コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ノベル(シングル)>


京都幻想夜話

「──おはようございます」
 御影・涼(みかげ・りょう)はふと廊下で擦れ違った薬学の担当教授に挨拶した。相手はと云えば、ああ、ともうん、とも付かない低い声を発した切り愛想の一つも返しそうに無い。
 涼は別段それに対して何を思うでもなく、そのまま行き過ぎる積もりだった。珍しい事ではない。この未だ四十代も半ば程の薬医学教授の偏屈、人間嫌いは学内のみならず、医療方面や学会内でも有名と云う事だ。つまり、普段と変わらぬ対応だった、という事だ。
 だが、涼がそうして数歩を歩んだ所で背後から「御影」と呼び掛ける声が掛かる。彼は慌てて立ち止まり、はい、と答えた。
「……、」
 元々の顔だと云われればそれまでだが、涼をじっと睨み付けるように眺める彼の表情は怒っているように見える。流石の涼とは云え、この教授に一対一でこう向き合わされては一体何を云われるのか、何か受講態度に問題でもあったか、と訝る。
「──……何だ、どうしたその手は」
 不意に、彼は別に何を云うでもなく涼の左手に視線を落とした。ああ、と涼は苦笑する。
「これは、ちょっと」
 涼の左手の指先という指先は、親指を除き堅牢とも表現出来そうな程確りと絆創膏に固められていたのだ。
「解剖実験で手が滑ったか?」
「まさか、事故です。大した事じゃないので」
 涼は言葉を濁し、さり気なくその手を隠した。──メスを持たせれば自分の手を解剖してしまう医学生と思われるのも不味いが、まさか曰く付きのヴァイオリンを弾いていて弦で切った、などと云える筈もない。
 だが、割とあっさりと彼はその事への興味を失ったらしい。所で、と本題を切り出した。
「今週の講義は終わっただろう。……御影、明日から二泊、出張に付き合え」
「……はい?」
 彼はさも面倒そうに云う。
「京都で学会だ、そのセミナーで研究発表をしなくちゃならん、大学の代表で。助手が一人要る。お前、やれ。給料は出ないが旅費は大学持ちで空き時間は好きに観光して良い。明日の朝7時に東京駅八重洲北口集合。15分までは待つ。それ以上遅刻したら置いて行く。いいな」
「……ちょっと待って下さいよ、明日って」
「……なんだ、デートの約束でもあるのか」
「まさか。明日は土曜日ですけど音楽療法の講義が1コマあるんです」
 これまで、まともに会話をした事などない教授だったが、非常に自分本意と云うか、相手の都合は全くお構い無しであるらしい事が発覚した。今日は金曜日だ。大抵の講義は金曜日で終わるが、たまに土曜日に縺れ込んだ講義もある。……だと云うのに、涼がその土曜日に講義を取っている事など考えもしないで身体が空いていると思い込んで居たらしい。
「一回位休んだっていいだろう。資格が欲しけりゃ在学中に15時間だったか、受講してれば良いんだ。危ないなら誰かに代返して貰え」
「教授……無茶苦茶ですよ」
 涼は苦笑いした。そんな、余計な気遣い等一切無しの矢継ぎ早な口調はいっそ清々しくさえ感じられたが、無理な注文であるには違いない。しかも、明日の朝7時出発など、火急の予告もいい所だ。
「それに、学会の助手なんて俺に務まりますか。──助教授とか、院生の──さんの方がいいんじゃ、」
「莫迦野郎、あんな阿呆に任せられるか。セミナーの発表の助手なんかな、手際よく雑用が出来ればいいんだ。パワーポイントは使えるだろう、それで充分だ」
「でも、今……、」
 阿呆には任せられないって、と云いかけた涼に、彼は意外な程親し気に表情を崩してにやり、と笑った。
「助手自体は阿呆でも出来るよ。ただ、俺の身にもなってみろ、三日間行動を共にするんだぞ、阿呆のお守りをさせられちゃ適わん。お前は頭が良い。同伴しても苦痛じゃない」
「……、」
 涼は空しい笑みを浮かべながら、喜んでお伴させて貰います、と答えるしか無かった。
「厭なのか」
「いえ、光栄ですよ」
 ──それにしても明日の早朝発とはなんとも急だ。夜になって帰宅した涼は休憩もそこそこに、先ずクローゼットから宿泊用の鞄を引っ張り出す。旅支度は慣れている。別に何が要る訳でも無いようだから、剣道の遠征試合の時と大して変わらないだろう。二泊に耐え得る着替えと日用品を詰めて、ともかく明日は寝過ごさないよう、早めに就寝するのが一番の準備だと考えた。

