嵌まっている。
 中指から音もなく刺青が生じ、今朝美はそれを最後まで見届けるような呑気は真似はしなかった。

 雪之丞の右手が銀の小太刀を逆手に、
 今朝美の傍らのスギが長クナイを突き出した。


 ぢゃりん!


「……話を聞いて下さいますか、夏比古さん」
「……私の愚痴も聞いてくれるか」
 今朝美が、痩せぎすなスギの精に目配せをする。精霊はチャと長クナイを手中に収め、くるりととんぼ返りをすると、消え失せた。
 雪之上の手から、銀の小太刀も消え失せた。
「だが、知っているぞ。今年はひどく寒い夏だった。熊や猪や鹿が里に降りて、ヒトの世界を騒がせているな」
「ええ。スギとミズナラとヤマメには、獣たちが下へ行かないように見張りを頼んでいました」
「……あの大男、背に苺と蜂の巣を負っていたな」
「背が高いですから、遠くまで見渡せるのですよ。遠くの苺も、蜂の巣も、山芋でさえも見つけ出してくれるのです」
「ヤマメはえらく気が強いな」
「普段は気立ての優しい子なのですよ。ときどき飲物を持ってきてくれますからね」
「飲物を持ってくるやつは親切なのか」
「私のものさしでは」
「では私も親切か」
「え?」
 雪之丞は革パンツに下げたウォレットチェーンに手をかけた。手の甲に浮かび上がる紋様が消えたとき、彼は桐の箱に入った銘酒を手にしていた。
 雪之丞はしかめっ面で、つっけんどんに箱を今朝美に押しつけた。
「土産だ」
「はあ、『大吟醸まぼろし』」
 今朝美はくすりと微笑んだ。
「有り難うございます。貴方はやはり親切だ」
「童のようなその基準を改めたらどうだ。だからおまえはいつまでも強情なんだな」
「はあ?」
「おまえの父親も、何も反省していないわけではあるまい。そろそろ許してやれ」
「……はあ……」
「露骨に嫌な顔をするな。まったく、強情なやつだ」
 雪之丞は言いながら自らも嫌な顔をして、不意に屈み――手で土を掘り返し始めた。今朝美が後ろから覗きこむのも構わずに、雪之丞は穴を掘ると、先ほど咬み殺したヤマメを簡単に葬ったのだった。
「さて、行くか」
 雪之丞は手についた土を払い落とすと、立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
「どちらへ?」
「阿呆なことを。おまえの家だ」
「そちらではなく、こちらですよ」
「……」
 振り返った雪之丞は、
「そうだったか」
 今朝美の予想に反して、苦笑いを浮かべていた。


<了>