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<東京怪談ノベル(シングル)>


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 曇天の下に、よこたわる死体のように、その屋敷は存在している。
 海原みたまは無言で、灰色の空を切り抜く黒々としたシルエットを見上げた。いわゆる霊感の類は、彼女には、ない。だがそれでも――。
(やれやれ、ね)
 胸の中で嘆息する。
 いかに秋口とはいえ、周囲の空気は奇妙に肌寒く、そこに立っているだけで、なにか重苦しい気持ちになるような、そんな気配に充ちているのだ。
 幽霊屋敷――。
 これをそう呼ばずして、何と云おう。
 郊外に、そこそこ広い土地とともに、その屋敷は建っていた。二階建ての洋風建築。切妻屋根に、いくつもの出窓。建てられたのは随分昔だという。だとすれば、かなりしゃれた、ハイカラな家だったのではないか。往時には、もっとよく手入れされ、きっと……
(あれだわ。そう――『赤毛のアン』の家)
 建築の様式に関する知識は、みたまにはない。だからその印象が的を射ているのかどうかもさだかではない。ただ、たしかなのは、かつては美しかったであろう家は、今や荒れるにまかされている、ということだ。人が生活している場所では決してない。だが。
(絶対に、傭兵のお仕事じゃないわね)
 ライフルを握りなおす。彼女は、夜間用の迷彩服を着ている。腰には大振りのアーミーナイフ。その屋敷が一目で幽霊屋敷と知れるように、海原みたまは一目で兵士であることがわかった。
(幽霊退治だなんて)
 すべてが無彩色の、死の影におおわれてしまったかのようなその場所で、唯一、明るく輝いているのが、彼女の金髪だった。そしてそれと対をなして彼女の容貌を特徴づけている赤い瞳が、きっ、と、その家の玄関を見据えた。
(……まあ、いいわ。相手が『生きてない』っていうだけのことだものね、いつもと違うのは)
 仕事を持って来たのは彼女の夫だ。
 実のところ、それで、もう充分だったのだ。
 彼女の迷彩服を近くでよく見れば、おなじみのアーミー模様と見えたものが、細かい文字の羅列であることがわかっただろう。そして知識のあるものであればそれがすべて、悪霊から身を守るための霊的な防護を目的としたものであることも。
 そして、彼女は、廃屋へと入っていった。