「……、」
 午後四時過ぎ、京都国際会館のエントランスを出てハイヤーに乗り込んだ時には、涼は螺子の切れた自動人形のように車内の後部座席でぐったりと項垂れた。
「どうした」
 傍らの彼は特に疲れた様子も無く、運転手に行き先を告げてネクタイを緩めて居る。
「……どうしたもこうしたもありませんよ」
 ──。
 東京発の新幹線のぞみに、朝の挨拶もそこそこに乗り込んだのが午前7時半過ぎ、京都駅に着いたのが午前10時前。新幹線のグリーン席内では、教授本人は涼に一言「新大阪を過ぎたら起こせ」とだけ告げて目を閉じてしまい、今回駆り出された理由が今一つ分かっていない彼に何の説明もして呉れなかった。だと云うのに、京都に着き、涼が数年前に大改築された京都駅ビルの巨大なガラス壁に呆然としているのを引っ張って混雑する駅前からタクシーに乗り込んだ途端、車中で「セミナーは1時開始だから、それまでにああしろこうしろ、発表の時にはこうしろ」と急に説明を始めたのである。
「教授……先に一つ訊きますが」
「何だ」
「そのセミナー、今日、つまりは三時間後ってことですか」
「当たり前だろう」
 教授は、「インフルエンザの患者にアスピリンを投与するのは望ましく無いですよね?」とでも訊かれたかのように冷たく云い放った。涼の手許にはA4サイズのコピー用紙を数十枚、大判ステープラーでがっちりと留めた「本日午後1時開始の」セミナーの概要や進行、彼の発表内容を纏めた冊子が収まって居る。曰く、「お前が演説するんじゃないんだから、一通り頭に入れて置くだけで良い。発表の時には舞台上に俺が用意したデータを入れたノートパソコンが置いてある。俺はマイクの前に縛り付けられて動けないから、話のタイミングに併せてスライドを切り替えるだけだ。簡単だろう」との事である。
 確かに、単純な作業だ。時代が進化し、キーボード一つでスライドが切り替えられる今現在。然し、そのスライドの中身は学園祭のメモリアルのような他愛ない物では無い。
 阿呆でも出来る助手というのは大嘘だ。しかも、何の心の準備もしていなかった涼に後三時間で内容を把握しろと云う。
 車中から既に必死で文面に目を走らせ、京都市左京区にある国際会館に到着してから暫くは教授の挨拶回りと学者が揃っての早い昼食に付き合わされ、控え室で再び取れた時間は正味数十分だった。
 半日で疲れ果ててしまっても責められる筋合いでは無い。
「……もう今日は宿泊先で休めるんでしょうか?」
 希望的観測を交えて涼は訊ねた。
「お前、若い癖に何を詰まらん事を云ってるんだ。まだ明るいのが見えんか? 今から面白い物を見物させてやるから、付き合え」
「……何です?」
 行けば分かる、とだけ云って彼はにやり、と笑う。彼の性格が朧気ながらに読めて来た気がした。

 タクシーを降りた涼は思わず声を上げた。
「……あ、」
 タクシーは並木のある大通りがやや狭まった、何という事は無い住宅街の中の小学校の前で停まったのだが、首を傾いで居た時に「阿呆、後ろだ」と云われて振り返った先の光景に目を見張った。
 秋深まり、夕刻には湿度の高い冷んやりした空気が漂う。全体に建物の低い京都の広い空が、くすんだ淡い闇に染まり掛けて居る。
 その空を背景に重厚な石造りの鳥居が聳えていた。
「神泉苑」
 教授は頷き、交通量の少ない狭い道路を涼を連れて横切った。
「ああ、俺一回ちゃんと見に来たかったんですよ、……凄い」
 涼は疲れも忘れて旅行鞄を軽々と肩に背負うと、青い瞳を輝かせてつい無邪気な歓声を発した。
 西暦794年、町全体が風水に乗っ取って造られた平安京。三方を山に囲まれ、四方を朱雀、白虎、玄武、青龍の四神相応に護られたと云われる京都の町。その考えに拠れば、「真龍」と呼ばれる大地の気が北から南の羅城門向けて走ると云う。その際、真龍が立ち寄り、水を飲む「龍口水」と云われていたのがここ神泉苑なのである。
 好奇心旺盛で医学だろうが音楽だろうが、果ては剣道にまで知識を求めた涼は当然京都の町、1200年を経た未だに当時の主要建造物を残すこの町にも興味があった。過去に一度訪れた事はあるが、中学校の修学旅行ではやっつけ仕事のように観光名所を巡らされ、土産物を買うだけで終わってしまった。一度、ゆっくりと訪れたい、と思っていたのだ。──ここ神泉苑も然り。
「──まだ、時間はあるな」
 腕時計の時刻を確かめた教授はそう呟いた。
「どうせだから、今の内に見物しとけ。俺はあっちに居る。終わったら来い。ゆっくりしていいぞ」
 あっち、と云って教授は生け垣に区切られた先を指した。大分この、偏屈者の仮面を被った教授の本性が見えて来た涼が珍しい、と思った事には、その間、と涼の旅行鞄を引き受けて呉れた事だ。
「そんな、良いですよ。大した荷物じゃないですし」
「構わん、どうせ突っ立ってるだけだからな」
 じゃあ、すみません。涼は飛び石になった本堂の前から見物を始めた。

 敷地の殆どを締める池には、傍らに鯉塚と亀塚がある事が示す通り、鯉や亀やはては家鴨までが泳いでいた。遠方には鷺が羽を休めている。一際目を惹く朱塗りの橋には法成橋と端書きがあり、一つだけ願いを念じながら渡れば叶うという謂れが添えてある。
 そうそう縁起を担ぐ方ではないが、そう云われると多少は気になって意識してみたものの、すぐにこれ、と云った願事が思い浮かぶ訳でもない。法成橋を一先ず避けて社を見て回ろうと池を迂回した涼はそこで足を止めた。
「……?」

──……、

 背後で水音が上がった。鯉でも跳ねたか、それにしては大分体積が大きいような音だ、と振り返った涼の口唇が薄く開いた。
「……、」
 あ、と乾いた声が洩れた。

 ふらふらした足取りでやって来た涼に、教授は訝る表情をした。何故か二人分の荷物は無く、手ぶらである。
「……どうした、酔ってたのか?」
「……いえ、」
「社には参拝して来たか。そんな習慣は無くともこの際だ。弁財天だとか奥には何とか云う剣の神の社も在るから、お前には丁度良いだろうと思ったんだが」
「……未だです、」
 教授はそこで再び腕時計に目を遣り、そろそろだ、と独りごちた。
「まあ明日は一日あるからな。俺は母校やらの挨拶廻りに行かなきゃならんが、それまでお前が付いて来ることはない。観光の暇にでも行っときゃいいだろう。……それより、時間だ。行くぞ」
「え?」
 行くぞ、と云いつつ涼の腕を引いた彼の足は、外に出るのではなく敷地の奥まった方へ向かっている。
「行くって、何処へ?」
「ああ、未だ云って無かったか。ここへ来る途中、二条城を通っただろう。今年が築城400年だとかで、秋から色々な催しをやってるんだ。その一環で、雅楽の演奏もある。……宮内庁なんか出て来やしないぞ、市内の神社の氏子連が演るんだが、その中に知り合いの宮司が居てな。今日、彼処で練習をやってる。見せて呉れるそうだ。あれは時々狂言なんかを演ってる舞台なんだが、普段は一般公開してない。本番はまだ先だからな。だが、練習とは云っても洋楽とは違う。途中で止めもしないし、謡の最中は祈ってるも同然だから、本番だろうが変わりは無い。……なかなか凄いぞ」
 好きだろう、そういうの。また、彼はにやりと笑った。
 雅楽、とようやく我に返って興味に瞳を輝かせた涼を連れて、彼は堂々と狂言堂に上がり込んだ。