 みたまは、敷地に足を一歩踏み入れた瞬間から、痛いほどの視線と、息遣いとが彼女を取り囲むのを感じていた。それは霊感などではなく、彼女の兵士としての能力によるものだった。
 この館は無人などではない。
 今も、彼女の一挙手一投足をうかがっているものたちがいる。
 だが、ぎしぎしと音を立てて軋む床には厚く埃がつもり(だから、彼女はブーツのままで廊下を歩いている)、蜘蛛の巣がいたるところに張られている。
 手の中の火器にこめられている銃弾も、普通のものではない。
 生きていないものたちにも効果のある、特別な処理を施された代物なのだ。試しに、そこの壁あたりにでもぶっぱなしてみたらどうかしら――。そんなことを考えながら、一通り一階の部屋部屋を見て回った後、階段を登って二階へ。二階の廊下は、より一層、空気が重い気がする。
 ――キィ……。
 音。自分以外のなにかが立てる――
 聴覚が反応すると同時に、身体が動いている。
 そのドアを蹴り開け、銃を構えた。
「……!」
 みたまは息を呑んだ。
 ぼろぼろのカーテンの隙間から、うっすらと明りが差し込んでいるだけの、何もない部屋。その中央に、ただぽつん、と、アームチェアが置き去りにされている。
 キィ……キィ……と、揺れる安楽椅子。そこに、ひとりの少女が腰掛けていた。
 あわい燐光に包まれ、なかば透き通った少女が、生者でないことはあきらかだった。すこしウェーブのかかった長い髪。まだ十二、三といったところか、幼さが顔だちには残る。少女はネグリジェのような服をまとい、裸足だった。まるで、夜中にちょっと寝つけなくて、気まぐれに起きだして、椅子に坐ってみたとでもいうように、彼女はそこに居る。手の中には、くたびれたテディベア――。
「あ……」
 百戦錬磨の女兵士が、思わず声を上げたのは、むろん恐怖などではない。屈強な男の敵兵であれ、迫り来る戦車であれ、時には猛獣や、異形なる魔性のものにさえ、一歩も退かず、臆することなく立ち向かってきた(そして勝利してきた)みたまである。
 少女はふと、侵入者のほうへ顔をむけた。そして時ならぬ客人をみとめたのか、小首を傾げ、もの問いたげに、ふっくらした唇を開きかける。
(ああ……!)
 可憐、という言葉を結晶させ、貌となせばこうなろう。
 この屋敷が完全無欠な幽霊屋敷であり、みたまが完璧な傭兵であるように、彼女こそは可憐そのものだった。そのあどけない表情が、ほっそりした身体つきが、みたまの胸に突き刺さった。
「あなたはだあれ」
 少女は云った。
 それが、空気を通して伝わった音声だったのかどうかは、みたまにも断言できない。だが、彼女はたしかに、それが「鈴のような声だ」と思った。
「わ、わたしは……海原みたまというのよ。……あなたも、お名前を教えてくれる?」
 みたま銃を下げて(自分はなんと不粋なことをしていたのだ、こんな女の子に銃を向けるだなんて!)、訊ねた。
「わたし……なまえ……」
 少女は、ふしぎそうに、瞳を宙に泳がせる。おそらく、永い間、彼女にそんなことを問う者はいなかったのだ。
「……。ここはあなたのお家なの?」
「ちがうわ」
 少女の話し方は少々、舌足らずだった。十二歳くらいだと思ったが、本当はもっと幼いのかもしれない。いちばん下の娘とそう変わらないのかも――と、みたまは、思った。
「ずっと、あるいてきたの」
 少女は椅子から降りて、みたまに近寄ってくる。
「くらいところを、ずっとずっとあるいてきたのよ。でも、きがついたらここにいて、それからずっとずっとここにいるの」
 うす明りに包まれた小柄な身体を、抱き締めたい衝動に、みたまはかられた。少女の言葉からは、想像もできないほど蓄積したさびしさと孤独感とが伝わってくる。
「ひとりぼっち……だったのね?」
「みんなはいるけど」――それに反応したように、屋敷全体がざわめいたような気がした――「おはなしはできないわ。……ときどき、そとからだれかくるの。でも……おはなししてくれるひとは、いなかった。みんな、はしってかえっちゃうか、わたしに、いなくなれっていうのよ」
 彼女は亡霊なのだ。
 亡霊を見た人間は逃げるだろう。あるいは、力あるものであれば、除霊をこころみようとするか……。
「ひどい」
 みたまはつぶやいた。それが、生ある人間の、ある種、当然の権利ではあるのかもしれない。だけれども――
(だれか、この子の話くらい、聞いてあげてもよかったじゃない!)
 みたまは腰を落として、少女と目線の高さを合わせた。
「いいわ。もう大丈夫。わたしと……お話をしましょう」


「……もしもし。……ああ、きみか。そろそろ電話をくれる頃だと思っていたよ。ハハハ、すまないね、厄介な仕事を頼んでしまって。……そう……そこはね、一種の霊穴――とでもいうのかな。霊脈のわだかまりのようなところなんだ。そう、それで『幽霊屋敷』さ。因縁や呪いの類じゃない。浮遊霊やその類がね、つい流されてきて、そしてそこに“溜まって”しまう。流れを正せばいいのだが……だけど、長年の蓄積が一気に放出されるから、その影響が出てしまう。えっ、そこにいる霊たちかい。そうだね、力のないものは、消滅してしまうかもしれないね……。…………。フフフ。え、何だって。違うよ、なにも見越していたわけじゃない。ただ……いや、いい。……わかっているさ。オーケイ。あとはやっておく。……気をつけてお帰り。…………僕もだよ、みたま」


 快晴の空。
 みたまは再び、その屋敷の門をくぐった。
 すっかり修繕され、ペンキを塗り直された壁はぴかぴかで、家全体が白く輝いているようだった。それに負けじとばかりに、みたまのワンピースとつば広帽も真っ白く、流れる金髪とよく調和していた。迷彩服をワンピースに変えただけで、勇ましい女兵士はエレガントなレディになった。
 その手の中には、銃のかわりに、バスケット。
 レシピ本と首っぴきで初挑戦したスコーンは、しかし、うまく焼けなくて、結局、かなりの部分を娘に手伝ってもらった。まあ、よしとしよう。
 玄関の前に立つ。
 『アンの家』が、ふわり、と、家全体であたたかなもてなしと歓迎の意志を、みたまにあらわしてくれたような、そんな気がした。
 彼女は……依頼主から、この屋敷を買い受けたのである。
 正確にいうと、彼女の夫がそうすることで話をつけたのだ。だから、『幽霊屋敷』は取り壊されることなく、こうして彼女の訪れを受け入れることができる。
(なにから話してあげようかしら――)
 永劫の孤独にとらえられた少女は、みたまの、世界各地での数々の冒険談や武勇伝を、瞳を輝かせて聞き入ってくれるはずだ。
 その必要はなかったのに、なぜだかそれが礼儀である気がして、みたまは、そっと、呼び鈴を鳴らした。

(了)