「何でまた、催馬楽なんだ」
 教授は、徳利から盃へ酒を注ぎながらその顔見知りの宮司らしい男に云う。非常に不服そうな顔つきだ。
 今、涼と教授は練習を終えて着流しや私服姿になった楽士達と共に神泉苑の敷地内にある料亭で夕食を共にしていた。窓から法成就池や浮島が見渡せる純日本料亭である。良いんですか、と恐縮する涼に、構う事はない、俺の旧友だ、と教授は豪語した。
 場面が場面だけに足を崩す事も出来ず、慣れない正座で畏まっている涼を、くだけた様子で彼は楽士達に紹介した。
「俺の教えてる大学の学生だ。学会の助手に連れて来たんだが、若い癖にこういうのが好きらしくてな。さっき、お前らの謡聞いて感動してたぞ。まあ、適当にしてやってくれ」と。
 宮司らしい男などは温和そうな視線を涼に向けて微笑みながら教授には、珍しいなあ、お前が教え子連れて帰るなんて、と京都らしい、ただの関西弁とも違う独特の調子で相槌を打っていた。
「頭良いんだ、こいつ」
 そこで、何故催馬楽なんだ、という先刻の話題になった訳だが。
「神泉苑に因んで謡曲の『鷺』でも演っときゃ良かったんだ」
「ほな無茶な。本番はここで演るんと違うんやさかい」
「然し何だって催馬楽なんざ、」
「何でも何も、催馬楽云う事で一つ頼みます、云うて話が来たんやから」
「腹が立つんだよ、俺が何しに京都に来たと思ってるんだ、忙しい中大学から有無を云わせず学会に出ろと命令されて500Kmの道程を遥々飛ばされて来たんだぞ」
「ああ、」
 楽士達が一斉に笑った。
「間が悪かったんなあ、」
「……?」
 涼は首を傾ぎ、不機嫌に盃を口へ運んでいる教授には訊ね兼ねてもう片側の、気の良さそうな着流しの男に訊いた。
「何が、ですか」
 ──催馬楽、とは雅楽の中の歌物である。袍に袴で正装した楽士達が、琵琶や箏を伴奏に、笏拍子の音頭に併せて謡う、静かで居て奥深い様子に涼は身体が震えた。自ら誘っておいた教授が何をそんなに不機嫌にしているのかが分からない。
 その男はまだ笑みを浮かべたまま、あ、知らんか、と答えた。
「催馬楽云うんは、元々農民が租税を都、つまりは京都やな、この国に運ぶ時に歌った歌に貴族が伴奏を付けたんが始まりなんや。御上からの命令でわざわざ都まで持参させられたはったんやな。……それが、この人には気に入らんのやろ」
「つまりは、大学の命令で京都まで出張させられてる自分の身の上だと」
「煩え、御影、俺の立場も考えてみろ」
 半分酔っているらしい教授は普段の鉄面皮を剥ぎ取って管を巻く。涼もその様子には思わず笑い声が洩れた。
「……ああくそっ、胸が悪い。おい、──、」
 と、彼は一人の男の名前を呼んだ。
「久し振りだから、今夜は『東』の方に行こう、付き合うよな?」
 ああ、と彼が苦笑したのを受けると、教授は「そう云う訳で」と赤い顔を涼に向けた。
「俺はこれから出るから、お前は先に休んでろ。荷物はもう部屋に運んで貰ってある」
「え? だって、」
 まだ宿泊先も聞いて居ないのに、と云い掛けた涼に「阿呆、お前みたいなガキには十年早え。大人しく寝てろ」という返事が返り、唖然としている内に彼は取り残された。
「教授、」
「──……まあまあお兄さん、ああいう旦那さんは勝手に行かせたげはる方がよろしおすえ、」
 涼は顔を上げた。仲居の着物に割烹を着た女性だ。涼より十歳ほど年上か、──着物の所為か、同じ年頃の東京の女性とは大分雰囲気が違う。
「……ええと……、」
 何と云ったものか戸惑っている涼に、先程催馬楽の事を教えてくれた楽士が娘です、と紹介した。
「……あ、お嬢さんですか?」
「……彼から何も聞いてはりませんか」
「何を?」
「こら申し遅れましたな、私、この料亭と境内を管理しとります家の者ですが、今晩は彼と、助手さんをお泊めする事になってましたんや。つまり、今日はここでお泊まり頂く事になってますよって、お荷物も客室に運ばして貰てますんで、」
 あ。涼は慌てて楽士の男と、娘という仲居の女性に頭を下げた。
「何も聞いてませんでした、お世話になります」
 ビジネスホテルにでも泊まると思っていたが、まさかこんな旧家の客間を借りる事になるとは。勿論、涼にしてみればその方が面白いし有り難い。だが、一方で恐縮でもある。全く、自分一人残して先程の男とさっさと出掛けてしまった教授の神経が知れない。
「教授のお知り合いですか?」
「それも聞いてませんか」
「はい、」
「彼、大学は京都やったんです。今でこそ東京の医大教授なんかになってしもたけど、あれで昔は一緒に大学の雅楽部に居ったんですわ」
「……はあ……」
 あの教授が。……人は見た目に拠らない。
「所で、どこへ行ってしまったんでしょうか。……俺一人先にお邪魔するのも……、」
「構しません、見てなさいな、どうせ朝帰りにならはるわ」
「飲みにでも行ったのかな、」
「『東』、云うんはね、」
 仲居の娘は、楽士と含み笑いを見合わせながら涼に耳打ちした。「祇園の事ですわ。殿方の夜遊びの場所」

「──……、」
 独り、先に風呂を貰って床に就いたものの、涼はなかなか寝付けなかった。畳に布団、仰向けになれば天井の木目と欄間が見える、と云う慣れなさもあるが、何よりも気分が高揚しているのが大きい。
 
「雅楽というのは、人間が持つ身体的、精神的な素質と、それを取り巻く自然界との調和を基本にした音楽です。洋楽で云うリズムにしても、心臓の音やら歩く早さと云った身体的な物が理想です。そうしたリズムに花鳥風月と云いますか、鳥のさえずり、松風の音、川のせせらぎと云ったものが一体となって音楽となったものです」
 あの後、思い切って雅楽について話を伺いたいのですが、と切り出した涼にこの家の楽士は快くも厳かにそう語って呉れた。涼は真剣に拝聴し、客間に案内されてからも暫くその事に思いを馳せた。
 涼が齧ったヴァイオリンなどの西洋音楽とは、根源こそ同じでも現れた形は大分勝手が違う。寧ろ、その精神は剣道に近いようだ。
 涼の気分が昂っていたのはその所為だけではない。
「……何だったかな、あれは……」
 敷地内を見物していた時、水音に振り返った涼が目にしたのは龍だった。
 ……龍、だろう。そうとしか表現出来ない実体だった。
 言葉を失い、立ち尽くしている内にそれはまた波紋を水面に残して消えてしまった。直後に催馬楽の奥深さに感銘を受け、自分の目が見た物を疑うより前に、一連の空気に飲まれてしまった感がある。
──……なんだか、夢みたいだな。
 涼は布団から片手を出して額に置いた。横にはもう一枚の布団が敷いてあるが、時刻も真夜中に入っただろう今になっても無人のままだ。教授が戻って来たら、あの事を訊ねてみようかとも思っていたが──。
 家人ももう既に眠ってしまったのか、周囲は静まり返っている。遠くには鈴虫の音が聞こえ、鯉が跳ねたか水面の爆ぜる音も時折混ざる。少なくとも、東京の自宅に居る限り無いことだ。その中に息を顰めている内、耳の奥に催馬楽が蘇り、龍の姿が神々しい程目蓋の裏に鮮やかに現れる。夢か、幻か、──幻想だ。
「……、」
 駄目だ。涼はゆっくりと起き上がり、客室を出た。どうにも落ち着かない。不快な高揚感では無いが、じっとしては居られない。
 手水は勝手を出た所ですから、とあの娘に云われたのを思い出し、足音を偲ばせながら廊下を抜けて外に出た。
 井戸水と思しい、原始的な構造の蛇口から冷やりとした水を流して、顔を洗う。ぼんやりした感覚のままで居た涼はその清涼感を心地良く感じた。
 顔を拭っていた涼の聴覚が、僅かな音を捉えた。
「……?」
 水気を含んだ前髪が額に貼り付く。その方角を振り返った涼は水を止め、じっと耳を澄ませた。

──……、……、……

 絃鳴楽器だ、と涼は確信した。結局、夕方は素通りしてしまった社の方角だ。普段なら間借りしている家の敷地内を夜半に徘徊するなど憚られる所だが、感覚がまだぼんやりしていた涼は迷わず、それでも気配を殺したままそちらへ向かって歩き出した。
 飛び石が途切れ、敷き詰められた玉砂利が音を立てた。背筋が冷や、とする。恐る恐る顔を上げた涼は思わず、あ、と声を上げかけて慌てて飲み込んだ。
 社に、ぼんやりと灯りが灯っているのだ。楽士の誰かが奉納演奏でもしているのか、然しこんな時刻に。
 抗い難い誘惑に駆られて涼は社に近付く。
 灯りは、社一面に点された蝋燭の火だった。その中に、ぼんやりと影になった女の後ろ姿が見える。着物を纏い、髪は長く地に着きそうなまでに背中に流れていた。仲居の娘ではない。一体……──。
 涼は息を詰めて見守っていた。蝋燭の火は、女の奏でている琵琶の響きに共鳴して揺れる。

──……、……、……

 静、故に動が生きる。人間の鼓動や歩く速度、それに関わる精神、自然界のリズムの調和。楽士の言葉を象徴するような音色だ。いつしか、息を潜ませる事も忘れて涼は聴き入っていた。
 ──たかが琵琶一本では? その中には、鳥のさえずり、松風の音、川のせせらぎ──花鳥風月の音が存在していた。……不意に混ざった、水音にも気付かない程。
「……あ」
 つい、声を上げてしまって口許を押さえた。──だが、声を上げずに居られただろうか。社の向こう、龍が水面上に姿を現したのを見て。
──夕方の龍、
 闇の中、神々しい程の姿を蝋燭の灯りに晒した龍、──神だ、と涼は心中で呟いた。
 
 ──気付いた時、琵琶の音は止み、火は女や龍の姿と共に消えた。後には鈴虫の音が響く冷ややかな空気だけが残る。
──……何だったんだ、
 これは、幻か。俺はずっと夢を見ているのか、──それとも。
 目眩を覚えて石垣に倒れ掛かった涼は、玉砂利を派手に鳴らしながら敷地内に入って来た人影を認めた。
 見覚えのある背中だ。
「──……教授!」
 涼は急激に感覚を取り戻し、千鳥足で一歩毎につまづきながら母屋へ向けて進んで行く教授に駆け寄った。
「教授、」
「──……ああ、御影……か、……あぁ? ……お前、未だ寝てねぇのか……、……駄目だぞ、ガキは寝る時間──」
 呂律の廻っていない彼の息は酒臭い。だが、それに構う余裕は無い。教授の両腕を捕まえると確りして下さい、とその肩を揺すって問い質した。
「教授、──何なんですか、此処は。今のは、何だったんです、」
「あぁ? 何云ってんのか……ああ、寝ろ、寝ろ」
「俺はちゃんと起きてますよ、現れたんです、龍が、あの池に、……今だけじゃない、夕方、ここへ最初に来た時にも現れた、今はあの社に火も灯ってた、髪の長い女性が琵琶を弾いてたんです」
「ああ……」
 がっくりと首を項垂れた彼は、今にも涼に凭れ掛かって眠ってしまいそうだ。普段の涼なら、ここまで泥酔した人間を揺さ振ったりしてはいけないこと位弁えているが、今はそんな落ち着きを持てる筈が無い。
「答えて下さい教授、……俺が、夢を見てるんですか、……幻なんですか」
 教授が急激に咳き込んだ。はっとして彼を揺するのを止めた涼に、今迄と違いやけにはっきりした声が怒鳴るように吐き捨てた。
「夢の訳ねぇだろう、ここはな、龍穴だ、真龍の水飲み場だぞ、京都の守護龍様々がお立ち寄りになる池だ、龍が出て当然だろうが、あぁ?」
「……本当なんですか、あの話は……、風水に基づいた伝説じゃなく、今も生きていると、」
「当たり前だろうが、……俺はな、育ちこそ東京だが生まれは京都だ、お袋は三歳まで俺を京都で育ててたんだ、……お袋も見たんだとよ、赤ん坊の俺を抱いてここに参拝に来て、真龍が一瞬だけ水面に姿を現したのを見たんだと──、」
「……そんな、」
 今も生きている実話だったなんて──。涼は、何か神掛かった感覚に鳥肌が立つのを感じて身を震わせた。
「あの女性は何だったんですか」
「どこに女が居たって?」
「あの社です、」
 涼の指した社を一瞥した教授は、相変わらず酒臭いが確りした声のまま云った。
「お前、そりゃ弁財天だろうが。云っただろう、見てなかったのかよ、音楽の女神様だぞ、」
「……、」
 壮絶とも表現できそうな音楽を琵琶一本で奏していた女の後ろ姿を思い出し、呆然と黙り込んだ涼の手に不意に重みが掛かった。教授はとうとう倒れ込んでしまった。
「……確りして下さいよ」
 涼はその腕を肩に背負い、勝手口へ向けて歩き出した。──全く、こっちだって自分の感覚が信じられない時に、どうしてこうも泥酔した人間の身体と云うのは重いのだろう。
 ようやくの思いで客室の布団に彼を横たえた涼が、水を貰って来ます、と立ち上がり掛けた時だ。
「──御影、」
 先程の半ば怒鳴っていたような声とも違う、低い呟きのような声だ。
「……俺は未熟児だったんだ。虚弱体質で、中学校に上がるまでは喘息の発作で何回死に掛けたか分からん。お袋は、必死だったんだ。だが、俺が高熱で魘される度に、大丈夫、この子はあの龍神様が護って呉れる、そう信じて諦めずに看病したんだそうだ。俺自身ガキの頃から生きて成人出来るなんて思って無かったのにだぞ、それがどうだ、こんな歳になるまで生きてんじゃねぇか、──……信じない訳に行くかよ、……これが、幻覚だなんてな、……夢の訳ねえだろうが、」
「……、」
 それだけ一気に云い、昏睡するように眠り込んでしまった教授に掛け布団を被せると、涼は廊下に出てガラス張りの障子戸から庭を見遣った。
 水面はただ静謐に、明け始めた空の色を映している。
 飽かずそれを眺めて居た涼の視線の先に、一羽の五位鷺が舞い降りた。